越前町 地図g   

 郡栄塚古墳
グンエイヅカコフン
町指定史跡
越前町朝日
撮影日2017/6/3

越前町役場の北東約200mの日吉神社境内にある。  (この地は平成の大合併以前は、朝日町という町だった。)
日吉神社には、古墳のほかにもいろいろ文化財があるようだ。

 日吉神社

日吉神社の鳥居
中央の説明板は
県指定文化財「木造大日如来坐像」のもの

日吉神社境内
中央奥に古墳とその説明板がある。
拝殿前の説明板は、町文化財の仏像4体のもの

拝殿左右の壇上には、文化財の仏像が安置されている。ガラス越しに撮影。


  拝殿左側の壇上
 左から 地蔵菩薩立像 大日如来坐像
           十一面観音菩薩立像

  拝殿右側の壇上
 左が広目天立像   右側が多聞天立像
          中央は不明
県指定文化財  木造大日如来坐像  像高さ160cmで、平安時代後期の作
 一木割矧造で、野趣に富んだ素朴な像
 割の構造、表現などは、中央の手法をまったく受けていないことから、地方仏師の制作と考えられている。
 彩色は下地に胡粉を、その上に黒褐色の漆のような光沢のある定着剤を 塗っていて、ほかに類例がない。
町指定文化財  木造地蔵菩薩立像   鎌倉時代 いずれも等身大
平安時代末期から鎌倉時代に造られた地方色豊かな仏像。
図像学的にも正しく造られていて、
  当地方の文化的レベルの高さを示している。
 木造十一面観音菩薩立像  鎌倉時代
 木造多聞天立像  平安時代末期
 木造広目天立像  平安時代末期

古墳は郡栄塚古墳と名付けられているが、どんないわれがあるのだろうか。
付近の町並みは趣がある建物が並び、かつては栄えたのだろうと 想像できる。

 郡栄塚古墳
 径30m・高さ3mの円墳
 日吉神社拝殿によって、東側が削られている。
 封土はかなり流出しているが、2段築成で低地につくられているのは、県内でもまれである。

 この古墳は、古墳公園の経ヶ塚古墳(4世紀後期)や朝日山古墳(5世紀前半)の系列をひく、
    天王川・和田川流域の6世紀ごろの築造と推定されている。
 山頂から低地へと移行する古墳築造の過程がセットで実感できる遺跡である。
                             (説明板から)
 最近の調査では、
 平地につくられた前方後円墳と分かった。
 墳丘は神社や用水などで削平されているが、墳丘北西側に前方部の痕跡が残存する。
 前方部の長さは不明だが、墳丘長33m以上の帆立貝形古墳と考えられている。
 段築なし 葺石なし 埴輪なし
 5世紀前葉の築造と推定されている。(HP織田文化歴史館から)

墳丘図

(HP織田文化歴史館から)

東側は削られている

2段築成に見える

墳頂には大きな切株
  中央奥は社本殿 右が拝殿

境内西の道路から見た郡栄塚古墳

    

朝日山古墳群
福井県史跡

朝日町朝日
撮影日2005/6/19
2019/4/23

織田文化歴史館のホームページに「越前町の古墳群」のページがあるので、参考にさせていただいた。

 朝日山古墳群は、朝日町朝日・内郡の両地区にまたがる標高50〜70mの丘陵に存在する。
 2つの丘陵の最高所に、経ヶ塚古墳と朝日山古墳という2基の前方後円墳が立地し、
 それぞれの東側の緩斜面に墳丘墓と古墳が密につくられている。
 二口・郡山支群は約30基 (すべて消滅)
 経ヶ塚古墳を中心に展開する観世音山支群は59基
 朝日山古墳群を中心に展開する朝日山支群は46基
 合計130基以上(現在は105基)からなる県内有数の古墳群。
 前方後円墳の2基は昭和31年(1956)に県史跡に指定され、
 観世音山支群一帯は昭和50年(1975)に保存目的から古墳公園として整備されている。

朝日山古墳群配置図(イメージ図)
HP「墳丘からの眺め」越前古墳巡りツアー
 を参考にさせて頂き、作成したが、
多くの方墳や方形周溝墓の位置は
 イメージとお考えください

経ヶ塚古墳は、墳長74mの前方後円墳

朝日山古墳は、墳長54mの前方後円墳

    

2005年の朝日古墳公園

朝日町朝日
撮影日2005/6/19

公園の入口は3ヶ所あり、私達は越前町総合運動公園側の郷土資料館側の入口から入った。
そこには前方後円墳をかたどったレリーフがあり、立派な古墳を見ることができるのだと期待した。
しかし、あまり人がこないのか、雑草がすごくて、何が何かよくわからなかった。

休憩所の前に方墳らしい3基の古墳があるが、笹が一面に生えていて、
「古墳」と書かれた前方後円墳の形の小さな立て札が笹に埋もれて見えない。
笹をかき分けて、古墳の立て札が見えるようにして、写真を撮った。

休憩所の前にある方墳

公園内でも比較的大きい3基の方墳の中の1基
説明は何もない。

公園内を歩くと古墳らしい盛り上がりがあるが、やはり笹がいっぱいでよくわからない。
以前来たときは、芝生が敷きつめられていたような気がするのだけど・・・・・。


遊歩道のわきにある方墳



公園内には方墳が39基存在するが、一辺10m前後の小さな古墳が中心のようだ。
滑り台のあるところで一組の親子を見ただけで他には誰もいない。
公園の遊歩道から外れ、経ヶ塚古墳を探してみた。
雑木林と雑草をかき分け、古墳の部分を確認したが写真も撮れない。
茅葺きの民家を用いた朝日町郷土資料館は鍵は掛かっていなかったけれども、
   管理人もおらず、民具が雑然と置かれているだけだった。
公園から道路を挟んで南に朝日山古墳があるというので探したけれどもわからなかった。

古墳公園といいながら、近くにある前方後円墳の経ヶ塚古墳は現状保存で、
   公園の中に取り込まれていないのが、この公園の弱点だと思う。
経ヶ塚古墳を整備して、この公園のメインにすれば、もっと人が来るのではないか?

朝日古墳群とは
朝日町朝日・内郡の両地区にまたがる丘陵に存在する。
方墳が多い。
北部の経ヶ塚支群と南部の朝日山支群からなり、もとは160基あまり存在したが、
     開発のため現在は約90基が残っている。

経ヶ塚古墳 全長約70mの前方後円墳
後円部径42m・高さ約6m、前方部先端裾幅約23m・高さ4m
後円部を南に向けている。
古墳時代前期(4世紀後半)の築造。
朝日山古墳 全長約55mの前方後円墳
後円部径約32m・高さ6m、前方部先端裾幅約21m・高さ4m。
後円部を北に向けている。
西側には周濠がめぐる。
古墳時代前期末〜中期前葉(4世紀末〜5世紀初頭)の築造。

2つの古墳は大きさの違いはあるものの、よく似た形をしている。
どちらも、段築・埴輪・葺石は確認されていない。
近くの日吉神社境内には径約30mの円墳が存在する。

2019年
経ヶ塚古墳とその周辺の古墳

朝日山古墳群・観世音山支群

朝日町朝日
撮影日2019/4/23

古墳公園内の北端にある。
整備されていないので、遊歩道などがある整備された公園を北に抜けて、斜面を少し登ったところ。

前方後円墳の経ヶ塚古墳と
経ヶ塚古墳の後円部の南東そばの円墳1基、経ヶ塚古墳の北の方墳3基の見学。

 経ヶ塚古墳後円部の南東そばにある円墳1基
 周溝がある円墳  
 詳細不明だが、存在感のあるりっぱな円墳だ。

南から見た円墳 奥に経ヶ塚古墳がある。

経ヶ塚古墳側(北)から見た円墳

このすぐ北に経ヶ塚古墳。

 経ヶ塚古墳  県史跡

墳丘図
(HP「越前町の古墳」から)


推定墳長74mの前方後円墳

後円部径40m・高さ7m、
前方部推定長さ35m・先端裾幅23m・高さ3m
前方部を北に向けている。
段築なし 
葺石なし 
埴輪なし
 周溝はないが、
 後円部南西側に旧地形の削り残しの部分が認められ、この部分だけ周溝状となる。
 古墳時代前期後葉〜末(4世紀後葉〜末)の築造と推定されている。

経ヶ塚古墳後円部
左奥に前方部がある。

後円部にある石碑
「史跡 朝日山古墳群       
昭和31年3月12日指定 福井県」
と刻まれている。

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

前方部先端

経ヶ塚古墳前方部のすぐ北東に、3基の方墳が確認できる。


経ヶ塚古墳北にある方墳その1
経ヶ塚古墳前方部のすぐ北にある。

経ヶ塚古墳の北にある方墳その2 
その1の北にある。
周溝も確認できるが、奥は崖。

経ヶ塚古墳の北にある方墳その3

その2のすぐ西にある。
小さくなっている。
向こう側は崖。
右奥に丹生高校グランドが見える。

人間の目で見ると、りっぱな古墳なのだが、写真ではその凄さが伝わらないのが残念だ…。

2019年
朝日古墳公園の方墳群

朝日山古墳群・観世音山支群
朝日町朝日
撮影日2019/4/23

経ヶ塚古墳の南にある方墳群は、古墳公園として整備されている。

 越前町古墳公園案内板 (左が北)
 案内板にある黒い四角が、古墳。
 解説には「方墳(39基)」と書かれているが、弥生期の墳墓(方形周溝墓)も多く含まれている。
 経ヶ塚古墳は、この図の左側の外にある。
 古墳番号は分からないので、見た順に番号を付けた。

郷土資料館近くの休憩所(南側の休憩所)から北側の休憩所までの古墳の紹介。

 南側の休憩所そばには、大きな方墳が並んでいる。
 観世音山支群では、経ヶ塚古墳と同じくらいの、標高が一番高いところにある。
 方墳は前回は笹でおおわれていたが、笹は刈られ、墳丘がはっきりとわかる状態となっている。
 「古墳」とかかれた小さな標柱がある。

休憩所そばの方墳2基
仮2号墳 右奥仮1号墳

仮1号墳

仮2号墳

仮3号墳

南側の休憩所から北の休憩所へ


仮4号墳 
右手前が 仮3号墳。

仮5号墳
この左側(北側)に、経ヶ塚古墳の登り口がある。

仮5号墳
奥の林の奥に、経ヶ塚古墳がある。

この後に経ヶ塚古墳を見学したが、先に紹介したので、
北側の休憩所周辺の方墳群の紹介。


仮6号墳

仮7号墳

仮8号墳

仮9号墳

仮10号墳

仮11号墳
奥の建物は北側休憩所

仮12号墳
右奥の建物は、北側休憩所

仮13号墳

北側の休憩所から東へ、ずっと下り坂で、児童公園につながっている。

仮14号墳
時計台モニュメントの北側の
高台の頂部にある方墳
斜面を下りると児童公園。
時計台モニュメントの南側 最初の南側の休憩所へ至る登り坂の方墳群の紹介。


仮15号墳 時計台モニュメントの南側

仮16号墳

仮17号墳

仮18号墳

仮19号墳

仮20号墳

仮21号墳

仮22号墳
奥の屋根は、南側休憩所

最初の、仮1号墳に戻る。

仮1号墳
その奥に 仮2号墳、仮3号墳と続く

古墳公園を時計回りに一周した。
古墳番号が分からないのが何といっても残念だ…。

2019年
朝日山古墳と1号墳・2号墳

朝日山古墳群・朝日山支群
越前町朝日・内郡
撮影日2019/4/23

古墳公園の南側の尾根にあるが、そのままは行けない。
一旦、自動車に乗り、朝日交差点を300m南下。
道路西側の朝日住宅団地の奥から、雑木林の斜面をよじ登り、朝日山古墳の前方部に到達!

朝日山古墳 登り口


たぶん、私有地?
前方後円墳の朝日山古墳と、その北にある大きな円墳2基を見学。

 朝日山古墳  県史跡
 墳長54mの前方後円墳
  後円部径29m・高さ6m、前方部長25m・前方部前面幅9m・高さ4m。
 西側には周濠がめぐる。

墳丘図
(HP「越前町の古墳」から)

前方部を南に向け、
 丘陵頂部平坦面の平野側に偏ってつくられている。
墳丘周囲に周溝状の溝がめぐるが、
 平野部である東側は途切れている。
段築なし 
葺石なし 
埴輪なし
 古墳時代前期末〜中期初頭(4世紀末〜5世紀初頭)の築造と推定されている。
 経ヶ塚古墳に後出する古墳と考えられている。

朝日山古墳 横姿     左(南側) 前方部 

前方部から後円部を見る

くびれ部から後円部を見る

後円部から前方部を見る

後円部頂部の 大きなくぼみと穴

朝日山古墳後円部のすぐ北に、円墳の1号墳がある。

 1号墳
 朝日山古墳の北側周溝を切ってつくられている。
 直径26m・高さ4mの円墳  墳丘頂の直径10m
 墳丘斜面の中位やや上方に幅1.5mの平坦面がめぐる。
 浅い周溝がある。葺石なし 埴輪なし
 朝日山古墳に後出する古墳と考えられている。

1号墳 墳丘

1号墳 墳頂部

1号墳のすぐ北東に、円墳の2号墳がある。

 2号墳
 1号墳の北東にある。
 径18〜20m・高さ3mの円墳  平面形は、やや楕円形
 墳丘頂部の直径10〜13m
 約1.5mの周溝がある。
 朝日山古墳に後出する古墳と考えられている。

2号墳 墳丘

周溝が確認できる。

朝日山古墳の東側には方墳群がある。


方墳その1

方墳その2

朝日山古墳を見学できて、大満足!横にある円墳もりっぱだった!


織田文化歴史館

国宝の梵鐘 展示中
入館料200円

奈良時代の作の「梵鐘」は撮影禁止!

越前町の古墳は、他に番城谷山古墳群や八王子山1号墳(町史跡)などが紹介されている。
番城谷山古墳群は、私有地のため見学は難しいそうだ。

 番城谷山古墳群
 7基 確認されている。
  1号墳は円墳  2号墳は方墳  3号墳は方墳  4号墳は円墳
  5号墳は造出部をもつ円墳  6号墳は円墳  7号墳は円墳
 平成22〜26年(2010〜2014)に4・5号墳の試掘調査
 番城谷山5号墳は、標高155mの高所にある。
 墳長45mの造出部付の円墳 円墳部分は直径37.5m 造出し部は長さ7.5m
 葺石あり 埴輪列あり
 2基の埋葬施設がある。(木棺直葬)
 5世紀前半〜中ごろの築造と推定されている。

墳丘図

福井県資料から(HP)
 
 番城谷山4号墳は、直径18m・高さ2.5mの円墳
 埴輪列があり、墳頂部と墳丘周辺に円筒埴輪が樹立していた
 葺石がある。
 5号墳が崩壊した後、4号墳の墳丘を形成している。
 5世紀中ごろの築造と推定されている。
 番城谷山7号墳は、一辺17×18mの長方形墳
 葺石があるが、平野から見えない部分は省略されている。
 円筒埴輪(朝顔?)あり
 当初は5号墳の前方部と考えられていた。 

織田文化歴史館のホームページに「越前町の古墳群」のページがあるので、ご覧ください。

剱神社

織田町織田
撮影日2005/6/19

剱神社は織田町商店街の真中にある。
敦賀の気比神宮に次ぐ越前二の宮。
上古より座ヶ岳に祀られていたスサノオノミコトの御神霊を、
    第14代仲哀天皇第2子忍熊王(オシクマノミコ)が現在の地に祀られたと伝えられている。
現在所蔵する国宝の梵鐘は、第49代光仁天皇のご奉納といわれている。

剱神社本殿(県文化財)

柿葺きの三間社入母屋造。
正面に千鳥破風が前方に突き出し、
    その下に唐破風をもつ向拝が設けられている。
江戸初期(1627)の秀麗な姿をとどめている。

 織田信長と剱神社
  織田信長の祖は越前織田荘の荘官として、また剱神社の神官として代々奉仕してきた由緒ある家柄だった。
  応永年間(1394〜1427)に剱神社の神官の子の「常昌」という人物が、当時の越前の守護斯波氏に見出され、
  家臣として取り立てられ、尾張の国に派遣された。
  苗字は故郷の地名をとって織田氏を名乗るようになった。この人は織田信長の何代前になるのだろうか?
  織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし、守護代まで登った。
  織田信長の時には尾張一円を掌握し、更に日本全国に支配しようとするまでになった。
  織田信長は乱世にあっても、剱神社を氏神として深く崇拝し、剱神社の保護と住民の治安に尽くした。


織田信長を祀る小松建勲(コマツタテイサオ)神社

1582年信長は本能寺の変で最期を遂げたが、
  織田町の人々は信長の功績をしのび
   剱神社の境内に小社を建立し御霊を祀った。



織田神社(県文化財)

祭神は保食大神(ウケモチノオオカミ)
仲哀天皇・応神天皇




     

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