北村さんちの遺跡めぐり
岐阜県・その1 | 撮影日2009/8/29 |
北陸自動車道を通って郡上八幡へ行こうと出発したが、
郡上八幡は帰り道によることにして、まず垂井町・池田町・大之町の古墳見学に向かう。
午前7時20分 自宅発
徳光ETC専用ICから北陸自動車道へ、
北鯖江SAにて休憩
米原JCTから東名高速道路へ
伊吹PAにて休憩
関ヶ原ICから一般道へ 伊吹バラ街道というすてきな名前の道を通り
午前10時 垂井町府中婦中 忍勝寺古墳に到着。
地図g
忍勝寺古墳 町指定史跡 |
岐阜県垂井町府中 撮影日2009/8/29 |
昭和32年に町史跡となる。
直径40m・高さ6mの円墳。 (下部しか残っていない)
周囲に幅3mのほりがめぐる。
大正年間に盗掘されたが、出土品は元に戻されたという。
竪穴式石室と思われ、出土品には多量の鉄鏃があり、その中の銅鏃2本は現在忍勝寺に保管されている。
8世紀前半の築造 (と説明板にはあるが、とっても怪しい。)
インターネットで公開されている平成26年3月の「史跡美濃国府跡保存管理計画(案)」には、
全長60mの帆立貝式円墳で、5世紀前半の築造と推定されているとある。
住宅街の端にある忍勝寺古墳 (東側から) 桜の大木が数本ある。 満開の時は素晴らしい花見ができそうだ。 |
忍勝寺古墳 墳頂 削平されているのか高さがない。 |
西から見た忍勝寺古墳 |
そばにある忍勝寺 |
垂井町の田んぼの中にある 古墳3基の紹介 |
岐阜県垂井町府中 撮影日2009/8/29 |
垂井町新井にある北中学校の北の田んぼの中に、ぽつんぽつんと空き地(雑草地)がある。
それは古墳だ。
その1 | 乙井古墳 |
乙井古墳
単なる盛土にしか見えない!
径15mほどの円墳か方墳。
石などは見あたらない。
その2 | 東大井古墳 |
東大井古墳
乙井古墳と同じくらいの盛り土の小山。
墳丘には大きな石が見えている。
横穴式石室か?
その3 | 南大塚古墳 |
南大塚古墳は「高和」という会社の駐車場横にある。
南大塚古墳は 一辺25m・高さ6mの方墳
幅5mの周壕が確認されている。
前庭部も含めて全長15mの大型横穴式石室が開口している。
雑草におおわれていて、 あるはずの横穴式石室が確認できない。 |
フェンスの向こうに大きな石材が見える。 天井石か? |
そばで農作業をしている女性にも、「蛇がいるから、雑草の中に入らないほうがいい」と言われてしまった。
冬にもう一度来なければならない。
8月ということで虫や蚊や蛇が怖くて墳丘に上がれないのが残念。そばまで行って眺めるだけ。
喪山古墳 | 岐阜県垂井町府中 撮影日2009/8/29 |
地図に喪山古墳と書かれていたので行ってみる。
11時頃喪山古墳ふもとの説明板のところに到着。
平成21年3月に設置されたばかりの説明板には、
「周囲200m・高さ40mの独立丘陵に位置していて、東と西にそれぞれ高まりがあるので、
円墳が2基存在するとも、山全体が前方後円墳ともいわれている。
古事記・日本書紀に記されている喪山伝説の天稚彦(アメワカヒコ)の墓と伝えられており、別名を葬送山古墳ともいう」
喪山古墳遠景
説明板横から山道があったが、眺めるだけとする。
堅田古墳 | 岐阜県垂井町 撮影日2009/8/29 |
垂井町の県道216号線沿いにある。すぐ東は美濃国分寺跡。
堅田古墳は垂井町、美濃国分寺跡大垣市となる。
堅田古墳 前方後円墳のように見えるが、円墳だという。 道路の反対側(北側)から見る |
墳丘には石材が露出 石の間から石室内部も見えているが、 ほとんど埋まっているようだ。 |
美濃国分寺跡附瓦窯跡 国史跡 |
岐阜県大垣市青野町 撮影日2009/8/29 |
堅田古墳のすぐ東にあり、史跡公園となっている。
国分寺は741(天平13)年、聖武天皇が諸国に建立するように命じた寺。
美濃国分寺跡は塔跡を残すだけで地中に埋もれていたが、
1966(昭和43)年からの発掘調査で国分寺の全容が明らかになってきた。
範囲は東西230m、南北250mで金堂、塔、講堂、鐘楼、西面僧坊などの遺構を確認した。
伽藍北東の丘には、窯跡(未調査)も確認されている。
877年に焼失、10世紀に再建されたようだが、12世紀末には衰退してしまった。
現在の国分寺はこの地の背後の青野山山麓にあるが、1615年に再興されたものである。
美濃国分阿尼寺跡は、西南西約1kmの地にある。
1921(大正10)年、 国指定史跡(塔跡・金堂周辺のみ)
1971(昭和46)年、伽藍域の大部分と窯跡が追加指定された。
美濃国分寺跡
手前 塔跡
奥 金堂跡
そばにある大垣歴史民俗資料館に遺跡の情報がないかと寄ってみるが、トイレを借りただけで次に向かう。
綾戸古墳 町史跡 |
岐阜県垂井町綾戸 撮影日2009/8/29 |
垂井町綾戸の東小学校西にある。
径32mの大きな円墳で、周囲には周壕がめぐる。
葺石あり。平地に立地する。
かつては横穴式石室が開口していたらしいが、現在は埋まっている。
終末期(7世紀以降)の築造と推定されている。
特異な須恵器の3足壺と、鏡が付近から出土したと伝えられている。
昭和60年、町指定史跡となる。
綾戸古墳全景 |
周壕の跡がはっきりと確認できる。 |
この古墳の主木の松の木には、熊坂長範の物見の松という伝説があるという。
熊坂長範といえば、わが地元の石川県と福井県の県境に熊坂というところがあって、
そこが熊坂長範の出身地だといわれている。
大盗賊の出身地だからと言って自慢にはならないが・・・・
全国14都県に熊坂長範の伝説があるそうだ。
矢道長塚古墳 国史跡 |
岐阜県大垣市矢道 撮影日2009/8/29 |
お昼頃に到着。
綾戸古墳の説明板に、東約1kmのところにあるという記述があったので、見に行くが、
後円部がほとんど削平されていて、国史跡とは思えない。
矢道長塚古墳復元図 (説明板から)
長さ87mの前方後円墳
後円部径65×53m 前方部幅44m・高さ現況2.7m くびれ部幅32m
周壕あり
前方部を西に向けている。
4世紀後半の築造と推定されている。
後円部頂に2基の粘土槨がある。
東棺(割竹形木棺)から、鏡3(三角縁神獣鏡2)・鍬形石3・勾玉2・管玉48・玻璃製小玉・鉄刀3
棺外から 鉄刀5・鉄鏃14・鉄斧4
西棺(箱形木棺)から 鏡3(三角縁神獣鏡2)・石釧76・碧玉製盒子・石杵2・勾玉2・管玉145・鉄刀2・玻璃製小玉が出土。
その他にコウヤマキ製の棺片と水銀朱が採取されている。
中でも石釧の数は、現在のところ奈良・櫛山古墳に次ぐものとして知られている。
2004年の範囲確認調査で、周壕の形が左右で異なっていることが判明した。
北側が陸橋を持つ盾形、南側は前方後円墳に沿った形をしている。
また、周壕の南側に6基の削平された方形周溝墓が検出された。
矢道長塚古墳全景 左の小さな部分が後円部 右が前方部 後円部は真ん中しか残っていない |
後円部の残骸 後円部には「長塚古墳址」という石碑が立つ。 右側は前方部の林 |
中山道に入る。円興寺トンネルを通る。
願成寺西墳之越古墳群 ガンジョウジニシツカノコシコフングン 県指定史跡 |
岐阜県池田町願成寺 撮影日2009/8/29 |
茶畑の中に小さな古墳がポコンポコンとある。
今まで見た事がないような景色だ。
願成寺西墳之越古墳群 (説明板から)
石室の見学できる古墳は4基だけ。
池田山の東麓の扇状地上(標高120m)に立地する
群集墳で111基確認されている。
形の分かるものはすべて円墳で、
直径18〜20mから直径6〜7mと大きさはさまざま。
ほとんどの古墳は横穴式石室で、
追葬が何回も行われたと推定されている。
須恵器・土師器などの土器、鉄刀・鉄鏃などの武器、
勾玉・耳環などの装身具が出土。
59号墳
道路わきにある
石積みのある古墳 (番号不明)
石積みは後世のものなのか
わからない
調査された13基の中で、
最も古い築造は5世紀後半(36号墳)、最も新しいのは7世紀後半(51号墳)
6世紀末から7世紀初頭は5基、7世紀前半5基、7世紀中〜後半2基、不明1基
だが、大多数は後期の6世紀末から7世紀後半の築造と推定されている。
追葬は8世紀初頭まで行われたとみられている。
43号墳
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51号墳 茶畑から少しはずれた林の中にある。 古墳群の中では新しいもので、7世紀後半頃につくられた。 7世紀後半から8世紀前半までの間に、最低3回の埋葬があったと推定されている。 最後の埋葬は8世紀前半で、火葬した骨を壷に納めた埋葬方法となる。 横穴式石室内から、鉄釘とともにコウヤマキ製木棺の痕跡が確認されている。 |
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1号墳 中で一番大きな墳丘。 直径18mの円墳。 石室もりっぱ! |
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2号墳
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36号墳 直径21mの円墳 竪穴式石槨3基と木棺墓が確認された。 最大の1号石槨から、鹿角装鉄剣・鉄鏃・鹿角装刀子・赤色顔料が出土。 木棺墓は小児用と思われ、玉類・鉄刀子が出土。 |
古墳の大きさなどの細かいデータは説明版には書かれていない。
午後1時になってしまったが、食事をするところがない。
揖斐川町三輪の「いびぷらざ」で、ようやくお好み焼きの昼食をとることができた。
谷汲山トンネルをくぐり、大野町の総合運動公園の南にあるという野古墳群をめざす。
ところが、総合運動公園の案内板を見ても、なかなかわからなかったりする。
まあ、みつかったんだけと・・・・。
野古墳群 国指定史跡 |
岐阜県大野町野 撮影日2009/8/29 |
畑の中に大きな前方後円墳が6基もある景色はすばらしかった。
埼玉古墳群にも匹敵する規模に感激です。
野古墳群配置図 説明板から
大野町の北端標高25mの低地に群在する
大規模な古墳群
前方後円墳7基、帆立貝式古墳の7号墳、
方墳の8号墳の計9基が残る。
(ほかは消滅)
S32年国史跡になる
5号墳以外は
範囲確認調査だけされているようだ。
1号墳 (モタレ古墳) 1号墳実測図 推定全長54mの前方後円墳 後円部径41m・高さ6m 前方部は削平されている。 埴輪あり 出土品は円筒埴輪片のみ 従来は円墳と考えられていたが、 測量調査の結果、南側に前方部がつく前方後円墳とわかった。 南側から見た1号墳 現在は野古墳群の中で北西部端にあるが、 明治時代の絵図をみると、 この西にまだ古墳があったことがわかる。 |
2号墳 不動塚古墳 2号墳実測図 全長58mの2段築成の前方後円墳 後円部径40m・高さ6m 前方部幅13m・高さ1.5m くびれ部幅15m高さ1m 葺石あり埴輪あり 後円部に比べて前方部がかなり低い。 前方部裾部は広がらず、方形がそのままついたような形状をしている。 後円部は基段・上段とも急激な傾斜で立ち上がり、 後円部頂部は比較的広く段築のテラス面も明瞭に残る。 出土品はなく築造年代の推定には至っていない。 2号墳 北東から 前方部がとても低い。 |
3号墳 南屋敷古墳 3号墳実測図 全長76mの前方後円墳 後円部径54m・高さ5.4m 前方部幅28m・高さ3m くびれ部幅9m・高さ1.2m 葺石あり 埴輪あり 幅17mの周壕と外堤があった。 2段築成 不整形の割石の葺石列、テラス部分には円筒埴輪列。 幅17mの周壕と外堤をもつ。 埴輪は春日井市の下原古窯で焼成され大野町に搬入された可能性が高い。 くびれ部が細く前方部が三角形のような形をしている。 3号墳 南東から 昭和57年に範囲確認調査 |
4号墳 登越古墳 4号墳実測図 全長83.3mの前方後円墳 後円部径55m・高さ6.8m 前方部幅46.2m・高さ5.5m くびれ部幅37m・高さ4.5m 葺石あり 埴輪あり 二重周壕と外提部を持つ 古墳群最大の規模を持つ 三段築成墳丘の周りには外提部を持つ二重周壕があり、外側の周壕は空堀的な要素を持つ。 墳丘の特徴は低い基段とその形状だが、2段目とは異なり、くびれ部で広がりを持たず、 前方部の先端に近づくにつれて広がりを持ちはじめる。 そのため平面的には基段のみ形状が異なる。 4号墳 南東から 前方部を南に向ける。 |
5号墳 城塚古墳 5号墳実測図 全長82mの前方後円墳 後円部径42m・高さ7m 前方部幅31m・高さ4m 2段築成 長さ2.4m・幅1mの竪穴式石室から、 鏡・鉄刀・鉄鏃・馬具等が出土。 後円部が小さく前方部も先端に片寄って、 段築をなくすためにくびれ部付近が細長く低くなっている。 特に前方部と後円部の比高差が激しく、遠方より眺めると円墳のように見える。
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6号墳 乾屋敷古墳 全長77.5mの前方後円墳だが南側は削られている。 南側が削平されている。葺石あり 埴輪あり 古墳群の中では最古と思われる埴輪が出土している。 6号墳 南側から 後円部に家が建つ。 前方部は木がいっぱい。 |
7号墳 全長29mの帆立貝式古墳で、小さな前方部が残る。 後円部径16m・高さ4.24m 前方部長さ7m・幅6.4m・高さ2.8m 幅4.4mの周壕がある。
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8号墳 一つだけ残った方墳 |
9号墳 小型の前方後円墳で、前方部消滅。 9号墳 東側から 右側に少し見えるのが8号墳 雑草が繁りよく見えない |
10号墳 円墳 (消滅) |
11号墳 円墳 (消滅) |
12号墳 前方後円墳? (消滅) |
13号墳 円墳 (消滅) |
14号墳 石塚古墳 円墳 (消滅) |
15号墳 方墳 (消滅) |
16号墳 円墳 (消滅) |
17号墳 円墳 (消滅) |
同じ古墳群の、規模がそれ程違わない前方後円墳でも、形がかなり違うのがおもしろい。
午後3時に野古墳群の見学を終え、郡上八幡に向かうこととする。
各務原ICまでが約50分もかかり、
郡上八幡のパーキング(日吉駐車場)に到着したのは午後4時40分となってしまった。
日暮れまで、郡上八幡の散策をする。
郡上八幡観光 | 岐阜県郡上市 撮影日2009/8/29 |
情緒のある街並みを歩く。
郡上八幡には食品サンプル製造のお店もある。本物そっくりの食材にびっくり!
川べりはライトアップされている。
やなか水のこみち 一番の観光スポット |
宗祇水 |
郡上八幡楽芸館 休館中 |
旧庁舎・観光案内所 |
今晩は仮装大会の郡上おどりが午後8時からあるという。
ぼちぼち人が集まり始めている。
私たちはこれで帰ります。
午後6時25分 郡上八幡出発
ひるかのSAで、ラーメンの夕食。
午後9時 帰宅。