北村さんちの遺跡めぐり
大津市の古墳・遺跡 大津市の地図g
新免古墳群 | 大津市上田上新免町 (撮影日2019/5/5) |
新免集落の最も奧の民家から谷間へ入ってすぐのところに、「新免古墳群」の石碑がある。
新免古墳群入口の石碑
後ろは1号墳
林道の北側に2基の円墳(1号墳・2号墳)が並んでいる。
新免古墳群1号墳 | |
径15mの円墳 山の神が祭られている。墳頂付近に石材が露出している。 |
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1号墳 墳丘 |
1号墳 墳丘の石材 |
1号墳の東隣りに2号墳。
新免古墳群2号墳 | |
径12mの円墳 横穴式石室が開口している。 玄室長2.3m・幅1.3m・高さ1.3m以上 羨道長2.8m・幅1.1m |
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西側から見た墳丘 開口しているけど、側壁側! |
東側から見た墳丘 実はこちらが本来の石室入口 |
玄室側壁が開口しているので、中がのぞける! |
?カメラを突っ込んで見た石室内部 |
本当の石室入口 羨道部はほとんど埋まっている。 |
?カメラを突っ込んで、内部撮影! |
1号墳の道路を挟んで南側にあるのが7号墳。
新免古墳群7号墳 | |
詳細不明 | |
道路で墳丘が削られている。 |
石材が見えている。 |
7号墳から南の林の中に入ると、墳丘がいくつも確認できる。
新免古墳群 その他の墳丘 | |
その1 周溝が確認できる! |
その2 |
その3 |
その4 |
その5 |
その6 |
写真では、墳丘がよくわからない…ので、ここまでとする。
近江国府跡 | 大津市大江3丁目 (撮影日2019/5/5) |
宿泊した瀬田の南約2kmのところにある。
近江国庁とは 律令という中国の法律制度にならって、天皇を中心とする統一国家を作ろうとしたころに、 全国68ヶ国にそれぞれ設置された役所。、 近江国庁は奈良時代前半に置かれ、平安時代後半まで存続したようだ。 都から派遣された国司を中心として、 徴税・裁判・軍事など今の県庁・警察署・裁判所・税務署として 近江国の統治と都との連絡に当たっていた。 国庁推定図 国庁は、 前殿・後殿と東西の脇殿という建物を中心に、 門や築地などからなり、 東西2町(約216m)、南北3町(約324m)の区画をいう。 その外側には9町(約927m)四方の広がりをもつ 規格化された街路が広がっている。 これを国府といい、役所の所在する市街地にあたるもの。 近江国府は日本で初めて、 古代の地方政治の中心地である国庁の全容が 明らかになった遺跡だ。 (説明板から) |
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後殿跡 建物のあたりに 前殿があったらしい。 |
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国庁の東側の区域にある 建物跡 左側は「木製外装基壇」 右側は「掘立柱建物跡」 |
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石碑「近江官衙跡」 |
東屋の左奥に、 少しだけ築地塀が復元されている。 |
建部神社 | 大津市神領1丁目 (撮影日2019/5/5) |
近江国庁跡の西約1km。
近江一の宮。 祭神は日本武尊 景行天皇46年(316)の創建といわれている。 平安時代作の木造女神像と、鎌倉時代建立の石灯籠が、重要文化財となっている。 |
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建部神社境内 |
建部神社社殿 |
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重要文化財の木造女神像 (平安時代作) 説明板の写真から |
重要文化財の石灯籠 (鎌倉時代作) |
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本殿後ろに、神宝が展示されている。
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幻の千円札 昭和20年8月、日本で初めて作られた千円札 当時の最高額紙幣として発行された。 図柄は、 建部大社と御祭神の日本武尊が使用されている。 発行された枚数が極めて少ないので 幻の千円札といわれている。 (説明板から) |
国分大塚古墳 |
滋賀県大津市国分1丁目 |
滋賀県の古墳見学はこれまでも大部分、HP「古墳のお部屋」さんを参考にさせていただいているが、
やはりHP「古墳のお部屋」さんで見た大津市の国分大塚古墳。
「新幹線と名神高速の間の住宅街の中に保存されていますが道が入り込んでいて非常に分かりにくい。」
とあり、場所が分かりにくそうだったのでどうしようかなと思っていたところ、
「滋賀県の歴史散歩(山川出版社)」の新版に詳しい地図が載っていたので、探してみる。
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国分大塚古墳の現状 石室が柵の向こうに見える。 |
国分大塚古墳 左側 後円部 右 前方部 |
前方部石室 穴があいているのでカメラを近づけて写真を撮ってみたが 中は写っていなかった。 |
国分大塚古墳は 全長45mの前方後円墳。南西に前方部を向ける。
後円部径32m・くびれ部幅19m・前方部幅28m
周濠がある
後円部と前方部にそれぞれ1基づつ横穴式石室がある。
後円部の横穴式石室は全長6.6m
玄室の長さ4.4m・奥壁幅2.2m・羨道寄りの幅2.15m・高さ1.6m以上
羨道の長さ2.2m以上・幅1.5m
前方部の横穴式石室は
玄室の長さ2.9m・幅1.2〜1.6m・高さ0.9m以上
羨道は不明
若松神社境内古墳 |
滋賀県大津市大江1丁目 |
この古墳はHP「古墳のお部屋」さんの
「国道1号を東に行き瀬田川を渡って800m程、国道と新幹線の 間に若松神社があります。」
の文章をたよりに地図で若松神社を探し、場所が特定できた古墳。
若松神社正面
かなり立派な神社
境内を探すが、分からなくて、掃除している男性に尋ね、ようやく分かった。
神社鳥居の西側の広場の向こうに石室と陶棺が保存されている。
若松神社境内古墳は中央の茂みの裏にある。 |
若松神社境内古墳石室 石室の真ん中に陶棺が置かれている。 |
石室の陶棺(当然レプリカだよね) そのうしろには大きな奥壁の石がある。 |
奥壁の石を外側から見る。 |
説明板がなく、詳しいことは分からない。
膳所茶臼山古墳・小茶臼山古墳 (国指定史跡) |
滋賀県大津市秋葉台 |
秋葉台運動公園のグランドの北側に茶臼山古墳、南側に小茶臼山古墳がある。
茶臼山古墳は近江で第2位(1位は瓢箪山古墳)、湖南地方では最大規模を図る前方後円墳だという。
グランドの向こうに見える茶臼山古墳の森
森の向こう側に階段と案内板がある。
茶臼山古墳上り口
階段の上に神社がある
墳丘は良好に残っているようだ
前方部にある小さな社
後ろの森が後円部
前方部は広場のようだ。
後円部は深い森に覆われている。
秋葉台茶臼山古墳実測図
前方部と後円部のつなぎの部分はゆるやかなスロープとなっており、
前方後円墳の本来の姿をとどめている。
茶臼山古墳は
全長122mの前方後円墳
後円部の径約70m・高さ約13m、
前方部の高さ5.5〜8.5m・幅22.5m
墳丘斜面には葺石があり、後円部墳頂には、円筒埴輪や形象埴輪が並べられていた。
4世紀末〜5世紀ごろの築造。
小茶臼山古墳のある森
グランドの南側の林の中に残っているらしいが、
林の中には入らなかった。
説明板がなく、詳しいことはわからない。
小茶臼山古墳は
径30m・高さ2.5mの円墳。
兜大明神 兜稲荷古墳 |
大津市逢坂2丁目 (撮影日2019/5/5) |
長等山の山頂にあるので、駐車できるか心配したが、
登り口にちょうど一台分くらいの駐車スペースがあった。
そこから徒歩で兜大明神へ。
兜大明神登り口
上栄町側から山に入る。
兜大明神へは、この登り口が一番近かったようだ。
兜稲荷古墳は 全長91.5mの前方後円墳 後円部径44.5m・高さ4.9m 前方部幅45m・高さ3.6m 二段築成 前方部が南南西に向いている。 |
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兜大明神 鳥居 |
社殿 背後が兜稲荷古墳後円部 |
兜稲荷古墳後円部 段築のテラス部分か |
後円部から前方部を見る |
前方部脇から後円部を見る |
前方部墳丘 右奥が後円部 |
後円部の先には、陪塚のような高まりがあるが、情報がないので、どうなのかは不明。
付近は長等山公園になっているので、散策。
長等山公園 | |
長等公園 散策マップ 展望台にある。 |
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「神蹟」 石碑 |
平忠度の歌碑 |
展望台からの景色 琵琶湖が見える |
皇子山古墳 (国指定史跡) |
滋賀県大津市錦織1丁目 |
大津市錦織町にある皇子山古墳。
坂道の中、住宅が建て込んでいて、道がくねくねと曲がっていて狭く、駐車する場所もない。
皇子山古墳は丘の上にあるらしいから、下から見えるのかと思ったら見えない。
大津宮関係の遺跡の前、少し道路が広い所に無理やり車を停め、歩く。
「皇子山古墳⇒」という小さな標識を見つけ、そっちのほうへ行くがなかなか着かない。
ようやく、上り口の階段があり、その急な階段を登ったところにあった。
皇子山古墳は、昭和45年、発掘調査された。
古墳の向こうには新しい国道161号線が通っている。
標高160mくらいに位置する。
皇子山古墳後方部端 |
皇子山古墳後方部 |
皇子山古墳くびれ部 |
皇子山古墳後方部脇から前方部を見る |
皇子山古墳全景は 全長約60mの前方後方墳。後方部を北に向ける。
後方部長さ約35m・先端部幅約28m。
斜面に葺石がある。
地面を削りだした上に盛り土をした古墳である。
後方部に4ヶ所、前方部に1ヶ所の埋葬施設がある。
葺石の間から見つかった土器から、4世紀後半ごろの築造と推定されている。
古墳の東側面は西側面に比べて、葺石がていねいにふかれており、明らかに琵琶湖を意識した造り方となっている。
皇子山は宅地造成などで破壊されそうになったが、保存運動が高まり、その結果保存されることになったという。
皇子山2号墳も保存されているというが、わからなかった。
案内板から
皇子山古墳が造られている錦織(にしこおり)・皇子が丘地域は、大津宮が営まれていた地として全国的に良く知られている。
この地は、大津宮遷都が行われるかなり以前から、人々が定住し、活発に活動していたことが、今までの発掘調査で明らかになっている。
縄文時代の土器片が錦織や国鉄湖西線西大津駅付近から出土しており、
遺構は発見されなかったものの、すでに、縄文時代に人々の活動が始まっていたことがわかる。
弥生時代から古墳時代にかけて徐々に遺跡が多くなり、
古墳時代の初めには近江で最も古いといわれている皇子山1号墳が琵琶湖を見下ろす皇子山の頂上に作られる。
これに続いて、6世紀後半〜7世紀初めにかけて、山手の丘陵一帯に小さな古墳がいくつも造られるようになる。
この付近では、宇佐山の麓一帯に30基余りの古墳(宇佐山古墳群・山田古墳群)が知られている。
当地域を含めた坂本から皇子が丘にかけての同時代の古墳は大部分が横穴式石室を持ち、
しかもその他の地域とは異なったドーム状の天井を持つ横穴式石室は、
当地域一帯に居住していた渡来系の氏族(錦織・大友・穴太・三津氏など)が残したものだというのが定説となっている。
さらに、この渡来系の氏族たちが、のちの大津宮遷都にあたって大きな力となったことは容易に推測できると思う。
いま、大津宮については、発見から10年、発掘調査により徐々に建物の配置などが明らかになりつつある。
いまからそう遠くない時期に、大津宮の全貌がはっきりすることだろう。
このように、当地域は、市内でも早くから開かれた地域のひとつとして、
皇子山古墳・大津宮(いずれも国指定史跡)をはじめ貴重な埋蔵文化財が多く残されている。
福王子古墳群 |
滋賀県大津市 (撮影日2008/5/4) |
福王子大明神は無人の小さな神社。
福王子大明神正面
手前左側は新しい寺がある
私たちは神社後ろの階段を上り境内に入った。
その境内には穴が7、8個ある。
それが全部天井がなくなった横穴式石室。
狭いところに、荒れ果てた横穴式石室が並ぶ。
すごい!
古墳その1 | ||
石室内部 |
石室の上から |
突き出た石材 |
古墳その2の露出した石材 | |
古墳その3 | |
木立の中に石材が見える |
古墳その4 | 古墳その5 | 古墳その5 |
石室がぽっかり |
社殿(右)の横に露出した石室 (左側は隣の寺の塀) |
後ろの階段横の崖に露出した石室 |
説明板がない。
福王子古墳群は17基確認されているそうだ。
滋賀県文化財学習シートには「大津北郊古墳群」として、掲載されている。
福王子大明神の後ろの階段の向かいにに大伴黒主神社がある。
ここにも古墳があるという。
大伴黒主神社登り口
祭神は 大伴黒主(六歌仙の一人)
登り口横に横穴式石室を再利用したような物置があったが、
詳しいことは不明。
百穴古墳 国指定史跡 |
滋賀県大津市 |
かなり急な斜面に横穴式石室がいっぱい並ぶ。
説明板後ろの斜面全体に横穴式石室がある。
横穴ではなく、
すべて墳丘を持つ円墳の横穴式石室が露出したものだという。
墳丘は崩れてしまっている。
これだけ石室がくっついているということは、墳丘も重なり合っていたのか?
64基の径10m前後の横穴式石室を持つ小円墳が確認されているが、
崩れたり、埋没したりしたものを含めると、100基くらいになるという。
古墳配置図 (説明板から)
●のところに説明板が設置されている。
昭和16年(1941)国指定史跡となる。
説明板があるが、詳しいことは書かれていない。
古墳のナンバーも分からない。
百穴古墳いろいろ
その1 |
その1・石室上から |
その2 |
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その3 |
その4 |
その5 |
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その6 |
その6の室内の石棺 |
その7 |
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その8 |
その9 |
その10 |
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その11 |
その12 |
その13 |
天井石が大きいのが印象的。
このままだと、近い将来、全て崩れてしまうような気がする。
滋賀県文化財学習シートでは大津北郊古墳群として説明がある。
大津北郊古墳群(滋賀県文化財学習シートから) 比叡山の東側山麓部、大津市錦織から坂本にかけての地域は、県下でも屈指の古墳時代後期の古墳群の密集地域で、 福王子古墳群、大通寺古墳群、百穴古墳群、穴太野添古墳群、袋古墳群等30箇所余りの古墳群があり、 この中に約1000基以上の古墳があるといわれている。 大津北郊古墳群の特徴 1.横穴式石室の造り方は、石室の四壁を徐々に内側に傾けて石室をドーム状にし、 最後に天井に大きな石を1ないし2個置いて構築するというもの。 (他の地域の一般的な横穴式石室は、石室の壁面を垂直に近い形で積み上げる) 2.玄室の平面形が正方形や横長の長方形のものが多い。 (他地域のものは長方形が多い) 3.副葬された遺物にミニチュア炊飯具セットが含まれる場合が多い。 これらの特徴は、この古墳群が、大陸から日本に移り住んだ渡来人との関係が深いことを示している。 |
古墳のしくみ(説明板から)
ドーム上の天井
桐畑古墳 |
滋賀県大津市滋賀里1丁目 |
百穴古墳から少し北に桐畑古墳がある。
石室の中に不動さんが祀られている。
百穴古墳と同じ丘陵の北側尾根東斜面に位置している。
桐畑1号墳全景
羨道の立派な天井石が残る。
桐畑1号墳玄室内部
天井石がないので明るい。
不動尊が祀られている。
桐畑1号墳・玄室から外を見る
羨道部天井石が大きい!
桐畑 1号墳は
直径20mの円墳
石室は東に開口する両袖式
玄室の長さ5m・幅3.1m・高さ3.6m以上
羨道の長さ6m・幅1.4m・高さ1.6m
石室の天井がドーム状
玄室の天井石はなくなっている
現在は玄室内に不動尊が祀られている。
1号墳背後の山の中にも石材が見えるが、確認には至らない。
説明板によると
桐畑古墳群は 熊が谷古墳群の支群で
6基の円墳が確認されている。
このうち3基から横穴式石室が見つかる。
古墳時代後期の築造と推定されている。
石室の天井がドーム状になっていることから渡来人の墓ではないかと言われている。
百穴古墳と同じ仲間の古墳のようだが、百穴古墳よりも造りが丁寧で規模も大きいような気がする。
どうなのだろうか?
赤塚古墳 倭神社 |
滋賀県大津市滋賀里3丁目字天塚 |
「赤塚の明神さん」として地元では親しまれている。
本殿の改築のとき、花崗岩の板石が5、6枚発見された。
墳頂に本殿が建つ。
倭神社正面
周りより少し高くなっているが
古墳とは気づかない。
祭神は 倭姫(ヤマトヒメ・天智天皇の皇后)
赤塚古墳の墳丘
正面左側(東側)に前方部?
神社の由来の説明板には
円墳か前方後円墳かは不明と書かれている。
円墳とすれば、直径30〜40m・高さ2.5〜4mほどの規模。
5世紀後半の築造と推定されている。
穴太野添古墳群 |
滋賀県大津市穴太 |
図書館で滋賀県の地図を見ていたら、穴太野添古墳群が掲載されていた。
昭和44年、県道工事の前に、7基の古墳を発掘調査、昭和54年の分布調査で、152基の古墳が確認された。
昭和61・62年、墓地拡張工事の前に17基の古墳を発掘調査。
穴太野添古墳群配置図
(説明版から)
すべてが円墳
内部主体は1基を覗いて横穴式石室
31号墳は小石室
12号墳 発掘時、天井石は1石しかなかったが 奥壁から羨門までほとんど残っていた。 12号墳は両袖式横穴式石室で、 玄室幅2.1m・長さ2.8m、羨道幅1.3m・長さ4.2m 6世紀終末〜7世紀の築造と推定されている。 |
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手前・11号墳 奥・13号墳 |
15号墳 石室は見えない |
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16号墳 発掘時、玄室の天井石はなくなっていたが、 羨道の天井石が残っていた。 床面には敷石がある。 棺台とみられる40cm四方の石が3個置かれていた。 16号墳は両袖式横穴式石室で、 玄室幅2.1m・長さ3.1m、 羨道1.1〜1.4m・長さ6m・高さ1.5m |
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穴太野添古墳群は、
持ち送り技法を使った横穴式石室やミニチュア炊飯具の出土から渡来系の氏族の墳墓といわれている。
茶臼山古墳 (木の岡古墳群) |
滋賀県大津市木の岡町 |
2019年の 木の岡古墳群の茶臼山古墳 |
(撮影日2006/10/22) |
茶臼山古墳は住宅地のはずれに、林として、残っている。
茶臼山古墳
現状は林だが、前方後円墳の形がよくわかる。
木の岡丘陵の最も南に位置している。
全長約83mの前方後円墳。
三段築成
埴輪なし。葺石あり。
後円部約39m・前方部長約48m・幅約23.5m・高さ3.6m。
幅約5m深さ約1mの周濠が確認され、壺形土器が出土し、
5世紀の築造と考えられている。
木の岡茶臼山古墳の前方部側に、かつてもう1つの前方後円墳が存在した。
(全長40m・後円部径21m・高さ2.5m・前方部幅10m・高さ1.5m)
木の岡古墳群 |
滋賀県大津市木の岡町 |
下坂本陵墓参考地(本塚古墳)と、その陪塚とされているので、立ち入ることは、原則禁止である。
木の岡古墳群 | |||||||||||||||||||||
滋賀県南部、湖西南半において琵琶湖を望む木の岡丘陵に営造された古墳群。 丘陵上に、前方後円墳1基・帆立貝形古墳1基・円墳3基の計5基があり、 大宮川下流域の平地に円墳2基(車塚・鹿道:厳密には車塚古墳群)がある。 木の岡本塚古墳(木の岡丸山古墳)が宮内庁により 「下坂本陵墓参考地」(被葬候補者:第38代天智天皇皇后倭姫)として 陵墓参考地に治定されているほか、5基がその陪冢(陪塚)に治定されている。 木の岡古墳群は、古墳時代中期の5世紀代の築造と推定されている。 周辺では終末期古墳の平石古墳などがある。 |
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2019年の 木の岡古墳群の木の岡丸山(本塚)古墳 |
(撮影日2006/10/22) |
住宅地のはずれ、まだ畑の残るところにある。
正確には「木の岡下坂本陵墓参考地」という。または木の岡本塚・木の岡丸山古墳ともいう。
木の岡丘陵の最も高い所に位置している(標高146m)。
木の岡丸山(本塚)古墳のある林
墳丘は後円部に比べ、前方部の長さが短く、前方部の高さも著しく低い
帆立貝形の前方後円墳。全長73m
後円部径55m・高さ10m
前方部最大幅38m・長さ18m・高さ1.5m
埴輪なし。葺石あり。
東側に空堀があったと推定されている。
陵墓参考地なので、礼拝所がある
礼拝所の奥は真っ暗でどうなっているのかわからない。
天智天皇皇后陵として陵墓参考地となる。
木の岡丸山古墳の東側に陪塚的な円墳が3基あった。
2号墳 径16m・高さ1.6m
3号墳 径18m・高さ1.3m
4号墳 径14m・高さ1.4m
木の岡丘陵の下の平地には車塚や鹿道古墳がある。
車塚古墳 径25m・高さ3.3mの円墳 周濠・埴輪・葺石はない。
鹿道古墳 径14.3m・高さ2.4mの円墳
2019年の
木の岡古墳群(撮影日2019/5/5)
平地にあるのは、車塚古墳。
車塚古墳 (下坂本陵墓参考地飛地に号) 木の岡古墳群の支群・車塚古墳群の1基 |
(撮影日2019/5/5) |
直径25mの円墳 高さ3.3m 墳頂部径22m 周堀なし 埴輪なし 葺石なし |
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資材置き場の奥に墳丘 北東から見る |
西から見た墳丘 |
墳丘上に陵墓参考地の立札が見える! |
車塚古墳の北の丘陵上に茶臼山古墳。
車塚古墳のそばから見あげると・・・
左の森が、本塚古墳
右の森が、茶臼山古墳
茶臼山古墳には説明板がある。
茶臼山古墳 (下坂本陵墓参考地飛地は号) |
(撮影日2019/5/5) |
墳丘長83mの前方後円墳 後円部径39m 前方部長さ48m・幅23.5m 高さ3.6m 段築なし 空堀と葺石あり 少量の埴輪がある。 埋葬施設は木棺直葬か粘土槨と推定されている。 1978年(昭和53年)の前方部北側における発掘調査では 幅5m・深さ1mの周濠が検出され、多量の壺形土器が出土している。 5世紀の築造と推定されている。 この茶臼山古墳の前方部側には、 かつて別の前方後円墳(墳丘長40m程度か)が存在したとされている。 |
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後円部先端 |
「下坂本陵墓参考地飛地は号」の立札 |
本塚古墳の東に接してあるのは、首塚古墳。
最近調査されたのか、林の中にきれいな墳丘が残っている。
首塚古墳 (下坂本陵墓参考地飛地ろ号) |
(撮影日2019/5/5) |
円墳 | |
藪の中に墳丘がある。 |
「下坂本陵墓参考地飛地ろ号」の立札 |
墳丘 墳頂は平らだ |
墳丘斜面 |
首塚古墳の北東に、丸く残っているのが、新塚古墳
新塚古墳 (下坂本陵墓参考地飛地ほ号) |
(撮影日2019/5/5) |
円墳 | |
墳丘の周りを道路が丸く囲んでいる。 |
墳丘はよく分からない。 |
「下坂本陵墓参考地飛地ほ号」の立札 |
新塚古墳のすぐ西の、木の岡第3児童遊園地の奥に保存されているのが、御前塚古墳。
御前塚古墳 「下坂本陵墓参考地飛地い号」 |
(撮影日2019/5/5) |
円墳 | |
公園の奥に墳丘 |
「下坂本陵墓参考地飛地い号」の立札 |
墳丘はきれいになっているようだが、立入禁止 |
天智天皇皇后倭姫に治定されているのは、本塚古墳。
本塚古墳 (丸山古墳) (下坂本陵墓参考地) |
(撮影日2019/5/5) |
墳丘長73mの帆立貝形古墳 高さ10m 前方部長さ18m 幅38m 高さ1.5m 丘陵頂部に作られている(標高162.5m) 2段築成 葺石あり 埴輪なし 東側の円墳3基(御前塚・首塚・新塚)はこの古墳の陪冢とする説がある 被葬者に関しては、時期は異なるが倭姫(第38代天智天皇皇后)とする伝承があり、 宮内庁により陵墓参考地に治定されている。 |
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参道入口 この先右に直角に曲がる |
参道 |
御拝所 |
御拝所から覗き見た墳丘 |
もう一基、鹿道古墳があるそうだが、どこにあるのかわからない。
平石古墳 |
滋賀県大津市日吉台 |
日吉台市民センターの前にある地図の中に、「平石古墳」と「茶臼山古墳」が出ている。
日吉台という住宅地の中に周りを削られて、古墳のあるところだけ丘として残っている。
平石古墳のある日吉台第3号公園
山の上に露出した石室が保存されているらしい。
以前は見学できたらしいが、
現在は柵ができて厳重に鍵がかかっている。
木の岡丘陵の背尾根筋に造られた、横口式石槨をもつ古墳時代終末期の方墳(標高140m)。
石槨の形式が奈良県飛鳥の高松塚古墳や志賀町の小野妹子墓と類似している。
追葬施設に副葬された土師器から7世紀後半(白鳳時代)に造られたと考えられている。
石槨の規模は幅1.4m、残存長3.37m。墳丘は南北5m・東西14m。
高峰遺跡 |
滋賀県大津市日吉台 |
弥生時代中期末の竪穴建物跡と古墳時代の古墳2基からなる複合遺跡。
第10号公園に保存されている。
高峰1号墳全景
左に2号墳が見える
1号墳は前方部を琵琶湖に向けた全長45mの前方後円墳。
地すべりによって崩壊したため完全な調査ができなかったが、
埴輪や葺石をそなえた古墳時代中期のもの
高峰2号墳
古墳の上に国道新161号線の高架が通る。
2号墳は径18m・高さ3mの円墳
古墳の頂上は平坦になっている。
中心の埋葬施設は木棺を直接埋めたもので副葬品は発見されなかった。
2号墳から1号墳を見る
古墳ではない高まりから2号墳を見る
奥に見えるのは1号墳
高峰古墳実測図(案内板から)
2号墳は円墳だが、前方後円墳のように整形されている。
古墳と重複するように発見された竪穴建物跡は、
いわゆる高地性集落(標高120m前後)と呼ばれるもので、
集落のまわりには防御用の環濠がめぐっていた。
建物内には巨大な砥石や未完成のやじりが発見されている。
衣川廃寺 国指定史跡 |
大津市衣川2丁目 (撮影日2019/5/5) |
入口の狭いスペースに無理やり駐車。
衣川廃寺は、7世紀に建立された古代寺院。 堅田丘陵の東端、琵琶湖から西へ約900m、標高106mの所にあり、 琵琶湖水面との比高差は約20mを測る。 昭和50年に最初の発掘調査、昭和52年に国史跡となる。 史跡整備は平成6年から行われ、その際にも発掘調査が行われた。 史跡地のほぼ中央西よりと南半部東寄りに、 版築によって築かれた2つの建物基壇は、金堂と塔の基壇に推定されている。 金堂基壇の下からは寺院造営に関係する工房と考えられる竪穴遺構が見つかっている。 建物の屋根に必要となる瓦を焼いた瓦窯も見つかっている。 衣川廃寺から出土した軒丸瓦の文様には、 単弁蓮華文や複弁蓮華文、忍冬文などいろいろな種類のものが認められ、 衣川廃寺の特徴の一つとなっている。 その他には、塔のミニチュアである瓦塔も出土している。 衣川廃寺 地図 |
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入口 |
塔基壇 |
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金堂基壇 |
展示施設(左端)の右後方には瓦窯跡がある。 |
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展示施設の展示から
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西羅古墳群 1号墳は市指定史跡 |
大津市衣川 (撮影日2019/5/5) |
衣川廃寺から西に50mのところに西羅古墳1号墳がある。
衣川廃寺に駐車したまま、徒歩で行く。
南西の角から、森の中に入り、1号墳を見学。
西羅古墳群は、衣川の集落の背後にある。 1号墳・2号墳がある。 |
1号墳は 全長46m・高さ7mの帆立貝式古墳 市指定史跡 葺石あり 5世紀代の築造と推定されている。 西羅古墳群1号墳 墳丘 1号墳は、 古墳頂部までのぼれるようになっているはずだが、ジャングルに近い状態だ。 |
2号墳は 一辺30mの方墳 2号墳は、1号墳の東側、衣川自治会館横に復元されていたはずだが……(!!)。 西羅古墳群2号墳跡地 なんと!墳丘が無い! 左の車庫の壁に墳丘の痕跡が残る! 奥の建物は衣川自治会館。 |
春日山古墳群 国指定史跡 |
滋賀県大津市堅田・衣川 |
2008年の 春日山古墳群 |
(撮影日2008/11/27) |
「滋賀県の歴史散歩(山川出版社)」の新版に詳しい地図が載っていた。
妙法寺手前の道にかすれて字が読めなくなった「春日山古墳群」の木製の説明板。
次に、はっきりと字が読める立派な金属製の説明板。
妙法寺と岡入溜池の間の山道の奥にある。
以前に宅地開発を業者が試みて、失敗したとかで、その名残の石垣が残っている。
(中世の城の石垣の跡かと思ってしまった。)
春日山古墳群配置図
(説明板から)
堅田平野に面した丘陵上に築かれている。
5世紀代に築かれた前方後円墳の春日山古墳と
6世紀中ごろから7世紀初頭にかけて築かれた223基の後期群集墳で
構成されている。
春日山古墳は全長65mの前方後円墳
2号墳は径30m・高さ3.5mの円墳
19号墳は径29.6m・高さ4.5mの円墳
1号墳は箱形棺
20号墳は木棺直葬
他の古墳はすべて横穴式石室となっている。
春日山古墳実測図(説明板から) 全長65mの前方後円墳 後円部径32m・高さ6m 前方部長さ25.4m・幅20m・高さ3.5m 段築なし 埴輪なし 葺石なし 周堀なし 5世紀中葉の築造と推定されている。 |
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春日山古墳 後円部から前方部 |
春日山古墳 前方部から後円部 |
春日山古墳の墳裾にある古墳 石室の石材が露出か? |
2019年の
春日山公園
春日山古墳群大津市真野
2008年11月に、春日山古墳群の南の妙法寺の脇から山に入り、春日山E1号墳(春日山古墳)を見学したが、
駐車スペースがなく、困ったことを覚えている。
春日山古墳群を保存するために、春日山公園を造ったと知り、見学に行く。
北側に道路ができ、駐車場もできた。
公園になったので、遊歩道はあるが、整備された古墳がある訳ではなく、
説明板も少ないので、見学はなかなか難しい。
園内マップ
「古墳ゾーン」の文字の右肩の〇が
I4号墳だ。
インターネット上、滋賀県文化財保護協会の「紀要8号」に、
「春日山古墳群分布調査報告」が公開されているので、参考にさせていただいた。
春日山古墳群主要部の配置図
E支群が国史跡に指定されているそうだ。
(紀要8から引用・加筆)
赤い点線が、
春日山公園のために作られた道路と駐車場
(イメージです)
A支群〜K支群がある。
K支群は道路(赤の点線)の北側にある。
赤の古墳は見学と確認ができたもの
E1号墳(春日山古墳)は2008年に見学している。
I4号墳の南側前に「春日山古墳群」の説明板がある。
春日山古墳群G1号墳 | |
径18m・高さ5mの円墳 石室が開口しているが、羨道は全壊、玄室は天井石2石が残存している。 |
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「堅田に運ばれた湖東流紋岩」という説明板がある。 この古墳の石室は湖東流紋岩という石で造られている。 近江八幡市の長命寺山や沖島などの琵琶湖東岸に分布していて、 安土城や彦根城の石垣にも使われている。 その品質は強靭で優に2000年もつといわれ、近世には近江の産物の一つとなっている。 このあたりの堅田丘陵は粘土と砂の層である古琵琶湖層で形成されていて、 大きな石を含んだ層はない。 古墳の石室を築くために、秘話湖を渡って運ばれたと考えられている。 200基を超える古墳群を築くのに8000トンの石が運ばれたと推定されている。 2kmほどしか離れていない曼陀羅山古墳群では、石室に花崗岩が使われている。 近接する古墳群でも その古墳を築いた人たちの経済基盤や交易範囲などに大きな違いが見ることができる (説明板から) |
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G1号墳 石室開口部側から見た墳丘 |
G1号墳の前にある説明板 |
右側手前に巨石がある。 |
石室はほとんど破壊されている。 |
墳丘上 |
墳丘上に見える天井石 |
G1号墳から同じ尾根の西側に、G2・3・4号墳がある。
春日山古墳群G2・3・4号墳あたりの墳丘 |
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G支群内にある展望台からの景色 |
G支群のある尾根の東側の尾根(主尾根)にI支群がある。
春日山古墳群I4号墳 | |
径33m・高さ4.5mの円墳 主尾根の北側先端部にある。 ほぼ完存している。 |
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完存しているそうだが、ジャングル! |
I4号墳前(南側)に立つ説明板 右側には配置図 |
I4号墳から南へ、林の中に入り、E12号墳を目指す。
その手前には、何基かの円墳がある。
春日山古墳群E12号墳の手前(東側)にある円墳 E20・21・22号墳のあたりか |
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その1 |
その2 |
これらの円墳の西側奥にE12号墳。
春日山古墳群E12号墳 | |
E12号墳 墳丘測量図 (紀要8から引用) 全長53.6mの前方後円墳 後円部径28.4m・高さ3m 墳頂部径14.4m 埴輪なし 葺石なし 段築はないが、後円部裾にはテラスがある。 E群の中では、最高所に位置する。 堅田平野を意識して成形している。 前方部は幅が狭く、 端部がやや開く形で、前方部端はやや高くなる 古墳時代前期(4世紀〜5世紀)の築造と推定されている。 E1号墳より先に築造されたと考えられている。 (紀要8 から) |
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後円部手前から見るE12号墳 |
E12号墳後円部墳頂部 |
E12号墳 後円部から前方部を見る |
E12号墳 前方部から後円部を見る |
E12号墳の南東約100mに、E1号墳がある。
春日山古墳群E1号墳 (春日山古墳) |
全長60mの前方後円墳 後円部径32m・高さ6m 前方部幅20m・長さ30m・高さ3.5m くびれ部幅18m 前方部はほとんど開かない柄鏡形 葺石なし 埴輪なし 後円部中央に盗掘坑がある。 4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。(紀要8 から) |
今回はE1号墳までは行っていない。
小野地区の古墳について |
滋賀県大津市小野 |
小野地区の南半分にはローズタウンという大きな住宅街が広がっている。
小野神社の辺りは、開発の波がまだ来てなくて、昔の風情のままだ。
小野神社の参道前に付近の遺跡の大きな案内図がある。
@ | 小野神社 | ・同社内に小野篁神社あり 本殿、重要文化財(室町時代) ・小野神社古墳群、円墳、横穴式石室、円墳、箱式石棺、1基 |
A | 石神古墳群 | ドーム型玄室あり ・円墳3基、石棺 |
B | 小野道風神社 | ・本殿、重要文化財(室町時代) ・道風神社古墳群、前方後円墳(34m) 円墳(28m)、外1基 |
C | 石釜古墳群 (石神西方550m) |
・円墳14基(横穴式石室、玄室あり) |
D | ヨウ古墳群 (石釜の谷を隔てて南側) |
・円墳3基(横穴式石室、玄室あり) |
E | 曼陀羅山古墳群 | ・円墳10数基(横穴式石室) ・大津市側を含め117基 |
F | 和邇大塚山古墳 | 曼陀羅山(193m)北山頂にある前方後円墳(72m) ・出土品、鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、銅鏃 |
G | ゼニワラ古墳 | ・円墳 |
H | 唐臼山古墳 (小野妹子の墓) |
横口式石槨 |
I | タタラ谷遺跡 | ・古代製鉄遺跡 |
J | 知原遺跡 | 須恵器の窯跡 多数の須恵器の出土 |
K | 曼陀羅山古墳群 34号墳 | 円墳(横穴式石室) |
L | 天皇神社 | ・本殿、重要文化財(鎌倉時代) ・円墳2基 |
M | 中畑遺跡 小野遺跡 |
・集落遺跡 |
絵地図なので、道がよくわからない。
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小野神社 地図番号@ |
滋賀県大津市小野 |
唐臼山古墳から北へ600mぐらいのところにある。
小野神社の参道をまっすぐ行くと小野タカムラ神社。
その左側にあるのが小野神社だ。
小野神社・小野篁神社の鳥居
まっすぐ行ったところに小野篁神社社殿
その左奥に小野神社社殿
小野神社
古墳の上に建っている?
延喜5(927)完成の延喜式に「小野神社二座名神大」とあり
日吉神社と並ぶ官弊大社であった。
現在の社殿は、江戸時代に再建されたと伝えられている。
祭神は、
第5代天皇孝昭天皇の第一皇子、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と
その七世の孫、米餅搗大使主命(たがねつきのあめおみのみこと)
米餅搗大使主命は、王仁天皇の頃に日本で最初に餅をついた餅作りの始祖といわれ、
現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。
この神社は、小野妹子、小野タカムラ、小野道風などを生んだ古代の名族小野市の氏神社である。
推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。
平安時代、小野タカムラ(802〜852)のときに、
同族が小野神社に集まって氏神を祀った事は「続日本後記」にくわしく載っている。
小野篁神社
小野神社の摂社だけれど、小野神社より立派。
石神古墳群 地図番号A |
滋賀県大津市小野 |
4基の円墳からなり、横穴式石室を有する古墳時代後半のもの。
2,3,4号墳は6世紀後半の築造
石神古墳群配置図(案内板から)
規模 | 玄室 | 羨道 | 袖部 | |||
1号墳 | 横穴式石室 | 長2.7m 幅1.50m 高1.02m |
長1.80m 幅1.00m |
両袖式 幅1.0m |
1974年発掘調査 半壊 |
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2号墳 | 円墳 横穴式石室 |
径10m 高さ2.4m |
道路により一部削平 半壊 |
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3号墳 | 円墳 横穴式石室 |
径10m | 長4.62m 幅2.57m 高2.95m |
長1.3m 幅1.57m 高1.80m |
両袖式 幅0.6m |
完存 |
4号墳 | 円墳 横穴式石室 |
径8m | 長3.90m 幅2.66m 高3.27m |
長1.96m 幅1.25m 高1.20m |
両袖式 幅1.2m |
完存 |
石神1号墳 | (撮影日2006/10/22) |
1号墳はS49に発掘調査された。
1号墳の大きさ・形は不明。
南南東に開口する横穴式石室がある。、
石材は砂岩と花崗岩のまるみをおびた川原石で、和邇川から運んできたものと考えられている。
出土した遺物は、主に須恵器の杯身、杯蓋、提瓶など。
7世紀前半ころの築造
石神1号墳の石棺
蓋石と底石らしき石が置かれている。
墳丘はない。
石神2号墳 (撮影日2006/10/22)
径10m・高さ2.4mの円墳。
道路により一部削平されている。
石神2号墳全景 |
石神2号墳石室 |
発掘されていないのか、石室の規模のデータがない。
石神3号墳 (撮影日2008/5/4)
径10mの円墳
玄室の大きさは、長4.62m・幅2.57m・高2.95m
石神3号墳全景 石神3号墳は私有地のようなところにある。 金網の破れたようなところから入ると、お茶室があり、 お茶室のお庭に取り込まれるように石神3号墳がある。 お茶室もお庭も荒れ果てているが、元はここでどんな人たちがお茶をたてていたのだろうか? |
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石神3号墳石室入口 |
石神3号墳石室内部 |
石神4号墳 (撮影日2006/10/232008/5/4)
径8mの円墳
玄室の大きさは、長3.90m・幅2.66m・高3.27m
石神4号墳(撮影日2006/10/23) |
石神4号墳(撮影日2008/5/4) |
石神4号墳石室内部(撮影日2008/5/4) 右の三角は石材だが、 左の三角はタケノコ? |
曼陀羅山古墳群 地図番号EF |
大津市真野普門町・緑町ほか (撮影日2019/5/5) |
大津市真野の曼陀羅山とその周辺にある古墳群。
和邇大塚山古墳が代表的な古墳。
曼荼羅山古墳群(マンダラヤマコフングン)は
琵琶湖ローズタウン西方の曼陀羅山丘陵付近にひろがる古墳時代後期の群集墳。
全体で5群117基からなり、そのほとんどが横穴式石室をもつ円墳である。
丘陵の最高所(標高191m)には4世紀〜5世紀頃の築造と見られる前方後円墳・和邇大塚山古墳がある。
曼陀羅山の南麓の金比羅宮登り口から登り、北へ・・・
曼陀羅山の北側ピークにある和邇大塚山古墳までには、古墳らしい古墳は、見あたらない。
和邇大塚山古墳(ワニオオツカヤマコフン) | |
和邇大塚山古墳は 標高191mmの曼荼羅山の山頂北側に築かれた 全長72m・後円部径50mの前方後円墳 後円部径53m・後円部高さ5.75m 前方部幅30m・前方部高さ4.85m 前方部を南東に向ける。 2段築成 葺石あり 埴輪なし 後円部中央の埋葬施設は、破壊されているが、 礫床の上につくられた粘土槨だったとみられている。 (明治40年(1907)に地元の住民によって発見され、 後円部から鏡や勾玉、刀剣、甲冑、土器などの大量の副葬品が発見された。) 4世紀後半〜5世紀初頭の築造と推定されている。 主な出土遺物は 青蓋盤龍鏡1・硬玉製管玉3 ・銅鏃5・鉄斧頭残欠2・鉄刀身残欠1・鉄剣身残欠2・甲冑残欠一括 ・土師器皿1個体分 (説明板から) |
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古墳前に説明板があるが、かなり痛んでいる。 墳丘もジャングルに近くて、よく分からない |
後円部 |
後円部頂 石室跡の大穴がある。 |
前方部 前方部にも大穴があいている!? |
前方部先端 |
墳頂部から南西を望む |
和邇大塚山古墳から北へ。
大塚山北古墳群1号墳 | |
径20mの円墳 南に開口する横穴式石室は、玄室幅1.6m・高さ1m以上。 北西30mに、2、3号墳がある。 |
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玄室奥壁付近が残る。 前には、石材が散乱している。 |
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石室残存部 |
石室内部 |
大塚山北古墳群からさらに北へ。
曼陀羅山北古墳群 | |
曼陀羅山尾根筋の北端にあり、5基ある。 | |
その1(?) |
その2(?) |
曼荼羅山 北からの登り口 |
近くに石室(?) |
曼陀羅山の山中にある古墳は、分かりにくい…。
山を下りて、山の西側の団地に残る古墳を見学。
真野北小学校のそばに、古墳公園があるが、簡単な内容の説明板しかない。
真野北古墳公園 曼陀羅山古墳群5号墳 | |
真野北小学校の横の古墳が、造成が始まるのを前に、平成25年(2013)に発掘調査されて、 5基の円墳が確認された。 調査後は、記録保存した上で破壊される予定だったが、 子供たちが保存を訴える手紙を越市長に送付、さらに越市長に面会して直接要請した。 その結果、古墳1基(5号墳)か公園として保存されることになった。 平成27年(2015)に、「真野北古墳公園」となった。 |
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曼陀羅山古墳群5号墳は 直径15m・高さ5mの円墳 石室が鉄柵越しに観察できるようになっている。 横穴式石室は奥壁が抜かれている。 土器、鉄製品(刀・鏃など)、玉類(水晶製・ガラス製など)が出土している。 |
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広場から見た5号墳 手前は、4号墳跡地に造られた高台の広場 |
5号墳墳丘 |
5号墳石室入口 |
5号墳石室内部 |
ほかにも、静かに(?)残っている…。
団地内に残された、その他の古墳 (3基 いずれも立入禁止) | |
その1 |
その2 |
その3(道路側から) |
その3(裏側から) |
今回は曼陀羅山の西の住宅団地内の古墳を探したが、
曼陀羅山の東の住宅団地には、ゼニワラ古墳や唐臼古墳が保存されている。
ゼニワラ古墳 地図番号G |
滋賀県大津市小野朝日2丁目 |
小野朝日2丁目の集会所のそばの公園から、林の中に少し入ったところにある。
ゼニワラ古墳全景
径20.5m・高さ5mの円墳
左片袖式の横穴式石室を持つ。
石室入り口
羨道はほとんど埋まっている
天井石の下、少ししか開口していない。
玄室の長さ4.42m・幅2.17m・高さ2.45m
羨道の長さ 4.3m・幅1.0 m・高さ(0.5m)
袖部幅0.8m
石室入り口
角度を変えて
ゼニワラ古墳実測図
標高149mの曼陀羅山山麓に所在する。
この山麓には総数117基で構成される曼陀羅山古墳群が形成されているが、
石室の規模は、曼陀羅山古墳群の中でも最大規模のもののひとつである。
古墳の年代は、出土した須恵器の杯身から
6世紀第V四半期(575年頃)と考えられる。
和邇・小野地域の最有力豪族の代表者のひとりか?
ゼニワラ古墳の奥に「大塚山まで800m」という案内板がある。
曼陀羅山山頂にあるという大塚山古墳。
どんな山道なのか?・・・・・。雨もポツポツ降っているし・・・・・。
今度にしよう。
唐臼山古墳 地図番号H |
滋賀県大津市小野水明1丁目 |
ゼニワラ古墳の東にある。
小野朝日町の東隣の小野水明1丁目の、住宅街の真ん中に取り残された小山に、小野妹子公園がある。
その公園の頂上に小野妹子神社がある。
小野妹子神社
小野妹子を祀るようになったのは
江戸時代以後だという。
この小さな社殿の後ろに石棺らしき石がかなり破壊された状態で残っている。
唐臼山古墳の破壊された石棺
知らないと、石棺とは気づかないほど
破壊されている。
石室は発掘調査された。
石室全長5.45m・幅1.6m・高さ1.21m
長方形の箱形石棺 横口式石室
奥壁石1枚・東壁石3枚・西壁石3〜4枚を立岩として連ね、
4枚ほどの天井石で覆ってあったと推定されている。
7世紀前葉の築造と推定されている。