北村さんちの遺跡めぐり
太子町
太子町には磯長谷古墳群がある。
梅鉢御陵とよばれる用明天皇陵・孝徳陵古墳・推古陵古墳・敏達陵古墳・聖徳太子墓の5基のほか、
小野妹子墓、九流谷古墳、葉室石塚古墳、松井塚古墳、仏陀寺古墳、二子塚古墳などがある。
二子塚古墳 国史跡 |
南河内郡太子町山田 |
2013年の二子塚古墳 撮影日2013/4/23
南から見た二子塚古墳 左が西丘 草むらのあたりに 西丘の石室が埋もれているのか・・・? 墳丘は土取りのため かなり崩れている。 |
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東丘・西丘それぞれの中心部に南東を入口とする横穴式石室が各一基ずつあり、 内部に刳抜式の石棺がそれぞれ1基ずつ収められている。 石棺は凝灰岩をくりぬいた家形石棺で、 蓋はカマボコ形をしていて、縄掛け突起はないと考えられている。 石室は側壁のすき間に小さい自然石を詰め込み、表面をなだらかにするために、 側壁に漆喰を塗っていたといわれていて、漆喰の痕跡が残っている。
東丘の石室は露出している。 1915年(大正4)、両墳丘からほぼ同形同大の石室と石棺が発見された。 当時の調査では、竪穴式石室をもった前方後円墳とされたが、 1956年(昭和31)の調査で、短い羨道のある横穴式石室の双方墳と判明した。 |
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二子塚古墳 北東の進入口から見る 東丘が見えている。 ⇒ |
二子塚古墳 東丘の横に石碑がある。 石碑の向こうは西丘 |
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二子塚古墳 北西脇から見た東丘 |
二子塚古墳 北西脇から見た西丘 |
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二子塚古墳東丘 東西墳丘の間から見る 石室の天井石が見えている。石が落ちている。 石室入口は、右側の木の後ろの暗い所 |
二子塚古墳西丘 東西墳丘の間から見る |
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東丘の石室 左が奥壁側 右の暗い所が石室入口 どちらも開口している。 天井石も露出している。 |
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二子塚古墳東丘の石室 奥壁側から石室内部を見る。 |
二子塚古墳東丘の石室入口 かなり埋まっている。 |
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二子塚古墳東丘の石室内部 かまぼこ形の石棺が埋もれている。 白く見えるところは、漆喰の痕跡か? |
二子塚を推古天皇と竹田皇子の合葬墓とする言い伝えがあるそうだ。
1956年、所有者が、個人では古墳の保存には限界があると、
「古墳ゆずります」という新聞広告をだし、一躍有名になった。
現在は太子町が所有・管理している。
二つの墳丘を「東丘」・「西丘」と記したが、古墳辞典では「北墳」・「南墳」と記されている・・・・・。
2015年の二子塚古墳 撮影日2015/12/6
全景のいい写真がなかったので、写真を撮りにもう一度。
二子塚古墳を 東から見る。
いい写真が撮れた!
二子塚古墳
山田高塚古墳から見る
山田高塚古墳 (推古天皇陵) |
南河内郡太子町山田 |
「磯長山田陵」として、宮内庁が管理している。
二子塚古墳から北西200m、二子塚古墳から推古天皇陵全体が見える。
推古天皇は、当初竹田皇子墓とともに葬られた大和の植山古墳から、改葬してこの地に葬られたと考えられている。
2013年の山田高塚古墳 撮影日2013/4/23
山田高塚古墳の図 (古墳辞典から) 磯長谷古墳群中の1基 東西59m・南北55m・高さ11mの方墳 3段築成 最上段は東西34m・南北25mの長方形 江戸時代の文書によると、 羨道の前面が崩落して横穴式石室が露出し、 石室内は右に推古天皇、 左に竹田皇子の石棺がおかれていたとある。 また、墳墓は江戸時代以降の改修で、原形とは異なる修築がおこなわれたともいわれている。 7世紀代の築造と推定されている。 |
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東から見た山田高塚古墳 よく見ると墳丘がすけて見える。 |
山田高塚古墳 御拝所 二子塚古墳から望遠で。 |
2015年の山田高塚古墳 撮影日2015/12/6
2013年4月には、近くの二子塚古墳から眺めただけで終わったが、今回は間近で見学。
駐車場がある。
山田高塚古墳を北から見る |
南西角から、御拝所へ向かう道がある。 |
南側中央にある御拝所 とってもりっぱな墳丘だけれど、 葉室塚古墳はもっと大きいのです。 |
春日向山古墳 (用命天皇陵) |
南河内郡太子町磯長 |
「河内磯長原陵」として、宮内庁が管理している。
用命天皇は、欽明天皇の第4皇子で、聖徳太子の父、
当初は大和に葬られ、蘇我馬子の時代に河内磯長の地に改葬されたという。
春日向山古墳の図 磯長谷古墳群中の1基 東西65m・南北55m・高さ10mの方墳 一辺が正しく南北に沿って整備されている。 2段築成 周囲に6mの空堀と土塁がめぐっている。 土塁を含むと、東西100m・南北90mとなる。 空堀・土塁は幕末に修復が行われたといわれている。 江戸時代の廟陵記には、墳丘中央に巨石が露出していたと記されているので、 横穴式石室があると推定されている。 7世紀前半の築造と推定されている。 |
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春日向山古墳 左奥に御拝所がある。 |
春日向山古墳 御拝所 |
(廟陵記とは、歴代天皇の陵墓の研究書。二巻。松下見林著。1696年成立,1778年刊。)
叡福寺北古墳(聖徳太子廟) と 叡福寺 |
南河内郡太子町太子 |
叡福寺に隣接したなごみの広場に駐車。
叡福寺は、太子墓を守るために創建されたと伝えられている。
叡福寺北古墳は、「聖徳太子磯長墓」といわれている。 径55m・高さ10mの円墳とされてきたが、 2002年の宮内庁書陵部の調査で、 これまで内側の結界石間際まであると思われていた墳丘の裾は確認されず、 径55mよりもひとまわり小さいと判明。 2段築成とされていた上段部分が本来の墳丘であり、そこでの直径は35mほどとなる。 花崗岩の切石で築かれた岩屋式の両袖式横穴式石室は、 全長12.6m 玄室長5.4m・幅3m・高さ3m 羨道長7.2m・幅1.8m・高2m、 玄室の奥には刳抜式石棺が1基、石棺の正面には切石造りの棺台が2基安置されている。 明治時代に、石室内部に入り、調査した際の詳細な記録が残されている。 叡福寺は、 寺伝によれば、 620年、聖徳太子がみずから人夫を督励して、横穴式墓所を造営したが、 621年生母の間人(ハシヒト)皇后が死去したので、まず墓の奥に石棺で葬り、 622年2月、太子と膳姫(カシワデヒメ)が同時に死去したとき、 母の石棺の手前に乾漆棺で横に並べて葬り、「三骨一廟」の陵墓「聖徳太子磯長墓」となった。 聖徳太子の死後、推古天皇の命によって創建されたと伝えられている。 |
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叡福寺 二天門 |
叡福寺 多宝塔と本堂 |
聖徳太子御廟 (叡福寺北古墳) |
脇から見た叡福寺北古墳 墳丘が見える! 裾には結界石が二重にめぐっている。 |
叡福寺に隣接した「和みの広場」の片隅には、 聖徳太子墓の石室模型がある。 石棺には聖徳太子の母である穴穂部間人皇后、 手前の二つの棺台には聖徳太子と妃の膳臣娘を それぞれ夾紵棺が安置されていたと考えられている。 |
「和みの広場」には、尼ヶ谷古墳石室移築・松井塚古墳石棺も展示されている。
尼ヶ谷古墳石室 (移築復原) |
南河内郡太子町太子 |
尼ヶ谷古墳は、 墳丘上部が、古くに削り取られているので、正確な大きさや形は分からないが、 径20mほどの円墳か方墳と考えられている。 横穴式石室は、 玄室の左側壁と羨道部の1から2段目が残されているだけだが、 石室全長約10m、玄室は長さ5m・幅1.2mの規模を持つことがわかった。 石室内から、粉々にされた凝灰岩製の組合式家形石棺の破片が多量に出土、 木棺に伴う鉄釘や棺床があったことから2体の埋葬があったと考えられている。 副葬品の大半は失われていたが、 多くの須恵器や土師器とともに、 装身具の玉類や金銅製の耳環、垂飾付耳飾の一部と考えられる金製のリング2点が出土。 6世紀後半頃の築造と推定されている。 |
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尼ヶ谷古墳石室 入口から玄室を見る |
尼ヶ谷古墳石室 奥壁側から入口を見る |
松井塚古墳石棺 |
南河内郡太子町太子 |
「和みの広場」に保存されている。
松井塚古墳石棺は、 |
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松井塚古墳石棺の展示 |
松井塚古墳石棺の横口 |
松井塚古墳石棺 横から見る |
松井塚古墳石棺内部 |
太子西山古墳 (敏達天皇陵) |
南河内郡太子町山田 |
「科長中尾山陵」として、宮内庁が管理している。
敏達天皇の妃が推古天皇である。
太子西山古墳は、墳丘長113mの前方後円墳 後円部径58m・前方部幅67m 磯長地区で唯一の前方後円墳 2段築成 北西に前方部がある。 「日本書紀」では「崇峻4年(590)に生母石姫(欽明皇后)の陵に、 敏達天皇を追葬した」との記録がある。 |
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太子西山古墳への参道 左手前は駐車場 |
太子西山古墳 御拝所 |
近くで女性に道を尋ねた時に、「びだつさんですか?」と親しみを込めた言い方をされているのに、心が和んだ。
シシヨツカ古墳 アカハゲ古墳 塚廻り古墳 平石古墳群 |
大阪府南河内郡太子町加納 |
シシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・塚廻り古墳は、河南町加納の道路脇に並んでいるみたいなのだけど、
特定に至らず・・・・。駐車ができれば、じっくり探すのだが・・・・
アカハゲ古墳あたりかな? |
シシヨツカ古墳あたりかな? |
シシヨツカ古墳は 東西34m、南北26mの貼り石を施した3段築成の方墳。 周濠も含めると東西60m、南北53mの大規模な終末期古墳。 横口式石槨は全長11.4mで奥室、前室、羨道からなり、隙間には一部漆喰が残存。 漆塗篭棺・亀甲繋文銀象嵌円筒大刀柄頭・龍文金象嵌鞍金具など豪華副葬品出土。 |
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アカハゲ古墳は、終末期の方墳 東西約70m、南北40m以上の平たんな壇の上に高さ1.64mの墳丘を三段積み重ね、 最上段は東西22m、南北14mル以上の大きさ 横穴式石室がある。 排水口は墳丘下部3カ所で確認されている。 出土品としては、漆塗りかご棺や褐色のうわぐすりをかけた陶器製円形すずりの破片など 朝鮮半島の影響を色濃く示す遺物が確認されている。 平石古墳群に属する。 古墳の規模は7世紀前半の天皇陵に次ぐ大きさ。 |
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塚廻り古墳は平石古墳群に属する終末期の古墳 大規模な方墳の可能性が高いと言われている。 横穴式石室がある。 奥室は、壁・床・天井全てが1枚の石でできており、 長さは2.3m、幅、高さは1.31mもの広さを持つ。 羨道は奥室より幅も高さもやや大きく、石室は南に開口している。 盗掘を受けてはいるが、棺台・籠棺、鉄刀、ガラス玉などの破片がたくさん出土している。 |
今はどういう状態で保存されているのだろうか?
葉室公園 葉室石塚古墳・釜戸塚古墳・葉室塚古墳 |
大阪府南河内郡太子町葉室 |
葉室公園は
葉室石塚、釜戸塚、葉室塚の3基の大古墳に囲まれた歴史公園。
墳丘は公園内の小高い丘となっており、古墳を生かした公園として憩いの場になっている。
広々とした公園は、芝生や木々などたくさんの緑に囲まれている。
葉室公園案内図 (現地説明板から)
磯長谷古墳群の中でも、
ここは古墳が集中してつくられていて
葉室古墳群と呼ばれている。
釜戸塚古墳 |
径45mの円墳 北側の丘陵を掘り込み、馬蹄形をした濠をめぐらしている。 墳丘の中央部が大きく陥没しているので、横穴式石室が存在したと考えられている。 (羨道と思われる部分に大型の切石が残っているので、岩屋式の石室か?) 7世紀前半の築造と推定されている。 聖徳太子御廟と似た規模・構造をもつ。 |
釜戸塚古墳全景 濠がしっかり残っている。 |
石塚古墳側から見た釜戸塚古墳 以前は果樹園として利用されていたらしいが、 現在墳丘上は荒れ放題・・・。 |
石塚古墳 | |
径30mの円墳 大型の横穴式石室があったが、壊されている。 石室内からは家型石棺片、木棺片、須恵器が出土している。 6世紀末〜7世紀初めの築造と推定されている。 |
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石塚古墳全景 低い墳丘になってしまっているが、 かつては横穴式石室があったという。 |
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ベンチが置かれて、 葉室公園では、休憩場所のような存在だ。 |
葉室塚古墳 | |
東西75m・南北55mの長方形墳 大きさから言うと、春日向山古墳(用明天皇陵)や山田高塚古墳(推古天皇陵)と同等の規模。 2段築成 北側は堀をめぐらし、南側は低い張り出し(前庭部)をもつ。 墳丘の形状からみて東西2つの横穴式石室があると考えられている。 推古天皇陵や二子塚古墳も1古墳2石室で、平面プランが似ている。 |
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葉室塚古墳全景 濠があったのか? 西側(右側)は 大きく破壊されている。 |
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雑木林の間から 大きな墳丘がみえる。 |
大きな古墳なのに、発掘調査もされず、整備もされず、静かに存在しているのがかえって面白い。
葉室塚古墳こそこそが、本当の敏達天皇陵ではないかという説もある。
一須賀古墳群 近つ飛鳥風土記の丘 |
南河内郡太子町・河南町 |
近つ飛鳥風土記の丘(一須賀古墳群) 全体配置図 (現地説明板から)
一須賀古墳群は、1.5km四方の範囲に250基あまりの古墳が、
23のグループに分かれて分布している。
横穴式石室を埋葬施設とする径10〜20mの円墳が中心で、
石棺をもつものもある。
近つ飛鳥風土記の丘園内では、100基余の古墳を保存していて、
そのうち40基を見学できる。
土器や鉄器のほか、
金銅装のくつやかんざし、ミニチュアのかまど形土器などが出土している。
6世紀〜7世紀にかけて、
中でも6世紀後半に最も多く築造されたと推定されている。
(説明板・パンフから)
博物館でもらった配置図より、古墳の数が多いので、
説明板の方が新しいと考え、説明板の図を掲載する。
(少し手直しした)
写真と古墳番号は
違っているところがあるかもしれない・・・・・
博物館の横から、I支群・J支群を見学。
一須賀古墳群
I-5号墳
博物館からすぐのところにある。道路の下に小さな石室が保存されている。
I−5号墳
小さな横穴石室がある。天井石は失われている。
土器や鉄鏃が出土。
6紀中ごろの築造と推定されている。
小さな石室で、
ちょっと見たところは竪穴式石室のようだが、
横穴式石室である。
I支群・J支群周辺の拡大図
(J支群の説明板に加筆)
一須賀古墳群
?-1号墳・?-2号墳
J支群に行く小道に入ったところに2基の古墳がある。
J支群ではないようだが、案内板がなく、支群名も番号も分からない。I支群の中に入るのか?
手前の古墳はかなり立派な古墳だが、、仮に?-1号墳、?-2号墳としておく。
?-1号墳
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?-2号墳
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一須賀古墳群
J支群
道沿いに古墳が並んでいる。がずっと上り坂でかなりきつい・・・・。
J支群は一須賀古墳群の中央部、博物館へのびる尾根上に分布する支群。15基の古墳が確認されている。
いずれも径10m前後の円墳で、横穴式石室がある。
7号墳と8号墳のところでは、石室を真上から見学できるように、遊歩道に橋をかけている。(説明板から)
J-1号墳 |
J-3号墳 |
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J-4号墳 |
J-5号墳 |
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J-6号墳
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J-7号墳は、遊歩道のそばに天井石が露出している。 遊歩道から、下に下りると、立派な石室がある。
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J-8号墳 遊歩道の橋の下に石室がある。 |
J-8号墳から引き返し、B支群の見学に行く。
一須賀古墳群
B支群
B支群周辺の拡大図
B支群は18基確認されている。
このうち内容がわかるのは10基。
尾根上に一列に並んでいる。
12号墳には2つの石室がある。
4基の石室には石棺があった。
3・4・7・14・15・16号墳は、径12〜15mの円墳
10・11・12号墳は、一辺12mの方墳
9号墳は、一辺25mの方墳
石室の奥行きは、5.3m〜8.5m
副葬品は、主に食器とイヤリングが出土している。
10基のうち5基から、米を蒸す道具のミニチュアが出土、
14・15号墳からは鉄鏃、15号墳から馬用金具が出土している。 (説明板から)
B-7号墳 B-7号墳は、径12mの円墳で、B支群の中ほどに位置する。 横穴式石室がある。 鉄釘とかすがいが出土しているので木棺があったと考えられている。 石室は天井石が持ち去られ、基底部しか残っていないが、 金製・銀製の耳環や、それに付けた金製の垂飾り、 琥珀玉やかガラス玉なと、豊富な副葬品が出土。
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B-8号墳 説明板もなく、詳しい事は不明 |
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B-9号墳
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B-12号墳は、石室が2基ある古墳だそうだが、見学してこなかった・・・・・。
一須賀古墳群
移築石室
B支群の前の広場には、移築された3基の石室が保存されている。
I-19号墳・I-20号墳 近つ飛鳥博物館の駐車場建設に際して発見された。 墳丘や石室の上部が削られていた径10mほどの円墳。 木棺が納められていたようだ。 20号墳から、銀の指輪やガラス玉 19号墳から、銀のかんざしやミニチュアの竈(カマド)・甕、 ほかに須恵器・土師器・鉄釘などが両方から出土 ともに6世紀中ごろの築造 風土記の丘の多くの横穴式石室と比べると、小形の石材を使っているのが特徴 (説明板から)
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寛弘寺45号墳 ここから南西約3kmのところにあった河南町寛弘寺古墳群から移築した横穴式石室。 天井石はすでに盗まれていたが、側壁や奥壁などは、よく残っている。 石室全長9.7m 平滑に仕上げた花崗岩の大型石材を積んだ巨石墳 7世紀前半の築造と推定されている。 この時期ではわが国で最大級の横穴式石室をもつ。 石室の周囲には排水溝がめぐっている。
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一須賀古墳群は群集墳とはいうものの、ひとつひとつがしっかりした墳丘と横穴式石室があるのにびっくり!
群集墳にもいろいろあるなと思う。