北村さんちの遺跡めぐり
更新日2024/4/28
亀山市 付近の地図g
能褒野王塚古墳 陵墓参考地 |
亀山市田村町 撮影日2010/7/3 2023/11/26 |
のぼのの森公園内に能褒野王塚古墳がある。南の駐車場に駐車。
陵墓参考地となっているので、公園や周辺の住宅街を陪塚を見学しながら御拝所を探した。
飛地〇号という標識があるが、
飛地と陪塚番号が一致するのかどうか分からないので、分かる範囲でそのまま掲載する。
「HP亀山市史考古編」を参考にさせてもらった。
能褒野王塚古墳周辺は「のぼのの森」として整備されている。
能褒野古墳群 | 撮影日2023/11/26 |
能褒野王塚古墳の周囲には、 宮内庁が陪塚としているものも含め16基の円墳が確認されている。 これらの古墳群の周辺では、 6世紀後半から7世紀初頭の須恵器杯が採集されていることから、 ほとんどが後期古墳と考えられている。 |
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能褒野王塚古墳と能褒野古墳群平面図 (HP亀山市史考古編から引用) |
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能褒野墓 飛地ほ号(5号墳) |
能褒野1号墳 |
能褒野墓 ろ号陪塚 |
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能褒野神社 能褒野王塚古墳が、 「日本武尊能褒野墓」に治定されてから、 日本武尊の遺徳をしのぶために創建された。 主祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、 配祀神は建貝児王(タケカイコノミコ) 弟橘姫命(オトタチバナヒメノミコト) |
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能褒野墓 陪塚と号(9号墳) |
能褒野墓 陪塚ち号 |
能褒野墓 陪塚り号 |
能褒野墓 陪塚る号 (能褒野13号墳) |
能褒野14号墳 |
能褒野12号墳 |
能褒野墓 飛地い号 |
能褒野墓 飛地?号墳 |
王塚古墳は陵墓参考地で入れないので周りから見えるところを探す。
南側に御拝所を見つけた。前方部前面に御拝所がある。
能褒野王塚古墳 | ||||||||||||
御幣川と安楽川の合流点の段丘上に所在する北勢地域最大の前方後円墳 全長90mの前方後円墳 後円部径54m・高9m 前方部幅40m・高6.5m 墳丘周辺に見られる周溝や外提は、 陵墓としての体裁を整えるために明治13年に新設されたもので、 墳丘も後円部にあった盗掘穴の埋戻しと合わせて 墳丘全体に修築が行われた可能性がある。 段築や葺石の有無は不明 陵墓となっているので、発掘調査はされていないが、 能褒野神社で保管されていた器材埴輪・朝顔形埴輪や 亀山市博物館が所蔵する17点の破片が報告されている。 出土した埴輪から4世紀末頃の築造と推定されている。 |
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能褒野王塚古墳は、宮内庁 により「日本武尊能褒野墓」として 第12代 景行天皇 皇子の 日本武尊 の墓に治定されている。 日本武尊が東征の帰路に伊勢国能褒野で薨じたとの「記紀」記述により, 明治12年(1879)内務省によって「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」に定められ、 その際、墳丘の修復に併せて,畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。 |
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能褒野王塚古墳の東400mの段丘端部が突出した部分に名越古墳がある。
名越古墳 | 撮影日2023/11/26 |
かつては延喜式内社 那久志里神社の鎮座地と伝えられ、 1972年(昭和47)には古墳と周知されているが、 この段階では直径30mの円墳と考えられていて、大きく墳丘が崩されていた。 1992年(平成4)に、崩されていたところで埴輪が出土して調査した結果、 墳長60mの前方後円墳 後円部径35m・高さ6mと確認された。 前方部は削平、後円部も大半が失われている。 出土した埴輪から 4世紀末ころの築造と推定されている。 (能褒野王塚古墳とほぼ同時期) (HP亀山市史考古編から) |
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名越古墳 後円部 墳丘は大きく削られて原型を留めていない |
後円部 |
倭建命之碑 と 水乃神の碑 名越古墳のそばにある |
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井尻古墳 | 亀山市井尻町 撮影日2023/11/26 8:36 |
カメヤマドライバースクールの東、関西本線の南の農地にあるので目立つ。説明板は見あたらない。
井尻古墳は、全長53.5mの前方後円墳 後円部径24.3m 鈴鹿川を見下ろす段丘上につくられている。 6世紀前半の築造と推定されている。 |
井尻古墳 西ノ野11号墳と 同じくらいの大きさ 見た目もよく似ている。 |
井尻古墳 後円部頂 |
井田川茶臼山古墳 | 亀山市井尻町 撮影日2023/11/26 8:55 |
井田川住宅団地の中のみどり町第4号公園に保存されている。
インターネット上に「井田川茶臼山古墳(1988)」が公開されているので参考にさせてもらった。
団地造成の際に発掘調査されたが、かなり破壊されていたようで、墳形は不明だ。
井田川茶臼山古墳は 径20mほどの円墳か 全長40mほどの前方後円墳の可能性もある。 石室は全長7.2m以上で、西向きに開口している。 玄室長さ5.5m幅最大2.5m・高さ2.1m 玄室内には組合式石棺が2基のほか、棺台もあるので、 少なくとも3体が埋葬されていたと想定されている。 羨道は調査以前に削平を受けていて基底部しか残っていない。 墳頂部から、須恵器・土師器が出土。 石室内からは、 画文帯神獣鏡2面 金環、玉類、直刀、刀子、鉄矛、鉄鏃、馬具類など 豊富な副葬品が出土した。 6世紀前半に築造され、6世紀半ばまで追葬されたと推定されている。 |
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井田川茶臼山古墳 |
方向を変えて見る |
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石室石材が埋められている |
元の石室に基づいて埋められているわけではない |
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説明板から
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発掘当時、保存の声が上がったが、発掘調査途中で石室は解体されてしまった。
資料によっては、「井田川茶臼山古墳跡」となっている……。