北村さんちの遺跡めぐり

高山市   地図g  


風土記の丘史跡公園
学習センター
高山市赤保木町
撮影日2013/11/9


高山清見道路のそばにあるが、ぐるっと南に迂回しないといけない。
風土記の丘史跡公園に、赤保木古墳群があると思ったが・・・・


午前8時を過ぎたばかりなのに、公園内の学習センターは、すでに開館していた。
赤保木古墳群はここではないが、周辺の遺跡の出土物が展示されていると聞き、2階の展示室を見学した。
冬頭王塚古墳・赤保木古墳群・桧山横穴などの資料が展示されている。

風土記の丘は、学習センターのほか、
復元住居が建つ古代集落の里(赤保木遺跡)、成田政利(春慶塗師)の墓があり、
東約800mのところにある赤保木古墳群(古墳広場)も含まれている。

周辺にはほかに、瓦窯跡(奈良時代に国分寺の屋根瓦を焼いた窯の跡)などの史跡がある。


古代集落の里(赤保木遺跡)

復元住居は、遺構の上に建てられている。

赤保木遺跡は
縄文時代中期、弥生時代中期、
 古墳時代初頭、古墳時代中期の
 竪穴住居跡32軒などが見つかっている。
 縄文時代の竪穴住居跡の中央には、石囲炉が良好な状態で残っていた。
 この時期の住居跡から、信州、北陸、東海、関西などの影響を受けた
   飛騨独特の土器が多数出土。

熊野神社
本殿は、市指定文化財となっている


熊野神社の社殿は、
1680年に成田正利の寄付によって建てられた。


職員の方に赤保木古墳群と冬頭大塚古墳の場所を聞き、古墳探索開始!
  

赤保木古墳群 高山市赤保木町
風土記の丘史跡公園古墳広場
撮影日2013/11/9

  

学習センターから、約800mほど東にある。いうなれば、史跡公園の飛地というところか。 
全体の説明板と、5号古墳そばに説明板がある。

赤保木古墳群(正式には赤保木ボタ上古墳群)は川上川の北岸につくられた現存5基の古墳群

赤保木古墳群 配置図 (パンフから)

 赤保木(ボタ上)古墳群の墳丘規模
  東西径 南北径 高さ
1号古墳 17.10m 15.00m 3.30m
2号古墳 12.00m 11.28m 3.11m
3号古墳 3.30m 6.54m 1.28m
4号古墳 5.16m 6.66m 1.58m
5号古墳 11.82m 15.42m 2.92m

 (平成3・4年度調査時)
江戸時代の絵図には、9基の古墳がみられ「九ツ塚」と呼ばれていた。
明治末期に2基が消滅、現在は5基が残っている。


赤保木古墳群
 江戸時代・元禄8年の絵図

    
 (パンフから)

5号墳の位置が、
 上の図と違うような・・・・?
大正2年、5号古墳の東40mにあった6号古墳が土取りのため破壊され、
  環頭太刀1・直刀1・勾玉10・管玉12・小豆玉12・丸玉1・金環7・鉄鏃50
  などが出土した。。
昭和34年、3号古墳の一部が崩壊し、直刀1が出土した。


1号古墳

手前3号古墳 奥2号古墳

東屋の左手前4号古墳 奥5号古墳

4号古墳
 赤保木5号古墳
 平成4年、古墳広場の整備に伴う5号古墳の発掘調査で、
  竪穴式石室と、北側に隣接する箱式石棺が確認されている。
 5世紀の築造と推定されている。
 高山市で最も古い古墳は、冬頭王塚古墳といわれているが、
   この5号古墳との時期比較が課題となっている。


5号古墳


赤保木古墳群 5号古墳の石室
 (パンフから)

上が北側石室 下が南側石室
 南側の石室は、すでに蓋石が抜き取られていたが、
  内法長さ2.78m・幅0.85m・深さ現存0.6mで
  床面から、鉄剣と鉄ヤリ3本が出土した。
 北側の石室は、2〜3cmの薄い板石を組み合わせた箱式石棺で未盗掘。
 石棺の上には、板状の石が二重(一部三重)にかぶせられている。
 すきまから内部をのぞくと壁が赤色に塗られていた。
 北側石室が、南側石室より先につくられていると考えられている。

赤保木古墳群 
 5号古墳の出土品展示

   (学習センター内展示から)


太刀・直刀などの展示

5号古墳の箱式石棺は未調査!! 今後に期待ですね。 

  

千島古墳 高山市千島町
撮影日2013/11/9


高山市を流れる宮川の支流・苔川の両岸に古墳がある。
西側にあるのが岩屋古墳、東側にあるのが、この千島古墳。 9時15分着。




南東側から見た千島古墳
石柱に「千島古墳」とだけ
 刻まれている。

川向こうに岩屋古墳が見える。

千島古墳は、直径15mほどの円墳。詳細不明・・・・。


西の斜面下から見た千島古墳

墳丘には石室石材が露出している
開口部あたりの石材か?


         

岩屋古墳 高山市西ノ一色町
撮影日2013/11/9


千島古墳から北西に400mの道路そばにあるが、間に苔川がある。
石碑には「岩屋前古墳」となっているが、「前」の字が消されている。
巨大な石室が露出している。  

 岩屋古墳は 直径20m弱の円墳
  石室全長7.5m  元は10mほどか。
  開口部は高さ約1.5m。
  羨道は羨道長約4.5m・幅約1.5m。 玄室長約2.5m・幅と高さ約2m

東側の道路から見た墳丘 大きな石が見える

から見た岩屋古墳  石室が露出

口部から羨道を見る  奥は玄室
 玄門部分が少し埋まっているようだ

玄室奥壁


奥壁から入口方向を見る
天井石も巨大

開口部から外を見る
巨石が転がっている。



岩屋古墳前の道路から見た
 千島古墳


千島古墳は、
張り出した低い尾根の先端に
つくられているのが分かる。




 

小丸山古墳 高山市三福寺町
撮影日2013/11/9


岩屋古墳から北北東に約3kmの山すその道路わきにある。
すぐ奥に大きな介護施設があるので、道路も良い。
石柱に、古墳名と簡単な説明文が刻まれているが、読めない部分がある・・・・
  

 小丸山古墳 直径約20mの円墳
  横穴式石室は 長さ4.9m・幅1m・高さ1.5m弱。
 昭和4年に発掘され、耳環などが出土した。板石小口積の側壁が特徴。

西南から見た小丸山古墳

南から見た小丸山古墳 右上に開口部

北から見る 
北からのびる尾根の先端あたりにつくられている。

墳丘中腹にある石室開口部 

丸い奥壁が印象的
側壁は、竪穴式のような板石小口積

石室内部から外を見る

  

  

高山市桐生町のカメラのキタムラでトイレを借りて・・・次へ

   

冬頭王塚古墳
フイトウオオツカコフン
高山市冬頭町
撮影日2013/11/9


赤保木史跡公園学習センターの職員の方から、
「冬頭王塚古墳の辺りは今、新しい道がいろいろできていて、位置の説明がむずかしいが、
国道41号線とJRの交差するあたりにあるのは間違いない」と聞いたので、探してみる。
「JAひだ」から、国道41号(東街道)の高架をくぐったところにある。
確かに、いろいろ新しい道が交差していて、わかりにくい。
移築と聞いていたが、墳丘も復原されている。
昭和48年に立てられた石の説明板があるが、移築の説明はない。  


ポケットパークみたいになっている。

石室の蓋石が露出しているというが、
よく分からない
 冬頭王塚古墳は 直径20m・高さ5mの円墳
 2段築成
 東南隅の基底近くに、河原石を積んで側壁を造った竪穴式石室が2基並んでいる。
 東側の石室から、骨片、玉類、素文鏡直弧文鹿角装鉄剣、鉄鉾、鉄鏃
 西側の石室から骨片、歯牙、玉類、直刀、鉄鏃等が発見された。
 5世紀後半の築造と推定されている。

本当の冬頭王塚古墳
(赤保木風土記の丘史跡公園学習センター内)


説明には
石室は埋蔵保存の措置が取られ、
 報告書が発行されたと書かれている。

冬頭大塚古墳出土品展示
(赤保木風土記の丘史跡公園学習センター内)

真ん中あたりの緑色の丸いのは素文鏡
管玉(碧玉製)
丸玉(メノウ製・ガラス製)
朱のかたまり
など
他に直刀なども展示されている。


古墳の横に、何とも言えないお顔の、大きな観音さまが安置されているが・・・。なんなのでしょう?      

よしま1号墳
高山市上切町
撮影日2013/11/9

  
よしま1号墳は、赤保木古墳群から北西に800mくらいの所にあるが、
 高山清見道路と高山国府バイパスにはさまれて、どのように行けばいいのか分からない。
ナビには高山国府バイパスが載っていない・・・・・
高山国府バイパス高架下のトンネルを東から西へくぐったら、着いた。
周りは墓地で、その中に平野史跡公園として、よしま1号墳だけが保存されている。
石柱には、古墳名と、簡単な説明が刻まれている。
     

 よしま1号墳は 直径10m・高さ2.5mの円墳
 南東方向に開口する横穴式石室は、玄室の長さ3.5m 羨道長さ4m
 53年に整備したとき、羨道から須恵器破片5個が出土した。
 7世紀末の築造と推定されている。 
 周辺には5基の古墳が散在する。

古墳名が刻まれた石柱の後方に石室開口。
背の高い木柱に隠れている。

石が転がっているその向こうに石室開口
 

石室開口部

横から見たよしま1号墳

石室内部

内部から外を見る

  


ひらの清水
よしま1号墳そばにある。


谷川と岩ヶ洞谷川と平野谷川の
 3本の谷川の合流によって形成された
 平野湿地帯の地表20m下の
 水源から引いた清水
   (説明板から) 
  

十二相古墳 高山市国府町名張
撮影日2013/11/9


よしま1号墳から北に4km、高山国府バイパスを通り、国府町名張地区へ。
浄覚寺の南の山すそにある。
  

 十二相古墳直径約20mの円墳か?  詳細不明・・・。
 墳頂には祠があり、中に「十二相観音が安置されている。
 ちょっと角があって方墳のようにも見える。

北から見た十二相古墳

東から見た十二相古墳 方墳のように見える

墳丘上にある祠
観音様が安置されている

石柱には、古墳名が刻まれているが、
 説明は書かれていない。

  
祠の前で二人のおじいさんが何か相談している。
祠の中に観音様が祀られていると教えてもらったが、私達が古墳を見に来たとは思っていないようだ・・・

  

広瀬古墳 高山市国府町桜野団地内
撮影日2013/11/9

  
アピタの北の川向こうに、広瀬古墳とこう峠口古墳がある。

廣瀬神社  

廣瀬神社の前にあるのが広瀬古墳。
二段築成の円墳のようだが、大きさが分からない。

石柱に古墳名と説明文が刻まれているが、
石室の長さしか描かれていない。


  

広瀬古墳は 横穴式石室のある2段築成の円墳
 石室の全長は9.2m
 玄門立柱の上に、天井石より一段下がってまぐさ石を置く独特の架構技法がみられる。
    (説明文から)


北東から見た広瀬古墳



南東から見た広瀬古墳 右は石橋廃寺塔心礎

石室入口 入れない!!

玄室入口

玄室奥壁を見る

墳丘上に露出した天井石

石橋廃寺塔心礎 明治12年ころ出土

   
   

こう峠口古墳
岐阜県指定史跡
高山市国府町桜野団地内
撮影日2013/11/9


広瀬古墳の東100mにある。JR高山本線飛騨国府駅から南東約1km。
説明板がある。


こう峠口古墳平面図
 (平成22年7月ふるさと歴史講座
   国府の文化財めぐり資料から)

 こう峠口古墳は 全長72mの前方後円墳
 南東に開口する横穴式石室は全長13.5m、
  玄室長7.1m・幅2.6m  羨道長6.4m・幅1.8m・高さ1.7mの両袖式
 宮川右岸の段丘上に位置する。


南から見たこう峠口古墳  左前方部 右後円部

東から見たこう峠口古墳後円部
左奥に前方部  石室開口部が見えている。


こう峠口古墳後円部の石室開口部
石材が巨大

こう峠口古墳 開口部から内部を見る

こう峠口古墳 羨道部から玄室を見る

こう峠口古墳  玄室奥壁

こう峠口古墳 玄室床面 
左側が少し高くなっている。


こう峠口古墳 玄室奥壁付近から外を見る

こう峠口古墳 玄門付近から外を見る

こう峠口古墳 後円部から前方部を見る

こう峠口古墳 前方部から後円部を見る 


削られて、くびれ部はとても狭い。前方部は三角形。
  

三日町大塚古墳 高山市国府町三日町
撮影日2013/11/9


広瀬古墳・こう峠口古墳の北900m、間に山があるので西に迂回して行かなければならない。
ヤフーの航空写真で見ると、西に前方部がある前方後円墳と分かるが、そばに行くと前方部は畑になっている!  


三日町大塚古墳平面図
 (平成22年7月ふるさと歴史講座
   「国府の文化財めぐり」資料から)

三日町大塚古墳は 全長70mの前方後円墳
後円部は2段築成
未発掘だが、
竪穴式石室があると考えられている。
圃場整備のさい、周堀跡が確認された。
5世紀中ごろの築造と推定されている。


北から見た
 三日町大塚古墳

左後円部




東から見た後円部
 向こう側に前方部がある。

三日町大塚古墳 後円部の集石
後円部も農地になっている。

三日町大塚古墳 後円部から前方部を見る
くびれ部がくっきり!

南側の前方部脇から後円部を見る


 
三日町大塚古墳の西1kmにある国府小学校グラウンドに、かつて亀塚古墳があったという。 
亀塚古墳は、径70m以上・高さ9m以上の円墳。2段築築成。
 竪穴式石室が2基あった。
明治28年に小学校建設のため、発掘され、一部削平
その時、西側の石室から 鉄鎧・鉄兜各1、鉄剣、鉄刀各数本、鉄鏃およそ50本、
      北側の石室から 鉾1本、鉄刀1本出土。
大正7年、運動場拡張工事のため、すべて削平された。
    (古墳の所在地:高山市国府町広瀬町字塚腰)
 

三日町大塚古墳、亀塚古墳、広瀬古墳・こう峠口古墳に囲まれた山の中にも古墳群があるらしい。
  

海具江古墳
市指定史跡
高山市国府町宇津江
撮影日2013/11/9

三日町大塚古墳から西へ約2.5km、高山市国分町宇津江の山あいにも古墳がある。
吉城電子工場裏の南の谷間を奥に入ったところにある。
道路わきの石柱に古墳名と簡単な説明文が刻まれている。


海具江古墳平面図 (HPふるさと飛騨国府から引用)
海具江古墳は、一辺20m・高さ5.5mの方墳
2段築成
周溝は削られていて確認できない
横穴式石室は、玄室奥行き4m・幅2.1m・高さ2.3mで、
 羨道は一部破壊されている。
奥壁や側壁に2mにも及ぶ巨石を用いている。
 玄門立柱に「しきみ石」を架構した構造は、
  大和地方には見られず北陸(福井)から伝わったものと推定されている。
 羨道や玄室内で、高杯12・杯蓋1・杯身3・平瓶1・土師器碗2・土師器皿11点などが出土。
 7世紀中葉〜7世紀終末の築造と推定されている。
 江戸末期から明治初期に盗掘されたと伝えられている。
 平成15年に発掘調査された。  
 飛騨地方で確認されている方墳3基の中の1基である。 (古川町中野に2基)

道路わきの石柱から
北へ約30m入った所に墳丘

北から見た墳丘

南からみる
墳丘中腹に石室開口部が見える 

石室には入れない。 

石室内部

左側壁の石材が大きな豆みたい!

草が繁茂していて、見ただけでは方墳か円墳か分からなかった。
平成15年9月の発掘現説に参加されたというHP「日記こもれび」を読ませていただき、
 参考にさせていただきました。
ありがとうございました。    

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