北村さんちの遺跡めぐり

堺市堺区

百舌鳥古墳群について

堺市堺区・北区・西区・美原区
 (撮影日2012/10/25)

百舌鳥古墳群は
日本最大の仁徳天皇陵古墳をはじめ、第3位の履中天皇陵古墳や第8位のニサンザイ古墳など、
250m以上の巨大古墳を含む日本を代表する中期古墳群。
古墳は現在47基残っているが、消滅した古墳を含めると100基以上の古墳があったことが分かっている

現在わかっている107基の古墳は、
前方後円墳15基・帆立貝形古墳28基・円墳が54基・方形墳5基・形状不明墳5基

百舌鳥古墳群の地図g

田出井山古墳
反正天皇陵

堺市堺区北三国ヶ丘町2丁
 (撮影日2013/4/23)

田出井山古墳の北にある方違神社の駐車場に駐車、神社と古墳の見学。
田出井山古墳は、百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として、宮内庁が管理している。


田出井山古墳の図  (古墳辞典から)

田出井山古墳は 前方部を南に向けた
墳長148mの前方後円墳
 後円部径76m・高さ14m 
 前方部幅110m・長さ84m・高さ15m
百舌鳥古墳群では7番目の大きさ

 3段築成 西側くびれ部前方部寄りに造出がある。
 盾形二重周濠  堤がある。円筒埴輪あり 葺石あり
 内部は不明
 5世紀後半の築造と推定されている。
 1981年(昭和56)の前方部外周で行われた発掘調査で、
  かつて二重濠があったことが確認されている。
 田出井山古墳の東側に、
  鈴山古墳(1辺22mの方墳)と天王古墳(1辺11mの方墳)の陪塚がある。(見学していない)

方違神社から見た田出井山古墳
後円部側から前方部を見る
  その1

方違神社から見た田出井山古墳
後円部側から前方部を見る
  その2


方違神社 入口
河内、和泉、摂津の三国の境にあるので、
 三国丘と称されている。
三国の境にあるので、方角のない聖地と考えられて、
 昔から方災除けの神として知られている。
遠くへ旅する時や家を移る時などに
 この神社に参れば災難に会わないという言い伝えがあり、
 新築や転居等の際に厄除けのために
 各地からたくさんの人が参詣に訪れるという。
正式には「かたたがえ」というが、「ほうちがい」さんと呼ばれて親しまれている。

大仙古墳 (仁徳天皇陵)
百舌鳥古墳群

堺市堺区大仙町
 (撮影日2012/10/25)

日本の古墳で最も大きい大仙古墳は、仁徳天皇陵として、陪塚12基とともに、宮内庁が管理している。
現在、大仙古墳の周りには19基(現存16基)の陪塚的な古墳が確認されている。

 大仙古墳は 墳丘長486mの前方後円墳
 後円部径249m・高さ35.8m 前方部の幅307m・長さ237m・高さ33.9m
 三重の周濠をもつ。
 後円部には、長持形石棺(蓋の長さ3.18m・幅1.67m・厚さ0.24m)がある。
   (1757年の記録から)
 前方部には、
  長持形石棺
(蓋の長さ2.4〜2.7m・幅1.45m・高さ0.9m、全体の高さ1.6m)を納めた
   竪穴式石槨(長さ3.9m・幅2.4m)がある。
  石室と石棺の間には
   甲冑、ガラスの杯、太刀金具、鉄刀20口(本)あまりが確認されている。 
    (1872年の記録から)
 円筒埴輪や形象埴輪(人物・馬・犬・水鳥・家形埴輪・蓋形埴輪)などが出土。
 5世紀中頃の築造と推定されている。
 仁徳天皇とは
 父は応神天皇、母は仲津姫で、
 異母弟の皇太子・莵道稚郎子皇子を助け、異母兄の大山守皇子を退け、
 皇太子と皇位を譲りあうが、皇太子の自殺に伴い即位する。
 都を難波高津宮に定めて、葛城磐之媛を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇をもうける。
 古来より聖帝とたたえられ、理想的な天皇とされている。


大仙古墳 御拝所

御経を唱えている男性がいる。

  大仙古墳 
御拝所から見た前方部前面西側周濠

  大仙古墳 
御拝所から見た前方部前面東側周濠

  南東角から見た大仙古墳
 収塚古墳そばから見る。

  大仙古墳 後円部周濠
 茶山古墳と丸保山古墳の間あたりから見る。
 現在、大仙古墳は仁徳天皇陵として宮内庁が管理、立入禁止だが、
  今までにいろんな逸話がある。
1、宝暦7年(1757)に編纂された「全堺詳志」には、
   後円部の頂上に「石ノ唐櫃」のあることが記され、
   石のふたのサイズは、
   長さ1丈5寸(3m18cm)・幅5尺5寸(1m67cm)
   ・厚さ8寸(24cm)となっている。
  盗掘されていて、
   石棺の石材は堺の政所の庭の踏み石になっているという話も伝わっている。
2、徳川時代の中ごろまでは、陵墓の管理が十分に行われていなかった。
  1852年、当時の堺奉行がこれを憂いて、後円部にあった勤番所を裏門に移し、
   天皇を葬ったと思われる後円部200坪に
   高さ3尺の石の柵を設けて陵内を整備したと伝えられている。
                 (説明板から)
3、明治5年(1872年)に大仙古墳の前方部正面が台風で土砂が崩れ、竪穴式石室が露呈した。
  この時発見された石室と石棺、副葬品などが絵図に描かれている。
  甲冑を描いた図は堺市指定有形文化財となっている。
  絵図によれば、
   石室の長さは東西方向におよそ1丈2から3尺(3.9m)、
    幅が南北方向におよそ8尺(2.4m)あまりで、
    20から30cm程の丸石(自然石)を積上げて造られ、
    大石3枚で覆っていたと記されている。
   石室の中に納められていた石棺は
    蓋の大きさが
    幅4.8尺(1.45m)・長さ8から9尺(2.4から2.7m)・高さ3尺(0.9m)で、
    石棺の全体の高さは推定で5尺3寸(1.6m)程とみられる。(推定30トン)
   石棺は、蓋石が丸く盛り上がっていて亀の甲羅のようで、
   縄掛け突起が径1尺4寸(42cm)と大きく、前面に朱が塗られている。
     (堺市博物館に、この前方部石棺復元模型が展示されている)

 また当時の堺県令は、「掃除」と宮内省に願い出て古墳を開け、
   遺物を外部へ横流ししたとの話もある。
 現在 堺博物館、ボストン美術館やフィラデルフィア美術館などにある
   「伝仁徳陵出土」とされる遺物は、この時の流出品だと もいわれている。

   

大仙古墳(仁徳天皇陵)とその周辺
百舌鳥古墳群

堺市堺区

大仙古墳の北東にある丸保山古墳から、大仙古墳を一周する。

日本の古墳で最も大きい大仙古墳は、仁徳天皇陵として、陪塚12基とともに、宮内庁が管理している。
が、大仙古墳の周りには19基(現存16基)の陪塚的な古墳がある。

丸保山古墳  (宮内庁へ号飛地) 国史跡 
  マルホヤマコフン
北丸保園
 大仙古墳の陪塚として後円部は宮内庁が管理、
   前方部と周濠は国史跡に指定され、堺市が管理している。
 丸保山古墳は  墳丘長87mの帆立貝形前方後円墳
   後円部径67m 前方部幅40m 前方部が南を向く
   墳丘の周りには幅10m程の濠が巡る。
 円筒埴輪が採集されている。
 5世紀後半の築造と推定されている。 

  丸保山古墳後円部側

 

  丸保山古墳前方部側 
  前方部は近年まで民家と耕作地であったため
  かなり平坦に削平されている。

丸保山古墳の西側には、菰山塚古墳があり、南側にもかつては古墳のような高まりがあったということだ。

菰山塚古墳 (宮内庁ほ号飛地)
  コモヤマヅカコフン
南丸保園

 大仙古墳の外周にあり、仁徳陵の陪塚として宮内庁が管理している。

菰山塚古墳の図
    (HP世界遺産暫定一覧表より)

菰山塚古墳
 前方部が南を向く
墳丘長33m・高さ4mの帆立貝形前方後円墳


現在は、
住宅に取り囲まれた円墳状の墳丘が残るだけ。


菰山塚古墳その1

菰山塚古墳その2

  

 樋の谷古墳 (宮内庁丙号)
  ヒノタニコフン
大仙町
陪塚として宮内庁が管理している。

樋の谷古墳の図
     (HP世界遺産暫定一覧表より)
樋の谷古墳は  径47mの不整形な古墳

仁徳天皇陵古墳の三重濠の西側面の
 ほぼ中央の濠が膨れた部分の中にある。
この古墳は濠を掘った時の土を盛ったものともいわれ、古墳かどうかは疑問視されている。


大仙古墳の外濠と樋の谷古墳


  

 銅亀山古墳  (宮内庁に号飛地)
  ドウガメヤマコフン
大仙町

 大仙古墳の外周にあり、仁徳天皇陵の陪塚として宮内庁が管理している。

銅亀山古墳の図

   (HP世界遺産暫定一覧表より)

銅亀山古墳 墳丘一辺26m・高さ4mの方墳
2段築成で、
下段は南側が造出状に張り出し、長方形となる。
 形はよく残っているが、昔は古墳の上に高射砲の陣地があったと言われ、
   頂上はかなり荒らされていて、埋葬の跡もなくなっていると考えられている。


銅亀山古墳  左が南 

銅亀山古墳  左(南)側が造出部分

  

 狐山古墳 (宮内庁は号飛地)
  キツネヤマコフン
大仙中町

 仁徳天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理している。

狐山古墳の図
  (HP世界遺産暫定一覧表より)

狐山古墳は 墳丘直径23mの円墳


現状は、
 墳丘の裾が削られ方墳状になっている。


狐山古墳


高い墳丘が残っている。

    

 竜佐山古墳  (宮内庁ろ号飛地)
  タツサヤマコフン
大仙中町

 仁徳天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理している。

竜佐山古墳の図(HP世界遺産暫定一覧表より)

竜佐山古墳は 前方部が西を向く
 墳丘長61mの帆立貝形前方後円墳
 後円部径43m・高さ7m 前方部幅26m
5世紀中〜後半の築造と推定されている。
 良佐山の字があてられたり、昭和のはじめ頃に「りゅうさやま」と呼ばれていた記録もある。
 現在の周濠は、大仙公園整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたもの。


竜佐山古墳 前方部側

竜佐山古墳 後円部側

     

 孫太夫山古墳 (宮内庁い号飛地)
  マゴダユウヤマコフン
  百舌鳥夕雲町2丁

 仁徳天皇陵古墳の外周にあり、
  陪塚として後円部は宮内庁が管理し、前方部は堺市が管理している。


孫太夫山古墳の図
   (HP世界遺産暫定一覧表より)


墳丘長56mの帆立貝形前方後円墳

 後円部径44.2m・後円部高8m 前方部幅30m
 前方部が西を向く

5世紀中〜後半の築造と推定されている。
 
古墳の名は、所有者であった中筋村庄屋の南孫太夫に由来する。
 一部の調査で、葺石と円筒埴輪があり、幅10m程の周濠がめぐっていたとわかった。
 埋葬施設などについては不明。

 現在の周濠と前方部の一部は、
  大仙公園の整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたもの。


孫太夫山古墳前方部側

孫太夫山古墳後円部側

   

  

 鏡塚古墳 
  カガミヅカコフン
  百舌鳥赤畑町2丁
大仙古墳の外周にある。陪塚と考えられる。

鏡塚古墳の発掘図 
(説明板から)

墳丘直径26m・高さ2.5m以上の円墳
     
(平成7年の範囲確認調査で判明)
周濠がある。
濠から葺石や埴輪の破片が出土。
5世紀中ごろの築造と推定されている。

鏡塚古墳の現在

現状は径20m・高さ1.5mと扁平で、
墳丘が道路とJR阪和線で大幅に削られている。
古墳西側の道路が狭くなっているのは
  古墳を保存するためである。

  

 塚廻古墳 (国史跡)
  ツカマワリコフン
 百舌鳥夕雲町1丁


塚廻古墳の図
  (HP世界遺産暫定一覧表より)

塚廻古墳は 墳丘径32m・高さ5mの円墳
大仙古墳の外周にあり、陪塚と考えられる。
墳裾には埴輪列があった。
長さ3m・幅54cmの中央がくぼんだ木板の上から、
 銅鏡2面と鉄剣をはじめ
  硬玉や碧玉製などの勾玉や管玉、棗玉などの玉類が
   多量に出土した。
 埋葬施設は木棺と考えられている。
 明治45年(1912年)に発掘調査


塚廻古墳
平成元年(1989年)の墳丘裾部の発掘調査で、
 確認された幅10m・深さ1.8mの周濠跡を
 道路上にタイルで明示
している。

現状は円墳だが、大正15(1926)年
  宮内庁測量の仁徳天皇百舌鳥中陵陵墓図や、
近年の周濠の部分発掘調査成果から、
 南北主軸の帆立貝形古墳の可能性も
  考えられている。

  

  源右衛門山古墳 (宮内庁ち号飛地)
     ゲンエモンヤマコフン
 向陵西町4丁

仁徳天皇陵古墳の外周にあり、仁徳天皇陵の陪塚として宮内庁が管理している。 (墳丘部のみ)

源右衛門山古墳配置図
   (説明板から)

現状は墳丘直径34m・高さ5.4mの円墳

平成元年(1989年)に行われた発掘調査で、
 幅5m・深さ1.8mの周濠をもつ
  墳丘径48mの円墳であると確認された


この時に確認された周濠の外周を、 
 現在道路上にタイルで明示している。


源右衛門山古墳


古墳の名前は、
 江戸時代の古墳の所有者名に由来する。

  

 大安寺山古墳 (宮内庁乙号)
  ダイアンジヤマコフン
  大仙町

 大仙古墳の堤上にあり、仁徳天皇陵の陪塚として宮内庁が管理している。
 仁徳天皇陵古墳の後円部外側の第2堤上から
   三重濠に張り出すようにある2基の古墳のなかの東側にある。

大安寺山古墳の図  (HP世界遺産暫定一覧表より)


大安寺山古墳は、62m・高さ9.8mの円墳


大仙古墳後円部の外側の周濠と大安寺山古墳


古墳の名前は、
古くは大安寺の所有地であったことに由来する。

  

 茶山古墳 (宮内庁甲号)
  チャヤマコフン
 大仙町

 仁徳天皇陵の陪塚として宮内庁が管理している。
 仁徳天皇陵古墳の後円部外側の第2堤上から
   三重濠に張り出すようにある2基の古墳のなかの西側にある。

茶山古墳の図  (HP世界遺産暫定一覧表より)

茶山古墳は 56m・高さ8mの円墳
 
茶山の呼称は、
「堺鑑」に豊臣秀吉が仁徳天皇陵古墳で狩りをした時に、
  陵の上で仮の居宅を構えたあとを
     茶屋山と呼んだという記事に由来する。


  左 茶山古墳
  茶山古墳のために濠がふくらんでいる。

  茶山古墳の現状は雑木林で
             墳丘の確認は難しい。

  

 永山古墳 (宮内庁と号飛地)
  ナガヤマコフン
 東永山園
仁徳天皇陵の陪塚として宮内庁が管理しているが、形態や規模から陪塚とは考えにくい。
 永山古墳は  墳丘長100mの前方後円墳。  
  後円部径63m・高さ10.3m 前方部幅68.5m・高さ10.3m  
 前方部が南を向く。くびれ部の東側には造出しがある。
 2段築成。墳丘の周りには幅15m程の盾形の周濠が巡る。
  
5世紀中頃の築造と推定されている。
 伝承では応神16年に百済から来日し
  「論語」や「千字文」などを伝えた王仁(わに)の墓といわれている。


永山古墳

南側の道路から見る

  

長塚古墳
国史跡

堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁
 (撮影日2013/4/23)

JR阪和線百舌鳥駅のすぐ南西にある。柵があって中には入れない。東側の道路から後円部をのぞき見る。

 長塚古墳は、前方部が西を向く
  墳丘長102mの前方後円墳 後円部径57m・高さ8.2m 前方部幅67m・高さ8.3m
  百舌鳥古墳群では11番目の大きさ
  2段築成  葺石あり
  南側のくびれ部には造出しがある。
  周濠もあるが、すでに埋没していて家が建っている。
  近年の小規模な調査で、前方部の西側では幅14mの濠があったと判明した。
  円筒埴輪が採集されている。
  主体部の構造や副葬品は不明
 埴輪の形状・前方部の高さや幅が発達していることなどから、5世紀中頃〜後半の築造と推定されている。

長塚古墳全景 南から 左(西)前方部

長塚古墳 後円部

長塚古墳後円部側の柵の中にある二つの石碑


「史蹟長山古墳」と「仁徳天皇御陵」


「仁徳天皇御陵」は、昭和6年に現在のJR百舌鳥駅付近に建てられたものが移設されたもの。
「長山古墳」は、大正9年、史蹟名勝天然記念物保存法で史蹟に仮指定された際に使用されたもの。
  昭和33年、文化財保護法により「長塚古墳」の名称で史蹟指定された。
                            (説明板から)

  

原山古墳と鳶塚古墳

堺市堺区百舌鳥夕雲町3丁
大仙公園内

 (撮影日2012/10/25)

大仙公園に保存されている。
グワショウ坊古墳の近くにあるが、詳しい事がかかれていない。


大仙公園案内図に描かれた原山古墳と鳶塚古墳
         (説明板から)


小さな二つの盛り上がりがある。

  原山古墳

  鳶塚古墳

  

 グワショウ坊古墳

  百舌鳥夕雲町3丁  大仙公園内


グワショウ坊古墳の図
  (HP世界遺産暫定一覧表より)
グワショウ坊古墳は 墳丘直径61mの円墳。 
円墳としては、日本の古墳の中でも大形になる。
  (説明板には径58mの円墳となっている。)
周濠がめぐる。墳丘は2段築成。
墳丘には 埴輪と葺石が残る。
主体部の構造や副葬品は不明。
大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)や石津ヶ丘古墳(履中天皇陵古墳)の陪塚ではなく、
     独立した古墳と考えられている。
 古墳林は植生観察林ともなる。

グワショウ坊古墳周濠



グワショウ坊古墳周濠

大仙公園整備にともなって周囲の濠に水がはられ、
外から隔てられたのをきっかけに
古墳内の植物の様子が、1985年から調べられている。

径61mの円墳なら、一般的には大きな円墳なのに、説明板には「小さな円墳」と書かれている。
周りの古墳が大きすぎるからかな・・・・・・。
        
    
旗塚古墳

堺市堺区百舌鳥夕雲町3丁
 (撮影日2013/4/23)

大仙公園内にある。周りを含めきれいに整備・保存されている。
すぐ横には、グワショウ坊古墳がある。


旗塚古墳の図 (HP世界遺産暫定一覧表より)

旗塚古墳は 前方部を西に向ける
全長53.8mの帆立貝形古墳
 後円部径41m・高さ3.8m
 前方部幅21m・前方部高1.3m
2段築成で、、盾形の濠がめぐる。
 本格的な調査は行われていない。
 主体部の構造や副葬品は不明。
 葺石あり 埴輪あり
 埴輪は、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか盾・蓋などの形象埴輪も出土している。
 5世紀中頃〜後半の築造と推定されている。


旗塚古墳の前方部周壕は水がなくて、
         歩けるように整備されている。

 左手前前方部 右奥後円部

旗塚古墳 左前方部 右後円部

旗塚古墳 前方部側

旗塚古墳  後円部の丸み

  

七観音古墳

堺市堺区旭ヶ丘中町4丁
 (撮影日2013/4/23)

大仙公園内に整備保存されている。本来の墳丘を保護するために、盛り土をして保存したそうだ。
発掘調査をしたら、すごいものが出土するかも・・・・・。
履中天皇陵の陪冢と考えられている。 


七観音古墳の図  (HP世界遺産暫定一覧表より)

七観音古墳径25m・高さ3.5mの円墳

葺き石がある。埴輪が立てられていた。
          (説明板から)


七観音古墳全景

本当は、この西側にあった七観山古墳の方が有名らしいが・・・・
よく似た名称でまぎらわしい。

七観山古墳

堺市堺区旭ヶ丘中町4丁
 (撮影日2013/4/23)

七観音古墳の西側、履中陵古墳(百舌鳥ミサンザイ古墳)の後円部北側にあった円墳で、
履中陵古墳の陪塚と考えられている。

破壊されて、現在展望台となって古墳もどきの姿を見せている。

 七観山古墳径56m・高さ8mの円墳
 二段築成 周濠あり 葺石あり 埴輪あり
 墳頂部には鰭付円筒埴輪をならべた埴輪列がめぐっていた。
 家・短甲・蓋(きぬがさ)・靱などの形象埴輪も出土している。
 鉄製甲冑・鉄製素環頭太刀・鉄刀・蛇行状鉄剣・鉄剣・鉄鉾
      ・鉄鏃・鉄斧・手斧・やりがんな・金銅製帯金具・馬具などが出土
 ほかに、滑石製勾玉や剣形鉄製品が採集されている。
 中でも、衝角付冑7鉢、短甲6領以上、鉄刀130口前後、鉄鏃百数十本など
      多量の鉄製武器・武具類に特徴がある。
                                         (HP堺市 古墳データベースから)
 5世紀前半の築造と推定されている。
 七観山古墳は 戦争中に防空壕が掘られ、昭和27年の土取り工事、病院建設で消滅。
 その時の調査で、
   墳丘上の埴輪列による方形区画と、その下の3基の副葬品埋納施設が確認され、
   その中に鉄製武器が大量に納められていた。
 第1槨には鉄鏃と馬具、 第2槨には5領以上の甲冑、第3槨には鉄刀剣類が納められていた。
 大型古墳に隣接して築かれた陪塚の特徴とみられている。
 現在病院移転後国有地化され、展望台として再現された。

展望台があるのは気が付いていたが・・・・・知らなくて、写真は撮らなかった・・・・・。残念

乳岡古墳
チノオカコフン
国史跡

堺市堺区石津町2丁
 (撮影日2013/4/23)

百舌鳥古墳群の最も南西部、石津町にある。

 乳岡古墳は 前方部を南に向ける
 墳丘長155mの前方後円墳  径94m・高さ14m
 百舌鳥古墳群では6番目の大きさ。
 後円部は3段築成
 昭和47年(1972年)の墳頂部の発掘調査で、
  後円部中央から、粘土で覆われた長持形石棺が検出され、
   その被覆粘土の南に接した所から
       碧玉製腕輪形石製品(車輪石)・鍬形石等の破片と石棺材片が散乱して発見された。
 長持形石棺は、蓋石・底石・4辺の側石の6枚の部材で構成され、蓋石がカマボコ状にふくらむもの。
 石棺は埋め戻されている。

 古墳群で最も古い古墳であることが判明した。
 葺石あり 埴輪あり 濠がめぐっていた。
 昭和60年(1985)の調査で、後円部西側では幅約3mの濠があったことが確認されている。
 4世紀末頃の築造と推定されている。
 濠は埋められて、前方部の大半が削られている。

乳岡古墳 
細長く残った前方部幅2mくらいしかない。

乳岡古墳 
前方部の向こうにほぼ完存の後円部が見える

乳岡古墳 
住宅の間から垣間見る後円部その1

乳岡古墳 
住宅の間から垣間見る後円部その2

以前は乳岡山 摂取院念佛寺という寺が墳丘上にあった。地元の人から「お山の寺」と呼ばれたという。
昭和55年に、現在の堺区浜寺石津町東三丁十一番五号に移転した。

乳岡山 摂取院念佛寺のHPには、古墳の上に寺があったころの写真が載せられている。

堺市役所21階からの眺め

堺市堺区
 (撮影日2013/4/23)

堺市役所21階は、地上80mの市役所最上階で、360度の展望が楽しめる回廊式ロビー。
天気が良ければ、素晴らしいが、かなり曇っている・・・・・・。

 堺市役所21階から見た百舌鳥古墳群

大仙古墳

百舌鳥ミサンザイ古墳

手前は大仙古墳 奥は御廟山古墳

田出井山古墳

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