北村さんちの遺跡めぐり
更新日2021/3/25
長浜市の古墳・遺跡2 長浜市の地図g
飯喰山古墳(群) イタベヤマコフングン |
長浜市湖北町河毛 (撮影日2019/5/5) |
虎御前山の西に飯喰山(イタベヤマ)という小さな独立丘陵がある。
この山に前方後円墳があるという。
ふもとには薬師如来堂がある。
薬師如来堂 | |
雨の中、静かな薬師如来堂 |
薬師如来堂 お堂 |
薬師如来堂の奥から山に登る。
頂上には、前方後円墳1基と、他に円墳がいくつかあるようだ。
神社の社殿もあるが、神社の名称はわからない。
飯喰山古墳は 全長31mの前方後円墳 後円部径19m・高さ3.5m 前方部先端幅10m・高さ1.2m |
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飯喰山古墳 左が後円部 飯喰山古墳の前方部を削って 社殿が建っている。 |
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前方部にある神社社殿 とその覆い屋 |
前方部脇から見た墳丘 |
前方部から見た後円部 |
後円部から見た前方部 |
ほかに円墳らしき墳丘がいくつか…
(仮)2号墳 1号墳そばにある。
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(仮)3号墳? 参道にも、墳丘らしい高まりがある。
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(仮)4号墳? 円墳の真ん中を山道(参道)が通るのか? |
三川丸山古墳跡 | 長浜市三川 (撮影日2019/5/5) |
虎御前山の南端そばの独立丘陵にあった古墳。
削平されて、墓地になったようだが、すぐ横に復元墳丘がある。
三川丸山古墳は 虎御前山の最南端、通称「丸山」に作られていた。 円墳と考えられている。 埴輪なし 葺石なし 内部は粘土槨で、木棺のまわりを粘土と朱で固めたられたものと推定されている。 多数の土器片のほか、 青銅製の「唐草紋様細線式獣帯鏡(カラクサモンヨウサイセンシキジュウタイキョウ)」が出土。 (中国から渡ったとされる鏡) 県下でもっとも古い時代、弥生末期から古墳時代初頭(3世紀後葉)の築造と推定されている。 昭和53年、虎姫町三川の造成工事中に発見されたが、大半が破壊されていた。 (発掘物は町の公民館に展示) |
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三川丸山古墳跡 右には虎姫時遊館がある。 |
復元墳丘と「丸山古墳跡」の碑 |
虎御前山 | 長浜市中野町ほか (撮影日2020/11/1) |
虎御前山は標高229mの独立丘陵で八相山ともいう。
虎御前山には古墳時代から奈良時代にかけてのものと推定される円墳や前方後円墳の遺構が数多くあり
戦国時代には、この古墳を利用した砦が築かれていた。
蜂屋頼隆陣が築かれていた「北山古墳」や元亀3年織田信長が小谷城攻撃のため築いた砦跡があり、
堀秀政、木下秀吉、瀧川一益などの諸将も砦を築いていた。
また、八相山には、奈良時代天平宝字2年孝謙天皇の勅願により
大獄寺十ヶ寺の一つとして成道寺が建立され僧坊十戸があったと考えられている。
この成道寺の一部に今、矢合神社が建てられている。
虎御前山 案内図 「虎姫」の由来 その昔、長尾山という山の麓に桃酢谷というところがあった。 そこには井筒という泉があり、そのほとりに 虎御前という名の美しいお姫様が住んでいた。 虎御前は中野に住む世々開という長者と結ばれ、 仲睦まじく暮らしていた。 やがて虎御前は身ごもったが、 生まれてきた子は15匹の小蛇だった。 わが身を嘆いた虎御前は 女性淵という池に身を投じてしまった。 その後、子供たちは成人するころには人間の容姿となり、 辺りの土地を治める長となったということだ。 以来この山は虎御前にちなみ、いつのころからか虎御前山と呼ばれるようになった。 明治22年に町村制が施行された時、虎御前姫を親しんで「虎姫村」と名付けられ 昭和15年に「虎姫町」となる。 現在は、長浜市。 |
虎御前山入口 左は徒歩用の石段 矢合神社へ 右は車道 |
一本松古墳 矢合神社境内にある墳丘 詳細不明…。 |
多賀貞能陣地跡 多賀貞能は豊後守貞隆の子。 近江高島郡を領し、各地を転戦する。 元亀3年(1572)の江北出陣に際し、 織田信長に従軍、 虎御前山に陣を構え、戦功をあげた。 しかし、天正10年(1582)の山崎合戦に際し、 明智光秀に応じたために戦後所領を没収され、 京都東福寺に蟄居の身となった。 |
矢合神社 式内社。 平安時代の法典「延喜式」に 「江州浅井郡八相山鎮座八相社」とあり、 古くは八相社または 八相大明神と称していたと考えられている。 矢合神社が鎮座する虎御前山南尾根は、別に「八相山」と呼ばれ、 戦国時代には織田信長が浅井氏の居城小谷城広陵町に備え砦を築いた。 神社の主祭神は、水辺を司る神・葦那陀迦神(アシナダカノカミ)である。 この地は古から水利に恵まれず、 境内社である岩上神社のいわれや世々開長者の伝説、義人清介碑など、 水にまつわる歴史や祭儀が多く、人々の水を獲得するための苦労と共に、 水に対する感謝の心を偲ぶことができる。 (説明板から) |
北山古墳 | |
虎御前山の南に張り出した尾根の上にある全長43mの前方後円墳 埴輪なし 葺石なし 後円部の中央に長さ5.6mの割竹形木棺があったと考えられている。 棺内は、赤い顔料が塗られていて、 鉄短甲・鉄剣・鉄刀子と、舶載鏡が出土した。 |
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北山古墳 (古墳辞典虎御前山遺跡パンフから) |
前方部前面 |
前方部から後円部を見る |
後円部から前方部を見る |
北山古墳と重なる位置に、蜂屋頼隆陣地跡がある。 石碑 蜂屋頼隆陣地跡 蜂屋頼隆は 織田信長に仕えてから頭角をあらわす。 元亀3年(1572)の江北出陣に従軍。 虎御前山に陣を構え、 柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らとともに 小谷の町を破った。 その後も越前朝倉攻め、 伊勢長島攻めなど各地を転戦している。 |
岩屋寺 お堂の正面の扁額には、 「岩屋寺 四国八十八之内 四十五番札所」 と刻まれている。 弘法大師の像が安置されている。 |
虎御前山公園への階段 虎御前山公園は丹羽長秀陣地跡だ。 |
石碑 丹羽長秀陣地跡 丹羽長秀 天文4年(1535)〜天正13年(1585) 天文19年(1550)頃から織田信長に仕える。 永禄11年(1568)9月の上洛に従い 六角氏の近江箕作城を攻略した。 元亀元年(1570)の姉川合戦後は、佐和山城攻めを担当し、 翌年浅井氏の将磯野員昌を降ろして佐和山城主となる。 元亀3年(1572)の江北出陣では、 柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆らとともに小谷の町を破り、虎御前山に陣を構えた。 以後も信長指揮の戦いにほとんど従軍し戦功をあげている。 また、大船建造や安土城普請の総奉行を務めるなど技術官僚としても有能であった。 天正10年(1582)の本能寺の変後は、 羽柴秀吉とともに明智光秀を討伐、その後近江高島・志賀の2郡を得た。 天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦後は、、柴田勝家の旧領が与えられ、越前北ノ庄城主となる。 |
虎御前山公園を過ぎて更に北へ行くと、NTTドコモの虎姫中継所の入り口に着く。
この先は、NTTドコモの専用道路になっていて、ゲートがあり、一般車両は完全に通行止。
ハイキングコースとして、徒歩で入れるようになっている。
ここから、「信長馬場古墳群」が始まる。
信長馬場古墳群 |
虎御前山には現在85基の古墳が確認されている。 そのうち信長馬場古墳群は、1基の前方後円墳(全長43m)を含み総数33基からなる。 信長馬場古墳群配置図略図 現地案内板から 左が南のゲート、右が北となる。 便宜上、 左端(南側)のゲートから、遊歩道が直角に曲がるまでの間を、(仮)A地区 遊歩道が直角に曲がってからNTT鉄塔までを、(仮)B地区 NTT鉄塔から北の地区を、(仮)C地区 とする。 |
残念ながら、この略図のデータしかない…。
信長馬場古墳群 (仮)A地区の古墳群 左端(南側)のゲートから、 遊歩道が直角に曲がるまでの間を、 (仮)A地区とする。 左が南のゲート、右が北となる。 南から北に見学。 |
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墳丘その1 |
墳丘その2 |
墳丘その3 |
墳丘その4 |
墳丘その5 |
ゲートの両側に書かれている古墳は確認できなかった。
信長馬場古墳群 (仮)B地区は、1〜5号墳までの番号が付いている 左が南 右が北となる。 |
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5号墳 直径15〜16mの円墳 南側は道路により変形している
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4号墳 直径15mの円墳 南側にテラスがみられる。 4号墳 墳丘 |
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左・4号墳 右・3号墳 の測量図 (現地案内板から) |
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3号墳 全長43mの前方後円墳 後円部直径26m、前方部長さ17m 葺石がある。
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番号はついてないが遊歩道そばにも墳丘 |
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2号墳 東西15m 南北14mの方墳 南と北の裾には、幅3.5m前後のテラス(壇)がみられる
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1号墳 直径12.5mの円墳 高さは60cm〜3.5m
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NTTの鉄塔を過ぎたあたりで、瀧川一益陣地跡。
瀧川一益陣地跡の石碑と 虎御前山城の説明板 信長は姉川合戦後の元亀3年(1572)、 浅井氏の立てこもる小谷城攻略のため この地に山城を築く。 尾根筋山上に信長の廓(部署の宿舎や 兵士のたまり場となる平坦地)や、 堀切、竪堀などが築かれた。 |
NTT鉄塔から北にも古墳が続く。
信長馬場古墳群 (仮)A地区の古墳群 この図は左が南、右が北 NTT鉄塔の北から堀切までを 仮にC地区とし、 便宜上1〜9号までの番号を付けた |
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(仮)1号墳 |
(仮)3号墳 |
(仮)4号墳 |
(仮)5号墳 |
(仮)6号墳 |
(仮)7号墳 |
(仮)8号墳 |
(仮)9号墳 |
(仮)2号墳は、わからない。
堀切 |
曲輪跡だというが、古墳? |
虎御前山城跡の礎石復元建物 一部、ベンチとして座れます! 小谷山城青谷をはじめ、太尾山城跡や鎌刃城跡などでも発掘されていて、 当時の山城において、ごく一般的な主要施設であったといえる。 復元に用いた礎石は、大津市伊香立の生津城(1560年頃)跡で発掘されたもので、 四間四方(一間1m)の建物(4m四方)であった。 側柱の中に束柱があり、床張りの高床建物だったことが分かる。 このため一部床を復元しベンチとした。 前面間近に横堀があり、東には巨大竪堀がある。 そして西に琵琶湖と竹生島が遠望でき、北側には堀秀政の陣が認められる。 この場所は虎御前山跡のなかても要の位置を占めたといえる。(説明板から) |
琵琶湖に浮かぶ竹生島かよく見える!
竪堀 |
石碑 堀秀政陣地跡 |
堀秀政陣地跡 古墳の連なりか? |
曲輪(郭) |
虎御前山の頂上は、織田信長陣地跡の石碑が立つ。
虎御前山 標高229m 「織田信長陣地跡」の石碑 信長の陣跡と伝えられている。 山の最高所に位置する。 規模の大きい曲輪で、 北・東・西の三方を切り立った崖で 防御されている。 ここから南東に尾根が伸び 「伝 信長先兵陣地」 と伝わる曲輪群がある。 |
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伝織田信長 虎御前山陣城推定復元図 大きな前方後円墳を 利用したと考えられている。 |
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大曲輪 |
長桝形虎口 |
虎御前山南麓から登り、北へ、。順に紹介した。
四ツ塚古墳 | 長浜市四ツ塚町 (撮影日2019/2/26) |
長浜市の市街地、六荘さざなみ通り沿いにある。前にしばらくなら駐車できる。
平成18年に「長浜市四ツ塚町まちづくり委員会」が立てた説明板がある。
四ツ塚古墳(松ノ木塚古墳) 古来よりこの付近に四つの塚があったらしくそのうちの1基である。 現在は、墳丘も削られて規模も形状も判然としないが、直径10m程度の円墳だったらしい。 横穴式石室があったらしく、石材が残存している。 6世紀後半〜7世紀前半の築造と推定されている。 平野部につくられている 継体天皇の時代に、6万の衆を率いて任那復興に赴いた近江毛野臣位の墳墓との説もある (長浜市四ツ塚町まちづくり委員会の説明板から) |
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少し高まりがあるかな 径10mよりは大きく感じられる…。 |
説明板の下に石材!? |
岡の腰古墳 市指定史跡 |
長浜市八島町 (撮影日2019/2/26 2020/10/31) |
県道365号線沿いに、墓地になった小山がある。岡の腰古墳だ。
古墳辞典には、八島古墳群として掲載されている。
八島古墳群は 長浜市八島(旧浅井郡浅井町)にある。 田川の左岸に近い草野川との間の平地につくられた古墳群。 岡の腰古墳、亀塚古墳、狐塚古墳、平塚七ツ塚などがある。 古墳時代中期から後期の築造と推定されている。 |
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岡の腰古墳は 径63m・高さ7.6mの円墳 裾部の北北西に低い壇状施設がある。 幅20m・深さ63cmの周堀がめぐる 墳丘上には近世の墓標が林立するが、墳頂の平坦部は現状で径20m 葺石はあるが、埴輪はない。 |
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岡の腰古墳 北西から見た墳丘 左側手前が壇状施設か 撮影日2019/2/26 |
岡の腰古墳 南から見た墳丘 撮影日2019/2/26 |
南から見た岡の腰古墳
撮影日2020/10/31
亀塚古墳 町指定文化財 |
長浜市八島町 (撮影日2020/10/31) |
岡の腰古墳の南東200mほどのところに亀塚古墳がある。日暮れの写真。
亀塚古墳は、径30m(周囲約102m)・高さ5m(古墳辞典では4m)の円墳 近江朝廷の右大臣中臣連金の墓と伝えられている。 中臣連金は、671年、近江朝廷の右大臣に任ぜられ、 太政大臣大友皇子を補佐する重臣であった。 翌年の壬申の乱において、近江方の軍を率いて奮戦したが、 瀬田川の戦いで破れ、近江国浅井田根の地で斬られた。 (説明板から) 長さ10m・幅4m・高さ1mの前方部がつくが、 前方部は、整備の際に付設されたと考えられている。 (古墳辞典から) |
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西から見た亀塚古墳 夕日に輝いている! |
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入口 扉があるが、鍵はかかっていない。南側 |
墳丘 |
墳頂部 |
北側にある造出し |
亀塚古墳、岡の腰古墳は、八島古墳群といわれている。
ほかにも、狐塚古墳や平塚七ツ塚などがあるそうだが、どこにあるのかな。
南東200mほどにある亀塚古墳は、壬申の乱にこの地で没した中臣金連の墓として整備されている。
径30m・高さ4mの円墳で、長さ10m・幅4m・高さ1mの前方部がつく。が整備の際に付設されたと考えられている。
機会があれば、見学したい。
横山古墳群とその周辺 |
滋賀県長浜市東上坂町ほか |
横山古墳群とその周辺の地図 (見学した古墳を中心に、いろいろな資料をもとに作成)
文化財学習シートから 横山古墳群は、長浜市東部の横山丘陵上に立地する48基以上の古墳からなる古墳群。 姉川、小谷合戦の際に砦に改造されている。 古墳群は築造された位置から横山北部古墳群と横山南部古墳群に分けられている。 横山北部古墳群は、東上坂町龍ヶ鼻から石田町観音坂までを指し、 茶臼山古墳群、堀部古墳群、大門古墳群がある。 横山南部古墳群は、石田町観音坂から小一条町までで、 八条山古墳群、鳥羽上山古墳群、名越古墳群、布勢古墳群、諸頭山古墳群がある。 |
王陵の里史跡案内板
垣籠町の集落内には、
「王陵の里史跡案内板」と名付けられた大きな案内板が立てられている。
また、垣籠町にある古墳には、
墳形と名前の書かれた立て札が立てられている。
これらを設置したのは、
垣籠町のボランティアクラブ「こまざらいの会」の皆さんで、
地元の横山古墳群の保全整備をなさっているそうだ。
横山丘陵にある古墳は、最近の調査で墳形が判明した。
前方後円墳は 山の鼻古墳 小倉古墳1号 小倉古墳2号 坂南古墳
前方後方墳は 龍ヶ鼻古墳1号 龍ヶ鼻古墳2号 堂の前古墳1号 堂の前古墳3号
円墳は 龍ヶ鼻古墳3号 堂の前古墳2号
方墳は 龍ヶ鼻古墳4号 犬飼古墳
墓立古墳
(横山古墳群)長浜市東上坂町
撮影日2011/2/20
墓立古墳は、長浜東部福祉ステーション郷里荘の前庭に保存されている。
墓立古墳
「文化財を大切にしましょう」と「墓立古墳」
と刻まれた石碑が立つのみ。
詳しい事は不明。
墓立古墳には継体天皇の皇子「菟皇子」の伝説があるとか。
墓立古墳墳丘にある石材
石室石材?
滋賀県遺跡地図によると
円墳で石材が確認されたということだ。
墓立古墳の北にある古墳マークの柿田古墳群の辺りには古墳らしいものは見当たらない。
8基の円墳が確認されているというが、墳丘はすでにないと思われる。
墓立古墳の西の加納町には、越前塚古墳群がある。
越前塚古墳(消滅)・・・全長50mの帆立貝形の前方後円墳
後円部径38m・高さ2.2m
盾形の周濠がある。埴輪があった。
39号墳・・・・全長32.7mの前方後円墳
後円部19.9m
周濠がある
43号墳・・・・一辺28.8mの方墳
周濠がある。
(現在どんな状態なのか、残念ながら未確認です。)
古墳の石材露出
岩町塚遺跡
(横山古墳群)長浜市保多町
撮影日2011/2/20
田んぼの中に謎の巨石発見!
岩町塚
田んぼの中に謎の石
「文化財を大切に」と刻まれた石碑があるだけ。
「弘化年中土俗田畝耕鋤の際、馬骨・馬具等発掘せし事あり。
今僅に巨岩を存するのみ。」
という記録があるそうだ。
岩町塚遺跡 長浜市保多町
(参考hp「陵墓 陵印 掲示板」)
滋賀県遺跡地図によると、円墳が1基確認されているということだ。
遠藤直経の墓
滋賀県長浜市垣籠町
(撮影日2011/2/20)
田んぼの中にある。
遠藤直経の墓
姉川の合戦の際、
浅井長政の重臣の遠藤直経が討死した場所と伝えられていて、
字名も円藤という。
当地の40mほど北の畑の中に
「遠藤塚」と呼ばれる塚があって墓標が立てられたが、
圃場事業のため現在地に移された。
長浜茶臼山古墳
県史跡
(横山古墳群)
横山丘陵上長浜市東上坂町
撮影日2007/5/3
2011/2/20
2012/4/3
全長92mの前方後円墳、長浜市最大の大きさを誇る。
後円部径51m、高さ10m 前方部の最大幅37m・高さ8m。
二段築成
墳丘裾部には川原石による葺石がある。
前方部が平野部とは逆の南東の丘陵側に向いている。
4世紀後半の築造か?
円筒埴輪、土師器壺などが出土。
竪穴式石室か?
東海地方と近江地方をつなぐ交通の要衝に位置する。
茶臼山古墳 測量図
(文化財学習シートから)
説明板は 全長約95m、高さ9mとなっている。
2007年5月の長浜茶臼山古墳
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2011年2月の長浜茶臼山古墳 冬の長浜茶臼山古墳 北側の道路から見る (撮影日2011/2/20) 冬は墳丘が透けて見える。 |
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2012年4月の長浜茶臼山古墳
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茶臼山古墳の西麓に古墳マークがある。
「西山古墳(円墳)」という立て札があるが、
墳丘は見あたらない。
背後の山に茶臼山古墳がある。
山ヶ鼻古墳
(横山古墳群)
横山丘陵上長浜市東上坂町
撮影日2011/2/20
茶臼山古墳の登り口の横の道を南に100mほど行ったところから東に登る。
全長42m、最大幅18m、高さ3mの前方後円墳。
・円筒埴輪、須恵器などが出土。
・5世紀前後に築かれたか?
後円部径22m・高さ1.5m 前方部幅12m・高さ1.5m
山ヶ鼻古墳 後円部から前方部を見る |
山ヶ鼻古墳 前方部から後円部を見る 私が立っている所が後円部。 写真右端に案内板が見えている。 背後の山の上には龍ヶ鼻古墳がある。 |
神塚古墳
(横山古墳群)長浜市垣籠町
撮影日2011/2/20
立て札はあるが、古墳のまん中に道路が通り、ほとんど消滅
神塚古墳
方墳
墳丘はないが、道がふくらんでいて、
古墳だったのだなーと思える。
背後の山の尾根先端に山ヶ鼻古墳
山の上に龍ヶ鼻古墳がある。
弘法の池 入口
神塚古墳から東に行き山裾を山ヶ鼻古墳の方に向かうと、
途中に、弘法の池(加持水の池)の説明板がある。
ちょっと上がってみたけれど池はみあたらない。
垣籠古墳 県史跡 (横山古墳群) |
滋賀県長浜市垣籠町 撮影日2007/5/3 2011/2/20) 2012/4/30 |
昔から王塚と呼ばれ、応神天皇の皇子、稚沼毛両岐王(ワカヌケフタマタオウ)の墓だという伝承がある。
垣籠古墳がある両岐王宮(フタマタオウノミヤ)
撮影日 2012/4/30
垣籠古墳は 現存長約40m、前方部の高さ約5.5mの前方後円墳とされていたが、
近年前方後方墳と確認された。
復元長54m。
二段築成された後方部の長さ27m、高さ3mで、前方部の最大幅は28m、高さ5m
外周施設をふくめると全長が80mになる。
墳丘には円筒埴輪などが並べられていた。
後方部にある埋葬施設は竪穴式石室。
明治時代の数回の土取りの際、遺物が出土。
人骨、ガラス製勾玉1、碧玉製管玉、10、ガラス製小玉70、
倭製乳文鏡1、鉄刀1、鉄剣、鉄鉾1、鉄製小物、鉄棒、不明異形品、花形金具1など
5世紀後半の築造と推定されている。
垣籠古墳前方部 小さな社が建つ。 撮影日2007/5/3 |
垣籠古墳後円部 後方部の先端は削られている。 撮影日2007/5/3 |
垣籠古墳を東側から見る
(撮影日2011/2/20)
左側(後方部)先端がスッパリ削られているのがわかる。
横山丘陵の
天神岩から見下ろす垣籠古墳
霞んでいる。
撮影日2012/4/30
垣籠古墳のすぐ北東に古墳マークがあるが・・・上寺地古墳と名付けられている。
道路や川で削られていて、ほとんど残っていない。
上寺地古墳
垣籠古墳近くの古墳跡?
(撮影日2011/2/20)
集落の端にある。
これではないかもしれない・・・・。
もとはどんな古墳だったのだろう?
総山古墳群
オサキ山古墳(総山1号墳)
(横山古墳群)横山丘陵上長浜市垣籠町
撮影日2007/5/3
2011/2/20
2012/4/30
総山古墳群は、西の麓から上る。
垣籠古墳の近くの山すそに、説明板が立っている。そばに行くと「オサキ山古墳」と書かれている。
この手書きの説明板には
「オサキ」は「オキサキ」が変化したもので、
稚沼毛両岐王の墓といわれるのが垣籠古墳で、稚沼毛両岐王のお妃の墓がオサキ山古墳だ」とある。
遺跡が荒廃するのを嘆く言葉が書かれていた。
2007年5月のオサキ山古墳登り口 撮影日2007/5/3 |
2011年2月のオサキ山登り口 (撮影日2011/2/20) 雪が残る。 |
総山古墳群は、円墳3基
総山1号墳はオサキ山古墳で、他に比べると、大きめの円墳。
麓から上にかけて3〜1号。
横穴式石室墳。(滋賀県遺跡地図から)
総山古墳3号 |
総山古墳2号 |
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総山古墳1号(オサキ山古墳) オサキ山古墳登り口から100mほど行ったところにある。標柱が立つ。
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丸子山古墳群 (横山古墳群) 横山丘陵上 |
長浜市垣籠町・ 保多町 撮影日2012/4/30 |
丸子山古墳群は、西の麓から上る。
10〜15mの円墳4基 麓から上にかけて4〜1号
丸子山古墳4号 |
丸子山古墳3号 |
丸子山古墳2号 |
丸子山古墳1号 |
龍ヶ鼻古墳群
(横山古墳群) 横山丘陵上長浜市東上坂町
撮影日2011/2/20
2012/4/30
最大の古墳は龍ヶ鼻古墳(龍ヶ鼻1号墳)で、全長46mの前方後方墳、最大幅12m、高さ1.5m。
垣籠町の最高標高地(229m)に存在する。
2号は前方後方墳、 3号は円墳、 4号は方墳
龍ヶ鼻古墳4号 方墳
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龍ヶ鼻古墳3号
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龍ヶ鼻古墳2号 前方後方墳
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龍ヶ鼻古墳1号 前方後方墳
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龍ヶ鼻古墳は西から東に、4号墳・3号墳・2号墳・1号墳と並んでいる。
古墳の頂部を削平して、戦国時代、姉川合戦のときに陣所が造られた。
1570年6月、浅井長政との戦いの折、織田信長が、陣を敷いた。
古墳としてではなく、「龍ヶ鼻陣所跡」として、有名。
小倉古墳
(横山古墳群) 横山丘陵上長浜市垣籠町
撮影日2011/2/20
1号・2号とも、前方後円墳
龍ヶ鼻古墳から南に行くと 小倉古墳2号墳、次が小倉古墳1号墳。
小倉古墳2号
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小倉古墳1号 2号からもう少し南に上がると小倉古墳1号
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堂の前古墳群
(横山古墳群) 横山丘陵上長浜市垣籠町
撮影日2012/4/30
1号と3号は前方後方墳 2号は円墳
堂の前古墳3号 |
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堂の前古墳2号 きれいな円墳 本日見た中では、一番きれいな墳丘かも・・・・ |
天神岩と舟岩 横山丘陵上 |
長浜市垣籠町 撮影日2012/4/30 |
堂の前古墳群のあたりには不思議な巨石がある。
天神岩 天神岩 説明板 「天神さん飛来す」と 淡海温故録に記されていて、 飛天神といわれている。
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舟岩 古代文字が刻まれている。牛岩ともいう。
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犬飼古墳
坂南古墳
北平古墳
(横山古墳群) 横山丘陵上長浜市垣籠町
撮影日2012/4/30
「方墳 犬飼古墳」と刻まれた石碑がある。
大きな石材が露出しているので、埋葬部は横穴式石室か?
犬飼古墳 |
犬飼古墳 石室跡か? |
犬飼古墳のあたりにも古代文字刻石があるらしいが分からない。
犬飼古墳そばには、横山城跡の犬飼堀切がある。
山東町への切り通し古道の犬飼坂
犬飼古墳のそばにある
古くから、垣籠町から山を越えて東の息長陵へ至る道がつくられている。
坂南古墳 (前方後円墳)
前方部から後円部を見る
立派な立て札を設置したのは、垣籠町のボランティアクラブ「こまざらいの会」の皆さんで、
地元の横山古墳群の保全整備をなさっているそうだ。
垣籠町を過ぎ、立て札がなくなった・・・・。
北平古墳 (円墳)
北平古墳から梶原古墳にいく間には、ほかにも古墳らしい高まりがあるが・・・・。
梶原古墳
(横山古墳群) 横山丘陵上長浜市垣籠町
撮影日2012/4/30
梶原古墳群の一つ
鉄塔を設置したためか、木が切られている。
梶原古墳から見た
息長陵と村居田古墳。
梶原古墳からは、
山東町(現米原市)側を見晴らすことができる。
息長陵の手前の道のカーブから
息長陵と村居田古墳をひっくるめて
一つの前方後円墳ではないかという説がある。
さらに南に、
資料には無いが、
「横山古墳」と刻まれた石碑がある。
横山城跡
横山丘陵上長浜市堀部町
撮影日2012/4/30
横山丘陵の最高所(標高312m)を中心に三方の尾根にY字状に遺構が配置されている。
主な施設は40ヶ所以上の曲輪で、いたるところに土塁・堀切・竪堀などの防御施設が設けられている。
堅固で典型的な戦闘用の山城である。
この城は、当初京極氏の支城として築かれたといわれ、その後浅井氏の南進基地として役割を果たした。
1570年の姉川合戦(織田氏と浅井氏の攻防)から、歴史の表舞台に登場する。
姉川合戦で、浅井氏から奪った横山城を預った秀吉は、その後何度かの浅井氏の攻撃にも負けず、
浅井氏滅亡の天正元年((1573年)まで、この城を守り通し、信長の背後を守った。
また、秀吉の、その後の活躍の足がかりとして、長浜城にも劣らぬ歴史的価値がある。
(説明板抜粋)
横山丘陵最高所 標高312m 横山城跡の石碑と説明板 |
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案内板によると、横山城跡から南には「展望台」があって、石田町へ下りる道がある。
展望台に行く途中に見つけた古墳
前方後円墳か?
名前は分からない。
北山塚古墳
(横山古墳群)
滋賀県長浜市堀部町
(撮影日2007/5/3
2011/2/20
2012/4/30)
説明板はない。垣籠の集落の中にある。
全長29mの前方後円墳。後円部径20m・高さ2m 前方部幅6m
北山塚全景(撮影日2007/5/3) |
北山塚上り口(撮影日2007/5/3) |
八幡神社(東)から見た北山塚古墳 北山塚古墳は、 発掘調査が1989年に行われているというが、 見たところ古墳の形や大きさは確認できない。 |
北山塚古墳の東にある八幡神社付近に古墳マークがあるが、特定できない。
八幡神社から東の横山丘陵に岩田山古墳群があるというが、山に入る道が見つからない。
八幡神社
西塚古墳
(横山古墳群)滋賀県長浜市垣籠町
(撮影日2011/2/20)
集落の中の石段を上がると、八幡神社社務所前の広場があり、
その横にさらに階段。この上にある。
西塚古墳上り口 (撮影日2011/2/20) 左側の建物は社務所。 社務所はあるが社殿がない?? |
西塚古墳 (撮影日2011/2/20) 後方部より前方部を見下ろす |
りっぱな古墳に見えるがどうなのだろう。全長29mということだがもっと大きくなって見える。
後で分かったことだが、この丘には神輿塚古墳というのもあるらしいので、
二つの古墳がくっついて見えて大きく見えたのかもしれない。
北方から見た
左 北山塚古墳
右 西塚古墳
(撮影日2011/2/20)
どちらも、このままの古墳だったらかなり大きなものになる。
丸岡塚古墳
(横山古墳群)
滋賀県長浜市堀部町
(撮影日2007/5/3
2012?4/30)
東中学校の北側の林。大きな古墳を想像するような森だ。
丸岡塚全景
全長130mの前方後円墳だという。
説明板もなく、古墳の形・大きさは確認できない。
(撮影日2007/5/3)
南側に学校、東は水田、西は新興住宅地、その中で取り残されたように古墳の林がある。
大通寺 | 滋賀県長浜市元浜町 (撮影日2002/9/25) |
長浜市街の中心地にあり、長浜の「へそ」といわれる。
今大人気のテーマパーク「黒壁スクエア」の東の端にある。
伏見城から移築されたという重文の本堂 狩野山楽や円山応挙などの襖絵は有名である。 |
長浜駅舎 | 滋賀県長浜市北船町 (撮影日2002/9/25) |
1882年、北陸と京阪神を結ぶ鉄道が開通したが、長浜から大津までは湖上水運だった。
この駅はその当時、船と列車との乗換駅だった。
現存する鉄道駅舎としては一番古い。現在は鉄道資料館となっている。
明治時代にはとてもハイカラな建物だったのだろう。 |
長浜城 | 滋賀県長浜市公園町 (撮影日2002/9/25) |
長浜市の西側一帯が長浜城址で、現在は公園になっている。
1983年お城のような長浜歴史博物館が建った。
秀吉時代の長浜城より一回り大きいらしい。
秀吉の長浜城の建物・石垣は解体され、 彦根城建築に使われたという。 |
長浜市 終わり