北村さんちの遺跡めぐり

柏原市      柏原市の地図g

安堂6支群3号墳
平尾山古墳群

大阪府柏原市高井田
 (撮影日2017/10/19)

柏原市立歴史資料館の北約300m、高井田第1号公園の東隅に石室だけ移築保存されている。

 平尾山古墳群安堂6支群3号墳
  斜面を削り出した平坦地に造られた径23mの円墳
  墳丘は土を数cmずつの厚さで叩きしめる「版築」という技法を一部に用いて築かれている。
  石室は「岩屋山式石室」と呼ばれる横穴式石室で、最も大きい石の重さは約15トンもある。
  玄室の床面には凝灰岩の切石が16枚敷かれ
   そのまわりには細かい川原石が敷きつめられていた。
  7世紀終わりごろの築造と推定されている。 

発掘時の安堂6支群3号墳
     (歴史資料館展示写真から)
元は、西250mの地点で発見されたが、
石室のみを移築して公開されている。

1985年に発掘調査

羨道側から奥を見る
床には切り石が敷かれている

左側の側壁は、発掘時からない。

石室奥から羨道方向を見る

側壁を外側から見る

この安堂6支群3号墳は、平尾山古墳群の一つだ。
歴史資料館に平尾山古墳群の説明があったので、紹介する。

 平尾山古墳群
  柏原市の東部環状、生駒山地の南端にあたる東山地区には、
   現在までに確認されているだけで1500基に近い古墳が知られている

  ほとんどは直径10〜20mの小形の円墳で、
   埋葬施設には横穴式石室、小石室、木棺直葬、横口式石槨などがあり、
   6世紀後半〜7世紀末の間の築造と推定されている。
  平野・大県、太平寺、安堂、平尾山、本堂、雁多尾畑、青谷などのまとまりがみられる。
  出土品では、「かんざし」竈神の信仰を伝える「ミニチュア炊さん具」、「鉄滓」などが注目されている。
  おそらく古墳に葬られた人々の中には、
   渡来人や山麓の集落で鉄器の生産に携わっていた人が含まれていると考えられている。
                    (説明板から)

平尾山古墳群出土品展示
柏原市立歴史資料館展示から

上段左・・子持器台 
  右・・上段右はミニチュア炊飯具セット  

下段左から
単竜文環頭  金環    かんざし  金環
       銀製指輪
       かんざし

出土した埴輪の展示1
平尾山古墳群太平寺5支群1号墳

出土した埴輪の展示2
平尾山古墳群太平寺5支群1号墳

平尾山古墳群は、開発でかなりの数が、消滅していると聞く。
歴史資料館のパンフレットには、平尾山古墳群平尾山第67支群2号墳の横口式石槨の写真が掲載されていて、
  見学できるらしいが、行かなかった。

史跡高井田横穴公園
国史跡

大阪府柏原市高井田
 (撮影日2017/10/19)

柏原市歴史資料館から、南に降りたところが「高井田横穴公園」となっている。
資料館には、この横穴群で見つかった線刻画のレプリカが、展示されているが、写真に撮るのは難しい。

 高井田横穴群は  1917年に発見され、5年後に国史跡となる。
  生駒山地最南西端に位置する凝灰岩の露頭の崖面に横穴を掘り、墓室をつくっている
  総数160基以上、埋没しているものを含めると約250基といわれる。
  これらのうち30基ほどに、
   騎馬人物・埴輪人物・ゴンドラ型の船・水鳥・家屋・琴・蓮華文(唐草文もあったが現存せず)など、
   多様な線刻画がある。
  また、四柱造の天井部にベンガラを塗った特異な横穴もみられる。
  発掘調査によって、6世紀ころの須恵器・土師器・金環などが出土、
   造り付け石棺(横穴内に掘り残してつくった石棺)も確認されたが、 
    丘陵開発によって一部が破壊された。
  これに対し、地元の研究者を中心に、史跡地を拡張するための保存運動が展開されて、
   その結果、史跡公園として整備され、1992年(平成4)柏原市立歴史資料館が建設された。

高井田横穴配置図

第1支群の発掘報告から引用、加筆した。

で囲まれた部分が史跡指定範囲


 現在、第2支群と第3支群の一部が公開されている。
 高井田横穴群は、地形や横穴の分布状況により、
  大きく4つの支群に分け、支群名と号名で名称を決めている
 現在確認されている総数は、162基。
 第1支群  大阪府立修徳学院の敷地内にあり、史跡の範囲外。見学できない
 これまでに25基の横穴が確認されており、
  比較的規模の大きい横穴が多くみられる。
 第2支群  史跡公園内の東側の丘陵にある。
 南へ張り出す尾根の東と南斜面に多数の横穴が造られている。
 54基の横穴が確認されていて、
  2階建てや3階建てのように、左右だけでなく、上下にも造られている。
 玄室の平面形が方形や横長の長方形が多いという特徴がある。
 第3・4支群  史跡公園内の西側の丘陵にある。
 南東部のグループを第3支群、
  北西部のグループを第4支群と呼んでいるが、その境界ははっきりしていない。
 第1・2支群に比べると、規模の小さい横穴が多い。
 第3支群では32基、第4支群では51基の横穴が確認されている。
 高井田横穴群では、これまでに27基の横穴で線刻壁画が確認されている。
    ほとんどの横穴が盗掘を受け、副葬品の出土は多くない。
  そんな中でもとりわけ武器や馬具の副葬品が少ないことから、
    ここに埋葬された人たちは、武力で活躍するような集団ではなかったと考えられている。

高井田横穴群出土品
    柏原市立歴史資料館展示から
上段左・・鈴付高杯 
  中・・金環・碧玉製管玉、
        琥珀製丸玉と土玉の首飾り
  右・・土器
下段左・・ガラス玉と耳環3組
  中・・土玉の首飾り
       紡錘車形石製品 琥珀製棗玉 鉄鏃
  右・・土器
右下の3点は、安福寺横穴群の出土品

歴史資料館の西側の階段を下りて第3支群へ・・・。


第3支群配置図
    (パンフレットから)


ほとんどの横穴には、入口に柵があるので、柵の間から内部を撮影。

 第3支群3号墳  (3-3)

入口

内部
 第3支群4号墳  (3-4)


入口

第3支群5号墳は特別の横穴らしく、前に説明板や、線刻画のレプリカがある。

 第3支群5号墳  (3-5)
  高井田横穴群の横穴には、多くの線刻画が描かれているが、
   この第3群5号墳は、その中でも最も有名なものである

  羨道部分には数人の人物がえがかれており、人物の窟ともよばれている。
  羨道右側壁には、舟に乗る人物がえがかれている
  中央の人物は槍のようなものをかざし、
    両側の小さい人物は、舟をこぐためのオールといかりを持っている。
  そのほかにも同じような服装をした人物が数人えがかれている。
  羨道左側壁にもえがかれている。

横穴の前には
   線刻画のレプリカが置かれている。

   

横穴は厳重に密閉されている。
   

線刻画のレプリカ拡大その1

線刻画のレプリカ拡大その2

第3支群3・4・5号墳から一段低い所に、10〜13号墳がある。

左から 右奥へ

12号墳(3-12)
  11号墳(3-11)
    10号墳(3-10)





 第3支群10号墳  (3-10)

入口

内部
 第3支群11号墳  (3-11)

入口

内部
 第3支群12号墳  (3-12)

入口

内部
 第3支群13号墳  (3-13)

入口

内部

一段上に戻り、更に見学を続ける。

 第3支群6号墳  (3-6)

入口

内部
 第3支群7号墳  (3-7)

入口

内部
 第3支群8号墳  (3-8)

石室内部は埋められている。
 第3支群18号墳  (3-18)

入口

内部
 第3支群19号墳・20号墳  (3-19)(3- 20)

右側が19号墳
左側の20号墳は埋まっている。

19号墳内部
 第3支群28号墳  (3-28)

入口

内部
 第3支群21号墳  (3-21)

入口

内部


野外展示広場には、
  大県廃寺(大里寺)の礎石が展示されている。

大県廃寺は、
 柏原市大県3丁目にあった寺で、
  孝謙天皇らが巡拝した河内六寺の一つの
   大里寺にあたると考えられている。
 墨書土器が出土している。


柏原市には、飛鳥・白鳳期に建てられた寺院跡が、12箇所みられる。
これほど古代寺院が密集している地域は全国的にも珍しい。

第2支群の見学へ

第2支群の配置図
      (パンフレットから)

入口にある柵のために、十分な見学ができないので
第2支群は駆け足で見学。


第3支群支群から東にいくと、歴史の広場がある。

歴史の広場
 見えている案内板は「第2支群59号墳」

歴史の広場は、以前家が建っていた場所。
地下に第2支群59号墳(2-59)の玄室があり、
 墓道が南東にのびているが埋め戻されている。


案内板の背後に見える穴は、
 第2支群58号墳(2-58)の羨道部分で、
 玄室部分は上の道の下に埋まっている


 第2支群2〜6号墳
  3〜5号墳は、2段につくられていて、それぞれ深い関係のある横穴と考えられている。
  その右上方に2号墳、左側に6号墳がつくられている。
 第2支群2号墳  (2-2)
  2号墳には、2つの造り付け石棺がみられる。

入口

内部  造り付け石棺!
 第2支群3・4・5号墳  (2-3) (2-4) (2-5)
  3号墳の羨道には、有名な馬に乗る人物の壁画がある。
  4・5号墳は、どちらも造り付け石棺がみられるが、
   石棺はかなり破壊されていたため、一部を補修して復元している。



上中央・3号墳 (2-3)
下左・5号墳(2-5)  
   下右・4号墳(2-4)

2段に造られた横穴


 一本の墓道から分かれて造られた横穴で、
         一つの家族によって次々と造られたものと考えられている。
 第2支群6号墳  (2-6) 
  唯一石室の中に入ることができる。
  6号墳は、未完成の横穴で、工具の跡が良く残っている。

羨道入口

玄室入口

玄室内部1
工具の跡はよくわからないなぁ・・・

玄室内部2

 第2支群10 〜14・17号墳
  南西に向く斜面に6基の横穴が、2階建のアパートのように、上下2段に並び、
   南へ向かうほど少しずつ低くなっている。
  自然の地形をうまく利用して、先に造られた横穴を避けて次の横穴がつくられている。
  ところが、同じように造られた横穴でも、それぞれ特色がある。
   10・14・17号墳には、
     壁と天井との境に家の軒先を表現したのではないかと思われる段がみられる。
   14・17号墳は、玄室の天井が抜け落ちてしまっている。
     玄室の一方に片寄って羨道がつくられている
   17号墳には造り付け石棺がある。
   11・14・17号墳の入口部には、巨石を積んで天井を造っていた。
  壁画は、10・12・14・17号墳の壁や入口部にみられ、蓮の花や船、人物などが描かれている。

上は 10号墳 (2-10)

  下は 11号墳 (2-11)


左下は 12号墳
12号墳の上に 14号墳入口
12号墳の右上に 17号墳入口



14号墳・17号墳は
玄室天井が崩落して、
上の遊歩道から、その穴を見学できる。
穴には覆い屋がある。

12号墳の内部

天井から見た14号墳玄室
石棺があるそうだが、見えない

第2支群13号墳 (2-13)

第2支群の見学できるものの内、一番下にある。

玄室入口の形が、様々でおもしろい!柵がなければ、もっといい!

5人以上のグループで、事前に申し込めば、柵の鍵を開けてもらえるらしい・・・。

高井田山古墳 
(第2支群56号墳 2-56)

柏原市高井田
高井田横穴公園内

 (撮影日2013/4/23)

高井田横穴公園の最高所に墳丘のある古墳がある。
高井田山古墳は、正式には 第2支群56号墳という。
高井田横穴群には、墳丘のある古墳が他にもあったようだが、今も残っているのは、高井田山古墳だけである。

 高井田山古墳は  径22mの円墳と推定されている。
   北側に小さな突出部をもつ可能性がある。
  墳丘中央にある横穴式石室は、南に開口する右片袖式横穴式石室
   玄室の長さ3.73m・幅2.34m  羨道の長さ2.0m・幅1.18m
  羨道は、多数の石を積み上げて閉塞されていた。
  出土した土器から、5世紀後半ごろの築造と推定されていて、
   そのころの百済の横穴式石室の影響を受けているものと考えられている。

高井田古墳平面図
     柏原市HPから

北側に突出部がある可能性がある。

 高井田山古墳の石室
  調査前にすでに天井石はなかったが、
   現在残っている部分から内側に傾けながら天井をつくり、天井石を3枚載せていたと考えられている。
  このような構造を持った横穴式石室は、
   近畿地方で最古の横穴式石室のひとつと考えられ、朝鮮半島の影響も考えられている。
  玄室内には木棺が2つ平行に並んでいた
   2つの棺は、厚さ7〜9cmのコウヤマキの板材を鉄釘で組み合わせたもの。
   西棺は一部盗掘を受けていたが、東棺は未盗掘
   副葬品の出土位置からみると、被葬者は頭を北に向けて埋葬されていた。
   東棺には、女性が埋葬されていたと考えられている
 高井田山古墳の出土物
 玄室内部では
  西棺から、金製耳環1・鉄刀片1
  東棺から、 鏡1・熨斗1・金製耳環2、頸飾・手玉・足玉のガラス玉約300、不明銀製品3、鉄刀1
  他に  鉄製品では甲冑1両、刀、剣、槍、矛、石突、刀子、鏃150、鎌、ホ具、金具類、棺釘など、
      棺材、漆膜、綾布片、須恵器、土師器などもある。
 墳丘および石室埋土では
   埴輪(円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪)、
   須恵器器台や脚付壺、壺などの大型の土器
 出土品の展示の様子1  柏原市立歴史資料館内
上段  土器

下段左から 兜(横矧板鋲留)
下段中央
   ガラス玉の首飾りと 
  ガラス玉の腕輪・足輪
下段右
   純金製耳環
   金製耳飾り(西棺)

 ガラス玉は全部で322個出土
  風化により白くなったり破損したものもあるが
   残存状態は比較的良好。
   二重になったガラス玉の間に
 金箔を挟みこんだ金層ガラス玉が1点見つかっていて、
   頸飾りの一部と考えられている。
 出土品の展示の様子2  柏原市立歴史資料館内
神人龍虎画像鏡   
 鏡の面径20.6cm・縁の厚さ1.3cm・重さ127.7gの
 青銅鏡
 
 神とその侍人たち、
  半人半獣像や虎・龍像などが表現されている。
 出土品の展示の様子3  柏原市立歴史資料館内
火熨斗 「ひのし」「のし」「うっと」などと言う。
   椀の部分に燃える炭を入れ、
    熱くなった椀の底を布にあてて
    しわを伸ばすための道具、
    つまりアイロン。
 上層階級の女性のシンボル的な持ち物
 長さは33cmほど

高井田山古墳 墳丘

石室は覆い屋の下に保存されている。

出土状況が再現されている。

玄室は西側から盗掘を受け、
   西側中央部は石材を積み直している。

入口側から奥壁側を見る
奥壁左側・短甲 奥壁側右・火熨斗

奥壁側から入口側を見る
入口付近に須恵器がかたまって置かれている。

古墳時代の火熨斗は、日本で4例ほど知られているが、完全に残っているものとしては2例のみ。
高井田山古墳の火熨斗は、韓国の武寧王陵から出土している火熨斗とそっくりだが、
  これは武寧王の王妃の副葬品で、高井田山古墳と何らかの関係があったと考えられている。

小松山古墳
(玉手山1号墳)

柏原市片山町
 (撮影日2013/4/23)

市立体育館第2駐車場のすぐ北にある。

 玉手山1号墳は 玉手山丘陵の稜線上の最北端に位置している。
  全長110mの前方後円墳  北に前方部がある。
   後円部径60m
   前方部の平坦面は、バチ形
  後円部3段・前方部2段築成
  墳頂部には板石積みの方形壇が築かれていた。
  後円部の埋葬部は未確認だが、前方部では粘土槨、後円部の裾では埴輪棺が確認されている。
 方形壇やテラスの一部には白色の小石が散布され、
    円筒埴輪(一部は朝顔形埴輪)は密接して並べられている。
 3号墳に続き、4世紀前半に築造されたと推定されている。
 後円部の頂上に大坂夏の陣で討ち死にした、徳川方の武将・奥田三郎右衛門の墓がある。
                     (説明板から)

玉手山1号墳後円部側
2号墳後円部先端(南)から見る

玉手山1号墳
後円部脇からくびれ部を見る

玉手山1号墳
くびれ部脇から後円部を見る

玉手山1号墳
くびれ部から前方部を見る

玉手山1号墳後円部

玉手山1号墳後円部頂の奥田三郎右衛門の墓


玉手山1号墳後円部から南を見る。

右手の墓地全体が、玉手山2号墳
左手の大きな建物が「老人福祉センター」で、
その後が 玉手山3号墳。

玉手山2号墳

柏原市片山町
 (撮影日2013/4/23)

墳丘全体が墓地となっている。説明板は見あたらない。

 玉手山2号墳は 墳長70mの前方後円墳
  墳丘全体が墓地。 別名 勝松山・勝負山

玉手山2号墳後円部
1号墳側(北)から見る

玉手山2号墳後円部から前方部を見る
奥の建物は老人福祉センター

玉手山2号墳前方部から後円部を見る

玉手山2号墳 西側の道路からみるくびれ部付近

勝負古墳
(玉手山3号墳)

柏原市旭ヶ丘
 (撮影日2013/4/23)

墳丘の北側が、老人福祉センターで削り取られている。

 玉手山3号墳は 全長100mの前方後円墳
  後円部に竪穴式石室と粘土槨という2基の埋葬施設があったと言われているが、
    副葬品などは不明。
  安福寺境内にある割竹形石棺は、この玉手山3号墳から出土したと伝えられている。
  1988年に後円部頂のレーダー探査を実施したところ、
   長さ3,3m前後の竪穴式石室が存在することが推定され、
   その石室の大きさから、割竹形石棺が伝承どおり、
   この竪穴式石室から出土した可能性が高くなった。
  割竹形石棺は香川県の鷲ノ山というところの石材でつくられたもの。
  ここから採集された埴輪片は、非常に古い特徴をもつもので、
   古墳時代前期でも、かなり早い時期に築かれた古墳だと考えられている。 (説明板から)

玉手山3号墳
福祉センターの入口前を横切り後円部に上がる

玉手山3号墳後円部
公園になっている。ベンチがひとつ。

前方部は雑木林となっていて、入り込めない。

安福寺の割竹形彫文石棺蓋
重要文化財

柏原市旭ヶ丘
安福寺前
 (撮影日2013/4/23)

玉手山3号墳から出土したものと伝えられている石棺が安福寺前に置かれている。

安福寺山門



 この割竹形石棺蓋は玉手山3号墳から出土したと伝えられている
  同様の形態の石棺は、多くは四国の前期古墳から出土し、
  近畿地方では京都部八幡茶臼山古墳の舟形石棺と大阪府二本木古墳の割竹形石棺が知られている。
  石材は香川県の鷲ノ山産の凝灰岩を使用して製作したもので、
  口縁部に日本独自に発達した直線と弧線千を組み合わせた幾何学模様の直弧文と呼ぶ線刻が施されている。
  長さ2.56m・幅0.9m      4世紀のものと推定されている。         (説明板から)

安福寺石棺蓋 覆い屋の下にある

安福寺石棺蓋内部

安福寺石棺蓋  線刻が見える。

安福寺横穴群
府史跡

柏原市玉手町
 (撮影日2013/4/23)

安福寺の参道両側には、35基の横穴がある。一部は少し離れた北西地点にもある。

 安福寺横穴群古墳時代後期の横穴古墳である。
  凝灰岩の岩盤をくりぬいてつくられ、中には棺をつくり出した横穴もある。
  また次々とつくられた横穴が、
   現代のマンションのように二層三層に重なって密集しているのも大きな特徴である。
  出土した土器などから、6世紀中〜7世紀初めの築造と推定されている。
  この時代は横穴式石室が多く、横穴は大阪府では、柏原市にしかみられない珍しいもの。 
          (説明板から)

安福寺横穴群その1

安福寺横穴群その2

安福寺横穴群 横穴入口

安福寺横穴群 横穴内部 きれいに細工されている。

玉手山7号墳

玉手山公園

柏原市玉手町
 (撮影日2013/4/23)

玉手山公園の東入口から入ると、すぐ玉手山7号墳がある。

 玉手山7号墳は 安福寺の後ろにあることから後山古墳ともよばれる。
  全長150mの前方後円墳  古墳群中、一番大きい。
  西側に前方部がある。
  未発掘なので詳しい事は不明だが、後円部に竪穴式石室があったと考えられている。
  1980年に、後円部で滑石製の盒子が採集された。
   盒子は、容器の事で、長さ10cm・幅8cmの小さい楕円形をしている。
  この出土により、この古墳は玉手山古墳群の中で、
     もっとも新しい前方後円墳の一つであると考えられている。
  現在は、後円部に、大坂夏の陣の戦没者の供養の宝篋印塔が建っている。(説明板から)

玉手山7号墳 後円部への上り口

玉手山7号墳後円部頂 宝篋印塔が立つ。
前方部は藪になっていて、入れない。

玉手山7号墳 東裾から見た後円部

玉手山7号墳 南から見た後円部
左手前は、石棺と石室の展示

7号墳の後円部から南に下りたところに、玉手山古墳群出土の石室や石棺の展示、
大坂夏の陣の両群群戦死者の供養塔、後藤又兵衛の顕彰碑、小林一茶の句碑などがある。
しかし、公園内は静か・・・・・。


展示されている竪穴石室
玉手山6号墳にあった2基の中の1基を移築。
6号墳は消滅している。

展示された組合式家形石棺
東ワカ山古墳(?)の石室にあったもの
蓋石には退化した縄掛け突起がある。

この辺りは、1615年(慶長20)の大坂夏の陣の激戦地になった所。
玉手山古墳群というより、大坂夏の陣古戦場として、有名らしい。


大坂夏の陣 豊臣方武将 後藤又兵衛の碑



小林一茶の句碑もある。

玉手山古墳群の配置図   (イメージ図)  
地図と公園歴史館の展示を元に作成したが、11基の古墳しか描かれていない。
        本来は18基あるはず・・・・・


玉手山丘陵は、柏原市片山町から南の羽曳野市駒ヶ谷までの
   南北約3kmにわたる標高50〜100mの丘陵で、
この丘陵の稜線上を巧みに利用して、前期の古墳群がつくられた。
13基の前方後円墳と、5基の円墳がある。
4世紀後半前後の築造と推定されているものが多いが、5世紀代のものもある。

大坂夏の陣では、
1号墳から3号墳のあたりを中心とする一帯の争奪が焦点となり、
          激戦が繰り広げられた。

4・5・6号墳は住宅地となり、破壊されてしまったが、
竪穴式石室や粘土槨があり、内部から、鉄剣・銅鏃・玉類などが出土した。





玉手山古墳群のまとめ

1号墳
(小松山古墳)
墳丘長110mの前方後円墳  玉手山丘陵の稜線上の最北端に位置している。
 葺石あり 円筒埴輪、楕円筒埴輪
 後円部に竪穴式石室1基 前方部に粘土廓1基
1号墳の北にある片山神社付近から、5世紀代のものとみられる短甲形埴輪が出土したので、
 このあたりにも古墳があったと考えられている。
2号墳 墳丘長70mの前方後円墳   墳丘全体が墓地となっている。
 葺石不明  円筒埴輪
 後円部に竪穴式石室に石棺か?
<一部損壊>
3号墳
(勝負山古墳

又は勝松山古墳)
墳丘長100mの前方後円墳    老人福祉センター「やすらぎの園」のすぐ南に隣接。
 葺石あり 埴輪は不明
 後円部に竪穴式石室1基・粘土槨1基があったと云われているが詳しいことは不明
 安福寺境内にある割竹形石棺蓋は、この古墳から出土したと伝えられている。
<消滅>
4号墳
墳長50mの前方後円墳 消滅
 葺石不明  円筒埴輪  後円部に粘土廓
<消滅>
5号墳
(鏡割古墳)
墳長75mの前方後円墳 後円部径45m・前方部幅30m 消滅
 葺石あり  円筒埴輪
 後円部に竪穴式石室1基と粘土槨1基 前方部に粘土槨2基
 石釧やヤリガンナなどが出土
<消滅>
6号墳
(すべり台古墳)
墳長69mの前方後円墳 後円部径40m・前方部幅35m
 葺石あり 埴輪は不明
 後円部に2基の竪穴式石室があり、鏡などが出土。
7号墳
(後山古墳)
墳長150mの前方後円墳   玉手山丘陵の最高所にある。
 葺石あり  埴輪は円筒、朝顔、家、土師器壺
 後円部に竪穴式石室1基と粘土槨1基があると考えられている。
 竪穴式石室から 石製合子、石製坩などが出土 
8号墳
(東山古墳)
墳長89mの前方後円墳 給水タンクの横あたりにある。
 葺石あり 埴輪は円筒、楕円筒、朝顔、家など
 後円部の粘土廓とみられる埋葬施設がある。鉄剣が出土。
9号墳
(クサダ谷古墳)
墳長65mの前方後円墳 後円部径33.2m・高さ5.7m 前方部幅17.7m・高さ2.6m
 葺石あり :円筒埴輪、朝顔形埴輪 土師器壺
後円部の竪穴式石室に粘土棺床がある。
<消滅>
10号墳
(北玉山古墳)

墳長51mの前方後円墳 後円部径33m・高さ4m 前方部幅22.5m
 葺石あり :円筒埴輪、楕円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪
 後円部に竪穴式石室、前方部に粘土廓がある。
 銅鏡・玉類などが出土したが、自動車道建設で完全に破壊された。
<消滅>
11号墳
前方後円墳か?   葺石不明 埋葬施設不明  埴輪不明  
 現在は工場地帯となっている。
<消滅>
12号墳
(駒ヶ谷北古墳)
墳丘長55mの前方後円墳
 葺石あり 円筒埴輪
  後円部に粘土槨があり鏡などが出土
<消滅>
13号墳
(狐塚古墳)
前方後円墳
 葺石あり 円筒埴輪、二重口淵壺
 後円部に粘土廓があり杵形石製品、勾玉などが出土
<消滅>
14号墳
(駒ヶ谷宮山古墳)
墳長65mの前方後円墳  玉手山古墳群の最も南に位置している。羽曳野市駒ヶ谷
 葺石あり 円筒埴輪列がある。
 後円部に竪穴式石槨1基、前方部にで粘土槨2基がある。
 竪穴式石槨と南側の粘土槨には、割竹形木棺の痕跡が残る。
 埋葬施設からは、
  青銅製の鏡、鉄製の刀剣や斧、石釧・勾玉・管玉、ガラス製小玉などの副葬品が出土。
 古墳時代前期の築造と推定されている。
駒ヶ谷駅の北東約400mにある丘陵上にあったが、土取り工事のため消滅。
<消滅>
15号墳
(西山古墳)
円墳 全長不明
 葺石不明  埴輪不明
 竪穴式石室があり、四獣鏡、鉄剣、鉄製品片などが出土 
16号墳
(伯太比売神社古墳)
前方後円墳 全長不明 
 葺石不明  埴輪不明 
?号墳
(東ワカ古墳)
円墳 横穴式石室に家形石棺か
 調査された中で唯一の横穴式石室をもつ後期古墳と考えられている。
 位置は調べたが、わからない。

玉手山古墳群出土品
柏原市立歴史資料館展示から

大阪府柏原市高井田
柏原市立歴史資料館

   (撮影日2017/10/19))

玉手山古墳群も2013年に見学した。
現在は、1・2・3・7号墳しか見ることはできない。




玉手山古墳群、松岳山古墳群の位置関係図

   柏原市立歴史資料館展示から

玉手山古墳群は 玉手山丘陵上に築かれた
  前方後円墳と円墳による古墳群


古墳時代前期の古墳群として
 奈良盆地東南部に次ぐ古墳群と位置づけられている。

     玉手山7号墳出土の土師器

   玉手山9号墳(前方後円墳)の出土品
    円筒埴輪、小型丸底壺
    鉄剣 朝顔形埴輪など

玉手山古墳群の配置図   (イメージ図) 
 西名阪自動車道の南側の古墳は、、複数の資料があって一致していないので、参考程度のものと考えてください。

玉手山丘陵は、柏原市片山町から南の羽曳野市駒ヶ谷までの
   南北約3kmにわたる標高50〜100mの丘陵で、
この丘陵の稜線上を巧みに利用して、
 前期の古墳群がつくられた。
4世紀後半前後の築造と推定されているものが多いが、
 5世紀代のものもある。

大坂夏の陣では、
1号墳から3号墳のあたりを
 中心とする一帯の争奪が焦点となり、
 激戦が繰り広げられた。

4・5・6号墳は住宅地となり、破壊されてしまったが、
 竪穴式石室や粘土槨があり、
 内部から、鉄剣・銅鏃・玉類などが出土した。

     玉手山古墳群のまとめ
1号墳
(小松山古墳)
墳丘長110mの前方後円墳  玉手山丘陵の稜線上の最北端に位置している。
 前方部2段・後円部3段 葺石あり 円筒埴輪、楕円筒埴輪
 後円部に竪穴式石室1基 前方部に粘土廓1基
 4世紀中ごろの築造と推定されている。
1号墳の北にある片山神社付近から、5世紀代のものとみられる短甲形埴輪が出土したので、
 このあたりにも古墳があったと考えられている。
2号墳 墳丘長70mの前方後円墳   墳丘全体が墓地となっている。
 葺石不明  円筒埴輪
 後円部に竪穴式石室に石棺か?
<一部損壊>
3号墳
(勝負山古墳

又は勝松山古墳)
墳丘長100mの前方後円墳    老人福祉センター「やすらぎの園」のすぐ南に隣接。
前方部南半分は削平されている。
 葺石あり 埴輪は不明
 後円部に竪穴式石室1基・粘土槨1基があったと云われているが、盗掘されていて詳しいことは不明
  鉄製の小札や工具類、銅製品、石製品のほか、朝顔形埴輪や壺形埴輪が出土。
 3世紀末〜4世紀初頭の築造と推定されている。
 安福寺境内にある割竹形石棺蓋は、この古墳から出土したと伝えられている。
<消滅>
4号墳
墳長50mの前方後円墳 (円墳の可能性がある)
 1960年、宅地造成で埋葬施設が発見されて、調査後消滅
 葺石不明  埴輪なし  後円部に粘土廓があり、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、紡錘車形石製品などが出土
 4世紀中〜後半の築造と推定されている。
<消滅>
5号墳
(鏡割古墳)
墳長75mの前方後円墳 後円部径45m・前方部幅30m 
 1959年、宅地造成で西半分削平され、竪穴式石槨の露出で調査後消滅
 葺石あり  円筒埴輪
 後円部に竪穴式石室1基(碧玉製管玉、鍬形石、巴形銅器、鉄鏃、銅鏃、鉄製工具類が出土)
    と粘土槨1基
(鉄製工具出土)
 前方部に粘土槨2基
(鍬形石、石釧、巴形銅器、紡錘車形石製品、鉄製の刀・剣・工具類・銅鏃が出土)
 4世紀中ごろ〜後半の築造と推定されている。 
<消滅>
6号墳
(すべり台古墳)
墳長69mの前方後円墳 後円部径40m・前方部幅35m
 1960年調査葺石あり 埴輪は不明
 後円部に2基の竪穴式石室があり、
 中央石槨から鏡2、石釧、硬玉製管玉、ガラス玉、鉄製武器、武具、工具類などが出土。
 東側石槨から鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、鉄製武器、工具類
 3号墳と同時期かやや新しい3世紀末〜4世紀初頭の築造と推定されている。
7号墳
(後山古墳)
墳長150mの前方後円墳   玉手山丘陵の最高所にある。
 葺石あり  埴輪は円筒、朝顔、家、土師器壺
 後円部に竪穴式石室1基と粘土槨1基があると考えられている。
 竪穴式石室から 石製合子、石製坩などが出土 
8号墳
(東山古墳)
墳長89mの前方後円墳 給水タンクの横あたりにある。
 葺石あり 埴輪は円筒、楕円筒、朝顔、家など
 後円部の粘土廓とみられる埋葬施設がある。鉄剣が出土。
9号墳
(クサダ谷古墳)
墳長65mの前方後円墳 後円部径33.2m・高さ5.7m 前方部幅17.7m・高さ2.6m
 葺石あり :円筒埴輪、朝顔形埴輪 土師器壺
後円部の竪穴式石室に粘土棺床がある。
<消滅>
10号墳
(北玉山古墳)

墳長51mの前方後円墳 後円部径33m・高さ4m 前方部幅22.5m
後円部3段・前方部2段
 葺石あり :円筒埴輪、楕円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪
 後円部に竪穴式石槨、前方部に粘土廓がある。
竪穴式石槨から、玉類、鉄製武器、工具類
粘土槨から、鏡、鉄剣、
砥石、鉄製品
1966年に発掘調査後、自動車道建設で完全に破壊された。
<消滅>
11号墳
前方後円墳か円墳?   葺石不明 埋葬施設不明  埴輪不明  
 現在は工場地帯となっている。
<消滅>
駒ヶ谷北古墳
(12号墳)
墳丘長55mの前方後円墳
 1964年に調査されたが、当時、外形は変形していた。
 葺石あり 円筒埴輪
  後円部に粘土槨があり、鏡、刀、鉄鏃などが出土
<消滅>
狐塚古墳
前方後円墳 墳丘長92mの前方後円墳
 葺石あり 円筒埴輪、二重口淵壺
 後円部に粘土廓があり杵形石製品、勾玉などが出土
13号墳  駒ヶ谷中小企業団地の一画に古墳公園として残されている。
 墳形不明、
<消滅>
(駒ヶ谷宮山古墳)
墳長65mの前方後円墳  玉手山古墳群の前方後円墳では最も南に位置している。羽曳野市駒ヶ谷
 葺石あり 円筒埴輪列がある。
 後円部に竪穴式石槨1基、前方部にで粘土槨2基がある。
 竪穴式石槨と南側の粘土槨には、割竹形木棺の痕跡が残る。
 埋葬施設からは、
  青銅製の鏡、鉄製の刀剣や斧、石釧・勾玉・管玉、ガラス製小玉などの副葬品が出土。
 古墳時代前期の築造と推定されている。
駒ヶ谷駅の北東約400mにある丘陵上にあったが、土取り工事のため消滅。
14号墳 羽曳野市史では、駒ヶ谷宮山古墳とされている。
 大阪府や羽曳野市の文化財地図では、別の古墳
<消滅>
15号墳
(西山古墳)
円墳 全長不明
 葺石不明  埴輪不明
 竪穴式石室があり、四獣鏡、鉄剣、鉄製品片などが出土 
16号墳
(伯太比売神社古墳)
前方後円墳 全長不明 
 葺石不明  埴輪不明 
?号墳
(東ワカ古墳)
円墳 横穴式石室に家形石棺か
 調査された中で唯一の横穴式石室をもつ後期古墳と考えられている。
 位置は調べたが、わからない。

柏原市のホームページでは、1号墳〜10号墳までを玉手山古墳群としている。  

玉手山公園から、1号墳そばの駐車場まで戻る途中、西を見ると古市古墳群が見える。


左から
誉田御廟山古墳(応神陵)  仲津山古墳(仲姫皇后陵)  市野山古墳(允恭天皇陵)
           奥に見えるのは岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)

玉手山古墳群と、古市・百舌鳥古墳群の関係は一体・・・・・・・どうなのでしょうか?

松岳山古墳
マツオカヤマコフン
国史跡

柏原市国分
 (撮影日2013/4/23)

国分神社から上り口がある。
国分神社で記帳し、駐車のお願いをして、松岳山古墳に上がる。
5分ほどで、着く。 上り口と後円部頂に、それぞれ説明板がある。

 国分神社がある丘陵には、小さい円墳や方墳が10基ほどあり、松岳山古墳群といわれている。
 その中でもっとも高い所にあるただ一つの前方後円墳が、松岳山古墳である。

松岳山古墳の模式図
 (説明板から)

松岳山古墳は 前方部を南西方向に向ける
 墳長130mの前方後円墳
  後円部径72m・高さ16m 前方部の幅32m・高さ6m
 高い後円部に低く平らな前方部がある。
 周囲には板状の石を斜めに積んだ部分がみられ、
   これをふくむと古墳の全長は155mとなる。
 前方部2段・後円部3段築成 周濠がある。

 古墳の周囲には円筒埴輪や朝顔形埴輪・鰭付楕円形埴輪などが立てられていた。
 墳丘の葺石は、板状の石を垂直に階段のように積み上げている。
 後円部に、安山岩の板石を積み上げた竪穴式石室に長持形石棺を納め、
                 南北の外側に副室がある構造の埋葬施設がある。
  石棺は、蓋と底に各1枚、側面に4枚の計6枚の石を組み合わせたもので、
   蓋石と底石には堅い花崗岩を、側面の石にはやわらかい香川県鷲の山産の凝灰岩を使っている。
  石棺は 内側の長さ2.5m・北端の幅1.09m・南端幅0.87m・高さ0.7〜0.75m。
  石棺の蓋石の南端と側石の南北両端には縄突起がある。
  石棺の中には、頭や体の部分に合わせて底石を浅くほりこんでいる。
  石棺の南北の両端近くに、高さ1.8〜2.3m、幅1.4mの立石が置かれているが、
        その正確な用途はわかっていない。

 石棺の周りには板状の石が多く落ちているが、。
   これはもともと竪穴式石室の石材で盗掘された時に壊されたものと考えられている。
 盗掘にあっていたが、
  鏡や硬玉製勾玉・碧玉製管玉・碧玉製丸玉・ガラス製小玉
   ・石釧・鍬形石・鉄剣・鉄刀・鉄鏃・銅鏃・鎌 など多彩な副葬品が出土した。
  出土した鉄製の武器や農工具類の総重量は50Kgにもなる。
 このほか、くびれ部付近でも箱式石棺が見つかっている。
 石棺の形や出土品などから、4世紀末の築造と推定されている。


松岳山古墳 上り口

松岳山古墳 前方部から後円部

松岳山古墳 後円部から前方部

松岳山古墳後円部頂 石棺と立石が露出している。

松岳山古墳後円部 方向を変えて
周りに散乱しているのは、
石棺が入っていた竪穴式石室の石材と思われる。
竪穴式石室は破壊されている。

松岳山古墳 方向を変えて

松岳山古墳 石棺

松岳山古墳 石棺内部
水がたまっている

松岳山古墳 立石1

松岳山古墳 立石2
 松岳山古墳のある丘陵には、小さい円墳や方墳が10基ほどあり、松岳山古墳群と呼ばれている
  その中でもっとも高い所にあるただ一つの前方後円墳が、松岳山古墳。
 松岳山古墳の前方部(西)に接する長方形墳の茶臼塚古墳では
   竪穴式石室から三角縁神獣鏡や碧玉製品が、
   安山岩板石を積んだテラス状部分から鰭付楕円形埴輪が出土した。
 茶臼塚古墳の西方の茶臼山古墳からは、
   三角縁神獣鏡などの鏡が3面(いずれも国重文)が出土している。


茶臼塚古墳のあったあたり。

完全に消滅している。
右側に松岳山前方部先端がある。

国宝の船氏王後首の墓誌がこの丘陵から発見されたと伝えられ、
 船氏の墓の石標が建てられているというが、確認してこなかった。
船氏王後首の墓誌は、
    長さ29.7cm・幅6.9cm・厚さ0.1cmで、表面に86字、裏面に76字が陰刻されている、667年の日本最古の墓誌。

松岳山古墳出土品
柏原市立歴史資料館展示から

大阪府柏原市高井田
 (撮影日2017/10/19)

松岳山古墳は2013年に見学した。
柏原市立歴史資料館に、出土品の展示があったので、紹介する。



松岳山古墳の後円部に露出した石棺
       (撮影日2013/4/23)




松岳山古墳のページ

 松岳山古墳(国史跡)は  墳丘長130mの前方後円墳
  板状の石を積み上げて築かれた墳丘
  大きな石を組み合わせた石棺とその前後に立つ孔の開いた立石
  大きな石楕円筒埴輪など、特異な古墳である。

松岳山古墳平面図


(「古市古墳群をあるく」創元社 から引用)

    柏原市指定文化財の楕円筒埴輪
       (柏原市立歴史資料館展示から)
 前方部前面の墳裾で
   樹立状態のものが2点確認された。
  長径70cm・短径40cm前後で
  高さは143cmと158cm

   柏原市指定文化財の土師器2点
      (柏原市立歴史資料館展示から)
  左・土師器丸底壺
     前方部前面裾から出土(1985年)
  右・土師器二重口縁壺
     くびれ部墳裾から出土(1986年)


松岳山古墳群分布図
  (「古市古墳群をあるく」創元社 から引用)

1  松岳山古墳
2  茶臼塚古墳
3  向井茶臼塚古墳
4  市場茶臼塚古墳
5  ヌク谷北塚古墳
6  ヌク谷南塚古墳
7  ヌク谷東ノ大塚古墳
8  ヌク谷芝山古墳

松岳山古墳以外は消滅している。

茶臼塚古墳出土品
柏原市立歴史資料館展示から

大阪府柏原市高井田
柏原市立歴史資料館

   (撮影日2017/10/19))

茶臼塚古墳は、松岳山古墳の西側に接するように築かれていたが、消滅している。
1985年に発掘調査され、多くの副葬品が出土した。

 茶臼塚古墳は、東西16m、南北22mの方墳と推定されている。
  垂直の板石積み、テラス、垂直の板石積み、墳頂となる階段状の墳丘に復元できる
  このような階段状の墳丘は国内では例を見ず、
     類例は高句麗などの朝鮮半島に見られ注目されている。
  埋葬施設は、板石を小口積みした竪穴式石室で、
        長さ6.2m、幅は北端1m、南端0.75m、高さ1.7m。
  出土品は
     銅鏡(三角縁神獣鏡・四獣鏡)、鉄製武器・鉄製農工具などと共に、
       鍬形石・車輪石・石釧などの碧玉製腕飾りなどがあり、
       柏原市指定文化財「茶臼塚古墳出土品」となっている。
    円筒埴輪・朝顔形埴輪・鰭付埴輪も出土しているが、
       松岳山古墳出土の埴輪に比べると小型で器壁の薄い物が多い。

   柏原市指定文化財の鏡2点
  左・三角縁三神三獣鏡
    直径21.9cmの倭製鏡
    倭製の三角縁鏡としては初期のもの

  右・四獣鏡 直径13.2cmの倭製鏡

    柏原市指定文化財の碧玉製腕飾り

   鍬形石・・・完形が4点
   車輪石・・・完形が7点
   石釧・・・・・41点出土 
      (破損しているものもある)
  茶臼塚古墳の東辺すぐに松岳山古墳の墳丘裾テラスの板石積が確認されている。
   その間隔は北東で20cm、東で30cm。
  両者の板石積みの関係から、
   松岳山古墳の築造がわずかに先行するのではないかと考えられている。

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