北村さんちの遺跡めぐり

近江八幡市の古墳・遺跡     近江八幡市の地図g

瓢箪山古墳
ひょうたんやま

滋賀県近江八幡市安土町宮津
(撮影日2003/4/29)

近江風土記の丘
ここは安土城跡、大中の湖南遺跡、瓢箪山古墳、観音寺城跡からなる史跡公園で、県立安土城考古博物館もある。
本物の瓢箪山古墳が見れるのかどうかわからないので、瓢箪山古墳石室の原寸大模型があるという博物館へ行った。
博物館では「日継知らす可き王無し」-継体天皇の出現-という春季特別展をやっていて、
継体天皇関連の全国の古墳出土の史料が展示されていた。
中でも福岡県岩戸山古墳出土の石人が見学できたのは感動だった。

復元された瓢箪山古墳の中央石室はとても細長いものだった。
博物館に入館したのは午後4時。
5時に閉館なので、大急ぎで見て(もっと時間が欲しかった)、本物の瓢箪山古墳へ。


瓢箪山古墳測量図
(滋賀県文化財学習シートから)

全長134mの前方後円墳
後円部径78m・後円部の高さ13m
 墳丘上から円筒埴輪や、底部を穿孔した壺などが出土
 葺石なし 段築なし
 後円部に主軸に直交する3基の竪穴式石室
  前方部から主軸に平行する2基の箱式石棺がある。

後円部中央石室実測図
(滋賀県文化財学習シートから)

後円部中央石室は
 長さ6.6m・幅1.3m・高さ1.1m
中に粘土を敷き、
その上にコウヤマキ製の割竹形木棺が置かれていた。
被葬者の顎骨、銅鏡、玉類、石製腕飾、
 武器武具類、農工具などが出土
石室の上には9枚の板石で蓋がされていた。
  左右の石室からは、小金具や人骨が出土
  前方部の箱式石棺からは玉類、石製腕飾などが出土。
 4世紀中ごろの築造と推定されている。
 昭和10、11年に発掘調査

瓢箪山古墳・後円部への上り口

大きすぎて写真ではよくわからない。

以前は全長162mといわれていたようだが、
小さくなった
参考 以前のデータ
 全長162m、後円部径90m、前方部70mの前方後円墳
 後円部に3基の竪穴式石室
  (鏡・石製品・銅器・鉄鏃・玉類・鉄器など出土)。
 前方部の2基の箱型石棺
 (銅鏡2面・石釧などの腕飾り類、管玉、剣・刀など多数出土)
 古墳時代前期の築造。

石川県の秋常山古墳と同じくらいの規模の古墳で、単なる山にしか見えない。
大きな瓢箪山古墳は近所の人たちの散歩コースになっているようです。

風土記の丘のちょっと手前に「加賀団地」という住宅地があった。
安土城の時代に前田利家のお屋敷があったところらしい。
歴史を感じてとても興味深かった。

 妙感寺古墳
(岩倉南古墳群)

滋賀県近江八幡市馬淵町
 (撮影日2011/2/20)

千僧供古墳群の南東、岩倉交差点のすぐ東にある諏訪神社境内、妙感寺本堂の後ろにある石灯篭は、
石室の天井石の上に立っている。

妙感寺古墳の天井石
大小二つの石灯篭が立っているのは
石室の天井石の上。
大きい石灯篭の下は奥壁側で、
一部壁が崩れていて穴があいている。

反対側に石室が開口している。
説明板はない。


妙感寺古墳
石室開口部


入口は埋まって狭くなっている。




妙感寺古墳玄門部

かがまないと入れない。






妙感寺古墳玄室

玄門部をくぐったら、
玄室はかなり広くてちょっとびっくり!
玄室長4m・幅1.8m・高さ2m以上、
羨道幅1.3m
左片袖式
の横穴式石室
奥壁は崩れて光がもれている。



妙感寺古墳玄室から入口を見る



 2011年の
千僧供
古墳群

滋賀県近江八幡市千僧供町

岩倉山の麓に馬見岡神社(祭神天津日子根命・天戸間見命)がある。
地名のとおり山頂には磐座(いわくら)がある。岩倉山からは御影石が産出され、大阪城築城の際にも活躍した。
千僧供の地名は、平清盛の菩提を弔うために、平氏がこの地を延暦寺に千僧供養料として寄進したことにちなんでいる。

馬見岡神社

「延喜式」にのる式内社。
社宝に木造天津日子根命坐像・天戸間見命坐像木造女神坐像4体・同僧形神坐像(いずれも国重文)がある。

 

岩倉山の山腹には岩倉山北古墳群南古墳群妙感寺古墳
神社前の水田中には千僧供古墳群(住蓮坊古墳・供養塚・岩塚・トギス塚)など
5世紀中頃から7世紀代の古墳がまとまってある。

住蓮坊古墳
千僧供古墳群
近江八幡市千僧供町
(撮影日2003/4/29)

馬見岡神社の道路の反対側に古墳らしい小山が見える。
これが千僧供古墳群・住蓮坊古墳だ。


住蓮坊古墳
千僧供古墳群の東北方に位置する。
径53m、濠を含めると径93mの県下最大級の円墳。2段築成。
主体部は不明。葺石や埴輪などは認められない。濠は変則的な形。
周濠から古式の須恵器が出土。
古墳時代中期の築成。
この古墳の墳頂にある2基の墓は、江戸時代に建てられたもので、
鎌倉時代、当地で処刑されたと伝えられる、法然の弟子住蓮と同じ時京都で処刑されたという安楽の二僧を弔うためのものである。

 トギス塚古墳
千僧供古墳群
近江八幡市千僧供町
 (撮影日2011/2/20)

トギス塚は、千僧供古墳群のもっとも東南部に位置している。



トギス塚古墳

径14mの円墳
周壕はない。

現在墳丘の大部分は消失している。





トギス塚古墳の露出した石材

幅1.5m・現存長さ5mの横穴式石室があるとみられている。
6世紀後半の築造と推定されている。


 供養塚古墳
千僧供古墳群
近江八幡市千僧供町
 (撮影日2011/2/20)

千僧供古墳群のもっとも西側に位置している戸時代には鏡や玉類が出土した。

供養塚古墳
全長50mの帆立貝形古墳
後円部径37m・前方部幅22m
後円部に幅6.5mの造出しをもつ
濠を含めると全長70mとなる。
墳丘はかなり消失している。
周りの畑は何となく丸いかな。
昭和9年の発掘で、短甲や直刀が出土 (市文化財)
昭和57年の発掘調査では多量の埴輪(人物・家・馬・きぬがさなど)が出土


供養塚古墳の墳頂の石

5世紀後半の築造と推定されている。


千僧供古墳群はあと一つ 岩塚古墳を見逃している。

2018年の
千僧供古墳群
近江八幡市千僧供町
 (撮影日2018/4/29)

千僧供古墳群は、2003年に住蓮坊古墳、2011年にトギス塚古墳・供養塔古墳を見学したが、
  見残しているものがあった。
千僧供町のりっぱなホームページがあるので、参考にさせていただいた。近江八幡市となる。

 千僧供古墳群は、
 古墳時代中期から後期(5世紀〜7世紀)にかけて平野部に連続して造られた古墳群
 元々は10基あったと伝えられているが、現在は4基が県指定史跡になっている。
 県指定史跡・・・
  供養塚古墳   住蓮房古墳   トギス塚古墳   岩塚古墳
 未調査の古墳
  大将軍塚古墳  ラカン塚古墳
 現存しない古墳
  ジジババ古墳  高ノ瀬古墳   張近古墳     北出古墳

千僧供古墳群配置図


右下の諏訪神社境内には
   妙感寺古墳がある。

岩塚古墳のそばが、工事現場になっていて、古墳が肩身狭そうにしている。

 岩塚古墳     県史跡 撮影日2018/4/29
 径27.5mの円墳
 明確な周濠は認められていない。
 横穴式石室がある
  現在は墳丘土が流出し、石室の石材が完全に露出した状態。
 石室は、玄室幅約2m、現存石室長さ約11mで、ほぼ真南に開口。
 古墳時代後期(6世紀末頃)の築造と推定されている。
 北方の住蓮房古墳、北西方の供養塚古墳に引き続いて築造されたものと見られ、
   在地の首長墓の系譜を引くものとして貴重な古墳である。。
       (説明板から)

石室付近だけが残る

ブロックで囲まれて残る

石組み

左の写真の反対側

岩塚古墳の西の集落の中に2基の古墳が残っているという。
岩塚古墳の西約200m。

 ラカン(羅漢)塚古墳    撮影日2018/4/29
 小川街道の地蔵尊の傍にある小さな古墳。
 未調査のため造築の時期・規模は不明。
 現在、1mほどの盛り土が残っている
 説明板はない。

北の道路から見る

西側から見る

ラカン塚古墳の20mほど北にあるのが大将軍塚古墳。

 大将軍塚古墳  撮影日2018/4/29
 小川街道のラカン塚古墳のすぐ近くにある。
 未調査のため、造築の時期・規模は不明。
 現在1mほどの盛り土が残っている。 
 説明板はない。

奥の高まり。 南から見る。

西から見る。 ちゃんと墳丘が残っている?!


供養が行われている祠

「毎年7月に
小川街道と北浦街道により
  供養が営まれている。 」
 ということだが、
 小川街道と北浦街道というのは、
  なんだろう?

今回、見学しなかったが、県指定史跡となっているほかの3基も紹介。

 住蓮坊古墳    県史跡 見学日2003/4/29
 墳丘径53mの円墳
 濠を含めるとその径が約93mとなり、県下でも屈指の大型円墳
 周濠は墳丘に対し同心円状の形態をとらず、変則的な形をしている。。
 段築がある。葺石なし 埴輪なし。
 墳丘は比較的良好に残っているが、主体部などは調査事例がなく不明。
 円濠内より古式の須恵器が2例出土しており、その形態の特徴から、
   古墳時代中期(5世紀中頃)の築造と推定されている。
 昭和57・58年度に県営圃場整備事業に先駆けて発掘調査。

住蓮房古墳

千僧供古墳群の中では
  一番立派な墳丘が残る。

墳頂の墓

墳頂にある二基の墓は、
江戸時代に建てられたもの。


 鎌倉時代当地で処刑されたと伝えられる法然の弟子住蓮と、
  同じ時京都で処刑されたという安楽の二僧を弔う墓である。
   名前の由来となっている。


 トギス塚古墳    県史跡 撮影日2011/2/20
2018/4/29
 墳丘径14mの円墳
 周濠はない。
 墳丘の大部分が消失しているが、一部石材が露出していることから、
   幅1.5m、既存長さ5mの横穴式石室を内部主体とするものと見られている。
 古墳時代後期(6世紀後半代)の築造と推定されている。
 住蓮坊古墳、供養塚古墳・岩塚古墳に引き続き築造された在地の首長層の墳墓と考えられている。

トギス塚古墳
撮影日2011/2/20

トギス塚古墳の露出した石材
撮影日2011/2/20

岩塚古墳から見たトギス塚古墳 
 (撮影日2018/4/29)

   

 供養塚古墳    県史跡 撮影日2011/2/20

供養塚古墳のイメージ図
   (千僧供町ホームページから)
墳丘長50mの帆立貝形古墳
後円部は径37mで幅6.5mの造出しがある
 前方部幅22m
墳丘の周囲に馬蹄形の周濠がある。
濠を含めると全長70mとなる
 江戸時代・寛文二年に領主福富平左衛門が掘った時に、
   古鏡、水晶、刀などが出土したが、これらは現存していない。
 昭和8年2月に、馬淵小学校への通学路の造成時に土砂場とされ、
  採土の途中に石室が発見され、
  横矧鉄板鋲留短甲、直刀などが出土し、市指定文化財(昭和45年)となっている。
 昭和57年の、県営圃場整備に伴う発掘調査の結果、帆立貝式古墳であることが判明。
  後円部には、幅約4m、長さ約8mのほぼ長方形を呈する「造り出し」があると判明した。
  周濠内からは、墳丘部および外堤より転落した多量の埴輪が出土した。
   〈普通円筒埴輪や朝顔形埴輪を主体に、
    家(八棟以上)、衣蓋、靱、人物、馬、鶏等の形象埴輪〉
  これらの形象埴輪は、濠内でも「造り出し」に対峙する外堤側に集中的に認められ、
   いわゆる外区の存在が推察されている。
  出土した形象埴輪の内、142点が平成16年に新たに県指定の文化財に加えられた。
  こうした古墳のあり方から、5世紀後半の築造と推定されている。

供養塚古墳

シーソーがある。

 削られて小さくなってしまっていて、どこに前方部や造出しがあるのかわからない・・・・

後円部

後円部に露出した石

後円部から前方部を見る?

どこの部分か?

 千僧供古墳群は、現存はこれで全部見学したこととなる。



近江八幡市 終わり

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