北村さんちの遺跡めぐり
更新日2008/10/31
大津市北部と高島市
その2
撮影日2008/5/4

午前中に大津市の百穴古墳などを見学し、北上。
PM2:45  高島市の音羽古墳群近くに到着。

地図g

 音羽古墳群

滋賀県高島市音羽
 (撮影日2008/5/4)

音羽古墳群は高島変電所の後ろにあるという。
高島変電所横に音羽古墳群への方向指示の案内板がある。
その方に歩いていくと、柵があり簡単に入り込めないようになっている。
猿除けか?
扉があるので開けて入る。
林の中には崩れかけて露出した石室・石材がごろごろ。
百穴古墳のような急斜面ではないけれども、山すそに群集墳。

この崩れかけた古墳の写真の撮影に失敗。
音羽古墳群の写真は一枚もない。残念!

音羽古墳群は一部整備されているというが、そこが見つからない。
この道をずっーと行ったところにあるのか?
入り込むものを阻止するように、柵があり、何か落ち着かない気分。
写真撮影も失敗、整備された場所も見つからず、もう一度見学に行かないと気がすまない。
満足できないまま、次に向かう。

これからいく鴨稲荷山古墳・田中王塚・熊野本古墳群は2回目の見学となる。

 鴨稲荷山古墳
県指定史跡

滋賀県高島市鴨
 (撮影日2008/5/4)

以前にも来たことがある。
近くに郷土資料館があるが、休館。(いつ開館しているのか?)
墳丘は削られていて、公園の中に石棺の覆い屋だけがある。

現在の鴨稲荷山古墳全景 
公園化されたところに覆い屋だけがある。
覆い屋のガラス越しに石棺が見学できるようになっている。
古墳の形が、石でなんとなく示されている。

すくそばでは、グラウンドゴルフをしている人たちがいる。

この古墳は地元では「古墳」とは思われていなかったが、
開墾するとたたりがあるという伝説があり、雑木が茂ったままになっていた。
1902(明治35)年、古墳東側の道路工事の土取りにより、家形石棺が発見され、遺物が出土した。
発見当時、長さ9m・高さ1.8mの石室が存在したが、大部分が破壊された。

1922年に学術調査された。
当時の墳丘は直径30m・高さ5mほどの円墳形だったが、
本来は周堀を持つ全長50m・後円部径24mの前方後円墳と推定された。
6世紀前半の築造と推定されている。
このときは、棺内には朱が残っていた。


鴨稲荷山古墳実測図
  (説明板から)
封土は失われている。
失われた封土は、
田中王塚のある泰山寺野から運ばれたと推定されている。


覆い屋の中の石棺

後円部の横穴式石室にあった。
蓋の左右の長辺斜面に各2個の縄掛突起をもつ
二上山白色凝灰岩製の刳り抜き式家形石棺。


覆い屋の中の石棺

棺内外から
金製垂飾付耳飾、金銅製の冠・飾履(ショクリ)・魚はい・内行花文鏡
 ・杏葉・鏡板付轡・雲珠などの馬具
 環頭太刀、玉類・須恵器など、豊富な副葬品が出土。
1979年、鴨稲荷山古墳の南280mで一辺20mの方墳1基が埋没状態で確認された。
他にも数基の方墳群があったと推定されている。

この付近は古代の三尾郷に想定され、
継体天皇に二人の后を嫁がした三尾氏に関係する古墳の可能性が高いとされている。

近くには二子塚古墳というのもある。 
  (早くに封土を失い、墳形・規模不明だが、双円墳との伝えがあり、三つ葉環頭太刀の出土が知られている。)

鴨稲荷山古墳から北に安曇川を渡ったあたりに胞衣塚(エナヅカ)というのがあるらしいが確認して来なかった。

次は田中王塚。
春祭りの田中神社を横目で見ながら通り過ぎ、その奥にある田中王塚へ。
PM 3:30  田中王塚参道前到着。

 田中王塚古墳
田中古墳群

滋賀県高島市安曇川町田中
 (撮影日2008/5/4)

ここも以前来たことがある。
そのときは田中王塚の長い参道に感動したが、陵墓参考地となっていて入り込めないことを残念に思った。
今回、周りにも多くの古墳があることに気づいた。


 田中王塚に続く参道


 田中王塚正面
  周辺の陪塚4基と共に宮内庁の管轄となっている。


田中王塚全景

(合成写真なので、実際より平べったく見える)
地元では応神天皇の皇玄孫彦主人王の墳墓と伝承している。
彦主人王は近江国、北越5カ国を治めていた。
越前国坂井より后として迎えられた振媛さまは垂仁天皇の子孫で、
この地で三つ子を産み、三王子の弟君彦太王は後に第26代継体天皇になられた。
彦主人王は王子が5歳のときに亡くなられ、この地に葬られた。  (説明板から)

陪塚2基の間から見る田中王塚

左4号墳・右5号墳
田中王塚全長70m前後の帆立貝形前方後円墳。
後円部直径約58m・高さ10m。埴輪あり。
5世紀後半の築造と推定されている。

田中古墳群配置図
(滋賀埋文ニュース第334号から)

昭和45年の分布調査で総数43基の古墳が確認された。

その西にも4基の古墳が確認されているようだ。
田中王塚(1号墳)と2・3・4・5号墳が陵墓参考地となる。

陵墓参考地となる古墳

2号墳
 

3号墳
 

4号墳

5号墳

田中神社から田中王塚に行く途中では、発掘中の古墳がある。

発掘中の古墳

手前37号墳
道路を挟んで向こうが36号墳




36号墳の石室

シートで見えないのが残念だ。
36号墳直径24m・高さ2〜4mの円墳
 出土遺物から6世紀後半の築造と推定された。
 埋葬施設は
  花崗岩質の石材に面取り等の加工を施したものを用いて構築された横穴式石室
  天井石・東側壁は石を抜き取られていた。
  羨道部、玄室西側壁、奥壁、奥室は良好に残存。
  床面には、川原石が敷かれている。
  羨道長3.4m・幅1.1m、玄室長3.4m・幅1.9m、奥室長1.1m・幅2.1m。
  玄室の奥壁側に玄室より幅の広い奥室がある。
  奥室床面と壁面には赤色顔料(ベンガラ) が塗布されていた。
 出土遺物は
 鐘形鏡板付轡・環状鏡板付轡・雲珠・ホ具・辻金具・飾金具などの馬具類
 坏( 身・蓋)、無蓋高坏、有蓋高坏、短頸壷、台付直口壷、ハソウなどの須恵器
 玉類( 土玉)、鉄鏃、刀子、滑石製紡錘車、耳環、鉄釘なども出土。
               (滋賀埋文ニュース第334号より)

次は熊野本古墳群だ。

 熊野本古墳
熊野本遺跡群
滋賀県高島市新旭町熊野本
 (撮影日2008/5/4)

ここは以前、発掘中のブルーシートだらけのときに来ている。
別荘地開発に先立つ発掘と思われたが、バブルも崩壊、現在数軒の家しか建っていない。
道路のアスファルトが割れ、雑草が生え、古墳は発掘後そのままの形で残っている。

この場所は熊野本遺跡群と呼ばれ、
弥生時代の高地性集落である熊野本遺跡36基の古墳の熊野本古墳群で構成されている。


熊野本古墳群配置図
(参考:現地説明板)


26号墳は、墳丘が描かれていない。
熊野本遺跡弥生時代中期〜後期の高地性集落
多数の竪穴住居・掘っ立て柱建物・墳丘墓が見つかっている。
竪穴住居の分布から東西300m、南北200mの大規模なムラがあったと思われる。
鉄製品や鉄素材が多数出土していることから、鉄製品を加工・製作していた可能性が指摘されている。

熊野本古墳群は、熊野本遺跡が広がる台地状の丘陵部と、谷で隔てた北側に存在している。
前方後方墳(6号墳)・前方後円墳(12号墳)・円墳(22基)・方墳(12基)など計36基(墳丘墓も含む?)が確認されている。
5世紀末〜6世紀初頭の築造と推定されている。

集落の廃絶後に、集落跡に墳丘墓が築造され、
引き続いて熊野本古墳群が営まれたと推定されている。

熊野本6号墳
前方部から後方部を見る。

6号墳
は 全長27mの前方後方墳
 後方部長さ15.9m・高さ1〜3m
 前方部長さ11.1m・幅14.4m・高さ1.4m
葺石なし・埴輪なし・段築なし・周堀なし
標高165mの丘陵上にある。
古墳時代前期の築造と推定されている。

熊野本4号墳
円墳


この向こう側にも古墳があるはずだが、崖になっていて古墳は確認できない。


熊野本19号墳

 径36mの円墳
前方後円墳の12号墳は確認してこなかった。

PM 5:00  熊野本古墳出発
旧今津町日置前にある王塚古墳へ。

 平ヶ崎王塚古墳

滋賀県高島市今津町日置前
 (撮影日2008/5/4)

平地に大きな墳丘。
古墳辞典には平ヶ崎王塚古墳と名づけられている。

王塚古墳全景
西側から







王塚実測図
(文化財学習シートから)
王塚古墳の周辺の日置前遺跡・構遺跡・妙見山古墳群などからも
数多くの後期古墳が確認されている。

王塚古墳は 二段築成の円墳。 直径56m・高さ7m
 墳頂部に直径15mの平坦部がある。
 幅13mの周濠がめぐる。
 東側に造り出しがあった可能性がある
 発掘調査がされていないので、詳細は不明
 葺石・埴輪は確認されていない。
 墳頂部中央に深い盗掘坑があるが、石材は見当たらない。
 主体部は木棺直葬か粘土槨と考えられる。
 5世紀の終わりごろの築造と推定されている。

妙見山古墳群は王塚古墳の南の丘陵(妙見山丘陵)にある。
 61基確認。円墳と方墳が混在している。
 王塚古墳群と、一体となる可能性もある。
 3世紀末〜7世紀後半の築造と推定されている。
       (文化財学習シートより)

植林をしてし今の王塚古墳の姿になったというが、古墳を保存するには植林が必要なのか疑問。

旧マキノ町牧野にあるという斎頼塚古墳を探しに行く。
マキノ高原に行く道はメタセコイアの並木道。外国の景色を見るようだ。

 斎頼塚古墳
西牧野古墳群
北牧野古墳群

滋賀県高島市マキノ町牧野
 (撮影日2008/5/4)

牧野の集落に入り、「西牧野古墳群と斎頼塚古墳」と書かれた説明板を発見。


柵の向こうに立つ説明板



ここも音羽古墳群と同じような柵がある。入口を探して入り込む。
ポコンポコンと石材の露出した墳丘が見つかる。
石室が確認できる古墳もある。

墳丘の立派な古墳その1
墳丘の立派な古墳その2

石材の露出した古墳その1

石材の露出した古墳その2


石材の露出した古墳その3


石室の露出した古墳・その4

  
(埋没している)

斎頼塚古墳は見当たらない。
地元の人二人に尋ねたが、はっきりしたことは教えてもらえない。(知らないのだと思う)

わからないまま、もう少し北の牧野高原の大駐車場あたりにあるという北牧野古墳群を探しに行く。
冬はスキー場だと思われる斜面はキャンプ場となり、あふれんばかりの人とテント。
牧野高原温泉「さらさ」は入場制限されている。
ハイキングをして温泉に入って帰ろうとしている人たちが、「さらさ」入口に座り込んで順番を待っている。

道路が渋滞していたのは、このせいかもしれない?
と思いながら、、、駐車場の横に「北牧野遺跡群」の説明板発見。

「北牧野遺跡群」の説明板
北牧野遺跡は
高島市マキノの北西部斜面に立地する製鉄遺跡
北牧野遺跡のそばに北牧野古墳群がある。
この説明板の奥に行けば、古墳が確認できるのかもしれないと思ったが、
あまりの人の多さに圧倒されたのと、日暮れが近くなってきたのとで、
今日はこれで終わりということにする。

 西牧野古墳群
  西牧野集落にあり、47基確認されている。
  古墳時代後期の群集墳。未調査。
  墳丘は、現状で確認できる古墳の全てが円墳
  直径約5.3〜21m・高さ0.6〜3m程。
  主体部は、全て横穴式石室
  墳丘の外部に周溝のある古墳も認められる。
  築造時期は6世紀半ばを前後する時期。

 斎頼塚古墳
  西牧野古墳群中の1基
  径13〜14m・高さ4mの円墳
  墳丘の東側に横穴式石室が開口。全長7mの右片袖形。
  玄室長5m・幅2.2m〜1.6m
  奥壁中央部に石棚がある
  横穴式石室に石棚を有する例は全国に100基以上確認されているが、九州を中心に分布が認められる。
  県内では大津市穴太野添56号墳が知られている。
  他に敦賀半島地域に数基認められる。 

 北牧野古墳群
  96基の古墳が確認されている。高島市最大の群集墳。
 北牧野2号墳では、石室内から滋賀県下で2例目の金銅製単龍環頭太刀が発見された。
                      (滋賀県文化財学習シート・古墳大辞典から)

     

PM6:20   メタセコイア並木道をもどり、家路につく。
PM6:30ころ 道の駅「マキノ追坂峠」で夕食をと思ったが、6時で食堂は終わっていた。
          おなかがすいていたので、ガックリ。
PM7:40  道の駅「河野」(福井県南条郡南越前町大谷)で夕食。
PM10:10  自宅到着。

大津から高島へ  おわり

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