北村さんちの遺跡めぐり
更新日2005/8/15

福井県の小羽山30号墓へ 2005/6/19

福井の史跡を調べていたら、清水町にある小羽山30号墓という四隅突出型の古墳が近年発掘され、
 保存されているということがわかった。
その遺跡を見に行こうと梅雨入り前の日曜日、ドライブに出かけた。
近くの朝日町の古墳公園織田町にも行くことにした。
午前10時10分、自宅を出発、お昼の12時20分に朝日古墳公園に到着。

この公園には、我が家の子供たちがまだ小学生の頃(1992年)に来たことがある。
当時、この公園は整備されたばかりらしく、大勢の子供たちが児童公園の遊具で遊んでいた。
が、古墳公園という名のわりには、古墳は「古墳」とだけ書いた前方後円墳の形の小さな立て札があるだけで、
詳しい説明は何もなかった。
今回、そんな公園がどう変わっているかも興味のひとつだったのだが・・・・・・・・。

地図g

朝日古墳公園
福井県史跡

越前町朝日
撮影日2005/6/19

公園の入口は3ヶ所あり、私達は越前町総合運動公園側の郷土資料館側の入口から入った。
そこには前方後円墳をかたどったレリーフがあり、立派な古墳を見ることができるのだと期待した。
しかし、あまり人がこないのか、雑草がすごくて、何が何かよくわからなかった。

休憩所で昼食を食べたけど、何せ暑い!(気温は今年一番の32度!)
休憩所の前に方墳らしい3基の古墳があるが、笹が一面に生えていて、
 「古墳」と書かれた前方後円墳の形の小さな立て札が笹に埋もれて見えない。
笹をかき分けて、古墳の立て札が見えるようにして、写真を撮った。

休憩所の前にある方墳

公園内でも比較的大きい3基の方墳の中の1基
説明は何もない。

公園内を歩くと古墳らしい盛り上がりがあるが、やはり笹がいっぱいでよくわからない。
以前来たときは、芝生が敷きつめられていたような気がするのだけど・・・・・。


遊歩道のわきにある方墳



公園内には方墳が39基存在するが、一辺10m前後の小さな古墳が中心のようだ。
滑り台のあるところで一組の親子を見ただけで他には誰もいない。
公園の遊歩道から外れ、経ヶ塚古墳を探してみた。
雑木林と雑草をかき分け、古墳の部分を確認したが写真も撮れない。
茅葺きの民家を用いた朝日町郷土資料館は鍵は掛かっていなかったけれども、
管理人もおらず、民具が雑然と置かれているだけだった。
公園から道路を挟んで南に朝日山古墳があるというので探したけれどもわからなかった。

古墳公園といいながら、近くにある前方後円墳の経ヶ塚古墳は現状保存で、
公園の中に取り込まれていないのが、この公園の弱点だと思う。
経ヶ塚古墳を整備して、この公園のメインにすれば、もっと人が来るのではないか?

朝日古墳群とは
朝日町朝日・内郡の両地区にまたがる丘陵に存在する。
方墳が多い。
北部の経ヶ塚支群と南部の朝日山支群からなり、もとは160基あまり存在したが、
 開発のため現在は約90基が残っている。

経ヶ塚古墳 全長約70mの前方後円墳
後円部径42m・高さ約6m、前方部先端裾幅約23m・高さ4m
後円部を南に向けている。
古墳時代前期(4世紀後半)の築造。
朝日山古墳 全長約55mの前方後円墳
後円部径約32m・高さ6m、前方部先端裾幅約21m・高さ4m。
後円部を北に向けている。
西側には周濠がめぐる。
古墳時代前期末〜中期前葉(4世紀末〜5世紀初頭)の築造。

2つの古墳は大きさの違いはあるものの、よく似た形をしている。
どちらも、段築・埴輪・葺石は確認されていない。
近くの日吉神社境内には径約30mの円墳が存在する。

午後2時、朝日古墳公園出発。
織田信長の先祖の出身地・織田町の織田神社に向かう。
・・・・織田神社ではなく、剱神社だった(剱神社の中に織田神社がある)。
剱神社は織田町商店街の真中にある。
2時20分、剱神社に到着。

剱神社

越前町織田
撮影日2005/6/19

敦賀の気比神宮に次ぐ越前二の宮。
上古より座ヶ岳に祀られていたスサノオノミコトの御神霊を、
第14代仲哀天皇第2子忍熊王(オシクマノミコ)が現在の地に祀られたと伝えられている。
現在所蔵する国宝の梵鐘は、第49代光仁天皇のご奉納といわれている。

剱神社本殿(県文化財)


柿葺きの三間社入母屋造。
正面に千鳥破風が前方に突き出し、
 その下に唐破風をもつ向拝が設けられている。
江戸初期(1627)の秀麗な姿をとどめている。

 織田信長と剱神
  織田信長の祖は越前織田荘の荘官として、また剱神社の神官として代々奉仕してきた由緒ある家柄だった。
  応永年間(1394〜1427)に剱神社の神官の子の「常昌」という人物が、
    当時の越前の守護斯波氏に見出され、家臣として取り立てられ、尾張の国に派遣された。
  苗字は故郷の地名をとって織田氏を名乗るようになった。この人は織田信長の何代前になるのだろうか?
  織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし、守護代まで登った。
  織田信長の時には尾張一円を掌握し、更に日本全国に支配しようとするまでになった。
  織田信長は乱世にあっても、剱神社を氏神として深く崇拝し、剱神社の保護と住民の治安に尽くした。




織田信長を祀る小松建勲(コマツタテイサオ)神社

1582年信長は本能寺の変で最期を遂げたが、
織田町の人々は信長の功績をしのび剱神社の境内に小社を建立し御霊を祀った。


織田神社(県文化財)

祭神は保食大神(ウケモチノオオカミ)
仲哀天皇・応神天皇

暑い!!!
木陰で一休み。
2時50分、神社出発。
清水町小羽地区にに、四隅突出型の墳丘墓と御城山古墳があるという。
そのあたりをウロウロするがわからない。
歩いていた女性に尋ね、ようやく小羽30号墓発見。
3時20分、到着

小羽山30号墓

福井市小羽町
撮影日2005/6/19

清水町役場の横の山すそに今井神社がある。その横の急坂を登ったところにある。
今井神社のすぐ後ろの山です。

小羽山30号墓全景

長さ27m・高さ2.7mの四隅突出型墳丘墓。
突出部を加えた大きさは28×33mになる。

墳頂部からカラス管玉1・朱を塗った石杵1や
 高坏などの多量の土器が出土。



突出部分の先端に立つ私
埋葬部分は、
 長さ5.3mの墓抗に
 長側板の長さ3.7mの組み合わせの箱型木棺が
 安置されていた。
副葬品は
碧玉製管玉103・ガラス管玉10・ガラス勾玉1
 ・鉄製短剣1が出土。


発掘当時の様子  (案内板より)

造営時期は土器から
 弥生時代後期中頃の2世紀初頭
と考えられている。
北陸地方で最も古い四隅突出型墳丘墓。
そばで見ると突出部がはっきりわかるが、写真だとよくわからないかな。

やはり暑い!!!時刻は3時50分。
御城山古墳を探すがわからない。小羽山の隣の独立した丘の上にあると思うのだけど、案内板が見つからない。
農作業のおじさんに訊いたらやはりそこだと言う。
4時10分。

御城山古墳
(後山古墳ともいう)

県史跡

福井市(旧清水町)小羽の後山
撮影日2005/6/19

民家の後ろにお城山古墳の案内板と階段がある。

御城山古墳登り口

立派な階段と案内板があるが、その向こうは雑草をかき分けて、
 かなり急な坂を登ることになる。
前方部を西に向けている前方後円墳
全長44m、後円部径27m・高さ4m
くびれ部幅14m・高さ1.5m
前方部幅21m・高さ3m。
葺き石や埴輪は確認されていない。
5世紀初頭から前葉ころの造営と考えられている。

雑草と木立の中のお城山古墳
平安時代末に木曾義仲の家臣、今井兼平
 後山に山城を築城したという伝承がある。
確かに御城山古墳の墳頂部に山城の跡が確認されているが、
 これは戦国期のものと考えられている。
でも、今井城跡といわれている。

 今井兼平いまい かねひら) 仁平2年(1152年) - 元暦元年1月20日(1184年3月4日))
  平安時代末期の武将。通称・四郎。よって今井四郎兼平ともいう。
  父は中原兼遠、兄弟に樋口兼光、巴御前がいる。義仲四天王の一人。
  木曽義仲とは乳兄弟でもあり、最後まで義仲と共に戦い、
     『平家物語』の「木曽殿最期」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。

  伝承墓所:長野市川中島に兼平塚。また、滋賀県大津市晴嵐にも墓所がある。
  奉斎神社:長野市川中島鎮座の今井神社や松本市今井鎮座の今井神社の主祭神として祀る。
  今井神社は、ここ清水町小羽の小羽山30号墓のふもとにもあります。

清水町内には総数110基を越える古墳が確認されている。
全長52.5mの前方後円墳である清水9号墳を最大として、前方後円墳6基・前方後方墳4基がある。
在田古墳群は横穴式石室を持つ古墳群で在田明厳寺の背後には石室が開口しているらしい。
清水町郷土資料館には在田2号墳の実物大複製もあるという。
機会があったら見に行きたいと思う。

4時25分、御城山古墳出発。家路につく。
北潟湖のすばらしい景色に感動。
6時半頃家に着くから、鰈でも煮て、夜ご飯を食べよう!

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