北村さんちの遺跡めぐり
堺市北区 百舌鳥古墳群の地図g
銭塚古墳 |
堺市北区東上野芝町1丁 |
グワショウ坊古墳の南約100m、大阪府立堺養護学校の敷地内にある。柵があって近付けない。
銭塚古墳は、前方部を西に向けた帆立貝形前方後円墳だが、 前方部が削られているために、現状では円墳のような形になっている。 昭和56・57年(1981・82年)の調査で、墳丘長72.5m 後円部径54m 前方部幅44mで、周濠があったと確認された。 濠の中からは円筒埴輪などが出土している。 |
銭塚古墳 北側の「花と緑の交流館」付近からみる。 古墳の向こう側の建物は、堺支援学校。 |
土師ニサンザイ古墳 東百舌鳥陵墓参考地 |
堺市北区百舌鳥西之町3丁 |
ニサンザイ古墳は、反正天皇の空墓として陵墓参考地に指定されていて、宮内庁が管理している。
百舌鳥古墳群の南東端にある。
ニサンザイ古墳の北東にあるコンビニに駐車、買い物をして、古墳見学。
また、古墳周濠南側の道路は、かなり広めになっているので、路駐しながらしばらくの見学が可能だ。
ニサンザイ古墳実測図 (古墳大辞典から) ニサンザイ古墳は 前方部を西に向ける 墳丘長290mの前方後円墳 後円部径156m・高さ24.6m 前方部幅224m・高さ25.9m 日本で8番目の大きさ。 3段築成で、くびれ部の両側には造出がある。 主体部の構造や副葬品は不明だが、 葺石と埴輪のあることが確認されている。 昭和51年(1976年)の周囲の発掘調査で、外濠が確認され、円筒埴輪や鶏形埴輪が出土した。 5世紀後半の築造と推定されている 後円部の背後に地形の高くなった所があり、外濠はこの部分で途切れているものと考えられている。 この地形の高くなった所に陪塚と考えられる古墳があったが全て消滅している。 (説明板から) |
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ニサンザイ古墳 北から見た後円部 |
ニサンザイ古墳 手前後円部 奥前方部 |
ニサンザイ古墳を 南の堤から見る 左 前方部 前方部前面の濠の外側は御陵山公園となっていて、住民の憩いの場となっている。 |
説明板には、
「古墳の周囲には陪塚と考えられる小古墳が点在していて、
大阪府立大学構内には、聖塚古墳が残っている」 と書かれている。
ところがこの「聖塚古墳」と、南西約500mにある「舞台塚古墳」は、
中世以降に土を盛って築かれた「塚」であることが、 堺市教委の発掘調査で分かった。
今年初め、この2基は「古墳」リストから除外された。
「聖塚古墳を発掘調査したところ、墳丘とみられていた部分(高さ約1.5m)の最下層から、
江戸時代の磁器が出土し、18世紀以降に土を盛ってつくられたことが判明。
舞台塚古墳からも、13世紀頃のものとみられる土器が見つかり、
市教委は、いずれも古墳の可能性が極めて低いと判断した。」 そうだ。
柵越しに府立大学構内を見る 古墳ではなくなった「聖塚」か・・・・。 |
古墳ではなくなった「舞台塚」 ニサンザイ古墳の南にある公園にある。 見つけた時は、絶対に古墳だ! と思ったのだけれど・・・・・ 残念・・・・。 |
御廟山古墳 百舌鳥陵墓参考地 |
堺市北区百舌鳥本町1丁 |
御廟山古墳は、東側に位置する百舌鳥八幡宮の奥の院となっていて、
応神天皇の御廟であるという伝承から、御廟山と名付けられている。
この伝承から、陵墓参考地として宮内庁が管理している。
古墳にぶつかって行き止まりになる道路の隅に駐車して、見学。周壕の周りには遊歩道がある。
御廟山古墳実測図 (古墳大辞典から) 北側の広がった濠は埋め立てられ、 現在は建物が建っている この辺りに 陪塚とみられている万代山古墳がある。 御廟山古墳は 前方部を西に向ける 墳長186mの前方後円墳 後円部径96m・高さ18.3m 前方部幅119m・高さ17.8m 百舌鳥古墳群では4番目の大きさ 盾形の二重周濠あり 堤あり 3段築成 埴輪あり 葺石あり 埋葬施設などは不明 |
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御廟山古墳 後円部側から前方部を見る 左奥が前方部 南東からみる |
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御廟山古墳 後円部側 |
御廟山古墳の陪塚・万代山古墳の林 |
万代山古墳は、後円部径25mの前方後円墳。(前方部の規模は不明)、帆立貝形か?)
現在、宗教施設の敷地内にあるので、調査はされていない。
ヤフー航空写真で見ると、万代山古墳の後円部は丸く残っているようだが、そばまで行かなかった・・・・。
いたすけ古墳 国史跡 |
堺市北区百舌鳥本町3丁 |
いたすけ古墳北側の公園脇に駐車。
いたすけ古墳実測図 (古墳大辞典から) いたすけ古墳は 前方部を西に向ける 墳丘長146mの前方後円墳 後円部径90m・高さ12.2m 前方部幅99m・高さ11.1m 百舌鳥古墳群中、8番目の大きさ 3段築成 、南部のくびれ部に造出しがある。 葺石あり 埴輪あり 後円部からは衝角付冑の埴輪が出土している。 台地の南端に位置しているため、濠の南側には大規模な堤が築かれている。 埋葬部などは不明 5世紀中頃の築造と推定されている。 昭和30年(1955年)頃に住宅造成のため破壊されそうになったが、市民運動によって保存された。 当時、後円部から出土した冑の埴輪は堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。 周囲には陪塚とみられる小古墳があり、善右ヱ門山(ゼンエモンヤマ)古墳が後円部の東側に現存している。 消滅した陪塚には吾呂茂塚(ゴロモヅカ)古墳、播磨塚古墳があった。 |
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いたすけ古墳 北から見る 左後円部 右側前方部 前方部は墳丘がすけて見えるけど、後円部は木が茂っていて、よく見えない |
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いたすけ古墳 北の公園にある石碑と説明石碑 |
いたすけ古墳 後円部側 |
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いたすけ古墳は、市民による運動で保存が決まり、昭和31年に国指定史跡になった。
善右ヱ門山古墳 ゼンエモンヤマコフン |
堺市北区百舌鳥本町3丁 |
立派な説明板がある。
善右ヱ門山古墳実測図 (説明板から) 小さい○の所で、円筒埴輪が出土した。 点線の所はテラスで、 テラスには 円筒埴輪がめぐっていたと確認された。 善右ヱ門山古墳は、いたすけ古墳の後円部の濠と接する位置につくられている 規模は不明だが、一辺30m以上・高さ2m以上に復元される方墳。 2段築成 葺き石あり テラス部分に円筒埴輪が2m間隔で並べ立てられていた。 濠はなかったと考えられている。 埋葬施設は不明 5世紀中ごろの築造と推定されている。 |
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善右ヱ門山古墳の墳丘 |
善右ヱ門山古墳 |