北村さんちの遺跡めぐり

垂井町   地図g   

乙井古墳 垂井町
撮影日2009/8/29

垂井町の田んぼの中にある古墳。その1

乙井古墳

単なる盛土にしか見えない!
径15mほどの円墳か方墳

石などは見あたらない。

  

東大井古墳 垂井町
撮影日2009/8/29

垂井町の田んぼの中にある古墳。その2

東大井古墳

乙井古墳と同じくらいの盛り土の小山。
墳丘には大きな石が見えている。
横穴式石室か?
  

南大塚古墳 垂井町大石
撮影日2009/8/29
2019/10/30

垂井町の田んぼの中にある古墳。その3
南大塚古墳は「高和」という会社の駐車場横にある。

 南大塚古墳は 一辺25m・高さ6mの方墳
 葺石あり
 前庭部も含めて全長15mの大型横穴式石室が開口している。
 6世紀末〜7世紀初頭の築造と推定されている。

 2019年の南大塚古墳 2019/10/30

南から見た南大塚古墳

左側(西側)の墳丘が
 削られている

きれいに除草されていて、
 しっかりと見学できた!

東から見た墳丘 小さな祠がある

墳丘上から、石室入口方向を見る

ほとんど露出した石室
前庭部はハの字状に広がる

石室入口

石室入口から奥壁を見る

奥壁側から石室入口を見る

思いのほか、立派な石室!

2009年の南大塚古墳 撮影日2009/8/29

雑草におおわれていて、
あるはずの横穴式石室が確認できない。

フェンスの向こうに大きな石材が見える。
天井石か?

  

戸張古墳 垂井町大石
撮影日2019/10/30

南大塚古墳の北約600mの農地の中に、方形に古墳が残る。
垂井町の田んぼの中にある古墳。その4

 戸張古墳は 墳形不明。   横穴式石室がある

封土が流出

横穴式石室の石が見えている

      

大滝古墳群 垂井町大石
撮影日2019/10/30

戸張古墳の北約200mの農地に、2基の古墳が並んでいる。

 大滝古墳群は 農地の中に2基、その北西の林の中に5基残っている

農地に残された2基の古墳
南から見る


どちらも一辺10m足らずの
上円下方墳
だそうだ

同じ古墳を北から見る

北から見ると、
上円部しか見えない

林の中は見ていない。

東野古墳群
トウノコフングン
垂井町大石
撮影日2019/10/30

大滝古墳群の北の道路沿いに墳丘があるのが、東野古墳群。
3基が確認できた。

 その1

道路にへばりついたような墳丘

方向を変えて見ると、もっと古墳らしい
 その2    その1の西側にある。

墳丘その2

墳丘その2 方向を変えて見る
 その3
 その1・その2の西側の、柵の向こうにあるので近づけないが、きれいな墳丘がある。


墳丘その3

 

岡田堂古墳 垂井町府中岡田
撮影日2019/10/30

南大塚古墳の東約1kmの東海道本線のそばの農地の中にも、古墳がある。
垂井町の田んぼの中にある古墳。その5。

 岡田堂古墳は 円墳   横穴式石室の一部が露出している。

かわいい墳丘

横穴式石室の石が見えている

   

親ヶ谷古墳
町指定史跡
垂井町市之尾
撮影日2019/10/30

岡田堂古墳の東の市之尾集落の北の、標高185mの尾根上にある前方後円墳を見に行く。


市之尾集会所の前に
「親ヶ谷古墳 距離約550m」の案内板がある。

市ヶ谷集落の奥にある天神神社の手前に駐車し、
比高差約80mを登らなければならない。

神社横の登り口

いくつかの案内標識をたよりに登る
最後の案内標識


途中の鉄塔脇から
 親ヶ谷古墳を見上げる


右側の尾根上

20分くらいかかって、後円部に到着。

 親ヶ谷古墳は 墳長85mの前方後円墳 標高185mの尾根上に位置する。
  後円部42m・高さ6n・頂径13m、 前方幅43m・長さ43m・高さ5.5m くびれ幅18m
 前方部を北東に向ける。 前方部は先端が拡張する形。
 後円部は2段築成上段には葺石がある。
 埋葬施設は粘土槨
 明治の初め頃に盗掘され、長さ3m・幅1mの粘土槨の棺の北端から
  鏡14・鍬形石1・車輪石4・合子2組・壺3・四脚付盤1
   ・高坏1・碧玉製管玉・滑石製棗玉などが出土した。
  鏡は行方不明だが、そのほかは東京国立博物館に所蔵されている。
 4世紀後半の築造と推定されている。
  矢道長塚古墳とほぼ同時期と考えられている。

後円部頂

後円部から前方部を見る

くびれ部から前方部を見る

前方部頂

前方部から後円部を見る

くびれ部から後円部を見る

 案内標識がいくつもあるが、道がなくなる所もある・・・。  

忍勝寺古墳
町指定史跡
岐阜県垂井町府中
撮影日2009/8/29

昭和32年に町史跡となる。

直径40m・高さ6mの円墳。 (下部しか残っていない)
周囲に幅3mのほりがめぐる。
大正年間に盗掘されたが、出土品は元に戻されたという。
竪穴式石室と思われ、出土品には多量の鉄鏃があり、その中の銅鏃2本は現在忍勝寺に保管されている。
8世紀前半の築造 (と説明板にはあるが、とっても怪しい。)

インターネットで公開されている平成26年3月の「史跡美濃国府跡保存管理計画(案)」には、
   全長60mの帆立貝式円墳で、5世紀前半の築造と推定されているとある。


住宅街の端にある忍勝寺古墳 (東側から)
桜の大木が数本ある。
満開の時は素晴らしい花見ができそうだ。

忍勝寺古墳 墳頂
削平されているのか高さがない。

西から見た忍勝寺古墳

そばにある忍勝寺

  

若宮古墳 垂井町府中
撮影日2019/10/30

忍勝寺古墳のすぐ左側(南)にある小さな古墳は、若宮古墳という。


背の高い1本の樹が目印の若宮古墳
右は忍勝寺古墳

墳丘は破壊されている…

詳細不明・・・

喪山古墳 岐阜県垂井町府中
撮影日2009/8/29

地図に喪山古墳と書かれていたので行ってみる。
11時頃喪山古墳ふもとの説明板のところに到着。
平成21年3月に設置されたばかりの説明板には、
「周囲200m・高さ40mの独立丘陵に位置していて、東と西にそれぞれ高まりがあるので、
円墳が2基存在するとも、山全体が前方後円墳ともいわれている。
古事記・日本書紀に記されている喪山伝説の天稚彦(アメワカヒコ)の墓と伝えられており、別名を葬送山古墳ともいう」

喪山古墳遠景

説明板横から山道があったが、眺めるだけとする。



  

堅田古墳 岐阜県垂井町
撮影日2009/8/29

垂井町の県道216号線沿いにある。すぐ東は美濃国分寺跡。
堅田古墳は垂井町、美濃国分寺跡大垣市となる。


堅田古墳
前方後円墳のように見えるが、円墳だという。
道路の反対側(北側)から見る

墳丘には石材が露出
石の間から石室内部も見えているが、
ほとんど埋まっているようだ。

   

綾戸古墳
町史跡
岐阜県垂井町綾戸
撮影日2009/8/29

垂井町綾戸の東小学校西にある。

径32mの大きな円墳で、周囲には周壕がめぐる。
葺石あり。平地に立地する。
かつては横穴式石室が開口していたらしいが、現在は埋まっている。
終末期(7世紀以降)の築造と推定されている。
特異な須恵器の3足壺と、鏡が付近から出土したと伝えられている。
昭和60年、町指定史跡となる。


綾戸古墳全景

周壕の跡がはっきりと確認できる。

この古墳の主木の松の木には、熊坂長範の物見の松という伝説があるという。
熊坂長範といえば、わが地元の石川県と福井県の県境に熊坂というところがあって、
 そこが熊坂長範の出身地だといわれている。
大盗賊の出身地だからと言って自慢にはならないが・・・・
 全国14都県に熊坂長範の伝説があるそうだ。

朝倉古墳群 垂井町朝倉
撮影日2019/10/30

垂井町朝倉の朝倉運動公園の敷地内に古墳がある。
4基が、あるはずだが、詳細不明。

 朝倉古墳群その1
 東側の入口近くの円墳

これは古墳だとわかる

墳頂は陥没
 朝倉古墳群その2

小さくなっている

石材が見える
 朝倉古墳群その3

古墳らしいが、違うのかもしれない

方向を変えて見る
 朝倉古墳群その4

古墳らしいが、違うのかもしれない

公園の中に取り込まれていて、古墳の説明があるわけではないので、
  はっきりと古墳だと断定できないのが悔しい!

隣松寺古墳 垂井町宮代
撮影日2019/10/30

隣松寺は、駐車場完備の立派なお寺だ。

 隣松寺
 西暦957年に、平将門を弔うために、
  源経基公が天台宗の寺院として開基されたと伝えられている。

 その後、何度かの荒廃・焼失や再興を繰り返して、現在に至る。現在は臨済宗。
 現在の伽藍は平成17年に落慶されている。

隣松寺

古墳は左に見える林の中にある。


古墳は隣松寺の住職の代々の墓地となっているようだ。

 隣松寺古墳は 径15mほどの円墳  詳細不明

墳丘上の墓地へ続く階段 

墳頂の墓地

このすぐ横にも、もう一つ墳丘があるように見えるが、違うのだろうか・・・
周りは樹木に覆われていて、外側からはほとんど見えない。

南宮大社 垂井町宮代
撮影日2019/10/30

美濃国の一宮の見学。

 南宮大社は 祭神は金山彦命
 崇神天皇の御代の創建と伝えられている。
 美濃国の国府から南方にあたるので、「南宮大社」と呼ばれるようになったといわれている。
 慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の時に炎上したために、、
  寛永19(1642)年、徳川家光公が経費を寄進して再建されたのが現在の建物。
 本殿、弊殿、拝殿、樹下社、高山社、隼人社、南大神社、七王子社、
  回廊(左右)、勅使殿、高舞殿、楼門、神輿舎、神官廊
  の15棟全てが、重要文化財に指定されている。
 和様と唐様を混用した独自の「南宮造」
 屋根を葺き替える式年遷宮は、51年目と定められていて、最近は昭和48(1973)年に行われた。
 このほか三重塔、本地堂、鐘樓などの仏教関係の建造物も同じ時期に建てられたが、
明治維新の神仏分離のとき、これらは近くの真禅院(朝倉山)に移築されている。

石輪橋と石平橋
楼門の手前には、神様が通る石輪橋
 その右には人間が通る石平橋がある。

手前・石輪橋
その後ろは楼門

楼門の表には右大臣、左大臣の木像、
裏には狛犬が門番のように配置されている。

舞楽を奉納する高舞殿
その奥に拝殿、本殿などがある。

拝殿と回廊
左は高舞殿

朱塗りの建物が、鮮やかな、美しい神社だ。

鬼塚古墳 岐阜県垂井町表佐
撮影日2019/10/30

隣勝寺古墳の東約2kmの表佐集落内にある。
「史跡 鬼塚古墳」という石碑が立っているので、古墳とわかる。

 鬼塚古墳は、前方後円墳!  詳細不明

塀に張り付くように残った墳丘
 円墳にしか見えないが…?

この向こうに前方部があるのかな?

  

勝宮古墳
町指定文化財
岐阜県垂井町表佐
撮影日2019/10/30

表佐集落内の勝神社本殿の北に接して墳丘がある。


勝神社
祭神は、筑後玉垂命(チクゴタマタレノミコト・武内宿禰)
神社前に説明板がある。

 勝宮古墳全長30mの前方後円墳  後円部径11m
 東側を流れる相川の氾濫のため周囲の地形が著しく改変されていて、
  現在は後円部と思われる部分のみ残っている。
 かつて、古墳の周囲の地中3〜5m付近から、
  粘土に混じって須恵器や土師器の破片が出土したと伝えられている。

 勝神社の祭神・筑後玉垂命(武内宿禰)の墓として信仰されている。

後円部か

後円部から前方部を見る

墳丘と思われるあたりは、細長く盛り上がりが残っていて、どこが墳丘かはよくわからない。

栗原古墳群
1・2号墳は町指定史跡
岐阜県垂井町栗原
撮影日2019/10/30


黄金塚」と書かれた大きな看板と
小さな説明板がある。

墳丘は、林の中にあるので、分かりにくい。

 栗原古墳群は 3基の古墳群
 南宮山・通称象鼻山と呼ばれる山塊の南東の丘陵、標高30〜50mの傾斜面に立地している。
 
1号墳は、通称「黄金塚コガネヅカ」と呼ばれる円墳
 
2号墳は、44mの前方後円墳   (説明板から)
 栗原古墳群1号墳は  径20mほどの円墳   黄金塚とも呼ばれている

1号墳 

黄金塚という名の由来は何なのだろうか?
 栗原古墳群2号墳は 全長44mの前方後円墳  後円部径28.5m  葺石がある。

2号墳 前方部脇より後円部を見る

2号墳 後円部

2号墳 後円部から前方部を見る

2号墳 前方部から後円部を見る

  

岐阜の遺跡トップ

トップページ