更新日2011/7/8

長野県飯田市から山梨県へ
その1
・飯田市1
2011/4/29〜5/1 

10年位前、長男が信州大生だったころ、長野県飯田市に行った。
飯田には前方後円墳がたくさんあるという事をきき、訪れてみたのだが、当時詳しい資料は一切なく、
開善寺の飯田市考古資料館も休館日だったようで、古墳を探せないまま帰ってきた。

今回資料を集め、もう一度飯田市に行くこととする。
二日目は初めての山梨県へ
全行程 1000kmを超える旅となる。

4月29日
6:13 出発
7:55 神田PA
8:7  米原JCT
8:46 小牧JCT手前 1kmから渋滞
8:55 小牧JCT
9:9  内津峠PA
9:54 瑞浪ICくらいまで ずっと軽い渋滞が続く
10:38 阿智PA
10:47 飯田山本ICから三遠南信自動車道
10:53 一般道へ

飯田市の地図g

久保田1号墳
(正清寺古墳)
飯田市川路
撮影日2011/4/29

飯田市の最南にある前方後円墳。

久保田1号墳 北側から
向こう側(南)半分は削平されている
左側後円部

「久保田1号墳と正清寺跡」と書かれた説明板がある。
久保田1号墳は、H10〜11年発掘調査、
後円部を東側に向ける、全長67mの前方後円墳で、周溝を含めると90m
後円部径36.6m・前方部幅44m
葺石あり 造り替えされた二重周溝がある。
何回か造り替えがなされているが、6世紀前半には最終的な形ができていたと判断される。
周溝内から、須恵器や土師器がまとまって出土、何らかの祭祀行為がなさていたと考えられる。
埋葬施設は横穴式石室だったが、1864年(元治元年)寺建立の際破壊された。
五鈴鏡(所在不明)、玉類、鉾、石突、馬具、金環などが出土したという。 
6世紀初頭〜前半の築造と推定されている。
この地には以前、正清寺(ショウセイジ・竜丘開善寺の末寺)があったので、別名正清寺古墳と呼ばれている。


発掘時の航空写真

発掘時の実測図
 いずれも飯田市考古資料館の資料から  右側が北となっている。

前方部の北東に隣接して円墳があったことが確認されている。

御猿堂古墳
オサルドウコフン
県史跡
飯田市上川路
撮影日2011/4/29

開善寺西方の久米川沿い。
民家の間から、背の高い墳丘が見えたり見えなくなったり、なかなかたどり着けない。


御猿堂古墳実測図 (説明板から)
全長65.4mの前方後円墳 後円部を東に向ける
後円部径26.4m・同高8.5m、
前方部幅30m・同高9m
南側くびれ部に造り出し部の可能性がある。
円筒埴輪、形象埴輪が出土
6世紀前半の築造と推定されている。
 後円部南側の中腹に横穴式石室が開口している。
 石室は全長13m 玄室長10.3m・高さ2.9mの無袖式
   奥に行くに従って幅が広くなっていて、玄門部幅1.7m 奥壁幅2.2m
 副葬品として、画文帯四仏四獣鏡・勾玉・切子玉・管玉・
        鉄刀・鉄剣・鉄鏃・轡・雲珠・杏葉・土師器・須恵器などが出土している。

南側から見た御猿堂古墳後円部
左側に前方部が続く。
写真中央あたりに、石室が見えている。

御猿堂古墳 前方部から後円部を見る
墳丘は墓地となっている。

御猿堂古墳 後円部から前方部を見る 

御猿堂古墳石室入口
後円部南側の中腹に横穴式石室が開口している。

御猿堂古墳 石室内部

御猿堂古墳 石室から開口部を見る

      

権現塚古墳
(権現3号墳)
飯田市上川路
撮影日2011/4/29

御猿堂古墳から北西に約200m。古墳前の家の方にしばしの駐車のお願いをし、見学。


権現塚古墳 北側から
帆立貝形前方後円墳の可能性があるとのこと。

権現塚古墳
墳丘上から前方部をみる

権現塚古墳 南西側から

元は尾根の先端部に立地か?
手前の電信柱の辺りが前方部か?

 昭和24年、道路工事で東面を削り取ったら、高さ1m・幅0.8m程の石室が現れ、
  鈴付鏡板や鏡・直刀・短甲・馬具などが出土、埋め戻したという。

   

御猿堂古墳見学の際、駐車させてもらったコンビニで昼食を購入、開善寺で昼食。

開善寺
飯田市考古資料館
飯田市川路
撮影日2011/4/29

開善寺は臨済宗の武士建立の禅寺

開善寺山門(国重文)

三間一戸の切妻造りで、
県内では善光寺山門につぐ規模で室町時代初期の創建





境内はシャクナゲが満開!


飯田市考古資料館では飯田市の上川路・桐林の古墳についての資料がもらえる。

殿村遺跡出土の人物埴輪と船形埴輪

境内東側にある飯田市考古資料館の展示物。

      

馬背塚古墳
マセヅカコフン
県史跡
飯田市川路
撮影日2011/4/29

開善寺北側の道路から見える。丘陵尾根の先端を断ち切ってつくられているようだ。

馬背塚古墳 南側から

2つの石室が開口している。

左後円部 右前方部



馬背塚古墳実測図 (説明板から)

全長46mの前方後円墳 
 後円部を北西に向ける。
 後円部径19m・高さ6m
 前方部幅20.8m・高さ5m

 現在は後円部は小さく、前方部は細長い形だが、本来は前方部が大きく開くものと考えられている。
 後円部と前方部のそれぞれに横穴式石室がある。大型横穴式石室に比べて、墳丘が小さい
 6世紀末〜7世紀前半の築造と推定されている。
  出土品は全く不明。


馬背塚古墳 後円部より前方部
前方部には小さな祠がある。

 馬背塚古墳 前方部より後円部
後円部には墓地や畑がある。

馬背塚古墳後円部 石室入口

馬背塚古墳前方部 石室入口

馬背塚古墳後円部石室内部
後円部の石室は無袖式 全長11.7m
玄室長8.8m・幅2m・高さ2.7m  
奥壁幅1.8m

馬背塚古墳前方部石室内部
前方部の石室は両袖式、石室全長11.9m
玄室全長6.4m・幅3.3m・高さ3.3m 
羨道部は全長5.5m・高さ1.6m

 後円部石室から入口を見る

前方部石室から入口を見る

個人的には飯田市一番の古墳だと思う。

塚原古墳群 飯田市桐林塚原
撮影日2011/4/29

塚原古墳群は、天竜川に注ぐ駒沢川西方の台地上に分布、16基の古墳があり塚原と呼ばれている。
全体的に低い墳丘。


塚原古墳群配置図 (説明板から)


主墳は塚原二子塚古墳
他に内山塚・塚原3号・鏡塚・鎧塚・黄金塚などが
  現在も残っている。
竜丘小学校などに保管されている馬具などには、
 これらの古墳から出土したものがあり、
 それらから塚原古墳群は
 5世紀後半〜6世紀の初めの築造と推定されている。

この地方が当時、馬の生産を通じて
   中央と深くかかわっていたと考えられている。



  塚原二子塚古墳     市史跡 

塚原二子塚古墳全景
左後円部 右前方部

以前は墳丘上まで
 桑畑だったようだが、
 史跡として整備された。
塚原二子塚古墳実測図 (説明板から)
塚原古墳群の主墳
全長72mの前方後円墳
後円部径37.5m・前方部幅約41m
耕作等で変形もあるが、築造時の姿を残す。
二重周壕の一部が確認されている。
円筒埴輪、形象埴輪がめぐっていた。
確認されていないが、竪穴式石室の可能性が高い。
6世紀前半ごろの築造と推定されている

塚原二子塚古墳
前方部より後円部を見る
 
塚原二子塚古墳
後円部より前方部を見る

 塚原3号古墳  (塚原古墳群)
    全長43mの帆立貝形前方後円墳      後円部径25m
     土留めに使われている石は石室の石材で、大きさから竪穴式石室だと考えられる。
     出土品は不明。

塚原3号古墳
手前・前方部  後・後円部

塚原3号古墳
後円部斜面にある石材
 


塚原3号古墳
後円部から前方部を見る




塚原古墳群の1番西側にある


 鏡塚古墳 (塚原第4号古墳) 
  
全長44mの帆立貝形前方後円墳
横穴式石室があったのではないかと考えられている。
  鏡が3面出土したので、鏡塚と呼ばれる。


鏡塚古墳
西側が道路によって削られている。


    

 内山塚古墳(塚原第2号古墳)
  径30m以上の円墳
  明治の初めごろまでは
横穴式石室があったといわれている。
  剣・刀子ほか馬具の杏葉などが出土

内山塚古墳
塚原古墳群の1番北側にある。
二子塚古墳に接している。

墳丘はほとんどない。

 鎧塚古墳   (塚原第5号古墳)
  全長58mの帆立貝形前方後円墳
  竪穴式石室があったが、削り取られてしまった
  形の整った短甲が出土したので、鎧塚と呼ばれる。

鎧塚古墳左・前方部  右・後円部

桃の花が咲き乱れている

鎧塚古墳
後円部から前方部を見る

       

 塚原11号古墳  

塚原11号古墳

鎧塚と黄金塚の中間にある。
痕跡が残るだけ。

        

 黄金塚古墳   (塚原古墳群)

黄金塚古墳

雑木林になっている。
説明板がない。

20mの円墳
明治15年、内行花文鏡が出土したという。

黄金塚古墳 墳丘

黄金塚古墳 墳丘上の石

      

金山古墳群 飯田市上川路
撮影日2011/4/29

金山古墳群は塚原古墳群の南側の段丘にある古墳群。
現在は塚原古墳群と区別がつかないような場所にある。
塚原11号墳と鎧塚の間の道を南に行くと、つきあたりに金山二子塚古墳、
その少し手前の右側民家の間に金山2号墳。

古墳の手前に住宅が建ち、その留守宅の敷地を通って行くことになり、遠慮しながら墳丘に上がる。

 金山二子塚古墳は 全長49.1m(推定63m)の前方後円墳
   後円部径37.2m・高さ6.1m  前方部にも石室があったそうだが、消滅。
  6世紀の築造と推定されている。

金山二子塚古墳 前方部から後円部を見る
全体に低くなっているが、
後円部の一部が高くなっていて、
小さな社がある。

金山二子塚古墳 後円部から前方部を見る
  左(南)側は墓地となる。

金山二子塚古墳
前方部の南西隅から墳丘を見る

右奥が後円部 

  金山二子塚古墳後円部を南側から見る
左側が前方部 
 小社の下に石室が見えている

金山二子塚古墳石室入口
羨道部は無くなっている。
玄室長さ3.6mで天井石は4枚 
 
金山二子塚古墳石室内部
埋まっていて、入れる大きさではない。
鈴・三環鈴などが出土した。

     

金山2号墳 
 墳丘にはお墓がある。

金山2号墳
直径20mの円墳
の一部か? 

金山2号墳
石材か? 

       

大塚古墳 飯田市桐林
撮影日2011/4/29

民家の裏庭みたいな所にあり、民家の玄関先を遠慮しながら横切って、墳丘へあがる。


大塚古墳後円部 南東から
全長73mの前方後円墳
後円部径35m・高8m、前方部幅17m
埋葬施設は不明

大塚古墳北側から
前方部はかなり削られているようだ。
周壕跡がそのままたんぼとなっている。
5世紀代の築造と推定されている。
水鳥埴輪が出土している。

      

兼清塚古墳
ケンセイヅカ
飯田市桐林
撮影日2011/4/29

大塚古墳の向かい側に扁平な墳丘が見えている。果樹園になっているようなので墳丘に上がるのは遠慮した。
形も楕円形になっているようだ。

兼清塚古墳

全長63.6mの前方後円墳
後円部径28m・高5m、前方部幅28m・同高5m
後円部に河原石積みの竪穴式石室があったといわれている。
鏡4面のほか
  硬玉製勾玉・ガラス製勾玉・丸玉・鉄鏃などが出土。
大塚古墳と同じ方向につくられている。
5世紀代の築造と推定されている。
出土品から推定して飯伊地区では最も古いと考えられている。

兼清塚古墳
後円部の高さを感じる
向こう側に前方部がある

大塚古墳側から見る
      

丸山古墳 飯田市桐林
撮影日2011/4/29

美容院の店主に駐車のお願いをし、すぐそばの墳丘に上がる。

西から見た丸山古墳の後円部

全長60mの前方後円墳
後円部径27m・高さ6.5m
竪穴式石室があるといわれている。

5世紀代の築造と推定されている。
江戸時代に甲が出土したと伝えられている。



丸山古墳 前方部から後円部
墳丘上は墓地となっている

丸山古墳 後円部から前方部

    

午後3時半を過ぎたが、まだまだ古墳探索はつづく。

長野県飯田市から山梨県へ その2・飯田市2 へつづく

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