北村さんちの遺跡めぐり
米原市の古墳・遺跡 米原市の地図g
息長広姫陵 |
米原市村居田 |
息長広姫陵
径7.5m・高さ2.1mの小さな円墳が鳥居の向こうに
祀られている。
息長広媛陵のすぐ東横に古墳状の高まりがある。
村居田古墳(光運寺本堂付近にあった古墳)の残骸
西側から
「息長陵付属地」と刻まれた石碑が立っている。
「息長広姫陵古墳群」と刻まれた石碑もある。
左の建物は舊(キュウ)陵山光運寺。
古墳辞典には
『息長陵古墳群は、全長60mほどの前方後円墳(村居田古墳)と陪塚1基からなり、陪塚が現在治定の陵とみることができる。
元禄9年(1698)、光運寺本堂改築工事中に長さ2.2m・幅1.1mの縄掛突起を持った家形石棺が出現し、
近年の石垣改修工事で多数の円筒埴輪片が出土した。』
「米原市遺跡リーフレット12 息長広姫陵古墳」にも、同じようなことが書かれているそうだ。
(参考hp「陵墓 陵印 掲示板」)
出土した埴輪から、5世紀末頃の築造と推定されているので、
光運寺本堂付近にあった古墳は、
広姫の時代(6世紀後半)とは年代的に相違することが指摘されている。
村居田古墳(光運寺本堂付近にあった古墳)の残骸
南側から
墳丘の向こう側が光運寺。
出土した石棺は埋め戻されたというが
どこに埋められているのだろう?
横山丘陵上の
梶原古墳から見下ろす
息長陵と村居田古墳。
(撮影日2012/4/30)
息長陵の手前の道のカーブから
息長陵と村居田古墳をひっくるめて
一つの前方後円墳ではないかという説がある。
皇后塚古墳 |
米原市井之口 |
井之口集落内の若宮八幡神社のすぐ南に「皇后塚」への進入路がある。
2基が残っている。
2基とも名前が刻まれた石碑が立っているだけで、説明板はない。
滋賀県遺跡地図によると、横穴式石室墳だということだ。
そばには、寺院跡の井之口遺跡がある。
皇后塚古墳 なんとか円墳の形を保っている。 |
皇后東塚古墳 皇后塚古墳からあぜ道の向こうにある。 削られて、細長くなっている。 |
息長陵が治定されるまでは、皇后塚が敏達天皇皇后広姫の墳墓だと認識されていた‥とか。
ミミ塚古墳移築石室 |
米原市春照 |
息吹山文化資料館の駐車場奥に移築保存されている。
ミミ塚古墳 墳丘は失われていたが、 周溝の形から径15mの円墳と推定されている。 伊吹山山麓の大字上野字人塚で確認された。 現地では以前から大きな石の露出している部分が2か所あり、ミミ塚・人塚と呼ばれていた。 |
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ミミ塚古墳石室 天井石は失われている。 伊吹山産の石灰岩で組まれた石室。 玄室の長さ5m・幅1.5〜1.8m・高さ1.8m 羨道の長さ2m 玄門部には仕切石がある。 |
ミミ塚古墳玄室 石室内から、須恵器や土師器のほか 鉄鏃1・鉄刀2・金銅製耳環2などが出土 歯を含む人骨も出土した。 7世紀代の築造と推定されている。 |
浅見氏屋敷跡礎石(左)と若宮氏屋敷の石垣 ミミ塚の横に移築保存されている。 15世紀末に 京極高清が整備した城下町の 家臣団屋敷の一角にあったもの 上平寺地区にあった。 |
下丹生古墳 |
米原市下丹生 |
下丹生古墳は下丹生地区で大切にされていて、
案内板が完備しているので、案内に従って行けば古墳に着く。
現地にはパンフレットも用意されている。
下丹生古墳は、 古くから石室が開口していることで知られていて、 大正2年刊行の「近江坂田郡志」にも写真付きで掲載されている。 径14.5m・高さ3.5mの円墳 丘陵斜面にあって、集落から見上げる位置にあるために、実際より大きく見える。 南西方向に開口する横穴式石室がある。 石室全長7.5m 玄室の長さ5.3m・幅1.6m・高さ1.2m 羨道の長さ2.2m・幅1.15m・高さ0.9m 玄室と羨道をあまり明確に区別しない無袖式石室に近い片袖式石室 天井石は玄室5枚・羨道2枚 早くから開口しているので、出土品は不明だが、 石室の特徴などから6世紀後半の築造と推定されている。 |
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下丹生古墳全景 野生の鹿の糞害を防ぐため 柵が設けられている。 それでも石室内に糞がある。 |
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下丹生古墳石室開口部 |
下丹生古墳石室内部 |
平成15年度、下丹生「まちづくり」委員会で、古墳の修復整備に取り組み、現在の景観となった。
等倫寺古墳 | 米原市一色 (撮影日2019/2/26) |
等倫寺古墳は、旧米原町一色の等倫寺境内にある。
等倫寺
お寺の方に挨拶して見学。
古墳は、建物の後ろにある。
等倫寺古墳 | |
径20mほどの円墳が残る。 横穴式石室の天井石が露出している。 石室の推定長7mほど。 |
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墳丘 |
墳頂の小祠 |
石材露出 |
内部は埋まっている。 |
「一里塚の跡」という石碑
等倫寺のそばにある。
後ろは名神高速道路。
人塚山古墳 (横山古墳群) 県史跡 |
滋賀県米原市顔戸 |
日撫山の北側のふもとにある。
人塚山古墳全景
人塚山古墳は
全長51mの前方後円墳。
後円部36m・高さ4m
前方部幅10m・高さ2m
説明板には 6世紀築造で、
戦前に前方部の土取りの際、たくさんの土器や刀子が出土と書かれている。
人塚山古墳後円部
後鳥羽上皇が墳頂から
農民が田植えをするのをご覧になったそうだ。
(説明板より)
人塚山古墳を反対側から見る
左 前方部
公園になっている。誰も遊んではいない。
人塚山古墳の横の山(日撫山)には、日撫山古墳(方墳15×13m)がある。
集落の中に大きな鳥居があり、奥に行くと日撫神社(息長宿禰王を祀る)がある。
日撫神社の奥、高速の長浜トンネルの付近に黄牛塚古墳がある。(あった?)
黄牛塚(オギュウヅカ)古墳 米原市(旧近江町)顔戸
1976年発掘
長浜平野の東に南北に細長く連なる横山丘陵の南西部に立地する古墳。
「黄牛」という変わった名称は、この地を訪れた後鳥羽上皇が、日撫神社に奉納した黄毛の牛を埋めた塚であるとも
「王丘」に由来するとも伝えられている。
墳丘形は後世の改変を受けているが、直径が11m前後の円墳。
埋葬主体部は、玄室の長さ 4.21m、羨道の長さ 3.3mの横穴式石室。
羨門の北には、墳丘の裾を取り巻くように石が並べられている。
6世紀末から7世紀前半の築造。
石室内からは副葬品の多数の土器類や勾玉2点が出土。
出土した土器類の年代には新旧の2時期が認められる。
石室には、棺台と考えられる石列と土壇状の高まりが見つかっていて、
この棺台の横に置かれた土師器の位置関係や出土した2点の勾玉の位置から、
棺台上に2つの棺が置かれ、さらにその他の副葬品の位置関係から、もう1ないし2棺が置かれていたと想定されている。
このことから、この古墳の被葬者は、古代家族の家長とその家族達と考えられる。
家長の死とともに築造された古墳に、順次その家族が追葬されていったのだろう。
黄牛塚古墳は、時代的には、山津照神社古墳を始めとする、息長古墳群の終焉を飾る古墳として位置付けられている。
(滋賀県文化財学習シートより)
山津照神社古墳 (横山古墳群?息長古墳群) 県史跡 |
滋賀県米原市能登瀬 |
横山山地の南端にある、山津照神社。
古墳は山津照神社の参道北側に横たわる。
山津照神社
「延喜式」にのる式内社で、祭神は国常立命といわれるが、
息長氏の祖神を祀ったと考えられる。
手入れが行き届いた境内
山津照神社古墳全景
地元では、
神功皇后の父、息長宿彌王の墓と考えられている。
説明板から
全長63mの前方後円墳。
主体部は石棺を安置していたようで、
内行花文鏡・獣文鏡・五鈴鏡・金銅製装身具残片・三輪玉
・鹿角製刀子・馬具・勾玉・管玉・切子玉などと須恵器が出土
墳丘からは、朝顔形埴輪・円筒形埴輪が出土
塚の越古墳 | 米原市新庄(旧近江町) (撮影日2019/2/26) |
山津照神社の西に塚の越古墳がある。
米原市近江はにわ館のすぐ東、北陸自動車の西脇にある。
土取りで、墳丘はほとんどなくなっている。
塚の越古墳は 全長約40.4mの前方後円墳。 平野に立地する。 |
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土取りされて 墳丘はほとんどない!! 背後には高速道路 |
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東から見る |
墳丘内 |
えぐれた墳丘に、小祠 |
どこが後円部か分からない…。 |
新庄の薬師堂に、出土した画文帯神獣鏡が保存されていると、説明板には書かれている。
米原市 終わり