北村さんちの遺跡めぐり
更新日 2023/12/26

伊賀市      付近の地図g

御墓山古墳
国史跡
伊賀市佐那具町
撮影日2010/7/4
2023/11/23

佐那具の国道25号線南側にある三重県最大の前方後円墳
御墓山古墳は上野盆地北東部、柘植川の左岸、南宮山北東の丘陵先端部に位置する。

 御墓山古墳は、伊賀市北東部に所在する県内で最大規模を有する。
 全長180mの前方後円墳   前方部を北方に向ける。
   後円部径100m・高さ14m  、前方部幅80m・高さ10m  
 後円部の北西側に造出しあり。  後円部側は周溝が残る。
 二段築成(前方部側は見かけ3段)
 全面に葺石あり 円筒埴輪・形象埴輪あり
 内部主体の構造については不明
 後円部には盗掘坑があるが、副葬品の出土は知られていない。
 5世紀後半初頭の築造と推定されている。

御墓山古墳墳丘図  (古墳辞典から)

墳丘南側は馬蹄状の周壕により丘陵を切断し、
  後円部を形作っている。
墳丘は2段築成だが、
  墳裾より下方にも
 葺石
を伴う高低差のある段築が見られ
 見かけは3段に見えるように工夫されている。
後円部西側には、墳丘に取り付く造り出しがある。


 墳丘からは円筒埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪が出土
  円筒埴輪の基底部径は37pの、 古墳の規模に相応しい大型のもの
 御墓山古墳の東側に方形の陪塚が2基ある。

 御墓山古墳の西北西1.4qには、 国史跡伊賀国庁跡がある。 
 説明板から
 2010年の御墓山古墳 撮影日2010/7/4

御墓山古墳のある山 西から

山の左3分の2くらいが墳丘となる。
左 前方部

御墓山古墳 上り口

孝元天皇の皇子で
 四道将軍の一人・大彦命の陵墓であるとの
 伝えがある。
 2023年の御墓山古墳

前回(2010年7月)の説明板

今回、左の塀から落下して
橋の欄干に立てかけられている

右半分はすっかり消えている…

前方部登り口 右下は古い説明板

葺石

前方部から後円部を見る

後円部墳頂の大穴

後円部から前方部を見る

造り出し

墳裾から後円部を見る
周濠
 古い説明板の説明文
 御墓山古墳
 丘陵に営まれた前方後円墳で、北方に向かって前方部があり
  主軸の長さは約188m、幅は前方部において約67m、後円部で約100mで
  高さは前方部で約9m、後円部で約14mの壮大な古墳である。
 この古墳は後円部に濠の跡をとどめ封土の全面に葺石が存在している。
 また後円部東南の濠の外側に接して陪塚とみなされる2基の円墳がある。
 御墓山古墳は規模その他の点から
  この地方の古代史を研究する上において貴重な学術的価値を有するものである。
 大正10年3月国史跡に指定された。

   

宮山古墳群
陽夫多神社
伊賀市馬場
撮影日2023/11/23

陽夫多(ヤブタ)神社の裏山にある古墳群。


宮山古墳群のある山

手前は陽夫多神社

社殿の横から、
 古墳を見学するための遊歩道が
 整備されている。


案内図があるが、見にくいので
案内図を参考にして配置図を作成した。
 

宮山古墳群 配置図
案内図は見えにくいので、
図を参考にして、配置図を作成

1号墳 全長42mの前方後円墳

2号墳 径20mの円墳

3号墳 径20mの円墳


城跡遺跡もある。
 案内図の中の説明文  陽夫多神社宮山周辺の古墳と中世の城跡
  陽夫多神社の宮山の森とその周辺には、古墳11基と中世の城跡3城が確認されている
  宮山頂上にある宮山1号墳は、
   全長42mの前方後円墳で、6世紀の前半築造
がうかがえ
   被葬者は、当時この地域を支配し陽夫多神社の創始に関係した有力者と思われる。
  平地に築かれたお旅所古墳は、大きな横穴式石室を有し墳形については
   地籍図等から前方後円墳の可能性
もあり、宮山1号墳に続く首長墓といえる
 円墳は、9基が確認され6世紀後半の横穴式石室のものが3基ある。
 中世の城跡では、宮山1号〜3号城跡がある
  天正年間の織田信長による伊賀侵攻の際の築造がうかがえ、
  2号城跡は、急造のためか東側の空堀や土塁は未完成である。
  3号城跡は、全体に規模が小さく織田軍が築いた陣城の可能性もある

陽夫多神社の社殿横から裏山に登る。
2号墳から見学。
古墳の説明板があるが、短い説明なので載せない。

 宮山2号墳
 直径20mの円墳
 横穴式石室が開口。羨道は完全に埋まるが、玄室長3m、幅1.5m、高さ1.8mくらい
 6世紀後半の築造と推定されている。
 石室の羨道部が壊れており、石室内が見える   (説明板から)

2号墳 遊歩道から見た墳丘
 

2号墳 方向を変えて見る
 

2号墳 石室が見える

2号墳 
羨道の天井が壊れていて、開口している。
 
 
 

2号墳 奥壁

2号墳 玄室から羨道を見る
 天井が一部、開口している。
羨道部はほとんど埋まっている。
 宮山1号墳
 全長42mの前方後円墳
 横穴式石室の石材が一部露出
 内部主体や埴輪の有無は不明。
 陽夫多神社の創始に関係する人物が、葬られている可能性がある。  (説明板から)

1号墳 後円部

1号墳 後円部石室の石材 
ほぼ埋まっている開口部

1号墳 後円部から前方部を見る

1号墳 前方部から後円部を見る
1号墳
 前方部裾から後円部を見る
  宮山3号城跡
 古墳かもしれない…その1

 3号城跡と2号城跡の間にある石材
 宮山2号城跡


2号城跡の空堀は未完成だという


 古墳かもしれない…その2

石材が集中しているが?
 宮山3号墳
 直径20mの円墳。   横穴式石室がある。
 6世紀後半の築造と推定されている。    (説明板から)

3号墳 墳丘

3号墳 開口部

3号墳 玄室

3号墳 玄室から羨道を見る
3号墳
  羨道から開口部を見る
 古墳かもしれない…その3   石室なのは間違いない
  3号墳に行く枝道から戻って、ちょっと先に行ったところにある。

石室の石?

すき間から撮影すると石室が見える。

3号墳の向こうにも、確認されている古墳がいくつもあるようだが、ここまでとする。
配置図には書かれていないが、墳丘?石室?と思われるところがある。
城跡の遺構かもしれない。

お旅所古墳
市史跡
伊賀市馬場
撮影日2023/11/23

陽夫多神社の拝殿の南約200mに横穴式石室が露出している。
神輿のお旅所にあるので、この名で呼ばれている。

 お旅所古墳は  陽夫多神社の南約200mにある。
 巨大な石室石材が露出「伊賀の石舞台」と呼ばれている。
 墳形は不明、前方後円墳の可能性もある。
 石室は、玄室長4.5m、奥壁幅2.5m、高さ2.2mの両袖式、
 羨道長4.8m以上あるが、下部は埋まる。
 6世紀後半の築造と推定されている。。
 丘陵から平地に墓域を移した宮山古墳群と考えられている。

北から見る
手前に前方部があったのではないか?

説明板の後ろに大きな石材 
奥壁側

石室の奥壁にすき間がある。
すき間からカメラを突っ込んでみると→

石室内部が見れた 下部は埋まっている
羨道側が見える

羨道側(南)から見る

天井石は4石残存、それぞれ幅3m程度の巨石
説明板から

  

勘定塚古墳 伊賀市外山
撮影日2010/7/2

関西線佐那具駅の北の山麓の民家の横に巨大な石室が露出している。
石室しか残っていない。


民家に挟まれた石垣土台の上の
  木立の中に石室が隠れている。

  

 勘定塚古墳は 伊賀最大の巨石墳。伊賀市北東部の外山集落の北東端に立地する。
 墳丘の大半が失われていて、石室の奥壁および側壁の一部が残存している。

勘定塚測量図
  (伊賀市デジタルミュージアムから)

南方向に開口する石室は、
  玄室現存長4.7m、奥壁幅3.6m、高さ2m

 石室の平面的な規模に比して天井石までの高さが低い特徴がある。
 残存する天井石は一辺4m程度を測る巨石
 玄室が同程度の天井石2石で構成されたとすると、
   玄室長7〜8mを測る巨大な横穴式石室を有することとなる。
 7世紀前半の築造と推定されている。
 背後の山稜上には、4基の前方後円墳を含む外山・鷺棚古墳群があり、
  集落南側には5世紀後半から7世紀代の
    住居跡・大型建物跡が検出された外山遺跡群(大坪・追越遺跡)がある。
 丘陵上の墓域から離れて丘陵裾に下った箇所に築造され、
  巨大な横穴式石室を埋葬施設とすることから、   
  外山・鷺棚古墳群に続く当地の首長墓と考えられている。
     (伊賀市デジタルミュージアム ほか から)

暗い中に石室

「御勘定塚」と刻まれた石

大きな天井石が乗った石室

石室の高さは、2mほど

天井石は4m四方くらい

西側から見た墳丘 側壁がむき出し

外山・鷺棚古墳群分布図  (伊賀市デジタルミュージアムから)
勘定塚古墳の北の山には、前方後円墳4基を含む大きな古墳群がある。

元はどんな墳丘だったのだろうか…

    

中ノ瀬古墳群 伊賀市荒木字中ノ瀬
撮影日2023/11/23

御墓山古墳から直線で南約3kmの中ノ瀬の小さな集落の南にある山の斜面に古墳群がある。
集落の東側50mほどのゴミ集積所前に駐車させてもらって、山を目指す。
東端の住宅のお庭みたいなところを通って山裾の獣除けフェンスの扉を開閉して山に入る。


中ノ瀬古墳群遠景


 

 中ノ瀬古墳群5基確認されている
 中ノ瀬3号墳
 径16m以上の円墳。  横穴式石室が南に開口
 横穴式石室は全長6.1m、玄室長4.95m・幅1.8m・高さ2.1mの両袖式。

背の高い墳丘

南東に開口する石室

石室内部

石室から開口部を見る

3号墳側から見た
  中ノ瀬4号墳 奥に5号墳

 中ノ瀬4号墳  3号墳の15mほど上にある。
 径12mの円墳、半分削られて石材が一部露出

削られた墳丘

石材散乱
 中ノ瀬5号墳  4号墳のさらに上にある。
 径13mの円墳、墳丘の隙間から石材が少し見える。

墳丘

開口部は埋まっている
 中ノ瀬1号墳  4号墳の北西にある。
 径20mの円墳、横穴式石室が完存。
  石室全長7.55m、玄室長4.5m、幅2.3m、高さ2.3mの両袖式

墳丘

右下に開口部が見える

開口部は狭い

カメラを突っ込んでみるが、よく見えない。
 中ノ瀬2号墳   1号墳の20mほど上にある。
 径15mの円墳で、墳頂が陥没。

1号墳から見上げる2号墳

2号墳の墳頂部はへこんでいる

石材が散乱している

 2号墳から見おろす1号墳

墳丘配置は「OSAKA−TOM’s diary」様をはじめ、いろいろな方の情報を参考にさせていただきました。

鳴塚古墳 伊賀市鳳凰寺
撮影日2010/7/4

旧大山田村鳳凰寺の谷間奥にある。

鳴塚古墳全景
南側から


大山田村観光協会の立派な石の説明板を読むと
この古墳が、地元で大切にされていることがわかる。


鳴塚古墳の石室の石材
鳴塚古墳
全長37mの前方後円墳で前方部を東に向ける
後円部径21m、前方部幅16m
昔の文書によれば、かつて墳丘の周りに池があり、
後に埋められたとされることから、
周壕があったと考えられる。
後円部には南に開口した横穴式石室が露出している。

鳴塚古墳の横穴式石室

横穴式石室は
全長9.2m、
玄室長4.45m、幅1.6m、高さ1.8m以上、
羨道長4.75m、幅1.1mの右片袖式
小型の石材を丁寧に積み上げている。

小型鏡や玉類、須恵器などが出土。

寺音寺古墳
県史跡
伊賀市炊村字滝ノ鼻
撮影日2010/7/4

大山田盆地の中央部に位置する。

寺音寺古墳全景
寺音寺古墳
墳丘長60mの前方後円墳
後円部径40m 前方部幅40m
幅約20mの周湟がめぐる。
明治後期頃に主体部が盗掘されて、主体部には石積みがあり、馬具、甲、鉄器等が出土したという。
墳丘からは埴輪片も採集されている。
5世紀中頃の築造と推定されている。

大山田盆地最大で、伊賀地方でも大規模の前方後円墳だが、
前方部は水田、畑になり、後円部も中央以外は削平され、畑となっている。
周壕も埋まって水田となっていて、水田の輪郭として残っている。

辻堂古墳
市史跡
伊賀市中村
撮影日2023/11/23

伊賀市東部の山田盆地東縁にある古墳で、横穴式石室が天井石を失って露出している。

 辻堂古墳は  径20m程度の円墳であったとされている。
 ほぼ南北方向に主軸を向け、南方向に開口する両袖型の横穴式石室は長さ9.8m
  玄室部長さ4.95〜5.2m・幅1.9m、 羨道部長さ4.5m・幅1.2〜1.6m
 床面全体に敷石が並べられ、羨道部には排水溝を備える
 玄室内に組合せ式石棺2基が残存していた。
  玄室中央やや奥壁よりに置かれた箱式石棺は、長さ1.8mで、
   須恵器・土師器・鉄製品・玉類が多量に出土したほか、馬具も出土した。
 6世紀後半の築造と推定されている。
  玄室内西側の袖部に造りつけられた箱式石棺は、長さ1.35m
   土師器・須恵器が出土したが、こちらは7世紀後半の時期と考えられている。(追葬)
 昭和47年(1972)に発掘調査

辻堂古墳 測量図
  (伊賀市デジタルミュージアムから)

副葬品は豊富な内容を持ち、
追葬時に副葬された土師器も
丁寧にミガキが施された
畿内産土師器の特徴を有する

大きな案内板がある

道路を挟んで向かいにお堂がある、
これが辻堂?

羨道手前から石室全体を見る

羨道から玄室を見る

玄室中央やや奥壁よりの箱式石棺
天井板石は2枚

追葬の箱式石棺は造り付けのもの

奥壁側から羨道を見る

玄室から羨道を見る
説明板から

  

中切古墳 伊賀市喰代
撮影日2023/11/23

辻堂古墳の南約2kmの農地の中。

 中切古墳は  墳丘がかなり削られているが、径15mほどの円墳と考えられている。
 横穴式石室は、壊れて石材が露出している。

石室のあたりだけが残る

墳丘上

横穴式石室の石材か

そばにある石仏。石室石材の利用?

     

王塚古墳 伊賀市比自岐
撮影日2023/11/23

4世紀代の前方後円墳として代表的な古墳・石山古墳の南の農地の中にある。
雑草に覆われていて、さっぱりわからない……
インターネット上に「上野市岡波王塚古墳(1979)」が公開されているので、参考にさせてもらった。

 王塚古墳は 比自岐盆地の農地の中にある。
 全長48mの前方後円墳と推定されている。

南から見た
  王塚古墳


右が後円部

西から見た王塚古墳

前方部側
 1979年に調査された時の報告書「上野市岡波王塚古墳(1979)」を読んでみたが、
 調査してもよくわからなかった部分が多く、ほとんど推定の域を出ていない

墳丘実測図および推定復元図

全長48m、後円部径28m 
 濠を含めた全長は60m
 と推定されている。

前方部を西に向けた前方後円墳に復元したが、
前方後円墳と決まったわけではない
 僅かな古式土師器や須恵器、 瓦器等の細片のほか 埴輪が出土。
  円筒埴輪、朝顔形埴輪
 埋葬施設も不明というしかない。
 6世紀初頭を中心に、 5世紀後葉から6世紀前葉の幅の中の築造と推定されている。

王塚古墳の北の山には「石山古墳」がある。見学できないという。

 石山古墳 伊賀市才良
 全長120mの前方後円墳 後円部を東北東に向ける。
  後円部径70m・後円部高さ9m  前方部幅40m・高さ5m
 後円部は2段築成 
 前方部は一部、平野部に臨む東南側でもう1段下が整形され、3段築成
 さらに、この延長上に幅19m×13mの造出状の遺構(「東方外区」)がある。
 後円部に3基の粘土槨があり、多量の副葬品が出土。
 後円部頂の方形埴輪列や、外区・墳丘各部の埴輪列も確認された。
  鰭付円筒埴輪の使用も確認されている
 4世紀後葉の築造と推定されている。
 昭和23年(1948)〜26年(1951)に発掘調査。1995年測量調査。

王塚古墳と石山古墳の位置

石山古墳のある山

 

猪田神社(下郡) 伊賀市下郡
撮影日2023/11/23

猪田神社古墳があると思って行ったが、無かった。違った……

 下郡の猪田神社は 
 主祭神が猪田神(イダノカミ)・別名 武伊賀津別命(タケイガツワケノミコト)
 平安時代には延喜式神名帳(927年完成)の伊賀国25座の式内小社に列せられている


下郡にある猪田神社

探したが古墳はない。

鳥居は厳島神社の鳥居と同じ型式 
日本中でも他に類をみないと言われている。

猪田神社(下郡)本殿は県重文

伊賀市では、二つの猪田神社が近接して鎮座する。
同じ丘陵(神奈備山)の麓にあり、元は同じ丘陵を崇めていたのが、
 集落ごとで祭祀が分化したと考えられている。
一つは、伊賀市下郡に鎮座する猪田神社。東麓にある。
もう一つは、伊賀市猪田に鎮座する猪田神社。北東麓にある。
どちらも『延喜式』神名帳の猪田神社の論社となっている。

猪田神社(猪田)古墳
県史跡「猪田神社古墳附古井」
伊賀市下郡
撮影日2023/11/23

猪田にある猪田神社には、古墳がある。
北から南の神社に向かう長い参道がある。
10台以上駐車できる駐車場がいっぱいで何事だろうと思ったら、祭礼の真っ最中だった。
迷惑にならないように、そっと見学する。

 猪田神社(猪田)は 主祭神は 伊賀津彦神(イガツヒコノカミ)
 神奈備山の北東麓にある。

手水舎の前に
 「史跡猪田神社古墳附古井」
 と刻まれた石碑
がある

左奥は社務所

社殿

 国重文の本殿 

古墳は、本殿東側の奥にある。

 猪田神社古墳(1号墳)  県史跡
 本殿東側の社殿地にある大型の円墳
 直径24m・高さ4mの円墳  横穴式石室がある。
 矢田川左岸の丘陵上に築かれた3基からなる猪田神社古墳群の1号墳
 かつて墳頂から天文3年(1534)銘のある石灯籠(市指定文化財)が出土している。

立派な墳丘

神域として石柵で囲われている

石室は埋まっているようだ。

方向を変えて見る

古井戸は古墳のさらに東側の坂の下にある。

 古井戸 「天真名井」  県史跡
 古井は約1.2m四方の方形石組を持ち、俗に「天真名井」と呼ばれている。
 この井戸と伊勢神宮外宮の忍穂井とが通じているとの伝説もある。

社務所の向こうに天真名井の鳥居がある。
鳥居の向こうから100mほど坂を下りる

鳥居の縣額には「天真名井」とある。

覆い屋の中に井戸

古井戸

  

伝・息速別命陵墓(西法花寺古墳)
陵墓参考地
伊賀市安保
撮影日2023/11/24

陵墓参考地となっている古墳見学。
美旗古墳群の東約3kmの前深瀬川東の段丘上にある古墳。

 西法花寺古墳(ニシホッケジコフン)・伝息速別命(デンオキハヤワケノミコト)陵墓
  第11代垂仁天皇の皇子である息速別命の墓として宮内庁が管理している。
  一辺35mほどの方墳で、横穴式石室をもつと考えられている。
 周辺の田畑から埴輪片が出土。
 5世紀末〜6世紀初頭の築造と推定されている。
 息速別命は 第11代垂仁天皇と、
     丹波道主命(タンバミチヌシノミコト)の娘の薊瓊入媛(アザミニイリヒメ)の間に生まれた皇子である。
 『新撰姓氏録』によると、息速別命が幼少の時、
  父天皇により伊賀国阿保村(現・三重県伊賀市阿保周辺)に命のための宮室が築かれ、
  同村が封邑として息速別命に授けられたという。
   (ネット検索)  

墳丘

陵墓参考地にある御触書

すき間からのぞくと、墳丘が見える。

方向を変えて見た墳丘

築造推定年代からみて息速別命の墳墓ではない?!
そばを流れる前深瀬川は、いずれは淀川となる!

聖武天皇 阿保頓宮阯
アオトングウアト
伊賀市阿保
撮影日2023/11/24 12:01

伝・息速別命陵墓の東の山を登ったところにある。

 聖武天皇 阿保頓宮阯は 
 聖武天皇が行幸の際に豪雨に遭い一夜を明かしたという頓宮跡。   
 天平12年(740年)に起こった藤原広嗣の乱に恐れをなして、聖武天皇は東国へ避難する。
 伊賀国・伊勢国・美濃国・近江国へと転々とし山城国の恭仁京へ。
 その伊勢国通過の際に起こった逸話。。
 また斎王の頓宮でもあったとされている。
 中世の頃には伊賀国阿保城となって、城跡として史跡となる。。

道路沿いにある案内板

阿保頓宮阯

「史跡 阿保頓宮址」

息速別命を祀る神祠

   

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