北村さんちの遺跡めぐり
更新日2021/3/25
虎御前山
と
亀塚古墳・塩津丸山古墳群
2020/10/31・11/1
2020年初めての県外は、滋賀県長浜市の虎御前山!
滋賀県に住む長男一家と共に、虎御前山ピクニックです。
前日に、亀塚古墳を見学し、彦根に宿泊する。
亀塚古墳 町指定文化財 |
長浜市八島町 (撮影日2020/10/31) |
2019年に八島古墳群の岡の腰古墳を見学したが、その南東200mほどのところに亀塚古墳がある。
日暮れに近い。
亀塚古墳は、径30m(周囲約102m)・高さ5m(古墳辞典では4m)の円墳 近江朝廷の右大臣中臣連金の墓と伝えられている。 中臣連金は、671年、近江朝廷の右大臣に任ぜられ、 太政大臣大友皇子を補佐する重臣であった。 翌年の壬申の乱において、近江方の軍を率いて奮戦したが、 瀬田川の戦いで破れ、近江国浅井田根の地で斬られた。 (説明板から) 長さ10m・幅4m・高さ1mの前方部がつくが、 前方部は、整備の際に付設されたと考えられている。 (古墳辞典から) |
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西から見た亀塚古墳 夕日に輝いている! |
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入口 扉があるが、鍵はかかっていない。南側 |
墳丘 |
墳頂部 |
北側にある造出し |
近くの岡の腰古墳の写真を撮る。
南から見た岡の腰古墳
亀塚古墳、岡の腰古墳は、八島古墳群といわれている。
ほかにも、狐塚古墳や平塚七ツ塚などがあるそうだが、どこにあるのかな。
翌日、虎御前山へ!
虎御前山の南麓の虎御前山公園の駐車場で、長男一家と待ち合わせ。
ここから少し登ったところにある矢合神社の駐車場に駐車して、虎御前山を北上する。
虎御前山 | 長浜市中野町ほか (撮影日2020/11/1) |
虎御前山は標高229mの独立丘陵で八相山ともいう。
虎御前山には古墳時代から奈良時代にかけてのものと推定される円墳や前方後円墳の遺構が数多くあり
戦国時代には、この古墳を利用した砦が築かれていた。
蜂屋頼隆陣が築かれていた「北山古墳」や元亀3年織田信長が小谷城攻撃のため築いた砦跡があり、
堀秀政、木下秀吉、瀧川一益などの諸将も砦を築いていた。
また、八相山には、奈良時代天平宝字2年孝謙天皇の勅願により
大獄寺十ヶ寺の一つとして成道寺が建立され僧坊十戸があったと考えられている。
この成道寺の一部に今、矢合神社が建てられている。
虎御前山 案内図 「虎姫」の由来 その昔、長尾山という山の麓に桃酢谷というところがあった。 そこには井筒という泉があり、そのほとりに 虎御前という名の美しいお姫様が住んでいた。 虎御前は中野に住む世々開という長者と結ばれ、 仲睦まじく暮らしていた。 やがて虎御前は身ごもったが、 生まれてきた子は15匹の小蛇だった。 わが身を嘆いた虎御前は 女性淵という池に身を投じてしまった。 その後、子供たちは成人するころには人間の容姿となり、 辺りの土地を治める長となったということだ。 以来この山は虎御前にちなみ、いつのころからか虎御前山と呼ばれるようになった。 明治22年に町村制が施行された時、虎御前姫を親しんで「虎姫村」と名付けられ 昭和15年に「虎姫町」となる。 現在は、長浜市。 |
虎御前山入口 左は徒歩用の石段 矢合神社へ 右は車道 |
一本松古墳 矢合神社境内にある墳丘 詳細不明…。 |
多賀貞能陣地跡 多賀貞能は豊後守貞隆の子。 近江高島郡を領し、各地を転戦する。 元亀3年(1572)の江北出陣に際し、 織田信長に従軍、 虎御前山に陣を構え、戦功をあげた。 しかし、天正10年(1582)の山崎合戦に際し、 明智光秀に応じたために戦後所領を没収され、 京都東福寺に蟄居の身となった。 |
矢合神社 式内社。 平安時代の法典「延喜式」に 「江州浅井郡八相山鎮座八相社」とあり、 古くは八相社または 八相大明神と称していたと考えられている。 矢合神社が鎮座する虎御前山南尾根は、別に「八相山」と呼ばれ、 戦国時代には織田信長が浅井氏の居城小谷城広陵町に備え砦を築いた。 神社の主祭神は、水辺を司る神・葦那陀迦神(アシナダカノカミ)である。 この地は古から水利に恵まれず、 境内社である岩上神社のいわれや世々開長者の伝説、義人清介碑など、 水にまつわる歴史や祭儀が多く、人々の水を獲得するための苦労と共に、 水に対する感謝の心を偲ぶことができる。 (説明板から) |
北山古墳 | |
虎御前山の南に張り出した尾根の上にある全長43mの前方後円墳 埴輪なし 葺石なし 後円部の中央に長さ5.6mの割竹形木棺があったと考えられている。 棺内は、赤い顔料が塗られていて、 鉄短甲・鉄剣・鉄刀子と、舶載鏡が出土した。 |
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北山古墳 (古墳辞典虎御前山遺跡パンフから) |
前方部前面 |
前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
北山古墳と重なる位置に、蜂屋頼隆陣地跡がある。 石碑 蜂屋頼隆陣地跡 蜂屋頼隆は 織田信長に仕えてから頭角をあらわす。 元亀3年(1572)の江北出陣に従軍。 虎御前山に陣を構え、 柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らとともに 小谷の町を破った。 その後も越前朝倉攻め、 伊勢長島攻めなど各地を転戦している。 |
展望台で記念撮影
コロナ禍で、縮小して行われたという田んぼアートは、
もう終わっていた…
岩屋寺 お堂の正面の扁額には、 「岩屋寺 四国八十八之内 四十五番札所」 と刻まれている。 弘法大師の像が安置されている。 |
虎御前山公園への階段 虎御前山公園は丹羽長秀陣地跡だ。 |
石碑 丹羽長秀陣地跡 丹羽長秀 天文4年(1535)~天正13年(1585) 天文19年(1550)頃から織田信長に仕える。 永禄11年(1568)9月の上洛に従い 六角氏の近江箕作城を攻略した。 元亀元年(1570)の姉川合戦後は、佐和山城攻めを担当し、 翌年浅井氏の将磯野員昌を降ろして佐和山城主となる。 元亀3年(1572)の江北出陣では、 柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆らとともに小谷の町を破り、虎御前山に陣を構えた。 以後も信長指揮の戦いにほとんど従軍し戦功をあげている。 また、大船建造や安土城普請の総奉行を務めるなど技術官僚としても有能であった。 天正10年(1582)の本能寺の変後は、 羽柴秀吉とともに明智光秀を討伐、その後近江高島・志賀の2郡を得た。 天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦後は、、柴田勝家の旧領が与えられ、越前北ノ庄城主となる。 |
虎御前山公園を過ぎて更に北へ行くと、NTTドコモの虎姫中継所の入り口に着く。
この先は、NTTドコモの専用道路になっていて、ゲートがあり、一般車両は完全に通行止。
ハイキングコースとして、徒歩で入れるようになっている。
ここから、「信長馬場古墳群」が始まる。
信長馬場古墳群 |
虎御前山には現在85基の古墳が確認されている。 そのうち信長馬場古墳群は、1基の前方後円墳(全長43m)を含み総数33基からなる。 信長馬場古墳群配置図略図 現地案内板から 左が南のゲート、右が北となる。 便宜上、 左端(南側)のゲートから、遊歩道が直角に曲がるまでの間を、(仮)A地区 遊歩道が直角に曲がってからNTT鉄塔までを、(仮)B地区 NTT鉄塔から北の地区を、(仮)C地区 とする。 |
残念ながら、この略図のデータしかない…。
信長馬場古墳群 (仮)A地区の古墳群 左端(南側)のゲートから、 遊歩道が直角に曲がるまでの間を、 (仮)A地区とする。 左が南のゲート、右が北となる。 南から北に見学。 |
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墳丘その1 |
墳丘その2 |
墳丘その3 |
墳丘その4 |
墳丘その5 |
ゲートの両側に書かれている古墳は確認できなかった。
信長馬場古墳群 (仮)B地区は、1~5号墳までの番号が付いている 左が南 右が北となる。 |
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5号墳 直径15~16mの円墳 南側は道路により変形している
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4号墳 直径15mの円墳 南側にテラスがみられる。 4号墳 墳丘 |
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左・4号墳 右・3号墳 の測量図 (現地案内板から) |
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3号墳 全長43mの前方後円墳 後円部直径26m、前方部長さ17m 葺石がある。
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番号はついてないが遊歩道そばにも墳丘 |
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2号墳 東西15m 南北14mの方墳 南と北の裾には、幅3.5m前後のテラス(壇)がみられる
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1号墳 直径12.5mの円墳 高さは60cm~3.5m
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NTTの鉄塔を過ぎたあたりで、瀧川一益陣地跡。
瀧川一益陣地跡の石碑と 虎御前山城の説明板 信長は姉川合戦後の元亀3年(1572)、 浅井氏の立てこもる小谷城攻略のため この地に山城を築く。 尾根筋山上に信長の廓(部署の宿舎や 兵士のたまり場となる平坦地)や、 堀切、竪堀などが築かれた。 |
NTT鉄塔から北にも古墳が続く。
信長馬場古墳群 (仮)A地区の古墳群 この図は左が南、右が北 NTT鉄塔の北から堀切までを 仮にC地区とし、 便宜上1~9号までの番号を付けた |
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(仮)1号墳 |
(仮)3号墳 |
(仮)4号墳 |
(仮)5号墳 |
(仮)6号墳 |
(仮)7号墳 |
(仮)8号墳 |
(仮)9号墳 |
(仮)2号墳は、わからない。
堀切 |
曲輪跡だというが、古墳? |
虎御前山城跡の礎石復元建物 一部、ベンチとして座れます! 小谷山城青谷をはじめ、太尾山城跡や鎌刃城跡などでも発掘されていて、 当時の山城において、ごく一般的な主要施設であったといえる。 復元に用いた礎石は、大津市伊香立の生津城(1560年頃)跡で発掘されたもので、 四間四方(一間1m)の建物(4m四方)であった。 側柱の中に束柱があり、床張りの高床建物だったことが分かる。 このため一部床を復元しベンチとした。 前面間近に横堀があり、東には巨大竪堀がある。 そして西に琵琶湖と竹生島が遠望でき、北側には堀秀政の陣が認められる。 この場所は虎御前山跡のなかても要の位置を占めたといえる。(説明板から) |
琵琶湖に浮かぶ竹生島かよく見える!
竪堀 |
石碑 堀秀政陣地跡 |
堀秀政陣地跡 古墳の連なりか? |
曲輪(郭) |
虎御前山の頂上は、織田信長陣地跡の石碑が立つ。
虎御前山 標高229m 「織田信長陣地跡」の石碑 信長の陣跡と伝えられている。 山の最高所に位置する。 規模の大きい曲輪で、 北・東・西の三方を切り立った崖で 防御されている。 ここから南東に尾根が伸び 「伝 信長先兵陣地」 と伝わる曲輪群がある。 |
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伝織田信長 虎御前山陣城推定復元図 大きな前方後円墳を 利用したと考えられている。 |
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大曲輪 |
長桝形虎口 |
山頂で記念撮影!
この北には、まだ
「柴田勝家陣地跡」や「木下秀吉陣地跡」があるようだが、ここから引き返す。
虎御前山公園で、お弁当を食べ、、南麓の公園で遊び、長男一家と別れる。
帰り道、気になっていた塩津丸山古墳群に寄る。
塩津丸山古墳群 県指定史跡 |
長浜市塩津 (撮影日2019/5/5 2020/11/1) |
2019年5月に行ったが、1号墳・2号墳が見つけられなかったのでもう一度。
塩津丸山古墳群 県指定史跡 | |||
前方後円墳1基・円墳3基で構成されている。 発掘調査は行われていない。 古墳時代前期~中期にかけての築造と推定されている。 3・4号墳は、1号墳に続く墳墓と考えられている。 1号墳は、全長21.5mの前方後円墳 2号墳は、径9mの円墳 1号墳のそばにある。 3号墳は、径30mの円墳 1・2号墳の北約100m 4号墳は、径28mの円墳 高さ1.5m 3号墳の北約100m (元は、尾根の先端部にあった) |
2019年に、4号墳として紹介したのは、実は3号墳だった。
(滋賀県文化財保護課に問い合わせました)
塩津丸山3号墳 1・2号墳の北約100mの所にある。 | |
径30m・高さ4mの円墳 葺石なし 埴輪なし 墳頂部に盗掘坑があり、石材が見当たらない事から 埋葬施設は、粘土槨ではないかとみられている。 |
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湖西線の高架下にある。 撮影日2019/5/5 |
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墳丘 |
墳頂部 三角点がある。 |
3号墳の南の資材置き場(?)の奥から林に入ると、1号墳・2号墳がある。
塩津丸山1号墳 | |
1号墳は 南端尾根上にある。 全長21.5mの前方後円墳 後円部径12m 前方部先端幅13.5m 前方部を北東に向ける 葺石なし 埴輪なし 低い前方部の形状から前期でも古相に属すると考えられていて、 規模等から粘土槨に類似する主体施設が考えられているが、詳細不明 2号墳 1号墳の後方約5mの所にある 径9m・高さ1.4mの円墳 葺石なし 埴輪なし 主体部不明 塩津丸山古墳群1・2号墳 墳丘測量図 (HP長浜市の遺跡から) |
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1号墳を横から見る |
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1号墳後円部 後円部を分断して柵がある。 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
資材置場そばの道路沿いに説明板 |
1号墳の後方約5mの所にあるのが、2号墳。
2号墳 1号墳のそばにある。 |
2号墳は 径9m・高さ1.4mの円墳 葺石なし 埴輪なし 埋葬施設も不明 立地から1号墳と同時期か、直後と推定されている。 1号墳の陪塚とも考えられている。 |
1号墳から見た2号墳 |
3号墳の北にある4号墳は、まだ見学できていない。