北村さんちの遺跡めぐり

和泉市    岸和田市・和泉市の地図g

信太狐塚古墳
シノダキツネヅカコフン
信太千塚古墳群

大阪府和泉市山荘町
   (撮影日2017/10/20)

信太狐塚古墳は、和泉市山荘町のバス停そばにある。駐車場はない。
以前はうっそうとした雑木林だったが、近接地の住宅整備にあわせ公園として整備された。

和泉市の地図g

 信太狐塚古墳(信太千塚43号墳)は  全長56mの前方後円墳
   後円部径30m・高さ4.5m、 前方部幅38m・高さ1.5m 
 前方部を北に向けているが、前方部は削平されている。後円部も小さくなっている。
 形象埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪列があったと考えられている。
 埋葬施設等の詳細は不明
 6世紀後半の築造と推定されている。
 群集墳として著名な信太千塚古墳群中、後期古墳としては唯一の前方後円墳であり、
     信太千塚古墳群の盟主墳とされる。

前方部から後円部を見る
前方部は削られている

南側から見た後円部 ずいぶん小さくなっている。 
手前は、古墳状高まりで、前方部は奥になる。



歩道の赤い線で
 元の墳丘の大きさを示している。

信太山丘陵には、100基ほどの古墳が確認されていて、信太千塚古墳群と呼ばれている。

 信太千塚古墳群
 和泉市小野町・伯太町一帯の丘陵上に分布する後期群集墳
 80基以上が確認されているが、現在では多くの古墳が破壊されて消滅している。
 前方後円墳は信太狐塚古墳1基で、大部分が円墳と考えられている。
 径10〜20mほどのものが最も多い。
 内部構造は、竪穴式石室・横穴式石室・木棺直葬・円筒埴輪棺・陶棺などさまざまである。

このあとの項で紹介する
 丸笠山古墳(4世紀末)、和泉黄金塚古墳(4世紀末)、信太貝吹山古墳(5世紀中)、
  信太玉塚古墳(5世紀後半)、信太王塚古墳(年代不明)は、
   古墳時代後期の古墳ではないので、信太千塚古墳群とは別のものと考えられる。
先祖が埋葬されている土地に、子孫が墓域をつくったのが、信太千塚古墳群なのだろう。

信太狐塚古墳の南約400mのところに、信太玉塚古墳がある。
自動車では、近づけないので、見学は断念。写真も撮れない・・・。

 信太玉塚古墳(62号墳)  和泉市阪本町
 径46mの円墳 高さ6m。信太山丘陵裾の平地にある。
 西側に造出しをもつ可能性がある。
 幅6〜11mの周堀がある。(現在は水田)
 2段築成
 埴輪列がある 葺石がある。
 埋葬施設は不明
 碧玉製の管玉が出土
 5世紀後半の築造と推定されている。

 

信太王塚古墳

大阪府和泉市伯太町
   (撮影日2017/10/20))

 信太狐塚古墳から北西に約1km、陸上自衛隊信太山駐屯地の敷地内にある。
 事前に申し込めば見学できるそうだが、塀越しに写真を撮るだけであきらめる。

 信太王塚古墳(66号墳)は  直径80mの円墳
 信太山と呼ばれる丘陵の緩斜面に立地。
 戦前は陸軍の兵営に、戦後も自衛隊駐屯地となっているため、詳細不明

自衛隊駐屯地の北側の道路から見る

望遠で拡大

 

丸笠山古墳
大阪府指定史跡

大阪府和泉市伯太町
   (撮影日2017/10/20))

信太王塚から北東に約500m、丸笠山古墳がある。

 丸笠山古墳(信太千塚61号墳)は 全長96mの前方後円墳。 後円部径66m・高さ8m
  後円部が平野側にある
  葺石がある。 段築がある。 埴輪がある。
  埋葬施設は不明
  4世紀末頃の築造と推定されている。
    和泉黄金塚古墳と前後してつくられたと考えられている。
 東南から北西へ延びる丘陵を利用してつくられている。
  三方にある溜池は、墳丘基底部との関係から、濠の名残りとは考えにくい。
 もと式内社丸笠神社の境内地で、前方部に拝所を設け、
    本殿を設けずに直接古墳を祀る、古代の祭祀形式をとっていたと考えられている。

南側の道路沿いの鳥居が古墳への入口

「丸笠山古墳」と刻まれた
  石柱と説明板がある。


鳥居をくぐって溜池を渡り、
  50mほど行くと墳丘がある。

一部削平されている前方部

前方部上の小祠

後円部の高まり

直径が大きいので、
低くなって見える。

 

信太貝吹山古墳
シノダカイブキヤマコフン
和泉市指定史跡

大阪府和泉市太町
   (撮影日2017/10/20))

主要道路・府道30号線の道路沿いに大きな墳丘!

 信太貝吹山古墳は、全長約60mの帆立貝式古墳  後円部径50m、同高さ7.7m
  北西側に造出しがある。
  周堀があり、その外には周堤帯がある。
  墳丘には段築あり 埴輪列あり 葺石あり
  埋葬施設は不明
  円筒埴輪、形象埴輪、滑石製槽等が出土。
  上代町の和泉黄金塚古墳に次いで、5世紀中頃の築造と推定されている。
 信太山丘陵北西麓の海岸線に向かって舌状に派生する低位段丘に立地している。
  江戸時代に和泉・大島郡内の一橋家領54ケ村の農民が蜂起した「千原騒動」の際、
   一揆に参加した農民たちが、法螺貝を合図にここに集まったことから
   「貝吹山」とよばれるようになったとも伝えられている。

大きな墳丘のまわりは
駐車場になっている。

柵があって
 墳丘には立ち入れない。

 

和泉黄金塚古墳
国史跡

大阪府岸和田市上代町
   (撮影日2017/10/20))

丸笠山古墳から北に約3km、堺泉北有料道路のすぐ北に大きな墳丘。
自動車では近づけないし、駐車場もないので、遠くから眺めるだけで我慢する。

 和泉黄金塚古墳は  全長94mの前方後円墳。信太丘陵の北端に位置している。
      後円部径57m・高さ6m  前方部の幅34m
  周堀がある。
  墳丘は前方部2段築成、後円部が3段築成
  葺石あり
  墳丘各所で円筒埴輪や朝顔形埴輪
  くびれ部付近で形象埴輪(家・靱・衣笠・甲冑など)が多く出土している。
  後円部墳頂には、巨大な木棺を粘土で覆った埋葬施設(粘土槨)が3基確認されている。
    銅鏡(画文帯四神四獣鏡、三角縁盤龍鏡など)や石釧、鍬形石などの腕輪形石製品、
     玉類、武器、武具、巴形銅器など多くの副葬品が出土
      (出土品は、一括して国の重要文化財に指定)
 4世紀末頃の築造と推定されている。
 中央棺から出土した鏡は「景初三(239)年」銘がある。
 東槨から出土した鏡は、椿井大塚山古墳出土の鏡と同范である。
1950・51年(昭和25・26年)に発掘調査 (森浩一氏らによる)
   黄金塚古墳 墳丘図

          (いずれも古墳辞典から)
  上・・・中央槨出土の車輪石
  下・・・東槨出土の鍬形石
 3基の粘土槨
   中央槨と東槨はほぼ同時期の造営と推定されている。
   西槨は、規模も小さく、構造も雑
中央槨 粘土槨は 長さ10m・幅2.2〜2.7m  木棺は全長8.7m・幅0.8mの割竹形木棺
出土物・・・鏡2、勾玉29、管玉85、棗玉多数、臼玉多数、ガラス製小玉若干、
  石釧1、車輪石1、水晶製筒形石製品、
  鉄刀9、鉄剣3、鉄短剣8、刀子1、鉄斧9、鉄鎌7、工具類若干
東槨 粘土槨は 棺床部の長さ8.5m・幅0.5m〜0.75m  木棺は 長さ4m・幅0.7mの箱形木棺
出土物・・・鏡3、勾玉4、棗玉2、管玉68、ガラス製小玉972、
  筒形石製品2鍬形石1、紡錘車1、水晶製切子玉1、五銖銭1、
  刀子5、武具甲・冑ほか)、鉄剣4、鉄刀2、鉄斧9、鉄鋸1、鉄鍬3、
  手鏡2、ヤリガンナ1、鉄製工具類5、長刀子1、革製盾2、巴形銅器3、鉄鉾1、鉄槍3、鉄鏃110、
西槨 長さ5.2m・幅0.8m 東槨と同規模の箱形木棺
出土物・・・鏡1、大形勾玉1、勾玉2、管玉88、棗玉3、鉄刀3、鉄剣4、、鉄鏃110、銅鏃1、武具
 中央槨出土の半円方格帯四神四獣鏡は、「景初三(239)年」銘。
 東槨出土の三角縁波文帯龍虎鏡は、椿井大塚山古墳出土の鏡と同范


後円部の北東の住宅街から見た
  和泉黄金塚古墳



出土物がすごい古墳だが、
墳丘は、デコボコしているらしい。

後円部北の道路から見た和泉黄金塚古墳

後円部には石碑が立っている。

徒歩なら墳頂まで登れそうなのだが、柵があって登れないとの情報もある。・・・。

信太山丘陵で見学できる古墳は、もう一つ「姫塚古墳」(王子町)がある。
 横穴式石室が信太の森鏡池史跡公園に移築されているそうだ。
 姫塚古墳は、径25mの円墳で、横穴式石室がある。
   昭和37年惣ヶ池南側浄水場建設工事の際に発見されて調査。
  調査時は横穴式石室の玄室の一部が残っていただけだったが、
     組合式石棺と木棺が置かれていて、
     耳飾り・管玉・琥珀玉などの装身具のほか、鉄刀や須恵器20点が出土。
  6世紀後半の築造と推定されている。

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