北村さんちの遺跡めぐり

大垣市       地図g

美濃国分寺跡附瓦窯跡
国史跡
岐阜県大垣市青野町
撮影日2009/8/29

堅田古墳のすぐ東にあり、史跡公園となっている。

国分寺は741(天平13)年、聖武天皇が諸国に建立するように命じた寺。
美濃国分寺跡は塔跡を残すだけで地中に埋もれていたが、
1966(昭和43)年からの発掘調査で国分寺の全容が明らかになってきた。
範囲は東西230m、南北250mで金堂、塔、講堂、鐘楼、西面僧坊などの遺構を確認した。
伽藍北東の丘には、窯跡(未調査)も確認されている。
877年に焼失、10世紀に再建されたようだが、12世紀末には衰退してしまった。
現在の国分寺はこの地の背後の青野山山麓にあるが、1615年に再興されたものである。
美濃国分阿尼寺跡は、西南西約1kmの地にある。

1921(大正10)年、 国指定史跡(塔跡・金堂周辺のみ)
1971(昭和46)年、伽藍域の大部分と窯跡が追加指定された。

美濃国分寺跡

手前 塔跡

奥 金堂跡


   

矢道長塚古墳
国史跡
岐阜県大垣市矢道
撮影日2009/8/29

お昼頃に到着。
綾戸古墳の説明板に、東約1kmのところにあるという記述があったので、見に行くが、
後円部がほとんど削平されていて、国史跡とは思えない。

矢道長塚古墳復元図 (説明板から)

長さ87mの前方後円墳 
後円部径65×53m 前方部幅44m・高さ現況2.7m くびれ部幅32m
周壕あり 
前方部を西に向けている。
4世紀後半の築造と推定されている。
後円部頂に2基の粘土槨がある。
東棺(割竹形木棺)から、鏡3(三角縁神獣鏡2)・鍬形石3・勾玉2・管玉48・玻璃製小玉・鉄刀3
棺外から 鉄刀5・鉄鏃14・鉄斧4
西棺(箱形木棺)から 鏡3(三角縁神獣鏡2)・石釧76・碧玉製盒子・石杵2・勾玉2・管玉145・鉄刀2・玻璃製小玉が出土。
その他にコウヤマキ製の棺片と水銀朱が採取されている。
中でも石釧の数は、現在のところ奈良・櫛山古墳に次ぐものとして知られている。
2004年の範囲確認調査で、周壕の形が左右で異なっていることが判明した。
北側が陸橋を持つ盾形、南側は前方後円墳に沿った形をしている。
また、周壕の南側に6基の削平された方形周溝墓が検出された。


矢道長塚古墳全景
左の小さな部分が後円部 右が前方部
後円部は真ん中しか残っていない

後円部の残骸
後円部には「長塚古墳址」という石碑が立つ。
右側は前方部の林

   

粉糠山古墳 大垣市青墓町
撮影日2010/4/24


大垣市は矢道長塚古墳の北、1.5kmほどのところにある。


粉糠山古墳全景 北側から
左 後方部
墳丘上面は平坦に削平され。共同墓地となっている。
青墓の宿場が盛んな頃、
 遊女たちが朝夕の化粧に使った粉糠を捨てたのが積もり重なって小山となったので
 粉糠山と呼ばれるようになったという伝説がある。

後方部から前方部を見る

前方後円墳と思われていたが
1987年の調査で前方後方墳とわかった。

粉糠山古墳は  全長100mの前方後方墳
 後方辺50m・高約4.5m、前方幅45m・長約50m・高約4m、
東海地方では最大の前方後方墳
2段築成 葺石あり、埴輪あり(円筒埴輪、朝顔形埴輪)
周濠あり (長方形)120×80m
造出なし 周庭なし
埋葬部はすでに削平されている。
珠文鏡・石製模造品(伝刀子2)などが出土したと記録にある。
5世紀前半の築造と推定されている。
   

昼飯大塚古墳
国指定史跡

大垣市昼飯町
撮影日2010/4/24
2019/10/31

 

岐阜最大の前方後円墳。

 昼飯大塚古墳は 墳丘長150mの前方後円墳
  後円部径99m・高さ13m 前方部9.5m
 深い周濠がめぐる。(周濠を含むと、総全長180mとなる)
 後円部、前方部ともに3段築成
 斜面全体に葺石がある。(近くの大谷川や金生山などから運ばれてきたもの)
 テラスには埴輪が並べられている。
  埴輪は円筒埴輪が最も多く、当初は1500本の埴輪が並んでいたと考えられている。
  他に朝顔形埴輪や形象埴輪(蓋形、家形、盾形、靫形、甲冑形)などの様々な形の埴輪が出土
 後円部の頂上には、直径20mの円形をなして埴輪列がめぐっていて、
 埴輪列の内側では、地表下約1.5mで3つの埋葬施設が確認されている。

 竪穴式石室→粘土槨→木棺直葬の順で
 つくられたが、埋め戻されたのは同時と
 考えられている。
後円部にある3つの埋葬施設 (パンフから)  
竪穴式石室
(北棺)
 棺の長さ4.5m
過去に盗掘を受ける 未調査
粘土槨
(南棺)
棺の長さ6.4m以上
 未調査
木棺直葬
(西棺)
棺の長さ5.2m以上
 棺外から
 鉄剣・鉄刀、鉄製の工具など
  が出土。
 棺内は未調査

出土品 (パンフから)
後円部頂から4000個以上の玉類
木棺直葬部分から 刀などの鉄製品が40点余
出土している

 4世紀末ころの築造と推定されている。


昼飯大塚古墳実測図
3段築成の古墳だが1段目と周濠のほとんどが
地中に埋もれているので2段に見えていた。


昼飯大塚古墳歴史公園 案内図



 2010年の昼飯大塚古墳整備中、立入禁止となっている。 撮影日2010/4/24

昼飯大塚の前方部裾から
後円部を見る


墳丘が大きすぎて
 全体がなかなか撮れない。

前方部から後円部を見る

昼飯大塚古墳後円部

墳丘をよくみると葺石がいっぱい!

    
    

2019年の昼飯大塚古墳

撮影日2019/10/3

東から見た昼飯大塚古墳
右手前 後円部
左奥 前方部

復原ゾーン
3段築成と 葺石と埴輪の復元

前方部手前から見た昼飯大塚古墳
後円部頂
後円部頂では、
直径20mの円を描いて埴輪が並び、
その内側に
 家形、盾形、蓋形、靫形、甲冑形埴輪、
滑石製の勾玉や臼玉などの小さな玉や、
 小型の土器、笊形土器、
  食物を模倣した土製品が出土していて、
埋葬後に様々な儀礼が
  行われたと考えられている。

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

 
大塚1号墳
直径15〜18m・高さ2m の円墳と考えられていて、墳頂部から形象埴輪片などが採集されていた。
2007・08年の範囲調査で、一辺20mほどの方墳と推定されるにいたる。
周壕(幅4m・深さ1.3m)あり
溝底に近い部分からは、完形の土師器壺2・須恵器( はそう)が出土。
出土遺物から5 世紀代の築造と推定されている。

大塚2号墳直径15.9m・高さ0.5mの円墳。(未調査)
現状は小さなマウンドが残っているだけ。

車塚古墳
 4枚の天井石を中心に横穴式石室が露出する古墳時代後期の古墳で、
 石室には金生山の石灰岩が用いられ、石室の長さは約8m。
 明治年間の開墾に伴い馬具と須恵器が出土した記録がある。
 2008年の範囲調査で、 大きさが20m 以上の大型古墳と判明。
 周壕あり(幅は2.5m以上)。
 石室前面に、小型の石材を側面に積んだ前庭部がある。
 石室は大きく、前庭部を含めた長さは13m をこえる。
 墳形はについては周壕からは方墳の可能性。
 石室の大きさや形から7世紀初めの築造と推定される。 

 

二ツ塚古墳
市指定史跡
大垣市荒尾町
撮影日2019/10/31

車塚古墳の北約200m、昼飯第二公園に大塚1号墳があり、その東に2号墳。
二ツ塚古墳は、大塚1号墳と2号墳の総称。

 大塚1号墳
 墳丘は後世に削り取られたために当初の姿をとどめていない
 一辺20m以上の方墳
 周濠(幅4m・深さ1.3m)がある
 墳頂部で形象埴輪(盾)が採集されている。
 周濠から土師器壺や須恵器が出土した
 5世紀後半の築造と推定されている。
 西方150mにある昼飯大塚古墳(4世紀末)より後となる。


遺構平面図及び周濠推定図
(平成20年度 「大塚1号墳・車塚古墳」
  現地説明会資料 2008/11/22から)
     


平成19・20年度にトレンチ調査
 以前は直径15〜18m・高さ2m の円墳と考えられていて、
  墳頂部から形象埴輪片などが採集されていた。
 2007・08年の範囲調査で、一辺20mほどの方墳と考えられることとなった。

小さくなった墳丘

方向を変えて見る

大塚1号墳の東30mに、大塚2号墳がある。

 大塚2号墳
 直径 15.9m・高さ 0.5mの円墳
 未調査 詳細不明
 現状は小さなマウンドが残っているだけ。

小さくなった墳丘

方向を変えて見る


大塚古墳群  (現地説明会資料から)

昼飯大塚古墳を守るようにある
大塚古墳群は
総数6基確認
されている。

自治会館の西に1号墳、東に2号墳があり、
 あわせて「二ツ塚古墳」
とも呼ばれている。
他の4基は消滅で、
6 号墳は所在地も不明となってしまった。

車塚古墳は
車塚児童公園」内
にあり、
 横穴式石室が露出している。
   

昼飯車塚古墳
市指定史跡
大垣市荒尾町
撮影日2019/10/31

昼飯町の車塚児童公園に、横穴式石室が露出している。
平成20年度に発掘調査されたようだ。

 昼飯車塚古墳
  大きさが20m 以上の大型古墳
  墳形は円墳か方墳だが、周壕の状況からは方墳の可能性が高い。
  周壕あり(幅は2.5m以上)。
  4枚の天井石を中心に横穴式石室が露出している。古墳時代後期の古墳。
  石室には金生山の石灰岩が用いられ、石室の長さは約8m。
  石室前面に、小型の石材を側面に積んだ前庭部がある。
  石室は大きく、前庭部を含めた長さは13m をこえる。
  明治年間の開墾に伴い馬具と須恵器が出土した記録がある。
  石室の大きさや形から7世紀初めの築造と推定されている。 


車塚古墳調査区の平面図
(平成20年度 「大塚1号墳・車塚古墳」
   現地説明会資料から)
     (2008/11/22)

 平成20年度にトレンチ調査
 車塚古墳の周辺には他の古墳もなく、
  ほぼ同じ時期に金生山周辺に多数築かれた群集墳とは異なり、
  単独で存在した大型古墳と考えられている。

昼飯車塚公園となっている。

天井石がずらりと並ぶ

石室入口

車塚供養塔」が建てられている。

  

荒尾古墳群
市指定史跡
大垣市荒尾町
撮影日2019/10/31

説明板は、住宅街の中にある荒尾1号墳の前にある。

 荒尾古墳群は、大垣市の牧野町から荒尾町にかけて分布する12基の古墳群
 台地上につくられていて、
  径10m前後の円墳が多く、6世紀〜7世紀の築造と推定されている。
 現在は、住宅街の中に1基、御首神社神社境内に3基、八幡神社に1基、の5基が残っている

荒尾古墳群 配置図

荒尾1号墳
御首神社境内に3基
八幡神社に1基


すぐ北には
昼飯車塚古墳がある。
 西側にある「東町田遺跡」は国史跡
  金生山麓から派生する標高15〜18mの段丘上に所在する
  弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて築造された墳墓及び古墳
 方形周溝墓2基と円形墳丘墓2基を発掘調査されて、
  方形周溝墓の溝内からは、絵画土器(市重要文化財指定)が出土した。
 円形墳丘墓は明瞭な墳丘と周溝がある。
 4基の墳墓周溝から出土した土器から、、弥生時代終末期の築造と推定されている。

御首神社は荒尾駅のすぐ西にある。

 御首神社
 将門の乱で討ち取られた平将門公の首が空を飛び、この荒尾の地で射落とされたという伝説があり、
  将門公の怒りを鎮めるために創建された神社。
 境内に3基の円墳が残っている。社殿右奧に1基、境内西の林の中に2基。

御首神社 正面

御首神社 社殿
 御首神社境内の古墳その1    境内社・鍬山神社の奥にある。

その1

その1 方向を変えて見る
 御首神社境内の古墳その2・その3    林の中に 2基の古墳がある。

その2

その3

御首神社の西約400mに、八幡神社があり、その境内にも1基の古墳が残っている。

 八幡神社境内の古墳

八幡神社 正面

社殿の奥に低い墳丘

金山彦神社の近くに荒尾1号墳が残っている。説明板がある。

 荒尾1号墳  大垣市指定史跡
 全長27mの帆立貝形古墳
 葺石なし 埴輪なし  幅3mの周堀がある。
 周濠から須恵器やホ具・石製の紡錘車が土師器が出土している。
 6世紀前半の築造と推定されている。 

荒尾1号墳 推定復元図
  (説明板から)
前方部は削平されている

昭和48年(1973)に発掘調査

「史跡荒尾古墳」と刻まれた石碑がある。

後円部しか残っていない

  

東山田古墳群 大垣市昼飯町
撮影日2019/10/31

昼飯町北の新しい住宅街の北、すぐそばの林の中に、前方後円墳がある。
説明板は見あたらない。

 東山田古墳群
  東山田古墳は 全長75mの前方後円墳と言われている。
  この古墳を取り囲むように横穴式石室を持つ12基確認されている。
           (大垣の古墳時代より)
 東山田古墳
  麓の平地にある全長75mの前方後円墳
  周囲で円筒埴輪、人物埴輪片、須恵器片が出土している。
  未調査のため詳細は不明

東山田古墳 全景

全体が藪の中

前方部から後円部を見る

後円部から前方部を見る
 東山田古墳のまわりにある古墳・7号墳
 東山田古墳のまわりの古墳・8号墳


石灰岩でつくられた石室
 東山田古墳のまわりの古墳・10号墳
 東山田古墳のまわりの古墳・11号墳
 東山田古墳のまわりの古墳・9号墳

  

八幡山古墳・堤ヶ谷3号墳 大垣市青墓町
撮影日2019/10/31

東山田古墳の西約300m、八幡神社が後円部の上に建つ。標高は約49m。
八幡神社石段の下にも円墳がある。

説明板
「八幡神社の社が、八幡山古墳後円部に建っている。
前の石だたみが前方部になる。」
「堤ヶ谷3号古墳には
横穴式石室があるが、数個の石が持ち去られている。
石室の長さは8m。」

 八幡山古墳
 全長41mの前方後円墳    前方部を南に向けている。
  後円部径25m・高さ4.5m・頂径10×11m、
  前方幅約17m・長さ16m・高さ3.5m くびれ幅15m
 葺石がある。 埴輪はない。
 内部は未調査
 5世紀代の築造と推定されている。
 1988年測量調査 

八幡山古墳 全景

 後円部墳頂部に、八幡神社社殿が建てられている。

前方部側から後円部を見る

後円部頂にある八幡神社
手前は前方部

後円部から前方部を見る
石段の中ほどより上が墳丘か

後円部北側裾では、葺石が確認できる
左側に前方部がある。

八幡神社石段の下にも円墳がある。

 堤ヶ谷3号古墳
 小円墳で、横穴式石室が露出
 推定全長8m、幅1.2mの無袖式。   石材は周辺で採取可能な石灰石

墳丘 石段側からは石室は見えない

石室入口

玄室はほぼ完存

石室内部から外を見る

  

西中尾古墳群 大垣市青墓町
撮影日2019/10/31

八幡山古墳から奧に進むと、登山道の入口に西中尾古墳群の説明板がある。

西中尾古墳群 説明板

「西中尾古墳群は38基確認されている
石室の石材はほとんど持ち去られている
石室の岩石はすべて金生山の石灰岩と考えられている。
須恵器があちこちに落ちている。」
など
獣よけの柵を開けて入ってみる。


西中尾古墳群その1

西中尾古墳群その2

西中尾古墳群その3

西中尾古墳群その4

西中尾古墳群その5

西中尾古墳群その6

西中尾古墳群その7

西中尾古墳群その8

西中尾古墳群その9

説明板にある通り、ほとんどの石材が抜き取られていて、崩れている…。

金生山古墳群 大垣市赤坂町
撮影日2019/10/31

八幡山古墳の東約700m、金生山神社周辺に11基が現存しているという。

 金生山

昼飯大塚古墳から見た金生山
石灰岩の採掘で、
山の形がどんどん変わっている。

 金生山は、石灰岩の山で、数多くの化石が発掘されている。
 古墳時代には石室の石として、石灰岩が切り出され、
  現在でも、石灰岩、大理石の採掘が盛んに行われている。  

金生山神社の横には
 金生山化石館がある。


金生山の化石・鉱物など
  600点が展示されている。
見どころは
  「世界一の巨大化石とウミユリ」

金生山神社の参道脇(東側の道路沿い)に、7・8・9号墳が並んでいる。

 金生山古墳群

金生山神社 社殿
 7号墳
 墳丘は18m、高さ3m
 埴輪がある。葺石がある。
 埋葬施設は不明だが、横穴式石室以外の埋葬施設が想定されている。
 6世紀前半の築造と推定されている。
 平成3年に発掘調査。

道路側が削られている。

石材は、古墳のものではないのか?
 8号墳
 7号墳のすぐ南側にある。
 小社があるが、古墳の盛り上がりはよくわからない
 9号墳
 径10mほどの円墳で、墳丘上に石碑が建てられている。

道路脇にある。

しっかりした墳丘

          

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