北村さんちの遺跡めぐり
野洲市の古墳・遺跡 野洲市の地図g
妙光寺古墳群 | 野洲市妙光寺 (撮影日2019/2/24、26) |
野洲市妙光寺山の南麓と山頂にある群集墳。
宗泉寺支群・三上神社支群・東光寺支群・山頂支群の4支群で、約70基で構成されている。
妙光寺古墳群配置図
(マピオン地図・野洲市遺跡地図から作成)
宗泉寺支群1号墳
三上神社支群1・24号墳
東光寺支群11号墳
は大体の場所を示している。
宗泉寺支群 | 妙光寺古墳群 |
妙光寺山の南東のふもとに宗泉寺がある。
宗泉寺の説明板には、
「このあたり一帯には、
奈良元興寺道智法師が686年に開創したという東光寺という大伽藍の寺院があった。
その後平安時代に天台座主慈覚大師円仁により中興され盛時には百坊をこすほど栄えた。
しかし、二度にわたる法難にあった比叡山との争いを起こし焼失(1460)、
さらに織田信長の兵火により焼失(1573)、ついに廃絶してしまった。
遺品は宗泉寺薬師堂に引き継がれている。
境内に石造り燈籠(鎌倉時代)、
堂内に薬師如来坐像(平安時代)、
毘沙門天立像不動明王及び両童子像(共に鎌倉時代)が安置されている。」
とある。
宗泉寺支群は 15基確認されている。 | ||
宗泉寺支群1号墳 宗泉寺本堂裏の西のフェンス手前に石室が露出している。 2.9m×1.6mほどの小石室
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宗泉寺支群(仮)15号墳 もう一つの墳丘が見つかったが何号墳かは不明 本堂東のフェンスの先のビニールパイプの向こうに墳丘がある。 玄室は完存。3m×1.5m×1.5mほど
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三上神社支群 | 妙光寺古墳群 |
宗泉寺から東へ行くと大きなため池があり、その北側に三上神社があるが…、
このルートは、フェンスに鍵がかかっていて入れない。
南側に迂回してみたら、こちらは鍵の掛かっていないフェンスだったので入ることができて、
東側から三上神社そばまで行けた。
1号墳と24号墳しか特定できない。
三上神社支群は、神社周辺の山麓一帯にあり、30基が確認されている。 | ||||
三上神社支群1号墳 三上神社東の三差路そばにある。 径12mの円墳 横穴式石室が開口している。玄室推定長5m、幅2.1m、高さ2.6m
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1号墳から西の墳丘 1号墳と三上神社の間の山麓斜面に、いくつも墳丘がある。 古墳番号は特定できない。
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三上神社
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三上神社の西にも墳丘が確認できるが、特定できたのは24号墳だけだ。
三上神社支群24号墳は 道からため池に突き出す形で保存されている。 玄室長4.3m、幅1.9m、高さ2.45mの右片袖式 羨道は埋まっており、前壁が開口している。
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山林内にも墳丘がたくさんあるようだ。
東光寺支群 | 妙光寺古墳群 |
三上神社支群1号墳そばの三叉路の北側の山道を登っていくと、駐車場があり、出世不動尊がある。
出世不動尊
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東光寺支群11号墳 巨大な天井石が露出し、玄室前側が開口。 玄室は長さ3.5m・幅1.75m・高さ1.5m以上、羨道幅1mの両袖式
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11号墳より上に登るとほかにも墳丘。
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景色がいい!
磨崖仏 |
ドルメン(?)の向こうに見えるのは近江富士 |
山を下りて…
不動尊手前の駐車場から少し登ったところに10号墳。
東光寺支群10号墳 墳丘はかなり流失し、横穴式石室が露出。 古墳群中最大で、最も保存状態の良い石室。 玄室長5.1m・幅2.3m・高さ2.15m 羨道長3.8m・幅1.55m・高さ0.85mの両袖式
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山頂支群というのもあるらしいが、行っていない…。
田中山古墳群 |
野洲市妙光寺 (撮影日2019/2/24、25) |
妙見山の北側の山、田中山にも古墳群がある。
田中山の南西のふもとに墓地があり、墓地の中に古墳が残っている。
田中山古墳群 田中山の南側山麓に29基の古墳が分布している。 |
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田中山27号墳 墓地の真ん中に丸く残されている。 |
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田中山(仮)28号墳 27号墳の20mくらい北の墓地内の空き地にあやしい石が…
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(仮)28号墳を29号墳かと思ったので、本物の29号墳は見学して来なかったが、
29号墳も墓地内にあるはずだ!29号墳でも横穴式石室が露出しているそうだ。
この墓地から南東に麓沿いを200mほど行ったところの橋を渡ってすぐ左の林の中に、
3基の横穴式石室をもつ15号墳がある。
田中山15号墳 | ||
径15mの円墳と考えられている。 3基の横穴式石室が開口する三室墳。 西向きに、1・3号石室が開口。 南側に、2号石室が開口。 1号石室は、玄室は3.5m×2m×1.9mの右片袖式 3号石室は、3m×1.3m×1.2mの無袖式 2号石室は、玄室は2.4m×1.6m×1.3mの左片袖式 |
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田中山15号墳 3基の石室があるとは思えない。 穴が二つ見えている。 |
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田中山15号墳 1号石室 |
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田中山15号墳 3号石室
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田中山15号墳 2号石室
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山の中で古墳を探すのはむずかしい…。
田中山古墳群と福林寺古墳群の配置図
(マピオン地図・野洲市遺跡地図から作成)
田中山27号墳・15号墳の大体の位置を示している。
福林寺4号墳は、位置を特定できない。
福林寺跡磨崖仏 福林寺古墳群 |
野洲市妙光寺 (撮影日2019/2/25) |
田中山27号墳のある墓地から山麓の北西の歩道を歩いていくと、福林寺跡磨崖仏の案内板がある。
そこから山に入り、しばらくで磨崖仏群がある。
山の中の案内標識
福林寺跡磨崖仏 | |
この辺りは「堂山」といわれ小磨崖仏群が点在している。 中でも入口より約50m進んだ右手奥には、岩に平肉彫りされた約45cmの地蔵立像が13体ある。 また、一番見事な磨崖仏は如来像2体と観音立像1体が刻まれていて、 特に観音立像は最も美しい姿をしているといわれ、室町時代初期の作品である。 ほかにもたくさんの磨崖仏があったとされるが、大正9年の調査報告書に 「近年コノ礎石ニ彫刻セル仏像ヲ割取ラントセルモノアリ」と書かれている。 しかし当時すでに仏像の大部分は、大阪方面の富豪の庭に持ち去られたといわれ、 いまに残る一番見事な磨崖仏もノミのあとが痛々しく残っている。 これより約1km先には妙光寺山磨崖仏があり、 高さ約160cmの地蔵菩薩立像が大きな岩に彫られている。 平成4年野洲市観光物産協会 (現地説明板から) |
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如来像2体と観音立像1体 (室町時代初期) |
地蔵立像が13体 |
「福林寺址」石碑と小石仏群 |
小磨崖仏群 |
十二所神社跡 もとの福林寺境内にあった十二所神社は 大正時代に 小篠原の稲荷神社に合祀されたという。 |
磨崖仏周辺には福林寺古墳群がある。
はっきり確認できたのは、4号墳だけだ。
福林寺古墳群 | ||||||||
福林寺跡磨崖仏群の周辺に福林寺古墳群11基が分布している。 | ||||||||
福林寺4号墳は 径15mの円墳 横穴式石室は全長8.1m、玄室長4.1m・幅2m、羨道長4m・幅1.7mの片袖式
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別の墳丘の 横穴式石室らしいものが露出している。 他の墳丘はなかなか特定できない…。 |
この辺りの山は松茸が採れるらしく、秋は入山禁止になるという…。
大岩山古墳群 |
滋賀県野洲町辻町・小篠原・冨波 |
野洲には24口もの銅鐸が発見された大岩山遺跡と、
大岩山古墳群(冨波古墳・小冨波古墳・大塚山古墳・亀塚古墳・天王山古墳・丸山古墳・甲山古墳・宮山2号墳など)がある。
それを記念して1988年(昭和63)歴史民族資料館・銅鐸博物館が開館した。
大岩山古墳群配置図
大岩山古墳群について (説明板から) | ||||||
大岩山丘陵から富波の平野部には3世紀後半〜7世紀初めにかけての古墳が築かれている。
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五之里古墳 大岩山古墳群 |
野洲市富波乙 (撮影日2014/9/21) |
五之里集落の南はずれの田圃の中の墓地が、五之里古墳だという。 説明板はない。
五之里古墳は、本来は径25mの円墳 周辺部の調査で、中期末頃の埴輪片が出土。 近くに2号墳が存在した可能性があるそうだ。 |
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北から見た五之里古墳 周りより少し高いかな・・・ |
西側には「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の周りに 木碑(墓?)がたくさん立っている |
知らなければ古墳だとは思わない。
冨波古墳 トバコフン 大岩山古墳群 |
野洲市富波乙 (撮影日2014/9/21) |
墳丘は削平されてしまっているが、形と大きさを実感できるように整備されている。
冨波古墳は 墳長42mの前方後方墳 後方部22m・前方部幅20m・くびれ部幅9m 外周の幅4.5〜7mの溝を含めると、全長は52.4mとなる。 高さや埋葬施設については不明。 周壕内から、近江地域の特色をもつ古墳時代初期の甕や、 東海地域に特徴的な丹塗り壺の破片が出土している。 弥生墳墓から古墳にいたる過渡的な様相をもつ古墳時代前期の築造と推定されている。 墳丘はすでに削平され、一帯は水田となっていたため、 1982(昭和57)年の発掘調査で初めて発見された。 また、南東側の隅では、古墳との関連が想定される円形周溝墓が確認されている。
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冨波古墳史跡公園 国史跡の貫録だ! |
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後方部から前方部を見る |
前方部から後方部を見る |
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前方部から見たくびれ部 |
南側の前方部の先端角 |
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南東側の隅で確認された円形周溝墓が 植え込みで示されている。 |
復元古墳なのだが、天気も良くたくさん写真を撮ってしまった・・・・
公園内では、少年兄弟二人が虫取りに興じている。
古冨波山古墳 コトバヤマ 大岩山古墳群 |
野洲市富波乙 (撮影日2014/9/21) |
冨波古墳の南の住宅街の中に公園として残されている。説明板がある。
古冨波山古墳模式図 (説明板から) 昭和49(1974)年の宅地造成に伴う発掘調査当時 径30mの円墳 現在盛土が高さ1.5mほど残っている。 主体部は、木棺直葬と考えられている。 (掘り形の一部が検出された。1974年) 冨波古墳に次ぐ3世紀後半の築造と推定されている。 |
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明治年間に銅鏡3面が出土している。最初に三角縁神獣鏡が副葬された古墳といわれている。 三角縁陳氏作四神二獣鏡 (説明板から) 径21.8cm (東京国立博物館蔵) 京都府椿井大塚山古墳と同じ型の鋳型で製作されたもの 三角縁呉作三神五獣鏡 (説明板から) 径22.0cm (個人蔵) 兵庫県洲本市コヤダニ古墳、伝京都府椿井大塚山古墳、 奈良県天理市黒塚古墳、静岡県菊川市上平川大塚古墳 から出土した鏡と同じ鋳型。 「王氏三角縁四神四獣鏡」(径21.9cm)は、 福岡県福岡市老司古墳、奈良県天理市黒塚古墳出土鏡2面、 アメリカ合衆国のフリーア美術館蔵品鏡と同じ鋳型のもの。 この鏡は1905(明治38)年にドイツ連邦共和国のベルリン博物館に寄贈されている。 |
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西から見た古冨波山古墳 |
墳丘上には何もない・・・ |
亀塚古墳 大岩山古墳群 |
野洲市富波乙 (撮影日2014/9/21) |
ほとんど墳丘が無くなっているが、史跡公園として残されている。
大岩山丘陵の北西に広がる自然堤防上につくられている。 亀塚古墳実測図 (説明板から) 2007(平成19)年試掘調査で周壕が発見された。 後円部の墳丘は径33m前後で、西へ伸びる前方部があり、 全長45m以上の帆立貝形または前方後円墳と考えられている。 古くから土取り場となっていたため、墳丘はあまり残っていない。 周壕部分は水田となっていたが、幅9mほどと想定されている。 削平されているため、段築や埋葬施設は不明 墳丘下段と東側の畑地から多くの土器片が出土。 円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪などの埴輪が出土 円筒埴輪は口径25〜30cm、底径20cm前後、基底部を含め4段前後に復元できる。 5世紀後葉〜末ころの築造と推定されている。 江戸時代には、後円部の墳丘が亀に似た形から、字名に亀塚の名が生まれた。 冨波古墳と亀塚古墳の位置関係 (説明板から) 冨波古墳と亀塚古墳の間に 前方後方形の地形があり、 この場所がなんなのかという議論がある。 |
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亀塚古墳 東から見る 左奥・前方部 右手前・後円部 |
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前方部から後円部を見る 後円部の一部しか高まりはない。 |
後円部の残存墳丘 東から見る |
宮山2号墳 |
滋賀県野洲町字阿部 |
銅鐸博物館の敷地内にあるのが宮山2号墳だ。銅鐸発見の契機となった土取り中に発見された。
1992年の宮山2号墳 石室の天井と奥壁の一部が無くなり、 木の根などにより側壁も崩れそうだった。 |
2003年の宮山2号墳 |
直径15m・高さ3.5mの円墳。
600年ごろの築造。
宮山2号墳石室
長さ3.3m・幅1.8m・高さ2.5mの玄室内には、
花崗岩を組み合わせた棺が安置され、
棺の底石には側石を立てるためのくぼみの溝が彫られている。
棺は復元したものらしい
(奥壁の一部が壊れ、石棺は底石材と小口石しか残っていなかった)。
桜生史跡公園 さくらばさましせきこうえん 大岩山古墳群 |
滋賀県野洲町小篠原 (撮影日1992年 2003/4/29 2019/2/26) |
大岩山古墳群の中の天王山古墳・円山古墳・甲山古墳を整備して公園とした。
桜生史跡公園案内図
(現地案内板から)
新幹線と国道8号線に挟まれた丘陵にある。
駐車場完備
案内所あります
円山古墳
大岩山古墳群桜生史跡公園 直径28m・高さ8mの円墳
大岩山から北西に延びる丘陵上にある。
西側に入口を持つ横穴式石室は長さ10.8m
玄室長さ4.3m・幅2.4m・高さ3.1m 奥から見て右片袖式
羨道は 長さ6mで、玄室までに約1m斜めに下り、
天井石も奥に向かって階段状に下がる構造となっている。
玄室には刳り抜き式石棺があり、
調査によって、奥壁側からも新たに組合式石棺が発見された。
玄室床面には玉石が敷かれ柱穴が検出された。
盗掘されていたが、
玄室床面から 鉄製武器を中心に多量の遺物が出土
装身具には
銀製の垂飾付耳飾と螺旋状耳飾、冠に取り付ける飾金具類、銀製空玉やガラス玉など、
武具類には
捩環頭太刀の銀製捩金具や鹿角製の柄をもつ小刀、矛、鉄鏃、
挂甲と衝角付冑、弓矢を納める胡?、また轡や鞍・鐙などの馬具も出土している。
6世紀前半の築造と推定されている。
刳抜式家形石棺は 長さ2.85m・幅1.46m・高さ1.83m
円山古墳墳丘図
円山古墳石室図(いずれも現地パンフレットから)
身と蓋をくりぬき、家形に加工している。
熊本県宇土半島の馬門石製
蓋には長辺の斜面に各2個の縄掛け突起があり、全体に朱が塗られている。
調査で、蓋の短辺部にも2対の縄掛け突起があるとわかった。
組合式家形石棺は
奥壁に三方が接するように設置され、蓋と手前の側石は破壊されていた。
石棺は底石で長さ2.45m・幅1.20m。
底石は5枚の板石からなり、周囲を一段低く加工して側板をのせ、
小口板は溝が設けられ長側板の外面には小さな長方形の突起を備えている。
蓋は、出土した破片から低い屋根形で側板で印籠合わせの構造で組み合わされている。
石材は、大阪と奈良に位置する二上山の凝灰岩製。
円山古墳 1992・2003・2019年の比較
1992年
1992年円山古墳石室入口
1992年の円山古墳石棺2003年
円山(まるやま)古墳(墳丘は上部のみ)
円山古墳石室入口
円山古墳石棺 2019年
円山古墳墳丘は上のほうだけ
西側に入口をもつ石室には柵がある。
石室には刳り抜き式家形石棺と
その奥に組合式家形石棺が置かれている。
墳頂 標高126.3m
天王山古墳 国史跡 桜生史跡公園 北に前方部を向ける 全長50mの前方後円墳
後円部径26m 前方部長さ24m 高さ8m
大岩山から甲山古墳へ続く丘陵上にある。
古墳は丘陵を利用しているため、盛土が比較的少ない
後円部では、埋葬主体は確認されていないが、
前方部で西に入口をもつ小さな横穴式石室が見つかっている。
長さ4.3m 玄室の長さ2.9m 玄室の幅1.0mの小さなもので、
板石状の花崗岩を積み上げてつくられていて奥から見て右に袖をもち
羨道は短く狭く、小さな石を積み上げて入口を閉じている。
盛土内から須恵器や土師器のほか
朝鮮半島の軟質土器や陶質土器器台片などが出土している。
6世紀初頭の築造と推定されている。
天王山古墳墳丘図
天王山古墳前方部の石室図(いずれも現地パンフレットから)
天王山古墳 2003年と2019年の比較
2003年
天王山古墳
手前の小山が前方部
左後方が後円部
前方部の方が高い。
2019年
天王山古墳への上り口
前方部裾に続いている。
前方部から後円部を見る
前方部は標高119.2m
後円部から前方部を見る
甲山古墳 国史跡 桜生史跡公園 天王山古墳北側の丘陵先端にある直径30m・高さ8mの円墳
西に入口をもつ横穴式石室は全長14.3m
奥から見て右片袖式
玄室の長さ6.6m・幅2.9m・高さ3m
羨道の天井石を階段状に積んで奥に向かって下がっていくようになっている。
玄室の中央に刳り抜き式石棺を安置し、
床面には玉石を敷き、その上には朱や雲母が散乱していた。
副葬品には、冠や装飾太刀に取り付く飾金具や金糸、山梔玉、切子玉、棗玉、ガラス玉など
武具類は太刀、小刀、矛、鉄鏃、挂甲など
馬具には金銅製の鐘形鏡板付轡や馬甲などが出土している。
刳抜式家形石棺は、玄室の中央に安置され、長さ2.60m・幅1.60m・高さ1.90m
石材は熊本県宇土半島の馬門石製
蓋には長辺に各2個、短辺にも長方形の縄掛け突起がある。
棺内は盗掘を受け、わずかにガラス玉が2点出土しただけ。
石棺は内外面とも朱とベンガラで真紅に彩色されている。
6世紀中ごろの築造と推定されている。
甲山古墳墳丘図
甲山古墳石室図(いずれも現地パンフレットから)
甲山古墳 1992・2003・2019年の比較
1992年
石室入口
玄室手前の天井石が落下、
内部に大量の土砂が堆積していた。2003年の甲山古墳
石室入口
甲山かぶとやま)古墳のUFOみたいな外観
コンクリートで固められているので草も生えない
甲山古墳の巨大な石棺
(5人ぐらい入れそうな石棺です)
(案内板の写真引用)
手前に柵があって写真が撮れなかった。
2019年の
墳丘
横穴式石室羨道部入口
玄室入口の柵は入れない…。
玄室には家形石棺が置かれている。
羨道から入口を見る
巨大な石棺にびっくり!
大塚山古墳 |
滋賀県野洲町大篠原 |
桜生古墳公園横を通る東海道新幹線とその向こうの琵琶湖側を通る東海道本線の間にあるのが、大塚山古墳だ。
前に来たときは、墳丘の周りは畑だった。
が、2003/4/29現在は濠の復元整備中で、立ち入り禁止になっていた。
直径57m・高さ8mの帆立貝形古墳(造り出しを含めると全長65m)。 |
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整備途中の大塚山古墳 墳丘は三段の円形を成す。 |
大塚山古墳正面
古墳の横で畑仕事をしているおじさんが
「元はうちの土地だから入ってもいい」
とか何とか独り言のように言っていた。
銅鐸出土の地 | 野洲市小篠原 (撮影日2018/4/30) |
野洲市小篠原の日吉神社周辺にある桜生古墳群を見に行こうと、
野洲市歴史民俗博物館の西の道を通った時に発見!
この付近の地(大岩山)で、明治14年・昭和37年に銅鐸24個が発見された。 その中には、日本最大(高さ134.7cm)のものが含まれている。(説明板から) |
「銅鐸出土跡」の石碑と 説明板 |
桜生古墳群 | 野洲市小篠原 (撮影日2018/4/30) |
HP「大和國古墳墓取調室」様の情報をもとに、周辺の古墳群の見学に行く。
銅鐸出土跡から西へ約300m、林の中の道を行く。
日吉神社の説明板がある。
日吉神社 | |
日吉神社の歴史は明らかでないが、少なくとも鎌倉時代には造営されていたと考えられている。 祭神は大山咋(オオヤマクイ)神。 本殿は国の重要文化財となっている。 本殿は、鎌倉時代後期に建てられたもので、形式は一間社の流造。 小規模な本殿であるが、 室内は板扉で内陣(神を祀る部屋)と外陣に区画し、正面に格子戸を建てる。 簡素で一般的形式の本殿であるが、たたずまいの美しい優れた建築である。 |
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日吉神社 |
本殿は…よく見えない… |
日吉神社の周辺に古墳がある。
桜生古墳群は 大岩山南の日吉神社周辺に分布する古墳群で、 本来は甲山古墳などと一体の古墳群であったと考えられている。 20基以上の径10〜20mの円墳からなり、主体部はすべて横穴式石室と考えられている。 |
日吉神社の東側の雑木林の中に2基の円墳がならんでおり、夫婦塚と呼ばれている。
桜生11号墳・12号墳とその周辺 | ||||
左(西側)11号墳 右12号墳 |
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桜生11号墳 径15mの円墳 南に横穴式石室が開口している。 全長4.4m、玄室長3.5m・幅2.1m・高さ1.5m 羨道長0.9m・幅1.2mの右片袖式 羨道はほとんどない。
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桜生12号墳 径15mほどの円墳 主体部は埋もれている。 11号墳の東隣りにある。 桜生12号墳 墳丘 |
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11号墳・12号墳近くの他の墳丘(跡)?
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日吉神社の背後の竹林中には、15号墳がある。
桜生15号墳とその周辺 | ||||||
桜生15号墳 径15mの円墳 横穴式石室は全長10m、 玄室長5m、幅2.2m、高さ2m、羨道長5m、幅1.5m、高さ1.2mの両袖式。
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その他の古墳(跡)
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越前塚古墳 コシマエヅカコフン 市指定史跡 |
野洲市小篠原 (撮影日2018/4/30) |
国道8号線のすぐそばなのだが、なかなか行き着けない。
行き方は、なかなか説明できないので、HP「古墳とかアレ」様をご覧ください。
越前塚古墳は 妙光寺山先端の小丘陵頂部にある。 全長52.5mの前方後円墳 後円部径30m・高さ4.7m 前方部先端幅25m・高さ3.5m 前方部を北東方向に向けている。 墳丘には葺石がある。 墳丘に埴輪が並んでいた(種類は不明) 後円部中央に北方向に開口する全長7.72mの右片袖型横穴式石室がある。 羨道の長さ2.4m・幅1.2〜1.35m・高さ1.6m 玄室の長さ5.25m・幅3m・高さ2.3m 古墳時代後期・5世紀末〜6世紀初頭の築造と推定されている。 |
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後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
後円部頂の石碑と埋められた石室 (白い所) |
後円部頂に露出している石 |
石室が開口していると聞いたが、埋められている!残念!!
向山古墳群 | 野洲市大篠原 (撮影日2018/4/30) |
野洲市大篠原の東海道新幹線南側にある3つの丘陵からなる向山尾根上に古墳がある。
線路沿いの道の脇には、「12号古墳」と書かれた説明板が見える。
向山北麓の「12号古墳」説明板
でも、どこに行けば見られるのかは記されていない
そこから藪をかきわけて登り、そのてっぺんまで行くと…あった!!12号古墳!
向山12号古墳 | |
帆立貝形古墳 詳細不明… | |
後円部 右に前方部 |
後円部から前方部を見る |
前方部から後円部を見る |
前方部側 |
18号古墳は、石室が開口しているというが、どこにあるかよく分からないので断念。
向山の南麓には「夕日ヶ丘登山口」があり、「向山古墳群及び古窯跡」の説明板がある。
「向山古墳群及び古窯跡」説明板 |
向山の丘陵には多くの古墳があり、山麓には各所に須恵器窯跡がある。 古墳は確認されたもので12号から21号まで合計10基あり、 いずれも古墳時代後期のものと考えられている。 12号墳は、帆立貝式円墳で、その近くでは古墳時代後期の道路跡も発見されている。 18号墳は石室が開口している。 古窯跡は数ヶ所発見されていて、 5世紀末〜7世紀にかけての須恵器窯跡で各種須恵器が出土した。 |
向山には、15世紀には夕日ヶ丘城(別名・向山城)があり、遺構が残っているそうだ。
木部天神前古墳 野洲市指定史跡 |
野洲市木部 (撮影日2018/4/30) |
向山から、西北西に約3.5km、県道32号線沿いの農地の中に古墳がある。旧中主町木部天神前。
説明板がある。
木部天神前古墳 | 野洲市指定史跡 |
明治31年(1898)開墾時に遺物が発見され、「野洲郡誌」には「中里村古墳」とある。 直径40mの円墳と推定されている。 南に開口する横穴式石室は 玄室は長さ4.3m・幅2.2mの片袖式 羨道は長さ6.2m・幅1.3m 床面には円礫を敷き詰める。内部が朱で彩色されている。 『近江蒲生郡誌』には、石棺の存在を示す記載があるが調査では確認できなかった。 副葬品には、獣形鏡、耳環、玉類(管玉・土玉・水晶玉) 鉄製武具(剣・刀、矛、鏃)、馬具(轡・鉄地金銅製鞍金具・鏡板、杏葉)、鉄斧、須恵器がある。 古墳時代後期(6世紀中葉)の築造と推定されている。 木部天神古墳の石室 (古墳辞典から) 1992年発掘調査 西方にある御明田(ゴミョウダ)古墳(5世紀末葉)とともに 野洲川下流右岸域を支配した有力首長墓と考えられている。 |
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低くなってしまった墳丘 |
墳丘上には石材が散乱している。 |
石室のあたりか? |
離れたところにも石がある |
石室が見たかった・・・。
野洲市 終わり