北村さんちの遺跡めぐり
岐阜県・その4
岐阜県の遺跡めぐり第2弾・二日目
宿泊先のホテルルートイン土岐を午前8時に 出発
すぐ近くの乙塚古墳から
地図g
乙塚古墳 乙塚古墳附段尻巻古墳として国史跡 |
土岐市泉町久尻 撮影日2010/4/25 |
住宅街の中に残されている。
古墳の前の家にしばらくの駐車のお願いをし、見学。
乙塚古墳全景
南向きの段丘縁辺部に立地し、
目の前に土岐川をのぞむ。
乙塚古墳は一辺27.3m・高さ6.6mの方墳
円墳とされてきたが、
平成14〜18年の墳丘周辺と前庭部の発掘調査で方墳と確認された。
第12代景行天皇が美濃へ行幸した際に見初めた八坂入彦命(ヤサカイリヒコノミコト)の弟姫(オトヒメ)が葬られたと伝えられ、
弟姫に代わって姉の八坂入姫(ヤサカイリヒメ)が景行天皇の妃になったとされている。
乙塚古墳石室入口
南西方向に開く横穴式石室は
全長18.6m(前庭部も含む)
大型の花崗岩の切石を積み上げている。
乙塚古墳玄室内部
胴張形の玄室は長さ5.1m・幅2.6m・高さ2.8m
羨道は長さ5.4m・幅2.1m高さ2.6m
前庭部は西側壁がひらくハの字状で
長さ7.5m・最大幅3.7m
奥壁には巨大な鏡石を用いている。
側壁は花崗岩の割石を3段
玄室と羨道の境には立柱石とまぐさ石を設けて玄門としている。
乙塚古墳 玄室から外を見る
段尻巻古墳の後、7世紀前葉〜中葉の築造と推定されている。
段尻巻古墳からみた乙塚古墳
方墳に見えるかな。
段尻巻古墳 乙塚古墳附段尻巻古墳として国史跡 |
土岐市泉町久尻 撮影日2010/4/25 |
段尻巻古墳は乙塚古墳の北西約70mに位置する。
段尻巻古墳全景
径12.8m・高さ3.6mの円墳だが、
削平のため墳形が崩れている。
段尻巻古墳石室入口
南に向かって開口する横穴式石室は、全長8.9m、
玄室の長さ3.6m・幅約1.7m・高さ1.7m、
羨道の長さ5.2m・幅1.3m
前庭部がある。花崗岩が使用されている。
出土はない。
かつて乙塚古墳の周囲に同規模の古墳が3基ほどあり、人骨・直刀・勾玉などが出土した。
段尻巻古墳石室 羨道入口から玄室を見る
玄室と羨道の境には立柱石を置く
7世紀前半〜中頃の築造と推定されている。
段尻巻古墳の玄室の奥壁
奥壁には1.7mの一枚岩
側壁は奥壁側で3段、玄門側で4段に石材を積み上げている。
私達の姿をみて段尻巻古墳のそばに住むS氏が資料を持ってきてくださった。
史跡保存会の代表をなさっているという方で、仲間と定期的に、遺跡の整備や清掃を行っているという。
この後見学に行く隠居山遺跡の整備もなさったそうだ。
地元の人達が意識をして守っていくから、遺跡が残るんだと、ひしひしと感じた。
乙塚古墳附段尻巻古墳データ (S氏から頂いた資料から) | ||
乙塚古墳 | 方墳 一辺27.3m・高さ6.6m |
石室全長18.6m 玄室長さ5.1m・幅2.6m・高さ2.8m 羨道長さ5.4m・幅2.1m高さ2.6m 前庭部長さ7.5m・最大幅3.7m |
段尻巻古墳 | 円墳 径12.8m・高さ3.6m |
玄室長さ3.6m・幅約1.7m・高さ1.7m、 羨道長さ5.2m・幅1.3m 前庭部がある。 |
いずれも終末期の7世紀前半〜中ごろのの築造と推定されているが 乙塚古墳が段尻巻古墳の後につくられたと考えられている。 |
S氏ともっともっと話をしていたいという感じだったが、先を急ぐので、
炭焼古墳の場所も聞いて、すぐそばにある隠居山へ
隠居山遺跡 市史跡 |
土岐市泉町久尻 撮影日2010/4/25 |
段尻巻古墳あたりから案内板があり、北のほうへ行くとすぐ着く。
遺跡の前の坂道では、ネコが待っている。
上りきったところまで案内してどこかへ消えた。「案内ネコ」
隠居山遺跡入口
手作り雰囲気満点の案内板
先ほどのS氏のクループで作ったのだろうか?
隠居山遺跡は隠居山山頂近くにある複合遺跡で、見学しやすく整備されている。
隠居山遺跡 1号窯・2号窯跡
坂道の途中にある。
16世紀から17世紀前半に操業した窯跡
黄瀬戸焼・志野焼ほか御深井柚製品が出土した。
隠居山遺跡
写真の真ん中の説明板のあたりは
1700万年前に生息していた
パレオパラドキシア・タバタイという哺乳動物の
全身骨格が出土したところ。
その上に、横穴墓が並んでいる。
隠居山遺跡の横穴墓は、山頂近くの砂岩の崖面に6基ある。 遺物はなく、詳しい事は不明。 |
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その1 |
その2 |
その3 |
その4 |
その5 |
その6 |
炭焼古墳 県史跡 |
土岐市泉町定林寺 撮影日2010/4/25 |
中央自動車道土岐IC東の定林寺共同墓地内にある。墓地の入口は南側。
炭焼古墳
墓地の真ん中に残る。
径16m・高さ2.15mの円墳
南向きの斜面につくられた円墳で、東西基部は削平されている。
炭焼古墳石室正面
南に開口する横穴式石室は全長8.15m
炭焼古墳羨道部
羨道部は天井石がなくなっている。
羨道部の長さ1.37m・幅1.49m・高さ1.15mで
両側壁下に2段の石積みが残る。
炭焼古墳・前室から後室を見る。
名前の通り、内部は炭で汚れている。
玄室が前・後の2室に分かれている。
前門と玄門には方形の立柱石を置いて袖をなし、
玄門には梁石をのせている。
前室は長さ3m・幅1.51m・高さ1.15mで、両側壁は多数の石材を積み、天井石は1枚の巨石がのる。
後室は長さ3.16m・幅1.32m・高さ1.41mで
両側壁はそれぞれ3枚の石材を立て、奥壁には1枚の鏡石を用いている。
炭焼古墳の奥壁
丸っこい石
天井石には1枚の巨石が載せられている。
炭焼古墳の後室から入口を見る
出土物はないが7世紀の築造と推定されている。
大正村 散策 県史跡 |
恵那市明智町大正村 撮影日2010/4/25 |
炭焼古墳から約1時間後、大正村に到着。
小さな町に大正時代前後の町並みや路地が残る。自然なところがいい。
大正村配置図
十六銀行
現役の銀行
逓信資料館
明治8年の開局
郵便、電信、電話の資料を展示している
現郵便局は隣にある。
左 十六銀行
右 大正村資料館
大正村資料館は木造4階建の大正建築で
生産された繭を農家から買い取ったり、
預かった繭を収納するための銀行の繭蔵だった。
大正村役場
明治39年建築、昭和32年まで明智町役場として使われていた。
現在、案内所・休憩所となっている。
大正村発行の「大正村絵地図」がもらえる。
絵画館
元小学校跡
大正ロマン館
モダンな大正期の洋風建築をイメージして建てられた。
平成6年開館の新しい建物
大正村展示館
旧町営発電所 電気事業部跡
大正路地
白と黒のコントラストがきれいな通り
徳平古墳 県史跡 |
恵那市明智町大正村 撮影日2010/4/25 |
明知鉄道明智駅の裏を流れる滝坂川の両岸の丘陵先端に2基の横穴式石室墳がある。
北側にある徳平古墳はイトウハチミツの裏山にあるとのことなので、イトウハチミツを目指す。
イトウハチミツの作業場にいた女性に、商工会発行の「大正村絵地図」をいただき、
徳平古墳の上り口まで案内してもらった。
その女性は昔、養蜂で石川県高松町(現かほく市)に行った事があるということで、とても懐かしがっておられた。
イトウハチミツの横の狭い路地をすり抜け、山をすこし上ったところにある。
徳平古墳全景
径11.5m・高さ2.2mの円墳
徳平古墳石室入口
横穴式石室は
胴張りのある玄室の長さ3.3m・幅1.9m・高さ1.75m
羨道の長さ1.9m・幅1.2m
4体が埋葬されていた。
副葬品は装身具・武具・土器類がある。
徳平古墳 羨道から玄室を見る
床には敷石が残る
徳平古墳 玄室から入口を見る。
大正村の絵地図は2種類ある。
どちらにも徳平古墳と久後古墳が描かれているがどうやっていくのか全く分からない。
イトウハチミツの女性がいなかったら、徳平古墳にはたどり着かなかったと思う。
久後古墳 県史跡 |
恵那市明智町大正村 撮影日2010/4/25 |
久後古墳は徳平古墳の川をはさんで向かい合うとのことなので、滝坂川をわたり狭い坂道を上る。
明智セラミックス明和寮が2棟並んでいる。その前に小さな墳丘。
久後古墳
山の斜面にある
径8.5mの円墳
説明板はない。
久後古墳の山側から大正村をみる。
写真の左側にはイトウハチミツが眼下に見える。
久後古墳石室入口
南に開口
久後古墳の玄室閉塞石
1.1m×0.5mの花崗岩の板石2枚で
右側の1枚が前に倒れている。
久後古墳の玄室奥壁部分
横穴式石室は
玄室の長さ4m・幅1.9m・高さ1.7m、羨道の長さ2.1m
奥壁は巨大な1枚石、
側壁は小型の石材を積み上げ、胴張状となる。
玄室床面には敷石がほぼ完全に残る。
戸狩荒神塚古墳 県史跡 |
瑞浪市明世町 撮影日2010/4/25 |
昼前に大正村を出て瑞浪市へ。
瑞浪市の中央自動車道瑞浪IC近くにある。
戸狩荒神塚古墳全景
南側から
標高約100mの丘陵先端に築かれている。
径60m・高さ8mの大きな円墳。
南・西側に葺石が残る。
未調査。
内部主体は竪穴式石室と推定されている。
戸狩荒神塚古墳墳頂から裾を見る
造出しのように見えるが違うのか?
墳頂部の平坦面は径11mある。
戸狩荒神塚古墳北側墳裾付近
写真右端に「戸狩荒神塚古墳」と書かれた石碑が立つ。
戸狩横穴墓が13基残るというが、どこなのか分からない。
大島1号古墳 県史跡 |
瑞浪市明世町山野内 撮影日2010/4/25 |
公園の中の化石博物館の隣りに移築復元されている。
でも、かなり奥で坂の上だから見に来る人が少ないのではないか?
移築復元ならもっと見学しやすい場所にすればいいのにと、ちょっと思う。
大島1号墳
現在の場所から8.5km東の
瑞浪市釜戸町の中央自動車道敷地内にあった。
説明板は簡単すぎて、古墳の大きさもわからない。
大きさは書いていただきたいといつも思う。
大島1号墳石室
横穴式石室は前庭部も含めて全長8m
玄室の長さ5m・幅1.7m、高さ2.2mの右片袖式で、
床面には板石が敷き詰められ、羨門には立石がある。
石室の前には前庭部が広がり、
そのまま墳丘の裾の石垣に繋がっている。
大島1号墳石室内部
用意した奥壁が小さかったのか、石を足してあるのがおもしろい。
やはり移築ではなく元の場所にある古墳をみたい!
化石博物館の向かいにある「レストランカセキ」で昼食。
次は御嵩町へ
中切古墳 県史跡 |
御嵩町中切 撮影日2010/4/25 |
いろいろなHPを見て場所が分かったと思って行ってみたが、わからず、
結局通りがかりの女性にきいてようやくたどり着いた。
この雑木林の中に中切古墳がある。
盆地内に突出した低丘陵の
突端部に位置する前方後円墳
本通りから一本北に入った道に「中切古墳」と書かれた案内標柱があり、
そこから林の中に入ると、左に謎の石材があり、最初はそれが古墳かと思ったが違う。
右に四角く区切られた墓地。
その墓地を回りこんだ向こう側に後円部と石室開口部が見える。
中切古墳は 全長42mの前方後円墳
後円部径28.5m・高さ4.7m 前方部幅28m・高さ4m
くびれ部幅22.4m
墳丘全面に径20cm大の葺石あり
後円部中央に南に開口する横穴式石室は
右片袖式で持ち送り天井
玄室の長さ7.3m・幅2.15m・高さ2.4m 羨道の長さ3.3m・幅1.3m・高さ1.5m
中切古墳石室
南に開口している。
くずれそうに見えるが
意外としっかりした石室
中切古墳石室内部
奥壁の上部から光がもれている。
中切古墳奥壁側の穴
石室の後ろ側から見る。
盗掘坑。
中切古墳前方部頂の石仏
西南の方向に前方部がある。
前方部は一部削平されていて
小さくなっている。
午後2時半ころ サークルK御岳井尻店で おやつ購入
宝塚古墳 県史跡 |
御嵩町中 撮影日2010/4/25 |
国道21号線から少し北へ入った道路沿いにある。
広い谷に突出した標高150mの丘陵突端にある。
宝塚古墳
墳裾に、宝塚七薬師という旗がたくさん立っている。
宝塚古墳の墳丘
径42.8m・高さ9mの円墳
2段築成
葺石あり
説明板も案内板もなくて詳しいことはわからない。
宝塚古墳墳頂にある小さな社殿
墳頂平坦面は径12m
中段までの高さ6m・段の幅2.2m
5世紀の築造と推定されている。
可児古墳群の1支群の中古墳群の中心的古墳 (古墳辞典から)
神山古墳 県史跡 |
御嵩町比衣 撮影日2010/4/25 |
国道21号線から少し北へ入った道路沿いにある。道路から高い墳丘が見える。
神山古墳
背の高い墳丘
墳頂に石の小さな祠がおかれている。
径24mの円墳
2段築成
神山古墳
石室の石材が見える
説明板も案内板もないので詳しいことはわからない。
神山古墳の
石室は埋まっている
横穴式石室の天井石が露出している。
大平賀の古墳 県史跡 |
富加町大平賀 撮影日2010/4/25 |
井高1号墳を探していたら、通り過ぎて大平賀の大平賀クリーンセンター辺りに来てしまった。
中障子1号墳
径10mほどの円墳と思われ、
横穴式石室の石材が一部露出。
(のはずだが、石材は見当たらない)
中障子2号墳?
中障子1号墳のすぐ北にある。
閏田2号墳
中障子1号墳のすぐ西の田圃の中にある。
現状で径15mほどの円墳。
つい最近土を盛ったような墳丘
1号墳はどこにあるのか?
閏田2号墳そばで農作業をしている男性に聞いたところ、以上3基は間違いなく古墳だと断言してくれた。
井高1号墳の場所もきいた。
井高1号墳 町史跡 |
富加町 撮影日2010/4/25 |
白山神社の森の東側にありわかりやすいはずだったが見逃してしまった。
井高1号墳全景
別名 火塚
一辺25mの方墳、
説明板には上円下方墳とある。
井高1号墳石室
横穴式石室は全長7mくらい
須恵器・土師器や刀剣が出土した。
井高1号墳石室内部
かなり埋まっている
小瀬方墳 市指定史跡 |
関市山王通西 撮影日2010/4/25 |
午後5時にようやく関市に入る。廃線となった名鉄美濃町線のすぐ北側にある。
小瀬方墳 北側から
方墳と一目で分かるが
説明板がなく詳しいことはわからない。
2段築成のようだ。
小瀬方墳 西側から
墳頂に関市指定史跡と書かれた標柱があるだけ
塚原遺跡 | 関市千疋 撮影日2010/4/25 |
千疋大橋から川沿いに1kmほど北東に進むと、整備された古墳公園がある。
12基の古墳が整備保存されている。
昭和29年の初めて発掘で縄文中期の竪穴住居が1軒発見
昭和33年、37基の古墳を確認
昭和62年、大規模な発掘
などを経て、平成3年に保存整備が完成した。
塚原遺跡配置図
赤い番号が保存されている古墳
7500年前の縄文早期の遺跡
4000年前の縄文中期の「むら」の遺跡
1400年前の古墳
が混在する遺跡となっている。
古墳を作った時代の人達が住んでいた場所は
発見されていない。
写真はきれいなものがたくさんあるが、詳細がわからないのが残念。
塚原遺跡で一番大きな1号墳
前に置かれている石は1号墳天井石
奥の建物は塚原遺跡公園展示館
塚原遺跡の古墳
手前 9号墳
後に8号墳・10号墳・3号墳が見えている。
墳丘 | 石室 | |
10号墳 | ||
12号墳 | ||
14号墳 | ||
15号墳 | ||
13号墳 | ||
9号墳 | 背後は縄文時代の掘立柱建物 と 7号墳 |
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8号墳 | ||
11号墳 | 手前は縄文時代の蒸焼場跡 |
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3号墳 | ||
7号墳 | ||
1号墳 | ||
16号墳 | 背後は縄文時代の掘立柱建物 |
池尻大塚古墳 県史跡 |
関市池尻 撮影日2010/4/25 |
今回最後の見学となるがなかなかたどり着けない。
関市池尻の白山神社の鳥居脇の竹林の中を目指すが、円空館に着いてしまった。
円空館
白山神社に 安置されていた16体の円空仏などの常設展示のほか、
市内の神社や寺、個人が所蔵する円空仏を借用し
年3回入れ替え展示しているという。
時間が遅いせいか、円空館は閉館している。
周りは泥道でさびれたような建物だ。
円空館あたりの地図
この辺りは国指定史跡・弥勒寺官衙遺跡群となっている。
弥勒寺史跡公園として整備されている。
弥勒寺は白鳳時代に廃寺だった弥勒寺を再興した円空が元禄2年から8年まで僧籍を置いた寺。
弥勒寺は、数百体の円空仏とともに大正時代に火災で焼失。東側に現在の弥勒寺が再建された。
円空館から元の道に戻って通りがかりの男性に白山神社の場所を尋ねる。
かなり行きにくい場所らしいが、丁寧に教えてくれた。
ここも聞かないと分からない場所だと思う。
白山神社入口
この先石段の上に社殿がある。
右側の竹林内に大きな石室が見える。
池尻大塚古墳
封土が消失、巨大な天井石が露出。
1辺22.4mの方墳。
夕日に輝いている。
池尻大塚古墳
巨大な石室
竹の子が出ている。
このままでは石室も竹にやられそう。
竹の子を取って、おみやげとした。
池尻大塚古墳
今にも崩れそうな石室
2008年に発掘調査が行われたそうだ。
7世紀前半の築造と推定されている。
牟義都(ムゲツ・牟宜都・身毛津)氏関連の墓といわれている。
6時10分となってしまった。
午後6時20分 美濃インターSSでガソリン給油後、北陸東海自動車道に入る。
午後7時18分 ひるがの高原SAで夕食 休憩30分
午後9時15分 自宅着
岐阜の旅 おわり