北村さんちの遺跡めぐり
岸和田市 岸和田市・和泉市の地図g
久米田寺 久米田古墳群 |
大阪府岸和田市池尻町 |
久米田寺から見た久米田池
天気が悪くて、残念だ・・・
久米田池は
725(神亀2)年から738(天平10)年にかけて、
僧行基によって付近の住民を組織して作られたと伝えられている。
久米田池の西側に久米田寺がある。
久米田寺 | |
僧行基が天平10年(738年)に開基したと伝えられている。 本尊は釈迦如来。 永禄年間(1558〜1570)の三好氏と畠山氏の戦火で焼失した。 現在の建物は、江戸時代中期に再建されたもの。 久米田寺所蔵の文書の内「楠家文書」などが、国の重要文化財に指定されている。 境内には、金堂・開山堂・講堂のほか五大院・多聞院など塔頭4院が立つ。 当初は久米田池を管理するための施設であったと考えられている。 これまでに平安時代末期から鎌倉時代にかけての瓦が出土しているが、 創建時の遺構、遺物とも未だ確認できていない。 |
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金堂 本尊釈迦如来 脇待は普賢・文殊の両菩薩立像 明和七年(1770)の再建と伝えられている。 |
開山堂(行基堂) 文政5年(1822)の再建と伝えられている。 |
大師堂(御影堂) 文政7年(1824)の建立と伝えられていて、 弘法大師の像を安置している。 |
観音堂 行基菩薩作と伝えられている 千手観世音を安置している。 享和三年(1803)の再建 |
多宝塔、左は聖天堂 |
楼門 宝永三年1(1706)の再建と伝えられている。 扁額は『龍臥山』 |
石造五輪塔 中央は聖武天皇、左端を光明皇后、 右端を亀山天皇の墓と伝えられている。 その様式から鎌倉期のものと考えられている。 |
久米田寺では、いくつかお店(市)がでている。
久米田古墳群 |
大阪府岸和田市池尻町 |
久米田古墳群は久米田寺の西にある。
久米田古墳群 |
池尻町付近の標高35〜40mの久米田山丘陵にある。 久米田山丘陵は、春木川右岸に形成された独立丘陵で、南北650m、東西500m。 過去、10数基の古墳があったと考えられているが、現在は8基の古墳が確認されている。 そのうち、貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳の3基は現在、 一部整備され久米田公園の中に保存されている。 久米田古墳群 配置図 (説明板の図に加筆) 久米田公園には、 貝吹山古墳・無名塚古墳・風吹山古墳が 保存されている。 1930年に貝吹山古墳の前方部の発掘調査 久米田公園再整備のため 1992・94〜97年に貝吹山古墳の発掘調査 1992〜94年に風吹山古墳・無名塚古墳持ノ木古墳の発掘調査 |
光明塚古墳は久米田寺の境内にある。
光明塚古墳(コウミョウヅカコフン) | 市指定史跡 久米田寺境内 |
墳丘は古墳が造られた当時とは変形している。 昭和46年の実測調査によると、直径約25〜30mの円墳であったと推定されている。 |
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古い写真では、もう少し高い墳丘があるのに、 いつの間にやら、低くなってしまった・・・。 |
久米田寺の西にある久米田公園に、貝吹山古墳、無名塚古墳、持ノ木古墳、風吹山古墳があるが、
持ノ木古墳の墳丘はない。
貝吹山古墳 (カイブキヤマコフン) | 市指定史跡 久米田公園内 |
橘諸兄塚ともいわれる。 久米田貝吹山古墳 墳丘図 (古墳辞典から) 全長130mの前方後円墳 後円部径75m 周囲に鍵穴形の階段式周濠があり、その痕跡の一部が 現在の山田池、ネンド池、ドジョウ池になっている。 後円部は3段築成 葺石がある。埴輪列がある。 中世に盗掘を受け、破壊されていたが、後円部に竪穴式石槨があり、 内部に香川県の火山石製の石棺(破片出土)があった。 銅鏡2以上、碧玉製鍬形石1以上、車輪石3以上、碧玉製管玉約40、 鉄刀剣、銅鏃13、鉄鏃・銅鏃、鉄製冑小札、鉄斧片などが出土。 前方部には、粘土槨の中に礫床上の木棺があり、碧玉製管玉・鉄片・土器片が出土 4世紀中ごろの築造と推定されている。 |
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山田池手前から見た貝吹山古墳後円部 |
後円部 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
無名塚古墳 (ムメイヅカコフン) | 市指定史跡 久米田公園内に復元保存 |
直径約26mの円墳 幅10m・深さ1.2mの周濠がある。 葺石はない。 2段築成で、中段テラスには円筒埴輪が並べられていた。 隣接する風吹山古墳のものとほぼ同時期・5世紀初頭の築造と推定されている。 |
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東から見る 久米田公園の整備にあたり、 つくられた当時の姿に復元された。 |
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南から見る |
西から見る |
無名塚古墳の南東側に接するように持ノ木古墳があった。
持ノ木古墳 (モチノキコフン) | 久米田公園内 |
一辺約12mの方墳 墳丘の基底部と幅1.5〜2mの周濠が見つかっている。 周濠から多くの埴輪片と須恵器が出土。 出土した須恵器には、朝鮮半島の南部地方から出土している土器との類似点がある。 5世紀初頭の築造と推定されている。 平成4(1992)年の発掘調査によって新たに発見された。 昭和初期の記録に無名塚の周辺に小さな古墳が存在したことが記述されているが、 墳丘は削平されてしまっている。 持ノ木古墳跡地 奥は、無名塚古墳 説明板には 「持ノ木古墳は埋め戻されている」とあるので、 地中に墳丘の基底部があるのだろう。 |
風吹山古墳 (カゼブキヤマコフン) | 市指定史跡 久米田公園内に復元保存 |
全長約71mの帆立貝形古墳、円丘部径59mに、南東側に方形の造出部をもつ。 馬蹄形の周濠がある。 葺石あり 墳丘には円筒埴輪が並ぶ 墳頂部には2基の埋葬施設がある。 南側が粘土槨に割竹形木棺で、胃や鉄製のよろい、鉄剣・鉄刀 北側が組合式箱形直葬で、銅鏡(痕跡)、、鉄刀、鉄剣、多くの玉類や竪櫛などが出土。 南槨が先に葬られていて、北槨は追葬 5世紀初頭の築造と推定されている。 最初は小型の造出部をもつ円墳として築かれたが、 後に大型の造出部分をもつ帆立貝形に改築されたとみられている。 墳墓の築造期間中に被葬者の地位が上昇したのではないかと考えられている。 |
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造出部手前から見た 風吹山古墳 久米田古墳群の説明板は、 この古墳の近くの、 久米田公園南側入口にある。 |
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造出部から見た円丘部 |
円丘部から見た造出部 |
久米田公園の西の墓地と民家に囲まれて、志阿弥法師塚古墳がある。
志阿弥法師塚古墳 (シアミホウシヅカコフン) | 市指定史跡 |
直径16mの円墳と推定されている。 墳丘は古墳が造られた当時とは変形している。 かつて腕輪形の石製品が出土したと伝えられている。 昭和46年に実測調査。 この古墳の名称になっている志阿弥法師は奈良時代の僧である。 |
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民家側から見た墳丘 小さくなってしまった墳丘 |
墓地側から見た墳丘 |
志阿弥法師塚古墳の南西の方向に長坂古墳があった。
長坂古墳 (ナガサカコフン) |
現在は住宅地になり、墳丘は残っていない。 昭和40年後半の調査では墳丘の跡形があったようで、 直径10m前後の円墳だったと推定されているが、詳細不明。 |
岸和田市立久米田中学校の敷地内にあるのは、女郎塚古墳。
女郎塚古墳 (ジョロウヅカコフン) | |
直径28mの円墳 周濠がある。 発掘調査で、墳丘に円筒埴輪が並べてあるのが確認された。 埴輪から、5世紀前半頃の築造と推定されている。 |
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中学校北側の塀越しに撮影 昼休み中の生徒たちが何事かと思って寄ってくる。 |
生徒たちに了解を得て撮影。 |
摩湯山古墳 (マユヤマコフン) 国史跡 |
大阪府岸和田市摩湯町 |
久米田古墳群から東北東に約2km、大きな前方後円墳がある。
駐車場はない。
「摩湯山古墳(一般府道三林・岡山線歩道工事に伴う発掘調査)」の報告書(1998.3大阪府教育委員会)が
インターネット上で公開されているので、参考にさせていただいた
摩湯山古墳周辺の地図
(発掘調査報告書から引用)
摩湯山古墳は、摩湯町の集落の西南にあり
東南方向から伸びてくる丘陵の西北端に位置している。
陪塚的なものとして、馬子塚とイナリ古墳のほかに
狐塚と呼ばれるものもあったらしい。
摩湯山古墳のすぐ東にある淡路神社の辺りにも
古墳があったと考えられている。(円筒埴輪出土)
摩湯山古墳 | |||
全長200mの前方後円墳 後円部径127m 前方部幅100m 前方部を西北に向けている。 前方部が長く、開きが大きくない形式(柄鏡形古墳) 周濠がある。 丘陵の先端につくられていて、丘の方向に従って東南から西北に主軸を置く 両側のくびれ部には造出しがある。 葺石(20cm前後の河原石)がある。 墳丘には円筒埴輪列がある。 周濠外側にも円筒埴輪列があった。 土器が出土 4世紀後半の築造と推定されている。 本格的な調査は行われていない。 摩湯山古墳 墳丘測量図 墳丘の周囲には 長池(ミササキ池)、惣願寺池、 ニゴリ池、牛瀧池などがめぐっている。 後円部の背後は 丘陵を切断して大規模な掘割を構築している。 |
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南西から見た墳丘 左・前方部 右奥・後円部 右手前は馬子塚古墳 |
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西角から見た墳丘
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前方部前面 パノラマ写真 |
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北側中ほどに渡り堤がある。 渡り堤に立派な石造りの説明板と休憩スペースがあり、奥に墳丘への扉がある。 鍵が開いていた・・・。
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渡り堤から入った墳丘入口(くびれ部付近)に石柱 「史跡摩湯山古墳」と刻まれている |
後円部を見上げる 右方向に前方部 |
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後円部頂 八大竜王社の和泉砂岩製の祠 |
後円部から前方部を見る |
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前方部頂 |
前方部から後円部を見る |
墳丘に入ることができて、ラッキーだった。
馬子塚古墳(マゴヅカコフン) | 摩湯山古墳の南側にある。 |
一辺23mの方墳 高さ4m 摩湯山古墳の陪塚と考えられている。 斜面に葺石のある上下2段の墳丘の周囲を、小さな葺石斜面を持つ段で囲っている。 テラスや古墳周囲に円筒埴輪列がある。 昭和33(1958)年に土取りで、埋葬施設主体部が露出し、青銅鏡と、碧玉製の管玉が出土。 平成17(2005)年度より、発掘調査。 |
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南西から望遠で見た 馬子塚古墳 |
摩湯山古墳の北の集落の中にイナリ古墳がある。
小さな墳丘が残っているらしい。