北村さんちの遺跡めぐり
高島市の古墳・遺跡 高島市の地図g
白鬚神社古墳 |
滋賀県高島市鵜川 |
国道161号線に面しているのですぐわかる。
白鬚神社は垂仁天皇の時代の創建といわれている。
祭神は猿田彦命
源頼朝が鰐口を奉納(1190年)。
白鬚神社の本殿は国重要文化財となっている。
(撮影日2006/10/23)
本殿の裏山に登ると、石室を保存するように建物が建ち、岩戸社となっている。
岩戸社の石室 (撮影日2008/5/4) |
岩戸社の石室天井部 (撮影日2006/10/23) |
岩戸社の横にも石室を推定させるような 大きな三角の石がある。 (撮影日2006/10/23) |
左の写真の拡大 (撮影日2006/10/23) しめ縄がめぐらせてある。御神体! |
他にも石室を思わせる石材がある。 露出した石材その1 (撮影日2008/5/4) |
露出した石材その2 (撮影日2008/5/4) 穴があいている?苔むしたものは石材? |
古墳についての説明がなく、詳しいことは全くわからない。
2019年の
白鬚神社古墳群高島市鵜川
(撮影日2019/5/5)
白鬚神社 | |
白鬚神社大鳥居 琵琶湖の中に立っている |
白鬚神社 境内 |
白鬚神社背後の斜面を登る。
白鬚神社古墳群は、白髭神社社殿背後の斜面にある。 | |||||
1号墳は、本殿の裏山に登ると、石室を保存するように建物が建ち、岩戸社となっている。 横穴式石室は全長6m、玄室長2.5m・幅2m・高さ1.1m、羨道長3.5m・幅1.2m・高さ1mの両袖式
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2号墳は、1号墳のすぐ右奧にある。 2号墳 墳頂が陥没し、石材が散乱。 |
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そのほかの墳丘 その1 |
そのほかの墳丘 その2 |
埋葬施設の辺りが陥没している墳丘もあるが、写真ではよく分からないので、載せないことにする。
鵜川四十八体仏 県史跡 |
滋賀県高島市勝野 |
白鬚神社のすぐ北に四十八体仏という石仏群がある。
1553(天文22)年
近江観音寺城(安土)主佐々木義賢が
亡き母の供養のため造立したものという。
落ち葉が一面に降り積もり、黄色いじゅうたんの中の石仏は
なんとも幻想的な景色だった。
石仏は東向きに6体ずつ8列に並ぶ。花崗岩で造られている。
一つ一つが違った表情で面白い。
現在33体残っている。
13体は大津坂本本町の慈現大師廟のそばへ移された。
あと二体は盗難にあい行方不明。
石仏の横に、石室らしき穴が開口している。
2019年の
鵜川四十八躰仏と古墳高島市勝野
(撮影日2019/5/5)
白鬚神社から北東に約400mに、四十八躰仏への案内板があり、脇道を登ったところにある。
四十八躰仏の背後は、墓地となっている。
鵜川四十八躰仏 県指定史跡 |
石仏の大きさは、それぞれ多少の差はあるが、 像高約1.6m、顔長0.5m、肩幅0.76m、膝高0.46m、膝幅1.3m。 地元の比良石といわれる花崗岩製で、いずれも定印を結んだ丸彫りの阿弥陀如来像である。 現在は33体だが、元々は48体が東を向いて鎮座していた。 不足のうち13体は江戸時代前期に坂本の慈眼堂(大津市)に移され、 2体は昭和62年(1987)に盗難にあった。 伝承によると、天文22年(1553)に近江半国の守護職であり観音寺城主であった佐々木六角義賢が、 亡き母の菩提を弔うため建立したとされている。 しかし、冷泉為広の「為広越後下向日記」延徳3年(1491)に、 船で琵琶湖の西側を北上し、白鬚神社へと進んだところで、 「次に廿八躰の石の阿弥陀あり」と記されており、 この時すでに石仏群が存在したとわかる。 さらに、永享8年(1436)、周辺の境界争いの記録に、 「四拾八躰」の文字があり、四十八躰石仏がそのころにはすでに存在し、 境界の目印として認識されていたといえる。 四十八という数は、阿弥四十八願という信仰に因む、阿弥陀仏に対する供養信仰に基づくものである。 大きな丸彫り阿弥陀仏が四十八体も造られ、また一ヶ所に祀られているところは他にはないようである。 (現地説明板から) |
鵜川四十八躰仏 |
鵜川四十八躰仏の東屋の横に、石室が開口している。
四十八体古墳群 | |
古墳群だが、現存は1基。 玄室の奥側しか残っていない。 現存長3m・幅1.5m。 |
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東屋横に石室が開口 |
天井石前面には、梵字が刻まれている。 |
石室内部 埋まっているのか? |
昔は、ここから琵琶湖が見えたようだが、今は森の中…。
打下古墳 ウチオロシコフン |
高島市勝野 (撮影日2019/5/5) |
四十八躰仏の登り口から北へ、道なりに約1km。
東麓の日吉神社に駐車、北側の山道を水道塔まで登ると、水道タンクそばに整備保存された墳丘がある。
打下古墳 | |
平成13年、工事中に発見された。 箱式石棺(内法長さ205cm・最大幅42cm・深さ30cm)の中には、 良好な人骨と鉄剣・鉄刀が納められ、壁面は朱で赤く塗られていた。 棺外から、鉄鏃が一束 置かれていた。 鉄鏃の型式から5世紀代の築造と推定されている。 被葬者については、身長150cm、年齢40才前後の男性と推定されている。 明神岬を治めた人物と考えられている。 (平成15年 高島町教育委員会の説明板から) |
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手前から見た墳丘 |
方向を変えて見る |
墳頂部 |
墳頂には、説明文が刻まれた石碑がある。 |
水道タンク上の 高台から見た景色 琵琶湖が一望! 中央が打下古墳! |
音羽古墳群 |
滋賀県高島市音羽 |
2008年5月には、高島変電所の南側の道から探しに行き、
古墳公園が見つからなかった。
HP「古墳とかアレ」さんに詳しい地図が載っていたので、それをたよりに探した。
高島変電所を通り過ぎ、その北の集落にある大炊神社の西側の道から林の中に入り、道なりに行く。
露出した石室みたいな石がごろごろ。
これらが全部古墳だとすると100基くらいあるのではないか?
西側に小川(せせらぎ)。飛び石の橋を渡ったところに案内板。
その奥、道の突き当たりみたいなところに古墳公園。
音羽古墳公園 石穴支群と呼ばれている。 古墳時代後期の群集墳 |
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8号墳 8号墳 石室は、全長6.5m 玄室長3m・幅1.5m 7世紀初頭の築造と推定されている。 |
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10号墳 石室は、全長8m以上 玄室長4m・幅2m 玄室内には棺台がある。 石室内から多くの土器と鉄器が出土 6世紀末〜7世紀初頭の築造と推定されている。
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16号墳 墳丘付きの横穴式石室が保存されている。 天井部は復元
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音羽古墳公園として整備されているところ以外に、多くの古墳がごろごろしている。
ハイキングするつもりで探したらおもしろいのだろうね。
鴨稲荷山古墳 県指定史跡 |
滋賀県高島市鴨 |
墳丘は削られていて、公園の中に石棺の覆い屋だけがある。
近くに郷土資料館があるが、休館。(いつ開館しているのか?)
現在の鴨稲荷山古墳全景
公園化されたところに覆い屋だけがある。
覆い屋のガラス越しに石棺が見学できるようになっている。
古墳の形が、石でなんとなく示されている。
すくそばでは、グラウンドゴルフをしている人たちがいる。
この古墳は地元では「古墳」とは思われていなかったが、
開墾するとたたりがあるという伝説があり、雑木が茂ったままになっていた。
1902(明治35)年、古墳東側の道路工事の土取りにより、家形石棺が発見され、遺物が出土した。
発見当時、長さ9m・高さ1.8mの石室が存在したが、大部分が破壊された。
1922年に学術調査された。
当時の墳丘は直径30m・高さ5mほどの円墳形だったが、
本来は周堀を持つ全長50m・後円部径24mの前方後円墳と推定された。
6世紀前半の築造と推定されている。
このときは、棺内には朱が残っていた。
鴨稲荷山古墳実測図
(説明板から)
封土は失われている。
失われた封土は、
田中王塚のある泰山寺野から運ばれたと推定されている。
覆い屋の中の石棺
後円部の横穴式石室にあった。
蓋の左右の長辺斜面に各2個の縄掛突起をもつ
二上山白色凝灰岩製の刳り抜き式家形石棺。
覆い屋の中の石棺
棺内外から
金製垂飾付耳飾、金銅製の冠・飾履(ショクリ)・魚はい
・内行花文鏡・杏葉・鏡板付轡・雲珠などの馬具
環頭太刀、玉類・須恵器
など豊富な副葬品が出土。
1979年、鴨稲荷山古墳の南280mで一辺20mの方墳1基が埋没状態で確認された。
他にも数基の方墳群があったと推定されている。
この付近は古代の三尾郷に想定され、
継体天皇に二人の后を嫁がした三尾氏に関係する古墳の可能性が高いとされている。
近くには二子塚古墳というのもある。
(早くに封土を失い、墳形・規模不明だが、双円墳との伝えがあり、三つ葉環頭太刀の出土が知られる。)
胞衣塚 |
滋賀県高島市三尾 |
鴨稲荷山古墳から北に行き川を渡ったあたりの、道路西側に小さな墳丘。
胞衣塚
説明版には
”継体天皇は高島の地に誕生され、その母・振姫がお産の後
天皇の「へその緒」を埋めたのが、この胞衣塚だと伝える”
とある。
安曇川町三尾里集落の南端に位置し、平野部に構築された古墳としては貴重なものとされる。
直径11.5mの円墳。高さは2.4m。
6世紀頃の築造と推定されている。
塚の上の松を「御殿(ゴンデン)の松」といい、南に流れる川を御殿川(ゴンデンガワ)という。
付近の小字名を「上御殿(カミゴンデン)」「下御殿(シモゴンデン)」という。
この一帯には、大きな屋敷があったのではと考えられている。
田中王塚古墳 田中古墳群 |
滋賀県高島市安曇川町田中 |
春祭りの田中神社を横目で見ながら通り過ぎ、その奥にある田中王塚へ。
田中王塚に続く参道
田中王塚正面
周辺の陪塚4基と共に宮内庁の管轄となっている。
田中王塚全景
(合成写真なので、実際より平べったく見える)
地元では応神天皇の皇玄孫彦主人王の墳墓と伝承している。
彦主人王は近江国、北越5カ国を治めていた。
越前国坂井より后として迎えられた振媛さまは垂仁天皇の子孫で、
この地で三つ子を産み、三王子の弟君彦太王は後に第26代継体天皇になられた。
彦主人王は王子が5歳のときに亡くなられ、この地に葬られた。
(説明板から)
陪塚2基の間から見る田中王塚
(左4号墳・右5号墳)
田中王塚は全長70m前後の帆立貝形前方後円墳。
後円部直径約58m・高さ10m。埴輪あり。
5世紀後半の築造と推定されている。
田中古墳群配置図
(滋賀埋文ニュース第334号から)
昭和45年の分布調査で総数43基の古墳が確認された。
その西にも4基の古墳が確認されているようだ。
田中王塚(1号墳)と2・3・4・5号墳が陵墓参考地となる。
陵墓参考地となる古墳 | |
2号墳 |
3号墳 |
4号墳 |
5号墳 |
田中神社から田中王塚に行く途中では、発掘中の古墳がある。
発掘中の古墳 手前37号墳 道路を挟んで向こうが36号墳 |
36号墳の石室 シートで見えないのが残念だ。 |
36号墳は直径24m・高さ2〜4mの円墳
出土遺物から6世紀後半の築造と推定された。
埋葬施設は
花崗岩質の石材に面取り等の加工を施したものを用いて構築された横穴式石室。
天井石・東側壁は石を抜き取られていた。
羨道部、玄室西側壁、奥壁、奥室は良好に残存。
床面には、川原石が敷かれている。
羨道長3.4m・幅1.1m、玄室長3.4m・幅1.9m、奥室長1.1m・幅2.1m。
玄室の奥壁側に玄室より幅の広い奥室がある。
奥室床面と壁面には赤色顔料(ベンガラ) が塗布されていた。
36号墳の出土遺物は
鐘形鏡板付轡・環状鏡板付轡・雲珠・ホ具・辻金具・飾金具などの馬具類
坏( 身・蓋)、無蓋高坏、有蓋高坏、短頸壷、台付直口壷、ハソウなどの須恵器
玉類( 土玉)、鉄鏃、刀子、滑石製紡錘車、耳環、鉄釘なども出土。
(滋賀埋文ニュース第334号より)
熊野本古墳 熊野本遺跡群 |
滋賀県高島市新旭町熊野本 (撮影日2008/5/4) |
ここは以前、発掘中のブルーシートだらけのときに来ている。
別荘地開発に先立つ発掘と思われたが、
バブルも崩壊、現在数軒の家しか建っていない。
道路のアスファルトが割れ、雑草が生え、古墳は発掘後そのままの形で残っている。
この場所は熊野本遺跡群と呼ばれ、
弥生時代の高地性集落である熊野本遺跡と36基の古墳の熊野本古墳群で構成されている。
熊野本古墳群配置図
(参考:現地説明板)
熊野本遺跡は弥生時代中期〜後期の高地性集落。
多数の竪穴住居・掘っ立て柱建物・墳丘墓が見つかっている。
竪穴住居の分布から東西300m、南北200mの大規模なムラがあったと思われる。
鉄製品や鉄素材が多数出土していることから、鉄製品を加工・製作していた可能性が指摘されている。
熊野本古墳群は、熊野本遺跡が広がる台地状の丘陵部と、谷で隔てた北側に存在している。
前方後方墳(6号墳)・前方後円墳(12号墳)・円墳(22基)・方墳(12基)など計36基(墳丘墓も含む?)が確認されている。
5世紀末〜6世紀初頭の築造と推定されている。
集落の廃絶後に、集落跡に墳丘墓が築造され、
引き続いて熊野本古墳群が営まれたと推定されている。
熊野本6号墳 前方部から後方部を見る。 6号墳は、標高165mの丘陵上にある 全長27mの前方後方墳 後方部長さ15.9m・高さ1〜3m 前方部長さ11.1m・幅14.4m・高さ1.4m 葺石なし・埴輪なし・段築なし・周堀なし 古墳時代前期の築造と推定されている。 |
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熊野本4号墳 円墳 この向こう側にも古墳があるはずだが、 崖になっていて古墳は確認できない。 |
熊野本19号墳 径36mの円墳。 |
前方後円墳の12号墳は確認してこなかった。
大國主神社古墳群 | 高島市新旭町饗庭(アイバ) (撮影日2019/5/5) |
地図に、大國主神社古墳群とある。建速神社の南約2km。
詳しいことは分からない…。
大國主神社 |
大國主神社古墳群? |
5月の祭礼が終わったばかりらしい・・・。
建速神社古墳群 タテハヤジンジャコフングン |
高島市新旭町饗庭(アイバ) (撮影日2019/5/5) |
地図を見ていたら、建速神社古墳群とあるので、寄ってみる。
詳しいことは、わからないが、6基ほどの墳丘が確認できた。
仮3号墳と仮4号墳には、石室跡とみられる大穴があいている。
「建速神社古墳群」の石碑と説明板 説明板はほとんど読めなくなっている 10〜20mほどの古墳が何基かあり、 大部分が横穴式石室だということは 読めるのだが…。 境内は、 墳丘らしき盛り上がりが、いくつもある。 |
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建速神社(仮)1号墳 |
建速神社(仮)2号墳、 右奥仮1号墳 |
建速神社(仮)3号墳 |
建速神社(仮)3号墳 墳頂部の大穴 |
建速神社(仮)4号墳 |
建速神社(仮)4号墳 墳頂部の大穴 |
建速神社(仮)5号墳 小屋に寄り添うようにある。 |
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建速神社社殿は、古墳の上に建っている。 (建速神社(仮)6号墳とする) |
(仮)1号墳〜(仮)6号墳の大体の位置
(仮)1号墳と(仮)2号墳は、合わせて前方後円墳に見えるが…、どうなんでしょうね。
妙見山古墳群 ミョウケンヤマコフングン |
高島市今津町福岡他 (撮影日2019/5/5) |
平ケ崎王塚古墳の南にある妙見山には古墳群がある。
妙見山は、北側が宗教施設、南側が住宅開発地となっているが、南側は私有地で立ち入り禁止となっているらしい。
知らずに入り込み、追い出されてしまった…。
滋賀県の資料には、妙見山古墳群の詳細図があり、一部発掘されている。
妙見山古墳群は日置前遺跡群(ヒオキマエイセキグン)の東にある妙見山丘陵に築かれた古墳群。
妙見山丘陵は、面積30万u、比高差約30mの北西方向に延びる楕円形の独立丘陵。
円墳と方墳が約80基確認されている。
立地から大きくA〜F支群の6つのグループに分かれ、
標高125〜130mの最高所に築かれたA支群を始め、
丘陵尾根上だけでなく、丘陵の北東および南東側の斜面にも広がっている。
すぐ北側に所在する王塚古墳群と、一体となる可能性もある。
古墳は、3世紀末〜7世紀後半の築造と推定されていて、
古墳時代のほぼ全期間にわたって続いていたと考えられている。
妙見山古墳群分布図
(古墳辞典から)
見学できた3号墳と10号墳を赤で示している
上にある大きい円墳が、平ケ崎王塚古墳で、
近年は東側に前方部がある前方後円墳
ではないかといわれている。
住宅地としてつくられた道路に残されているのが、
3号墳と10号墳
立入禁止の場所なので、小さく掲載する…。
3号墳 |
10号墳 |
3号墳と10号墳の間の林の中には、群中最大級の1号墳・2号墳が残っているようだ。
平ヶ崎王塚古墳 |
滋賀県高島市今津町日置前 |
旧今津町日置前にある。平地に大きな墳丘。
古墳辞典に平ヶ崎王塚古墳と名づけられている。
平ヶ崎王塚古墳全景
西側から
王塚古墳は
二段築成の円墳。 直径56m・高さ7m
墳頂部に直径15mの平坦部がある。 幅13mの周濠がめぐる。
東側に造り出しがあった可能性がある
発掘調査がされていないので、詳細は不明
葺石・埴輪は確認されていない。
墳頂部中央に深い盗掘坑があるが、石材は見当たらない。
主体部は木棺直葬か粘土槨と考えられている。
5世紀の終わりごろの築造と推定されている。
平ヶ崎王塚実測図
(文化財学習シートから)
王塚古墳の周辺の日置前遺跡・構遺跡・妙見山古墳群などからも
数多くの後期古墳が確認されている。
妙見山古墳群は王塚古墳の南の丘陵(妙見山丘陵)にある。
61基確認。円墳と方墳が混在している。 王塚古墳群と、一体となる可能性もある。
3世紀末〜7世紀後半の築造と推定されている。
(文化財学習シートより)
植林をしてし今の王塚古墳の姿になったというが、古墳を保存するには植林が必要なのか疑問。
斎頼塚古墳 西牧野古墳群 北牧野古墳群 |
滋賀県高島市マキノ町牧野 |
2回目の訪問でやっと斉頼塚古墳を見つける。
2008年5月の 西牧野古墳群・北牧野古墳群 |
牧野の集落に入り、「西牧野古墳群と斎頼塚古墳」と書かれた説明板を発見。
「西牧野古墳群と斎頼塚古墳」の説明板
柵の向こうに立つ
墳丘の立派な古墳その1 |
墳丘の立派な古墳その2 |
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石材の露出した古墳その1 |
石材の露出した古墳その2 |
石材の露出した古墳その3 |
石室の露出した古墳・その1 (埋没している) |
斎頼塚古墳は見当たらない。
もう少し北の牧野高原の大駐車場の横に「北牧野遺跡群」の説明板発見。
「北牧野遺跡群」の説明板
北牧野遺跡は
高島市マキノの北西部斜面に立地する製鉄遺跡
北牧野遺跡のそばに北牧野古墳群がある。
北牧野古墳群は
96基の古墳が確認されている。高島市最大の群集墳。
北牧野2号墳では、石室内から滋賀県下で2例目の金銅製単龍環頭太刀が発見された。
(滋賀県文化財学習シート・古墳大辞典から)
2012年5月の 西牧野古墳群・北牧野古墳群 |
以前、探したが見つからなかった斉頼塚古墳。
依然と比べると、別荘がたくさん建っている。
西牧野古墳群には、別荘地からは、フェンスがあって入れない。
前回と同じ説明板のあるところから、フェンスを開閉して林の中に入る。
一帯は石材が露出した古墳がいっぱい!
西牧野古墳群 マキノ高原を流れる知内川の西側の標高134〜180m付近にある。 南北約200m、東西約130mの範囲に計47基の古墳がある。 現状で確認できる古墳の全てが円墳で、大きさは、直径約5.3〜21m、高さは0.6〜3m程。 主体部は、現在確認できるものは全て横穴式石室。周溝のある古墳も確認されている。 6世紀半ばの築造と推定されている。 この古墳群の北東約800mの所にある、150基以上の円墳で構成される北牧野古墳群とともに、最大規模の古墳群を形成している。 この中でも中心となる古墳は、斉頼塚古墳。 製鉄遺跡群が隣接して分布することから、製鉄集団と密接な関係があったのではと、想像されている。 大半は未調査。 (説明板から) |
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西牧野古墳群その1 |
西牧野古墳群その2 |
西牧野古墳群その3 |
西牧野古墳群その4 |
西牧野古墳群その5 |
西牧野古墳群その6 |
西牧野古墳群その7 前回も見たなぁ・・・・ |
西牧野古墳群その8 周溝があったような感じ・・・・・ |
探しまわるが、斉頼塚古墳は見つからない。
最後に小高い丘の上が残る。もう、ここしかない!・・・・・あった!
斉頼塚古墳 斉頼塚古墳石室実測図 (滋賀県文化財保護協会 紀要20号 楢崎1号墳の研究から引用) 斉頼塚古墳は 西牧野古墳群中の1基 直径13〜14m・高さ4mの円墳 標高150mに位置し、墳丘の東南部には右片袖の横穴式石室が開口している。 石室は全長7m。 玄室長5m・幅2.2m〜1.6m 石室の奥壁中央部には、県内で唯一、 九州の古墳によく見られる、石棚が造られている。 畿内的特徴と九州の特色を兼ね備えた構造となっている。 |
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斉頼塚古墳 集落にのびる尾根の先端に位置する。 墳丘は 上の方だけ。 |
斉頼塚古墳 開口部 |
斉頼塚古墳 石室入口 |
斉頼塚古墳 石室内部 |
斉頼塚古墳 立派な石棚 |
斉頼塚古墳 石室内部から外を見る |