北村さんちの遺跡めぐり
更新日2003/12/26
酒生古墳群と一乗谷朝倉氏遺跡
松岡古墳群撮影日2003/10/25
2003年10月25日、一乗谷とその入口にある酒生古墳群に出発。
まず一乗谷を見学してから酒生古墳群へ
一乗谷朝倉氏遺跡 |
福井市安波賀町・城戸の内町他 撮影日2003/10/25 |
一乗谷を初めて見学に来たときは、戦国時代の町がそのまま忘れ去られて埋もれていることに、すごく感動してしまった。
たかが50年ほどたてば、全てが草木に覆われてしまうことに、「無常」をみた気がした。
朝倉氏の祖先は、兵庫県養父郡の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国した。
朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠を移し、
斯波氏、甲斐氏を追放して、越前を平定した。
以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、
この間、京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都ともいわれた。
義景は、足利義昭を南陽寺に迎え、観桜の宴を催した。
しかし、天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き討ちにあい灰燼に帰した。
一乗谷は戦国時代1世紀の歴史だけがそっくり埋もれて残された貴重な遺跡で、
昭和42年から発掘調査がすすめられ、昭和46年には一乗谷を含めた278haが国の特別史跡に、
平成3年にはそのうち朝倉氏4庭園が特別名勝にも指定された。
5代当主朝倉義景の館跡
遺跡の中心的存在で、東西南北それぞれ80mあり、
東は山に接し、西、南、北の三方は高さ4mほどの土塁で囲まれ、
外側には堀が廻らされている。
整然とした礎石が並び、
常御殿や主殿など十数棟の建物跡が確認できる。
唐門
5代当主朝倉義景の菩提を弔うために
その館跡に設けられた寺・松雲院の正門。
向唐門形式で、江戸時代前期の建物である。
この位置は館の正門にあたる。
5代当主朝倉義景の墓
松雲院建立の頃造られたと思われる石造りの墓で、
館の東南隅にある。
湯殿跡庭園
朝倉義景の館跡を見下ろす山腹にある。
どの石も強い表情を持ち、迫力がある。
鶴岩亀岩を思わせる中嶋や出島があり、
水路が山際に沿って南から北に走り滝口に注ぐ。
(と思われる。今は水が枯れている。)
一乗谷で最も古い庭園とされている。
復原町並
ここは入場料が必要(大人210円)
武家屋敷や庶民の町屋が形成されていた様子が
リアルに再現されている。
染物屋の再現住居
発掘された建物礎石をそのまま使い、
柱や壁・建具なども出土した造物に基づいて復原された。
朝倉氏遺跡を全て散策するには一日でも足りないかもしれない。
南陽寺跡庭園 | 朝倉貞景が娘のために再考した寺で館の東北200m高台の景勝地にあり、 朝倉の代々の女が尼僧として居住した。 石組は京都金閣寺庭園を燃したものといわれ、 将軍足利利義を招いて観桜の酒宴をしたところ。 |
諏訪館跡庭園 | 館跡の南約400mにあり、 義景の愛妻少将の館跡に設けられた上下2段の構成を持つ。 この谷で最も大きく豪華な庭園。 |
中の御殿跡 | 湯殿跡から空掘を隔てた南の台地にある。 義景の母高徳院の居館といわれる。 |
上・下城戸 | 一乗の谷の最も狭くなっている地点2ヶ所をえらんで土塁を築き城門とした。 上・下の城戸間は約1.7kmある。 |
一乗城山 | 遺跡の東部にある海抜436mの山に、山城が築かれた。 大きな礎石などが尾根上500mの範囲で残っている。 |
一乗谷川上流には、佐々木小次郎が「つばめ返し」を編み出したという一乗滝もある。
(小次郎の里ファミリーパークとして整備されている。)
遺跡の西部の山には、総数160基からなる御茸山古墳群(73基が県史跡)があるらしい。
前方後円墳2基と前方後方墳1基を含み、酒生古墳群とは別の造営勢力が想定されてる。
(地図で見ると川を挟んで向かい側なんだけどね。)
酒生古墳群 |
福井市篠尾町 撮影日2003/10/25 |
足羽川が福井平野に注ぐ谷口の右岸一帯、荒木町から高尾町にかけての丘陵上や山麓部には、
総数320基余りからなる北陸最大の古墳群、酒生古墳群がある。
山の中はなかなか行けないので山麓部分にあると思われる古墳を探した。
まず新溜古墳(篠尾町)を探したけれど、見つからない。
地元の人にきいてもわからない。
ようやく狐塚の碑をみつける、、、、が竹林にしか見えない。
赤塚の碑を見つける。赤塚の上には民家があるようだ。
そこで農作業をしている人に聞いてようやく車塚とその前の案内板にたどりつく。
車塚の前にある案内板
酒生古墳群のなかでも
篠尾町にある古墳を簡単に説明してある。
これらの古墳は
6世紀ごろ(古墳時代後期)の
中小古墳と考えられている。
車塚
古墳の封土が取れ、石室が露出したもの。
「ここに赤い椿が生えていて、その椿に白い花が咲いたら、
この石室を開けてもいいという言い伝えがある」
(次の写真のオカマ古墳の地主のおじさんの話より)。
でも赤い椿が白い花をつけることがあるのだろうか!?
オカマ古墳
古墳の石室の内殻だけが残ったもの
奥壁の周りしか残っていない。
地主のおうちのお庭になっている。
手前の大きな石も石室の一部だろう。
オカマ古墳の奥壁部分拡大
天井石はかなり大きい重そうな石だ。
地主のおじさんの話
「福井大地震のときに石室が前のほうにかなり動いた。」
「このあたりは昔、さこん(酒生)長者という大金持ちがいて、
とても栄えていて立派なお墓を作ったらしい。」
赤塚全景
前方後円墳。大きな木がはえているあたり。一部は畑?
狐塚遠景
円墳。現状は竹林。
このあたりの古墳は地主さんが管理しているらしい。
新溜古墳は、昭和37年土取りで舟形石棺が露出し発見された。
その中から人骨5、6体分・勾玉・管玉などが出土した。消滅?
酒生古墳群配置図
篠尾町には他に横山古墳群(支群)というのがあって、直径10m程の円墳が10基以上存在する。
隣の高尾町にも天神山古墳群(支群)と名づけられた古墳が幾つかあるらしいので、探してみたが、
そのあたりは新興住宅地(ニューウッドタウン高尾)となっており見つからなかった。消滅したと思われる。
篠尾廃寺 しのおはいじ |
福井市篠尾町字当垣内 撮影日2003/10/25 |
酒生古墳群などの古墳築造が終わった直後の7世紀後半に旧古墳群の中央に仏教寺院が建立された。
篠尾廃寺塔跡
大きな石はかつて建立された五重塔の心礎の石。
長辺2.6m、短辺1.3m、厚さ1.3m。
昭和46年に発掘調査が行われたが、
伽藍配置などは確認できなかった。
古墳から篠尾廃寺に至る人々は古代の豪族生江の臣と関係があるといわれ、
この豪族が新しい文化である仏教を受容する中で、古墳に変わる寺院を建立した。
この町の人に古墳がないかとたずねたときに、この遺跡を教えてくれた。
近くに住んでいても、興味のない人にはただの石かな。
松岡古墳群 |
吉田郡松岡町 撮影日2003/11/15 |
2003年11月15日(土)、松岡古墳群に出発
松岡公園のふもとに車を置き、お弁当を持って、二本松山古墳を目指した。
前に来たときに「二本松山は山の頂上にある古墳だから、
今度は時間的に余裕を持って来よう」と思い意気揚々と来たのですが・・・・・・。
春日山古墳の石室、泰遠寺古墳の石棺を見学して、
ここまでは「よし、頑張って登るぞ!」という意気込みだったのですが。
乃木山古墳までが結構きつい上り坂。
ここでお弁当を食べて、荷物を軽くしたのだけれども、三峰山城の所まで登ったら、力尽きました。
パンフレットによると、松岡古墳から二本松山古墳までは、往復3時間のハイキングコースだという。
私の足では、5時間かかっても着かないかも知れない。
夫はだいぶ先を歩いていたけれども、私が気になって引き返してしまったので、二本松山までは行けなかった。
手繰ヶ城山古墳の方は途中まで車で登れて、
往復1時間のハイキングコースだと書いてあるので行ってみたけれども、
車道がどういうわけか通行止め。こちらもあきらめざるを得なかったのです。
ロープウェイでも出来ないと、私の目で本物を見ることは出来ないかもしれない。
このページもそんな理由から、なんとなく作る気がしなかったのです。
パンフレットより
松岡古墳群は九頭竜川がまさに福井平野に流出する地の南方の山々に立地する古墳群を指します。
広義には永平寺町から福井市の原目山にかけての約150基の古墳群です。
その中の松岡町を中心にする松岡古墳群(松岡支群)は方墳・円墳・前方後円墳が混在し、約50基前後の古墳からなります。
松岡古墳群の第一の特徴は、この地域に大型古墳群が集中していることがあげられます。
全長129mの手繰ヶ城山古墳をはじめ50m以上の前方後円墳が6基点在しています。
第二の特徴は、これらの大型古墳の被葬者は必ず越前固有の笏谷石で作られた舟形石棺に安置されていることです。
この2つの大きな特徴を備える古墳は北陸で唯一松岡古墳群のみです。
それゆえ、松岡古墳群の大型古墳は越の国を支配した大首長の墓とされる根拠とされています。
したがって、松岡古墳群がある松岡町は古代において北陸の他の地域よりいち早くひらけ、
3世紀から5世紀にかけて越王国の都があったと想像されています。
松岡古墳群俯瞰図(パンフレットより)
春日山古墳 かすがやま 松岡古墳群 |
撮影日2003/11/15 |
約20mの円墳 6世紀末の築造
昭和28年、松岡公園整備の際、石室が露出、発掘が行なわれた。
1992・3年、整備のため調査
覆い屋に守られた春日山古墳石室
天井石はすでになかったので、墳丘の高さは不明。
墳丘のほぼ中央に、ほぼ東西に両袖式の横穴式石室がある。
玄室長3.7m・幅2m 羨道長5m・幅0.8m
床には扁平な川原石がきれしに敷かれている。
玄室の水を抜くための排水溝が整備していた。
春日山古墳の横口式石棺
蓋は長さ2.4m・幅0.9m
身は長さ2m・幅0.8mで
縄状突起がある。
越前でははじめてのもので、出雲地方の石棺に見られる特徴
盗掘されていて石棺の中は空っぽだった。
遺物は石室から出土。須恵器・土師器・鉄製の馬具類・切子玉1・ガラス玉120など
泰遠寺山古墳 たいおんじやま 松岡古墳群 |
撮影日2003/11/15 |
1645年ごろから破壊が始まり、昭和8年までに変電所の造営で完全に削平された。
江戸時代の「越前名跡考」などの文献に記載がある。
1992年(平成4)発掘調査で、全長64mの帆立貝形前方後円墳と判明。
葺石あり 埴輪あり 馬蹄形の周壕あり
泰遠寺山古墳の石棺
春日山古墳の石室の横に石棺だけが保存されている。
1914・15年の京福鉄道の採土工事時、
石棺と副葬品が調査されずに取り出された。
石棺は足羽山の笏谷石製の刳抜式舟形石棺
全長2.7m 棺身長2.3m・幅0.9mで排水溝がある。
棺蓋は破壊されている
鏡2・勾玉5・管玉8・棗玉2・トンボ玉2・丸玉11・小玉448などが出土。
5世紀中葉の築造と推定されている。
乃木山古墳 のぎさん 松岡古墳群 |
撮影日2003/11/15 |
全長30m以上 形は不明(たまたま帆立貝形に復元した)
標高110mの二本松山丘陵の先端尾根上に立地。
大正時代にこの古墳の上に乃木大将の銅像が建立され
「乃木さん山」と呼ばれていた。
埋葬施設は3ヶ所。
全国でも珍しい素環頭鉄剣、木製枕などが出土。
3世紀半ば頃の発生期の古墳と考えられている。
この写真は工事現場の看板に使われていたものを引用させていただきました。
三峰山城跡古墳 みつみねやま 松岡古墳群 |
前方後方墳3基 |
三つの峰があるので三峰山という。
この三つの峰には前方後方墳が三つあったが、
南北朝時代に山城が築かれたために
古墳のほうは変形してしまっている。
案内板にも古墳の説明はない。
2014年現在は、古墳ではないという情報がある。
吉野八幡神社古墳 よしのはちまん 松岡古墳群 |
5世紀前葉の古墳 円墳と思われる |
撮影日2003/11/15 |
昔からここは古墳と認識されていたが、その上に神社が建つ。
1990年(平成2)、社殿改築の際に調査。
現状で東西20m・南北15mで、円墳と考えられている。
2段築成か?
埴輪が出土。
墳丘中心から東寄りに、粘土槨でおおわれた箱形木棺が見つかり、
鉄刀8・鉄鏃9、鉄鉾、ミニチュア農工具(鉄鍬3・鉄鎌3・刀子2・やりがんな3・鉄鑿2)が出土。
これは副葬品をおさめた棺で、本当の棺は別に存在すると考えられている。
出土した埴輪から5世紀末の築造と推定されている。
南春日山墳丘墓 みなみかすがやま |
弥生時代の4基の墳墓がある。 1号墓は四隅突出型墳丘墓(45×30m)で 突出部を含めると50m程で弥生時代では北陸最大。 |
石舟山古墳 いしふねやま |
全長85m、5世紀中葉の前方後円墳。 埴輪はあるが葺き石は不明。舟形の石棺がある。 埴輪や須恵器が出土。 |
鳥越山古墳 とりごえやま |
全長54m、5世紀中葉の前方後円墳。 後円部中央に県内最大の舟形石棺があり、その横に横穴式石室がある。 |
二本松山古墳 にほんまつやま |
全長90mの5世紀後葉の前方後円墳。 標高273mの二本松山山頂にある。 2つの石棺を持ち、四獣鏡、鍍金冠、鍍銀冠、眉庇付冑など貴重な遺物が出土。 |
手繰ヶ城山古墳 てぐりがじょう (国指定史跡) |
全長129mの4世紀中葉の前方後円墳。 南側に2つの方形の造り出しを持っている。 埴輪はしっかりしたタガと黒斑を持つ。 北陸第2の規模の古墳。 川原石や、山石が葺いてあり、古墳の周りには3重の埴輪列が巡っていた。 |