北村さんちの遺跡めぐり
更新日2007/3/19
関西への旅・その5 2006/10/23
大阪で就職している長男の、引越しの手伝いに行ってきた。
結婚30周年記念として、ついでに大阪北部の古墳と滋賀県湖西の古墳を見てこようと決めた。
関西への旅・その5です。
地図g
10月23日、皇子山古墳と日吉台・木の岡の古墳を見た後、小野地区に向かう。
小野地区の南半分にはローズタウンという大きな住宅街が広がっている。
その住宅街の中にゼニワラ古墳と唐臼山古墳があるというので行ってみる。
ゼニワラ古墳 (曼陀羅山古墳群) |
滋賀県大津市小野朝日2丁目 |
小野朝日2丁目の集会所のそばの公園から、林の中に少し入ったところにある。
ゼニワラ古墳全景
径20.5m・高さ5mの円墳
左片袖式の横穴式石室を持つ。
石室入り口
羨道はほとんど埋まっている
天井石の下、少ししか開口していない。
玄室の長さ4.42m・幅2.17m・高さ2.45m
羨道の長さ 4.3m・幅1.0 m・高さ(0.5m)
袖部幅0.8m
石室入り口
角度を変えて
ゼニワラ古墳実測図
標高149mの曼陀羅山山麓に所在する。
この山麓には総数117基で構成される
曼陀羅山古墳群が形成されているが、
石室の規模は、曼陀羅山古墳群の中でも
最大規模のもののひとつである。
古墳の年代は、
出土した須恵器の杯身から
6世紀第V四半期(575年頃)と考えられている。
和邇・小野地域の最有力豪族の代表者のひとりか?
ゼニワラ古墳の奥に「大塚山まで800m」という案内板がある。
曼陀羅山山頂にあるという大塚山古墳。
どんな山道なのか?・・・・・。雨もポツポツ降っているし・・・・・。
今度にしよう。
ゼニワラ古墳の東に唐臼山古墳がある。
唐臼山古墳 (曼陀羅山古墳群) |
滋賀県大津市小野水明1丁目 |
小野朝日町の東隣の小野水明1丁目の、住宅街の真ん中に取り残された小山に、小野妹子公園がある。
その公園の頂上に小野妹子神社がある。
小野妹子神社
小野妹子を祀るようになったのは
江戸時代以後だという。
この小さな社殿の後ろに石棺らしき石がかなり破壊された状態で残っている。
唐臼山古墳の破壊された石棺
知らないと、石棺とは気づかないほど
破壊されている。
石室は発掘調査された。
石室全長5.45m・幅1.6m・高さ1.21m
長方形の箱形石棺 横口式石室
奥壁石1枚・東壁石3枚・西壁石3〜4枚を立岩として連ね、4枚ほどの天井石で覆ってあったと推定されている。
7世紀前葉の築造と推定されている。
唐臼山古墳から北へ600mぐらいのところに小野神社がある。
ここにも古墳があるという。
その前に昼食。
小野の平和堂でサンドイッチを食べる。
”お餅の神様 小野神社”という宣伝旗がたくさん立っている。
「ふーん、小野神社って、お餅の神様なのか」と思いながら小野神社へ。
小野神社の辺りは、開発の波がまだ来てなくて、昔の風情のままだ。
小野神社の参道前に付近の遺跡の大きな案内図がある。
@ | 小野神社 | ・同社内に小野篁神社あり 本殿、重要文化財(室町時代) ・小野神社古墳群、円墳、横穴式石室、円墳、箱式石棺、1基 |
A | 石神古墳群 | ドーム型玄室あり ・円墳3基、石棺 |
B | 小野道風神社 | ・本殿、重要文化財(室町時代) ・道風神社古墳群、前方後円墳(34m) 円墳(28m)、外1基 |
C | 石釜古墳群 (石神西方550m) |
・円墳14基(横穴式石室、玄室あり) |
D | ヨウ古墳群 (石釜の谷を隔てて南側) |
・円墳3基(横穴式石室、玄室あり) |
E | 曼陀羅山古墳群 | ・円墳10数基(横穴式石室) ・大津市側を含め117基 |
F | 和邇大塚山古墳 | 曼陀羅山(193m)北山頂にある前方後円墳(72m) ・出土品、鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、銅鏃 |
G | ゼニワラ古墳 | ・円墳 |
H | 唐臼山古墳 (小野妹子の墓) |
横口式石槨 |
I | タタラ谷遺跡 | ・古代製鉄遺跡 |
J | 知原遺跡 | 須恵器の窯跡 多数の須恵器の出土 |
K | 曼陀羅山古墳群 34号墳 | 円墳(横穴式石室) |
L | 天皇神社 | ・本殿、重要文化財(鎌倉時代) ・円墳2基 |
M | 中畑遺跡 小野遺跡 |
・集落遺跡 |
絵地図なので、道がよくわからない。
|
小野神社 |
滋賀県大津市小野 |
小野神社の参道をまっすぐ行くと小野タカムラ神社がある。
その左側にあるのが小野神社だ。
小野神社
古墳の上に建っている?
延喜5(927)完成の延喜式に「小野神社二座名神大」とあり
日吉神社と並ぶ官弊大社であった。
現在の社殿は、江戸時代に再建されたと伝えられている。
祭神は、
第5代天皇孝昭天皇の第一皇子、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と
その七世の孫、米餅搗大使主命(たがねつきのあめおみのみこと)
米餅搗大使主命は、王仁天皇の頃に日本で最初に餅をついた餅作りの始祖といわれ、
現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。
この神社は、小野妹子、小野タカムラ、小野道風などを生んだ古代の名族小野市の氏神社である。
推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。
平安時代、小野タカムラ(802〜852)のときに、同族が小野神社に集まって氏神を祀った事は「続日本後記」にくわしく載っている。
小野篁神社
小野神社の摂社だけれど、小野神社より立派。
小野神社前にある絵地図を見て、一番近い石神古墳群を探した。
石神古墳群 |
滋賀県大津市小野 |
4基の円墳からなり、横穴式石室を有する古墳時代後半のもの。
2,3,4号墳は6世紀後半の築造
1号墳の石棺
蓋石と底石らしき石が置かれている。
墳丘はない。
1号墳はS49に発掘調査された。
1号墳の大きさ・形は不明。
南南東に開口する横穴式石室を有し、
石材は砂岩と花崗岩のまるみをおびた川原石で、和邇川から運んできたものだろう。
出土した遺物は、主に須恵器の杯身、杯蓋、提瓶で
7世紀前半ころの築造と推定されている。
2号墳全景
径10m・高さ2.4mの円墳。
道路により一部削平されている。
2号墳石室
発掘されていないのか
石室の規模のデータがない。
3号墳は私有地のようなところにあったので見に行かなかった。
4号墳石室
径8mの円墳
石神古墳群配置図(案内板から)
規模 | 玄室 | 羨道 | 袖部 | |||
1号墳 | 横穴式石室 | 長2.7m 幅1.50m 高1.02m |
長1.80m 幅1.00m |
両袖式 幅1.0m |
1974年発掘調査 半壊 |
|
2号墳 | 円墳 横穴式石室 |
径10m 高さ2.4m |
道路により一部削平 半壊 |
|||
3号墳 | 円墳 横穴式石室 |
径10m | 長4.62m 幅2.57m 高2.95m |
長1.3m 幅1.57m 高1.80m |
両袖式 幅0.6m |
完存 |
4号墳 | 円墳 横穴式石室 |
径8m | 長3.90m 幅2.66m 高3.27m |
長1.96m 幅1.25m 高1.20m |
両袖式 幅1.2m |
完存 |
石神古墳群の奥にもたくさんの古墳があるようだ。
行ってみたいけど、体力がかなり必要か?
小野地区の北、白鬚神社を目指す。
白鬚神社古墳 |
滋賀県高島市鵜川 |
国道161号線に面しているのですぐわかる。
白鬚神社は垂仁天皇の時代の創建といわれている。
祭神は猿田彦命
源頼朝が鰐口を奉納(1190年)。
白鬚神社の本殿は国重要文化財となっている。
本殿の裏山に登ると、石室を保存するように建物が建ち、岩戸社となっている。
岩戸社の石室天井部
石室の中の写真を撮ったけれども真っ暗で何も写っていなかった。
残念!
岩戸社の横にも石室を推定させるような
大きな三角の石がある。
上の写真の拡大
しめ縄がめぐらせてある。
御神体!
古墳についての説明がなく、詳しいことは全くわからない。
この裏山には他にも古墳がありそうだ。
午後2時半。
雨が本格的に降り始めたので、帰途につく。
道の駅「藤樹のさと安曇川」で休憩の後、ひたすら石川県へ。
今津地区に王塚(田中王塚とは別)というのがあるらしいが、また今度。
新国道161号線ができ、以前よりもずいぶん走りやすい道になったようだ。
明日からは仕事が待っている。
関西への旅その1からその5へ。
ようやく完結しました。
おまけコーナー
今回は寄らなかったが、2001/12/1に見学に行ったので「おまけ」として紹介する。
鵜川四十八体仏 |
滋賀県高島市鵜川 |
白鬚神社のすぐ北に四十八体仏という石仏群がある。県史跡
1553(天文22)年
近江観音寺城(安土)主佐々木義賢が
亡き母の供養のため造立したものという。
石仏は東向きに6体ずつ8列に並ぶ。
花崗岩で造られている。
一つ一つが違った表情で面白い。
現在33体残っている。
13体は大津坂本本町の慈現大師廟のそばへ移された。
あと二体は盗難にあい行方不明。
石仏の横に、石室らしき穴が開口している。
落ち葉が一面に降り積もり、黄色いじゅうたんの中の石仏は
なんとも幻想的な景色だった。
四十八体仏を見学したときは、他にも鴨稲荷山古墳・熊野本古墳・田中王塚なども見学したはずだが、
写真がなく、記憶も薄れている。
おまけコーナー
前方後円墳・勝負砂古墳で、未盗掘の竪穴式石室が見つかる 岡山県倉敷市 2007年3月14日 読売新聞のインターネットニュースから |
岡山県倉敷市の前方後円墳、勝負砂(しょうぶざこ)古墳(5世紀後半)で、崩れずに残っていた未盗掘の竪穴式石室が見つかり、鏡や馬具などの副葬品が、ほぼ埋葬されたままの状態で確認されたと、岡山大が14日、発表した。
竪穴式石室が内部に空間を残したほぼ完全な姿で発見された例は全国的にほとんどなく、埋葬当時の状況がわかる貴重な資料。
石室は長さ3・5メートル、幅1・1メートル、高さ0・7メートル。
全長42メートルの墳丘の後円部にあり、8枚あるふた石のうち1枚が割れて落ち込み、床面の半分以上に土が入り込んでいるが、内部を観察することができた。
壁面は赤色顔料で塗られており、落ちたふた石を取り外すと、下から銅鏡が見つかった。
石室奥には、鉄製よろいや黒漆塗りの柄(つか)のある槍(やり)などがあり、木製品や革製品など通常は腐ってなくなってしまう遺物の一部も残っていた。
石室内部の土を除けば、ほかにも副葬品が見つかる可能性が高い。この地域の有力豪族が埋葬されていたらしい。
調査を担当した松木武彦・同大大学院助教授(考古学)の話
「今後の調査で人骨なども見つかれば、副葬品や埋葬儀礼について、盗掘されたり、土で埋まったりした石室ではわからなかった情報が得られる可能性が高い」
関西の旅 おわり