北村さんちの遺跡めぐり
可児市 地図g
川合次郎兵衛塚1号墳 県指定史跡 |
可児市河合北 撮影日2009/9/22 |
川合公民館(連絡所)の隣りに整備整備保存されている。
川合次郎兵衛塚1号墳全景
当時の石積みをできるだけそのままにして補強し、崩れていた部分は昔の姿に積み直した。
一部は盛り土により遺構を地下に保存し、その部分を地上に復元した。
川合次郎兵衛塚1号墳は川合古墳群(32基)の中の1基で、県下最大級の規模。
川原石を積み上げた二段築成の方墳
下段は一辺29.5m・高さ1m 上段は一辺17.6m・高さ5m
平坦面の幅4〜5m 周壕がある。
埋葬施設は横穴式石室3基でいずれも南に開口している。
7世紀初めころの築造と推定されている保存されている。
左から
西副室・中央石室・東副室
最初に中央石室が造られ、
両脇に後に増築された西副室と東副室が並ぶ。
中央石室と西副室の間には、盛り土の下の元の葺石の状態が示されている。
中央石室内部
天井石が折れていて、進入禁止となっている。
中央の主石室は全長15.5mの複室構造。
玄室幅2.1m・高さ2.6m
床面には川原石が敷かれ、奥壁の前のみ、礫を敷いて棺台を造っている。
奥室にはベンガラを塗った石棺が置かれていたようだ。
中央石室から玉類38・耳環2・鉄器類・須恵器多数が出土
2回以上の追葬があったと考えられている。
西副室 内部
西副室は全長7.4m
玄室長さ2.9m・幅1.1mで奥壁に鏡石がある。
西副室から、須恵器・玉類・歯片1が出土
鏡石がとてもかわいい。
東副室
東副室は全長1.7m
玄室長さ1.1m・幅0.8mで、
テラス上に造られた小石室である考えられている。
子供用の木棺が置かれていたと推定されている。
須恵器多数・鉄器が出土した。
東副室の外回りには60個以上の大小の須恵器がびっしりと供えられていて、
子供用に増築されたとみられる東副室の手厚い葬儀が想像される。
川合次郎兵衛塚1号墳 出土品
(川合考古資料館内)
川合次郎兵衛塚1号墳に隣接して川合公民館があり、その中に川合考古資料館がある。
無料で見学できる。
川合地区で発掘された資料が展示されている。見ごたえがある展示だった。
稲荷塚1号墳の石室の復元
(川合考古資料館内)
稲荷塚1号墳は盗掘されていなかった。
径21.5mの円墳(調査後、消滅)
6世紀末〜7世紀初めの築造と推定されている。
鳥つまみ蓋付須恵器 (川合考古資料館内)
宮之脇11号墳から出土した
「鳥つまみ蓋付須恵器」はすばらしいもの。
円筒埴輪の展示もある。
参考・岐阜県内の方墳(川合次郎兵衛塚1号墳の説明板から)
可児地域 | 川合次郎兵衛塚1号墳 |
土岐地域 | 乙塚古墳 |
加茂地域 | 井高1号墳・火塚1号墳 |
武儀地域 | 池尻大塚古墳・小瀬古墳・殿岡1号墳 |
各務地域 | 鵜沼西町古墳 |
不破地域 | 南大塚古墳 |
飛騨地域 | 大洞平2号墳・大洞平5号墳・海具江古墳 |
川合次郎兵衛塚から南東にある久々利の可児郷土歴史館に行く。
午前11時10分、可児郷土歴史館 着。川合公民館(連絡所)の隣りに整備整備保存されている。
宮乃脇古墳群 可児郷土歴史館 |
可児市久々利 撮影日2009/9/22 |
川合考古資料館にも宮乃脇遺跡の資料の展示があったが、
宮乃脇古墳群2、3号墳の石室は、可児郷土資料館の中庭に移築保存されている。
宮乃脇古墳群移築保存
手前・2号墳 奥・3号墳
宮乃脇遺跡は昭和49年に調査された、縄文から歴史時代までの複合遺跡で、
住居跡や古墳の基底部6基などが発見された。
宮之脇2号墳は、石室長さ2.7m・最大幅1.2mの楕円形で石積みが2段残っていた。
鍔に銀象嵌のある鉄製直刀(全長88.1cm)・フラスコ状の須恵器が出土。
宮之脇3号墳は2段の石積みが検出された。石室現存長2.3m・最大幅0.7m。
棺台と思われる2列の石列が床に依存。小型壺と鉄鏃が出土。
可児郷土歴史館では、仏像や狛犬の展示のほか
地元の可児市久々利で出土した久々利銅鐸(重さ26kg・高さ111cm・7世紀)を展示している。
この後見学する事となる、
羽崎日吉古墳から出土したという家形石棺(全長1.4m・幅0.58m・高さ0.93m)を展示している。
そのほか、いろいろな資料を見学できてよかった。
泳宮古蹟 ククリノミヤコセキ |
岐阜県可児市久々利 撮影日2009/9/22 |
地図に可児郷土資料館近くに泳宮古墳があったので探してみる。なかなか見つからない。
町人にたずねようやく見つける。
泳宮古墳ではなく・・・・・・泳宮古蹟という石碑が立つ。
泳宮古蹟
日本書記によると
景行天皇が行幸されたときの行在所となったところで、
当地の八坂入彦の姫・入媛を后として
後に皇后となられたと伝える。
泳宮古蹟の一角には古墳らしいところがある。
本当に古墳なのか、全くわからない。
古墳についての説明はない。
昼を過ぎたが昼食が見つからない。
羽崎日吉古墳群 県指定史跡 |
岐阜県可児市羽崎 撮影日2009/9/22 |
久々利から西北西にいくと羽崎地区に日吉神社がある。
この周辺に1基の古墳と数基の横穴墓があるという。
羽崎日吉神社
日吉神社本殿の後ろに羽崎日吉古墳がある。
羽崎日吉古墳全景
直径11mの円墳
7世紀の築造と推定されている。
羽崎日吉古墳の横穴式石室
南に開口。
幅1.4m・玄室長2.8m・石室全長4.6m。
右側の側壁には人工的な曲面が作られている。
かつて家形石棺があったが、
昭和50年に、可児市郷土資料館に展示するために、
持ち出され、現在も展示されている。
(さっき見学してきた。)
日吉神社本殿から西のわき道に入ったところに日吉古墳より有名だと思われる横穴墓がある。
立派な説明板がある。
羽崎中洞横穴墓
柵があって中に入れない。
羽崎中洞横穴墓内部
玄室の長さ4.7m・天井高さ2.9m
羨道の長さ9.4m
玄室の中央奥に作り付けの石棺がある。
(散乱する蓋の形から家形石棺と推定されている。)
7世紀末〜8世紀初頭の築造と推定されている。
近くにはほかにも横穴墓がある。
横穴墓・その2
横穴墓・その3
横穴墓・その4
物置になっている横穴墓が多い。
不孝寺塚古墳 県指定史跡 |
岐阜県可児市羽崎 撮影日2009/9/22 |
穴羽崎日吉古墳群から西に200mくらいのところの民家の敷地にある。
不孝寺塚古墳石室入口
今にも崩れそう。
大正14年の調査では、
玄室長さ3.6m・幅2.6mであったという。
羽崎古墳群40基程の中の1基で、元は径17m・高さ4mの円墳だったという。
6世紀の築造と推定されている。
不孝寺塚古墳の石室を
横(西側)から見る。
不孝寺塚古墳石室内部に残る石棺
ちょっと見たところでは石棺がどれかわからない。
位置が石室中央からずれているような・・・
穴があいているので、石棺の中にカメラを突っ込んでみる。
不孝寺塚古墳の石棺内部
外からは考えられないくらい
きれいに作られた石棺だ。
凝灰岩製でこの地域でつくられたものと考えられている。
明治20年ころには、石棺内から人骨と金環2・銀環1が出土、
石室内に直刀と須恵器があったというが現存しない。
時刻は、午後1時
結局今回も、昼食はファミリーマートの弁当、
ファミリーマートの駐車場で食事を済ませ、次に向かう。
身隠山古墳群 県指定史跡 |
岐阜県可児市広見 撮影日2009/9/22 |
住宅地の中に公園として2基だけ残る。
身隠山古墳群は、2基の円墳からなり、それぞれ古墳上に祀られていた神社の名から
身隠山御嶽古墳・身隠山白山古墳と呼ばれている。
この身隠山には他にもいくつかの古墳があったというが、宅地化が進み残っていない。
身隠山御嶽古墳
丘陵の北端に位置。
貯水槽の建設で墳丘は一部削平されている。
身隠山御嶽古墳は 径36m・高さ4.5mの円墳
2段築成
主体部は竪穴系のもので
江戸時代の天保9年と安政5年、明治4年に副葬品が発見されている。
鏡3・勾玉2・管玉132・小玉178・石釧2・刀剣類・土師器・朱などが出土。
4世紀後半の築造と推定されている。
身隠山白山古墳。
南側に位置する
身隠山白山古墳は 径42m・高さ4.5mの円墳
2段築成
主体部は、岩盤を長方形に掘りくぼめた墓壙の底に
円礫と粘土を敷き木棺を安置していたと推定されている。
明治35年に副葬品が発見されている。
鏡2・鍬形石4・車輪石1石製模造剣・紡錘車・三輪玉様石製品
・筒型石製品・鉄斧2・巴形銅器2・朱などが出土した。
身隠山古墳群配置図 (説明板から)
北側 御嶽古墳
南側 白山古墳
熊野古墳の説明板には
「熊野古墳は広見・羽崎古墳群50基程の中の1基」とある。
不孝寺塚古墳の説明板には、
「不孝寺塚古墳は羽崎古墳群40基程の中の1基」とある。
熊野古墳 県指定史跡 |
岐阜県可児市広見 撮影日2009/9/22 |
常光寺の西道路沿いにある。羽崎古墳群の中で最も西側に位置する。
熊野古墳全景
円墳のように見えるが墳形は不明
大型の円墳(径20m・高さ4m)と推定されている。
横穴式石室が南側に開口している。
7世紀の築造と推定されている。
熊野古墳横穴式石室
玄室長4m・幅1.8m
羨道長4.3m・幅1.4m
玄室の天井は
長さ4.35m・幅2.75m・厚さ0.5mの一枚岩
石室内部
玄室の天井は巨大な一枚の割石で築かれている。
天井石は大きいが奥・側壁は小型の石材を積み上げている。
長塚古墳 国指定史跡 (前波の三ツ塚) |
岐阜県可児市中恵土 撮影日2009/9/22 |
木曽川と可児川に挟まれた中位段丘の南端に位置している。
前方部を西に向ける前方後円墳。
長塚古墳
左 前方部
1995・96年に範囲確認調査と主体部残存調査。
前方部より後円部を見る
後円部から前方部を見る
長塚古墳実測図
全長72mの前方後円墳
後円部径38.4m・高さ6.93m
前方部高さ4.79m
2段築成 葺石なし・埴輪なし
周壕は盾形にめぐる。
墳丘の周りには幅25mの濠がめぐっていた。
埋葬施設は後円部中央に
墓壙を掘って粘土槨を構築し、木棺を置いたものと考えられている。
前方部にも埋葬施設がある。
4世紀後半の築造と推定されている。
この長塚古墳、西の野中古墳、南の西寺山古墳で前波古墳群を形成、「前波の三ツ塚」と呼ばれている。
埋葬施設や外部施設、出土品から
西寺山古墳(前方後方墳)→野中古墳(前方後円墳)→長塚古墳(前方後円墳)
の順に築造されたと推定されている。
野中古墳 (前波の三ツ塚) |
岐阜県可児市中恵土 撮影日2009/9/22 |
長塚古墳から西に100mほど行った道沿いの住宅街中にある。
前方後円墳だが北側くびれ部を中心とした墳丘北西部の3分の1程度が残るだけ。
野中古墳・現状
説明板の類は一切無い。
墳丘は崩れ、雑木雑草が生えている。
1891(明治24)・1944(昭和19)年に後円部中央で2基の竪穴式石室が発見された。
1982年測量調査、1996・97年トレンチ調査
全長60m以上の前方後円墳
後円部径38.4m・前方部幅24mと推定復原
2段築成 葺石が残る。埴輪はない
土器が出土
墳丘裾の外側に石敷きの基壇が巡り、細い周溝で画されている。
4世紀中葉の築造と推定されている。
西寺山古墳 市指定史跡 (前波の三ツ塚) |
岐阜県可児市中恵土 撮影日2009/9/22 |
長塚古墳のすぐ南、弘福寺前にある。
西寺山古墳全景 北側から
墳丘は崩れている。
見ただけでは形も分からない
後方部北西側や南東側が比較的良く残っている。
墳丘の葺石
墳丘の半分程度が削平されている。平成10年・16年に発掘調査。
西寺山古墳実測図
全長60mの前方後方墳
前方部長さ26m・後方部長さ34m
2段築成 川原石による葺石がある。
墳頂部付近には埴輪が立て並べられていた。
赤色顔料が塗られた二重口縁壺形埴輪が出土。
4世紀の築造と推定されている。
昭和初期にこの古墳で出土したと伝えられている三角縁神獣鏡は、椿井大塚山他5面と同汎関係にある。