北村さんちの遺跡めぐり
富田林市 富田林市周辺の地図g
西野々古墳群 ニシノノコフングン |
大阪府富田林市伏見堂 |
西野々古墳群は、富田林市伏見堂の田畑の中に古墳が4基残っている。
西野々古墳群配置図 (1号古墳そばの説明板から)
この図は下が北です。
東方上の丘陵上には 田中古墳群(現在消滅)があり、
南方の山腹には二十数基から成る嶽山古墳群がある。
西野々1号古墳(明八塚・メハチヅカ) 直径46m・高さ9mの円墳 で6世紀前半の築造と推定されている。 幅6.5m、深さ6.8mの周濠があり、濠底には一部敷石を施していた。 濠の外側、すなわち外提部上面にも敷石があることが確認されている。 円筒埴輪片や須恵器片が出土。 かつて大きな天井石が露出し、南に向かって開口した石室があったという言い伝えがあるので、 横穴式石室があったと推測されている。 |
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1号古墳 北の道路から見る |
1号古墳 南から見る |
西野々古墳群 1号古墳、 左奥に2号古墳 |
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西野々2号古墳(千代塚) 一号の南方に位置する 直径25m・高さ4mの円墳。墳丘は半壊して内部構造は不明。 横穴式石室がある後期の円墳と考えられている。 双子のように見えるが、中央の窪み部分は半壊したもの。 |
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2号古墳 北から見る |
2号古墳 南から見る |
西野々3号古墳 二号古墳の西南方に位置する。 墳丘は全壊に近く、L字型に盛り土が残されているだけで原形を留めていない。 原形一辺28m内外の 方墳であったと思われる。 石積は残されている。 |
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3号古墳 |
3号古墳 方向を変えて見る |
西野々4号古墳 三号古墳のさらに西北方に位置している。 規模的には古墳かどうか、今後の調査を待たねばならないという。 規模は小さいが、円形の丘陵となっている。丘陵の上に祠が祭ってある。 |
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4号古墳 |
4号古墳 方向を変えて見る |
廿山古墳と二本松古墳 ツツヤマコフン ニホンマツヤマコフン 大阪府指定史跡 |
大阪府富田林市廿山 |
廿山古墳と二本松古墳は廿山トンネルの上にある。
見学したいが、古墳内は立ち入り禁止だというので、せめて遠景の写真だけでもと思っていたら、
昼食を買いに寄った「ローソン富田林錦織店」の駐車場から、よく見えた。
こんもりした森に廿山古墳と二本松古墳がある。
左の建物は、梅の里ホームという施設
廿山古墳及び二本松古墳 (ともに大阪府指定史跡) 廿山トンネルの上にある古墳。廿山集落の南にある標高130mほどの丘陵上にある。 廿山古墳は、全長48mの前方後円墳 前方部を東に向けてつくられている。4世紀後半の築造と推定されている。 内部施設は、粘土槨であったと考えられている。 明治16年に盗掘され、鏡、銅鏃、刀剣が出土したという記録があり、 現在はこのなかの銅鏃9本が東京国立博物館に収蔵されている。 この銅鏃は形状が複雑なもので、同形のものは数例しか知られていない。 すぐ北側に隣接する二本松古墳は、直径13mの円墳と考えられている。 |
古墳の保存と道路の開通を、トンネルという形で実現したもので、市道級では前例のない試みとして注目された。
廿山北古墳 ツヅヤマキタコフン |
大阪府富田林市津々山台三丁目 |
津々山台三丁目の住宅街の中の津々山台2号公園内に保存されている。
廿山北古墳は 羽曳野丘陵上にあって、標高は墳丘頂上で130m 一辺32m・高さ7mの方墳 2段築成 埴輪なし、葺石なし 内部構造や出土物も不明である。 元は、古墳の周りに小さな灌漑用の溜池があって、周濠があったことを思わせる。 この古墳の北東700mの石川を見下ろす羽曳野丘陵東縁には、方形の外形をもつ宮林古墳があり、 古墳時代前期(4世紀後半)と推定されているので、廿山北古墳も同じ年代か? (説明板から) |
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墳丘測量図 (説明板から) |
現況平面図 (説明板から) |
公園下の道路から見た廿山北古墳 |
公園内に残る墳丘 |
周濠跡のようなものも残っている。 |
廿山北古墳は、昭和63年度に津々山台2号公園として保存・整備され市民の憩いの場として活用されている。
お亀石古墳 |
大阪府富田林市中野 |
有名なお亀石古墳へ。
富田林市中野、江綿総合グラウンドの西、御願寺池の北の丘陵先端にある。
説明板では径15mの円墳と書かれているが、2002年の現説で、一辺21mの方墳と発表されている。
お亀石古墳は 墳丘は原型をよくとどめていないが、一辺21mの方墳と考えられている。 葺石なし 石棺式石室がある古墳時代終末期の古墳。 切り石を積んだ羨道の正面に、直接家形石棺を安置した内部構造で、 玄室の構築を省略している。 8mの羨道に続いて石棺が置かれている。 石棺の石材は二上山産の凝灰岩で、羨道の切石には巨大な花崗岩を用いている。 石棺の寸法は、棺蓋長さ2.65m・幅1,75m・高さ0.75m、棺身長さ2.5m・幅1.5m・高さ0.9m。 石棺内法は長さ1.8m・幅0.85m。 家形石棺の棺蓋に6個の縄掛突起があり、古くから露出していて亀の形に似ているところから 古墳名がつけられたのだと考えられている。 石身の側面に長方形の開口部が設けられ、それを塞ぐ角形の石蓋が遺存している。 古墳を構築してから、遺体を納めたと考えられている。 石棺の周囲には飛鳥時代の屋瓦を槨壁状に多数積み重ねている。 お亀石古墳の家形石棺と周壁の瓦積遺構 (説明板から) 瓦片や須恵器片が出土しているが、瓦は奈良時代以降のものも含まれている。 須恵器は、7世紀前半から中ごろのものと推定されている。 瓦が近くにある新堂廃寺の百済系屋瓦と共通する事実から、 被葬者が寺院の造建に関与した人物だったと推測されている。 |
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お亀石古墳の石室 |
羨道奥に直接置かれた家形石棺 |
石棺の横口 |
墳丘上から見た石室 大きな天井石の向こうに石棺がある。 |
手前が家形石棺の蓋(屋根)部分 |
棺蓋には6個の縄掛突起がある。 |
初めてみる形の石室だった。
オガンジ池瓦窯跡 |
大阪府富田林市中野 |
お亀石古墳のある丘陵のふもとの池のそばに、説明板を見つける。
オガンジ池瓦窯 新堂廃寺とお亀石古墳にはさまれた丘陵の南斜面に営まれた奈良時代の瓦窯で、現在は池(御願寺池)の岸にある。 南に開口した登り窯として、傾斜単空窯の構造である。 焚口・燃焼室・煙道の部分からなり、長さ5m・幅2m・高さ1.5mあった。 床面に大量の瓦片が残り、窯壁を瓦で補修していて、 奈良前期(白鳳)から後期(天平)にいたる7世紀後半から8世紀の100年間稼動したことが判明した。 瓦は新堂廃寺の白鳳・天平期のものと一致するので、同寺の屋瓦を供給するために構築したと考えられている。 (説明板から) |
池のそばにある 「オガンジ池瓦窯」説明板 釣り人が訪れている。 何が釣れるのかな? |
富田林市教育委員会では、平成13年度まで新堂廃寺(シンドウハイジ)・オガンジ池瓦窯・お亀石古墳の国の史跡指定を目的として調査をして、
平成14年、「新堂廃寺跡 附(ツケタリ)オガンジ池瓦窯跡 お亀石古墳」として国の史跡に指定された。
残念なことに、新堂廃寺跡は見てこなかった・・・・。近くにあったのに・・・・。
彼方丸山古墳 オチカタマルヤマコフン |
大阪府富田林市彼方 |
富田林市彼方の楠風台住宅地内に残されているが、道路と住宅に囲まれていて、中には入れない。
彼方丸山古墳 墳頂の標高は89.1m、前面の低地は65.5mで比高差は20m。 直径35m・高さ4.5mの円墳 周囲に幅約9mの浅い濠がある。 葺石あり (濠内に大量の川原石の丸石が堆積している。) 朝顔形円筒埴輪やきぬがさ形などの形象埴輪が墳丘の上部と裾に並べられていたと考えられている。 内部構造や副葬品は明らかではないが、 墳頂部の封土中に片岩質や安山岩質の割石片が混入しているので、竪穴式石室の可能性がある。 5世紀前半の築造と推定されている。 東方の板持にも丸山とよばれる前期古墳があり、彼方の後背地にあたる丘陵部には後期古墳がある。 また台地から丘陵斜面にかけては弥生式土器や土師器も出土しているので、 弥生時代から古墳時代にわたって小規模ながら集落があったと考えられている。 彼方丸山古墳は、石川谷に分布する中期古墳としては最も上流に位置している。 (説明板から) |
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道路から見た彼方丸山古墳 |
柵のそばから見た墳丘 |
発掘調査されていないから、よくわからない・・・・。