北村さんちの遺跡めぐり
更新日2024/6/10
鈴鹿市 三重県の地図g
王塚古墳 国史跡 (西ノ野古墳群) |
鈴鹿市国府町 撮影日2010/7/2 2023/11/25 |
墳丘・周溝・外堤がよく残る。
王塚古墳(西ノ野1号墳) 国史跡 | |
鈴鹿川の東岸段丘上の縁辺部に位置する西ノ野古墳群中最大の 長さ63mの前方後円墳 後円部径38m・高さ6m 前方部幅4.8m・高さ6.5m 前方部の広がりが著しく、高さも後円部とほぼ同じで、東側くびれ部に造り出しがある。 古墳の周囲には盾形の周濠(空濠)があり、 さらにその外周に幅3m・高さ1mほどの外提がめぐる。 外提を含めると、全長90mほどになる。 盗掘されていて、副葬品などは不明だが、外形から、6世紀初頭の築造と推定されている。 王塚古墳 測量図 (古墳辞典から) 2号墳も書かれている。 西ノ野2号墳は 王塚古墳の後円部の北東隣にある。径7mほどの円墳 王塚古墳の陪塚とされている。 |
2010年の王塚古墳 | 撮影日2010/7/2 |
墳丘・周溝・外堤がよく残るというが、雨と雑草でよくわからない。 王塚古墳(西ノ野1号墳) 鈴鹿川の 東岸段丘上の縁に位置する。 |
|
王塚古墳(西ノ野1号墳)の周壕 |
西ノ野2号墳 |
北側から見た2号墳 2号墳の後ろに王塚古墳。 |
2023年の王塚古墳 | 撮影日2023/11/26 |
「王塚古墳」石碑と説明板 説明板の文字は、読めない |
後円部 |
横姿 右に後円部 |
|
北東に隣接して陪塚の2号墳がある。。 西ノ野2号墳 |
1992年発掘調査時の西ノ野古墳群配置図
(「西ノ野遺跡 第一次発掘調査報告書」から)
形 | 大きさ | |
1号墳 | 前方後円墳 | 全長63m |
4号墳 | 円墳 | 径10m |
5号墳 | 前方後円墳 | 全長30.5m |
6号墳 | 小円墳5基 5号墳の 外提部にある |
径10〜15m 前後 |
7号墳 | ||
8号墳 | ||
9号墳 | ||
10号墳 | ||
11号墳 | 前方後円墳 | 全長約50m |
13号墳 | 円墳 | 径11.5m |
14号墳 | 円墳 | 径12〜13m |
15号墳 | 円墳 | 径11〜12m |
16号墳 | 円墳 |
5号墳の東500mの竹林の中に11号墳がある。
参考:「西ノ野遺跡 第一次発掘調査報告書」
明治期の村絵図(国府小学校蔵)には91基もの古墳が記されているが、
現在は墳丘を残すものとしては11 基存在する。
西ノ野1 号墳(王塚古墳)は、鈴鹿川流域を代表する首長墓。
全長63 mの周堤を有する前方後円墳で、国史跡に指定されている。
6世紀の築造と推定されている。
西ノ野5 号墳は
全長30.5 mの前方後円墳
前方部幅15m・高さ1.8m 後円部径21m・高さ3.4m
後円部中央から人物埴輪・家形埴輪 くびれ部から円筒埴輪が出土
盾形の周溝がある。
外提部には径10〜15mの小円墳5基が衛星のように配置されている。
5世紀中頃の築造と推定されている。
西ノ野4 号墳は、1960 年に発掘調査、
径10 m・高さ1.5 mの円墳で、 礫槨など3 つの主体部を検出
5世紀後半の築造と推定されている。
西ノ野16号墳は、円墳の周溝の一部が検出されているのみ。
西ノ野13号墳は
封土は既に無く、周溝のみの検出で、 径11.5 mの円墳で、周溝がある。
西ノ野14号墳は、13号墳の南約25 mの地点にある。
周溝の南部が現存の住宅下にあるため全形は不明だが
径12〜13mの円墳と推定される。周溝あり。
15号墳は 14号墳の西約25 m、鈴鹿川が形成する段丘崖の縁辺に位置する。
径11〜12mの円墳と推定されている。周溝あり。
西ノ野古墳群 5〜10号墳・11号墳 |
鈴鹿市国府町 撮影日2023/11/25 |
王塚古墳(西ノ野1号墳)の南100mの道路沿いに5〜10号墳が保存されている。
5号墳の前に説明板があるが、はげて読めない部分がある。
西ノ野古墳群5〜10号墳 | 市史跡 | ||||||
西ノ野5号墳 全長30.5mの前方後円墳 前方部幅15m・高さ1.8m 後円部径21m・高さ3.4m 前方部は後円部より幅が狭く、高さも低いことから、 王塚より古い5世紀中ごろの築造と推定されている。 後円部の中央付近から人物埴輪(女子の前頭部)や家形埴輪、くびれ部から円筒埴輪が出土 盾形の周濠に囲まれ、 外提部には、径10〜15m前後の小円墳が衛星状に整然と配置されている。 5〜1号墳配置図 (説明板から)
|
|||||||
5号墳陪塚 西ノ野5号墳の外堤にある直径10〜15m前後の円墳5基。
|
5号墳の東500mの竹林の中に11号墳(椀塚)がある。
西ノ野11号墳 |
鈴鹿川右岸の段丘上に立地する全長約50mの前方後円墳。 後円部に盗掘坑がある。 通称「椀塚」といい、 寄合いの際、この古墳に願をかけるとお椀を貸してくれるという伝説から名付けられた。 6世紀代の築造か。 |
西ノ野11号墳 なかなか 墳丘には入れない…… 須恵器が出土して 椀貸し伝説になった といわれている。 |
白鳥塚古墳 県史跡 |
鈴鹿市加佐登町 撮影日2010/7/3・2023/11/26 |
加佐登神社境内にある。社殿の北東約100m。
インターネット上に、「県史跡白鳥塚古墳(1号墳) 第2次発掘調査現地説明会資料(平成17年)」
が公開されていたので参考にさせてもらった。
白鳥塚古墳(1号墳)は 三重県最大の円墳と思われてきたが、 平成16・17年度の墳丘調査で 墳長80m(全長92m)の帆立貝式古墳と確認された。 後円部径64m(基檀含 77m)・高さ9m(基檀含 11m) 前方部長さ15.5m・幅27m 墳丘は2段築成 最下部で基壇を設けその上に築かれている。 葺石あり 埴輪あり 円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、壺・きぬがさ・盾形の形象埴輪が出土。 5世紀前半の築造と推定されている。 白鳥塚古墳実測図 (現説資料から) 平成17年度(2005年)に調査 日本武尊(ヤマトタケル)の墓との伝承がある。 白鳥塚古墳群は 加佐登町字椎山から 石薬師町字北松塚に所在、 1号墳を主墳とする計7基が確認されている。 |
||||||||
説明板 現説資料 から
|
||||||||
|
||||||||
|
||||||||
白鳥塚古墳はヤマトタケルノミコトの墓という言い伝えがあり、 伝説にちなみ、白鳥塚と呼ばれている。 1号墳は古くから「記紀」の記述に見える日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の墓として有力視され、 ミコトが葬られたあとに白鳥となり飛び立ったという 日本武尊の白鳥伝説から白鳥塚と呼ばれてきた。 昭和12 年に三重県史跡に指定された。 本居宣長や平田篤胤が、白鳥塚を日本武尊の墓とした。 明治9 年には当時の教部省も白鳥塚を日本武尊の墓として治定したが、 明治12(1879)年10月宮内省はそれを改定し、 今度は丁子塚(現亀山市能褒野王塚)を治定した。 以来亀山能褒野王塚が陵墓となり現在に至っている。 |
||||||||
加佐登神社 祭神は 日本武尊 天照大御神 日本武尊が亡くなる時に持っていた 形見の「笠」と「杖」をお祀りしたのが、 加佐登神社の始まりと伝えられている。 |
石丸野1号墳 | 鈴鹿市平野町 撮影日2010/7/2 |
ホンダの工場正門前の道路を挟んだ西側にある。
石丸野1号墳
北西から
石丸野1号墳
全長46.8mの前方後円墳。
後円部24.2m・高さ10m
前方部は削平されている。
浅間神社を祀って、
地元ではお冨士さんと称している。
円墳状で、後円部は良好に残っている。
説明板では高さ10mとあるが、とてもそこまではない。
5世紀ころ、この辺りは石丸野といった。
保子里古墳群 | 鈴鹿市国府町 撮影日2010/7/2 |
鈴鹿回生総合病院の周辺にある。めずらしい双円墳がある。
双円墳の保子里1号墳
鈴鹿回生総合病院駐車場にある。
木が茂っていてちょっと離れると
墳丘が見えない。
保子里1号墳は全長50mの双円墳
西側の墳丘を明治32年発掘、二つの石棺が見つかり、
内部と周辺から垂飾付耳飾・環頭太刀・銀象嵌把頭太刀・銀承台付鋺などが出土
1989年の調査で葺石・円筒埴輪朝顔形埴輪が出土
6世紀中頃の築造と推定されている。
保子里1号墳は周壕痕も残っている。
西墳の周壕の調査では、周壕が四角くめぐっているので方後円墳か、方墳1基と円墳1基の可能性もあるという。
保子里2号墳
鈴鹿回生総合病院駐車場にある。
全長23mの前方後円墳
保子里5号墳
病院への進入道路沿いにある。
方墳
保子里古墳群は、鈴鹿川右岸の段丘上に立地。
戦前は28基あったといわれているが、戦後は18基に減少、現在は10基ほどしかのこっていない。
保子里古墳群配置図
1号墳〜3号墳は鈴鹿回生病院の駐車場にある。
(3号墳はみあたらなかったような・・・)
10号墳〜14号墳は、
エフ・シー・シー鈴鹿工場敷地内にある。
5号墳と8号墳の間、
現在道路になっている場所の発掘で、
土壙墓が11基確認され、
須恵器の土器、須恵質の紡錘車
鉄刀子・鉄鏃
赤色顔料
などが出土した。(1989年調査)
参考:「保子里8号墳現説資料」 「発掘された鈴鹿1989」
1号墳 | 双円墳 全長46m・高さ3m 東墳径21m・高さ3m 西墳径20m・高さ3m 西側の墳丘を明治32年発掘、二つの石棺が見つかり、 内部と周辺から垂飾付耳飾・環頭太刀・銀象嵌把頭太刀・銀承台付鋺などが出土 1989年の調査で葺石・円筒埴輪朝顔形埴輪が出土 前方後円墳か、方墳1基と円墳1基の可能性もある。 6世紀中頃の築造と推定 |
2号墳 | 前方後円墳 全長23m 後円部径16m・高さ2.5m 前方部幅9m・高さ3m |
3号墳 | 円墳 径15m高さ・1.3m 大半を畑の造成によって削平され、墳丘西端が弓状に残っているのみ 1989年の調査で径15mの円墳と確認された。鉄鏃出土(主体部は破壊か) |
4号墳 | 円墳 径7.5m・高さ0.8m |
5号墳 | 方墳 一辺14.7m・高さ2.3m |
6号墳 | 円墳 径9.8m・高さ1m 消滅 |
7号墳 | 円墳 径10.8m・高さ1m |
8号墳 | 方墳 一辺5.8m・高さ0.5m 円墳と思われていたが、2006年発掘調査で方墳の可能性が高くなった。 須恵器壺が出土し 6世紀中ごろの築造と推定されている。 調査後、西半分が、消滅した。 |
9号墳 | 方墳 一辺14m・高さ1.2m 5m四方で高さ1 mの台状となって残存している。 1989年の調査で、方墳と推定された。 |
10号墳 | 円墳 径16.7m・高さ1.3m 消滅 |
11号墳 | 円墳 径11.5m・高さ0.9m |
12号墳 | 円墳 径16.7m・高さ1.3m |
13号墳 | 円墳 径10.2m・0.5m 1960・62・63年調査 木棺直葬。 墳丘から、円筒埴輪棺が出土。 調査後、消滅。 |
14号墳 | 円墳 径11.5m・高さ1.5m 1960・62・63年調査 木棺直葬。墳丘裾から円筒埴輪棺が出土。 調査後、消滅。 |
15号墳 | 円墳 径5m・高さ0.4m 痕跡が残るだけ |
16号墳 | 円墳 径10.5m・高さ1.6m |
17号墳 | 円墳 径15.1m・高さ1.7m |
18号墳 | 円墳 径13.3m・高さ1.6m 1960・62・63年調査 横穴式石室がある。調査後、消滅。 |
南町古墳 | 鈴鹿市石薬師町字南町 撮影日2023/11/26 |
石薬師町には、古墳が多くあったようだが、前方後円墳が2基、破壊されながらも残っている。
その一つ、南町古墳。
南町古墳は 。全長50mの前方後円墳 墳丘は、破壊されている 横穴式石室があったが、現在袖石と奥壁の石材がほぼ現位置と思われる状態で残る。 6世紀の築造と推定されている。 山ノ神社となる。 1914年に調査。出土品は東京国立博物館にある。 |
|
パノラマ写真 真ん中に山ノ神社 左に石室跡がある。 |
|
左の墳丘には、奥壁石材が残る |
手前には、袖石と見られる石が残る。 かなり大きな石室があったと考えられる。 |
手前の墳丘が前方部か? 石室跡が残る奥の墳丘が後円部か? |
説明板 |
北町古墳 | 鈴鹿市石薬師町字北町 撮影日2023/11/26 |
石薬師町には、古墳が多くあったようだが、前方後円墳が2基、破壊されながらも残っている。
もう一つは、北町古墳。南町古墳の北約500m。
北町古墳は道路沿いにある推定全長20m以上の前方後円墳 後円部の一部だけが残る。 花崗岩の組合せ式箱式石棺が露出。内寸は2.3×0.5×0.4m。 6世紀頃の築造と推定されている。 |
|
墳丘は、わずかに残るだけ。西から見る よく前方後円墳とわかったなー…… |
石棺があるところだけ残った |
石棺が露出 |
石棺内部 |
北から見た北町古墳 |
説明板 |
大谷古墳 | 鈴鹿市木田町 撮影日2023/11/26 |
北町古墳の東約400m、若宮八幡神社は古墳だ。 横に若宮公園がある。
大谷古墳は、全長43mの前方後円墳 若宮八幡神社の境内になっているが、社殿で大きく破壊されている。 横穴式石室があったが、現在社殿の裏に破壊された石室の石材がまとめて置かれている。 |
|
墳丘を削って 若宮八幡神社がある。 古墳の面影はほとんどない |
境内の石造物は、石室石材で造られた? |
石材が無造作に置かれている |
祠の土台の石も石室石材かな |
伊勢国分寺跡 国史跡 |
鈴鹿市国分町 撮影日2023/11/26 |
大谷古墳の東約600mに、伊勢国分寺跡がある。
伊勢国分寺跡リーフレットなどを参考にさせてもらった。
国分寺は 天平13(741)年、 聖武天皇の詔により各国に建てられた官営の寺院で,僧寺と尼寺が置かれた。 鈴鹿川左岸の標高43m前後の高位段丘上に位置している。 大正11年に、国分町字堂跡一帯の37,180uが史跡伊勢国分寺跡として指定された。 奈良時代中期の伊勢国の役所である国府は,鈴鹿市広瀬町で見つかっているため, 約7kmと離れた位置関係にあり,国府は鈴鹿郡,国分寺は河曲郡と郡が分かれている。 現在整備途中である。 伊勢国分寺復元イラスト (伊勢国分寺跡リーフレットから) |
|
敷地の中央には 「史跡伊勢国分寺跡」と刻まれた石碑2基と 説明板がある。 説明板は読みにくい。 |
北東院跡 院とは塀などで区画された施設のこと |
講堂跡 |
国分寺跡の南には鈴鹿市考古博物館がある。 |
富士山1号墳 | 鈴鹿市国分町 撮影日2023/11/26 |
伊勢国府跡の東500mに富士山1号墳がある。
富士山(フジヤマ)1号墳は 全長54mの帆立貝形古墳、前方部が短く平坦 後円部径36m、前方部幅20m 幅5mの周溝が巡り、周溝の外側には周堤が存在した 西側くびれ部に一辺5mほどの方形壇の造出しがある。 2段築成 葺石あり 埴輪あり (淡輪技法を施した円筒埴輪、朝顔形埴輪や須恵器片) 5世紀後半頃の築造と推定されている。 以前から「大鹿(おおか)の大塚」と呼ばれ、 地元は「古事記」「日本書紀」に記された古代豪族、大鹿氏の本拠地との説がある。 以前は竹薮に覆われていたが、2021年に地元自治会により竹が伐採されて 墳丘が露になった機会に基礎資料を得るための発掘調査が実施された。 13基からなる富士山古墳群のうち、現存するのは1号墳のみ |
|||
南から見た富士山1号墳 左奥に前方部 |
後円部から前方部を見る いまだに発掘中 |
||
前方部から後円部を見る |
1号墳墳頂から東を見る 6号墳辺り発掘中? |
||
富士山1号墳横姿 |
|||
説明板から |
寺田山1号墳 | 鈴鹿市高岡町国分町 撮影日2023/11/26 |
富士山1号墳の南西約800mに寺田山古墳群がある。
HP.「企画展 鈴鹿の古墳T −ちいさなちいさな古墳たちー」の「寺田山古墳群」を参考にさせてもらった。
寺田山1号墳は 全長85mの前方後円墳 鈴鹿川流域第2位の規模 後円部の直径45m 前方部より3m高い。 前方部はくびれ部分の幅が約15m、先端の幅が20mとあまり開くことはなく、 柄鏡形に近い形状。 出土はないが、古墳の形状から4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。 寺田山古墳群は鈴鹿川下流域左岸の段丘上に位置し、 前方後円墳を含む12基の古墳群と考えられていたが、 平成2・4年の道路建設に伴う調査で、新たに10基ほどの埋没古墳が見つかった。 鈴鹿川に向かってのびる舌状の台地の先端に、前方後円墳である1号墳があり、 1号墳に近接して2、3号墳があり、このほかの古墳はやや奥まったところに築かれている。 前期の大型前方後円墳を伝説的な祖先の墓とみなして, それに連なるように営まれたと考えられる初期の群集墳と考えられている。 |
|
寺田山1号墳 後円部登り口の標柱 |
寺田山1号墳 後円部を見上げる |
寺田山1号墳 後円部墳頂 |
寺田山1号墳 後円部から前方部を見る |
寺田山1号墳 前方部から後円部を見る |
寺田山1号墳 くびれ部から後円部を見上げる |
寺田山遺跡 調査区位置図 (「企画展 鈴鹿の古墳Tから) |