北村さんちの遺跡めぐり

宮津市   丹後の地図g

男山法王寺古墳の石棺
(男山石棺)

宮津市国分
丹後郷土資料館内
(撮影日2016/10/16)

京都府立丹後郷土資料館の前庭には、今は消滅した法王寺古墳の石棺が保存されているという。

京都府立丹後郷土資料館


右手前に丹後国分寺跡が広がっている。
説明板には
「長持形石棺蓋石 与謝野町男山」としか書かれていない…。


与謝野町男山出土の長持形石棺蓋石

方向を変えて見る

丹後郷土資料館の建物の横には、
   石が置かれているが、説明が無い。
左上の石材が法王寺古墳の石棺側壁だという。

法王寺古墳の石棺側壁 拡大
 現在の京都府立与謝の海養護学校のあたりには、男山法王寺古墳とよばれた古墳があった。
 古くに、大きく破壊されて、長持形石棺の蓋と身の一部が出土して、
   後円部東側裾の藤森神社の祠の前に置かれていた。
 昭和43〜44年に発掘調査、記録保存された。
  調査の結果
 法王寺古墳は南西に前方部を向けた全長74mの前方後円墳
   後円部の直径は55m・前方部幅30m
  上下2段に葺石がある。
  上段の葺石の外側には円筒埴輪が3m〜5m間隔で立て並べられていたものと思われる。
  朝顔形埴輪も出土している。
  内部主体は、
   藤森におかれている組合式長持形石棺(全長2.1m)が埋設されていたと推定されるが、
    石棺埋設の状態は判明しない。
    砂岩製石枕が出土している。
  後円部中心から10m西に、埴輪棺(長さ1.85m)が出土した。(第2主体部)。
  5世紀中ごろの築造と推定されている。

  阿蘇海沿岸の岩滝町および宮津市内の古墳は
   丸山古墳(岩滝)、法王寺古墳(男山、)国分寺裏山古墳(国分)、
    倉梯山古墳、吉祥古墳(須津)などがあり、
   古墳時代中期(5世紀〜後期(6、7世期)の築造と推定されている。
  奈艮時代(8世紀)に、律令制度の確立にともない、
   丹後国分寺、丹後国府がおかれて、この地が丹後国の中心的位置となるが、
   すでに古墳時代において、
   政治的、経済的、中心地となる要素をもっていたことを物語るものである。
   (参考;HP「丹後の地名・地理・歴史資料集」他)

一時はこの古墳の保存の話も出たが、結局記録保存となり、学校が建設されたという。

丹後国分寺跡

宮津市国分
 (撮影日2016/10/16)

京都府立丹後郷土資料館のそばには、丹後国分寺跡がある。
丹後国分寺跡があるから、そばに京都府立丹後郷土資料館が建てられたと言えるだろう。

丹後国分寺跡
 天平13年(741)、聖武天皇の国分寺建立の詔を受けて建立された丹後国分寺は、
  天橋立を一望できる台地上に位置している。
 しかし、この奈良時代の丹後国分寺は、
  付近に残る地名や採取された瓦片によってその存在をうかがい知る程度で、詳細は不明。
 現在、塔跡・金堂跡・中門跡の3ヶ所に礎石が整然と並んでいるが、
  これらは建武年間(14世紀前半代)に再建された伽藍に伴うものとみられている。

丹後国分寺の配置
  (説明板から)

金堂、塔、門などの建物があった。

雪舟「天橋立図」  (部分)
  (説明板から)

当初の塔の姿は明らかでないが、
室町時代の画家・雪舟による
 国宝「天橋立図」には、
 建武元年(1334)以降に再建されたと
 考えられる五重塔が描かれている。

左・金堂跡  右・塔跡
背後は天橋立

金堂跡

金堂は本尊を安置する寺院の中で
 最も重要な建物で、
 門を入ると正面に位置している。
 「本堂」とも呼ばれたため、 江戸時代に寺院が移転した後も、
  この付近は「本堂屋敷」として地名が残った。
 丹後国分寺再興縁起(南北朝時代・重要文化財)には、
  金堂の設計図が記されていて、現在残る35個の柱の礎石の配置とほぼ一致している。
   (平成27年3月設置の説明板から)

塔跡

この塔は戦国時代には火災で焼失した。
 その後、この付近は「塔屋敷」として地名が伝えられていて、
  現在も16個の柱の礎石が残っている。

丹後国分寺跡のすぐ北、郷土資料館の東隣りに現在の国分寺がある。

 現在の国分寺は江戸時代の再建で、
  丹後国分寺再興縁起(国重文・南北朝)、丹後国分寺跡から出土した瓦、
  木造毘沙門天面(鎌倉初期作)を所蔵している。

高台にある現在の国分寺

国分寺境内

       

籠神社
コノジンジャ

宮津市大垣
 (撮影日2016/10/16)

以前、籠神社の前を通りかかった時は、神社の前は大きい通りではなかったと思うが、
道路が整備されてきれいになっていた。

 由緒によると
 神代の昔より奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りしてきましたが、
  その御縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、
  之を吉佐宮(ヨサノミヤ)と申し、豊受大神と共に4年間お祀りいたしました。
 その後天照大神は垂仁天皇の御代に、又豊受大神は雄略天皇の御代に
  それぞれ伊勢におうつりになりました。
 それに依って、当社は元伊勢と云われております。
 両大神がおうつりの後、天孫・彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、
  元伊勢の社、又丹後一之宮として朝野の崇敬を集めてきました。 (現地・由緒から)
 歴代神官を務める海部氏が所蔵する日本最古の系図(819〜847)「海部氏系図」は国宝
 主神の彦火明命(ヒコホアカリノミコト)は海幸彦ともいわれ、海を司る神である。
 かつては目の前に広がる天橋立に向かい合うように社殿が建てられ、
    参道が海から続いていたと思われる。
              (現地パンフレットから)

一の鳥居
左の石標柱には「元伊勢大神宮籠之宮」
右の石標柱には「與(吉?)佐宮阯丹後一ノ宮」

二の鳥居 その奥に神門
神門前の両脇に狛犬が鎮座している。

籠神社拝殿

「境内撮影禁止」という注意書きに気が付き、撮影中止・・・・。


与謝野町

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