北村さんちの遺跡めぐり
守山市 守山市の地図g
庭塚古墳 | 守山市金森町 (撮影日2019/2/24) |
守山市立図書館の西側の水田の中に、後円部だけ残っている。
庭塚古墳は 本来は全長74mの前方後円墳 現在は墳丘がかなり削られている。 埴輪片が出土している。 古墳時代中期前半の築造と推定されている。 |
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周りは削られていて、円墳に見える。 周囲の水田の調査で前方後円墳とわかった。 |
墳丘上 |
寺山古墳群 市史跡 |
守山市岡町 (撮影日2019/2/24) |
庭塚古墳の南東約2.5kmの住宅街の中に古墳が残っている。
寺山古墳群は、2基の古墳が残されていて、ともに径15m・高さ2m程度の低平な円墳 1号墳は大正6年に調査され、横穴式石室・埴輪・須恵器・土師器が出土している。 南50mにある2号墳は未調査のため詳細は不明 もとは多くの古墳があったようだ。 周辺には、古墳時代中期から後期にかけての集落跡である岡遺跡があることから、 5世紀〜6世紀の築造と推定されている。。 |
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寺山1号墳 |
寺山2号墳 |
伊勢遺跡 国史跡 |
守山市岡町 (撮影日2019/2/24) |
2019年2月、NHK歴史秘話ヒストリアで紹介されたばかりで、そばの皇大神社にパンフレットが置かれていた。
居合わせた地元の男性たちに教えて頂いた。
伊勢遺跡は、昭和55年に発見された遺跡で、 平成23年度末までに110箇所余の地点で発掘調査や確認調査が行われた。 守山市伊勢町、阿村町から栗東市にまたがって広がる弥生時代から室町時代にかけての巨大な集落跡。 東西700m、南北450mに達し、30万uの広さとなる。 平成4年の発掘調査によって、弥生後期としては国内最大の大型建物跡が見つかった。 その後の調査で、柵で四角く囲まれた中に大型建物が計画的に配置されていたことや、 東へ約30m離れた地点に楼観と呼ばれる高い建物があったことが分かった。 さらにこれらの大型建物群を円周状に取り囲むように、 祭殿とみられる大型建物跡が次々と発見された。 祭殿は、伊勢神宮の正殿に似た建物形式と考えられている。 また床面積が185uもある大形竪穴建物も発見され、 王が住まいした建物ではないかと考えられている。 伊勢遺跡では、これまでに13棟を数える大型建物が見つかっていて、 計画的に配置されていることなどから、 この地が近江南部地域に形成された国の政治や祭祀を執り行う中心であったと考えられている。 伊勢遺跡 全体図 (現地説明板から) 平成24年国史跡となる。 |
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まだ、なんにもない |
竪穴住居があるが、復元されているわけではない。 |
どう活用していくかが課題だ。
古高古墳群 | 守山市古高町 (撮影日2014/9/21) |
追分古墳から北に直線で6km、守山市古高町にある古高工業団地内に、古墳が保存されている。
古高古墳群配置図
3基とも、古墳公園として、保存されている。
1977年に工業団地が造成された時に
古墳公園として保存された。
この一帯は
弥生時代から古墳時代前期にかけての下長遺跡があって、
有力豪族の居館や祭祀場などが発見されている。
幸田塚古墳 コウダヅカコフン (古高古墳群) 幸田塚古墳は、雑草が枯れていて、裸の墳丘が見えている。 |
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現在墳丘が削平されて変形しているが、径10m・高さ2mの円墳と考えられている。 主体部は木棺直葬と考えられている。 6世紀の築造と推定されている。 |
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北から見た幸田塚古墳 |
南から見た幸田塚古墳 |
幸田塚古墳の東に松塚古墳、狐塚古墳が保存されている。
松塚古墳 (古高古墳群) | |
径30mの円墳で、3基の中で最大。 幅6〜8mの周濠がめぐっている。 周濠の一部には拳大の川原石を使った葺石が残存しており、 当時は古墳の表面が石で覆われていたと考えられている。 周濠からは埴輪の破片や須恵器が出土。 5世紀後半の築造と推定されている。 昭和60年ごろまでは松の木が茂っていたことからこの名がついた。 |
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市内最大級の円墳 かなり大きな墳丘が残っている。 |
周壕跡も残っている。 |
狐塚古墳 (古高古墳群) | |
長辺15m・短辺10m・高さ1.3mの長方形墳 (説明板には、円墳となっているが、長方形墳と確認された) 昭和30年ころには古墳の上に祠があったらしく形も変形しているが、 大きな花崗岩が露出しているので横穴式石室があった可能性がある。 |
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小さな墳丘が残るだけだ。 |
露出しているという石は見あたらない・・・。 形はよく分からない |
工業団地造成以前は周辺が水田地帯であったため、3基の古墳が同時に観察できたそうだが、
現在は工場に囲まれて、見通しがきかなくなった。
守山市 終わり