北村さんちの遺跡めぐり
更新日2024/6/10

永平寺町  地図g 

東諏訪間1号墳
ひがしすわま
   

吉田郡永平寺町諏訪間
撮影日2003/5/1

永平寺の谷の東古市から諏訪間の周辺には各時代の遺跡がある。
旧石器時代の木橋遺跡、縄文時代の鳴る鹿山鹿(なるかさんが)遺跡などだ。
東諏訪間1号墳は京福電鉄東諏訪間駅の北200m程のところにある。

 直径16m以上の横穴式石室を持つ円墳で周溝は確認できなかった。
 石室の上部には巨大な天井石が5個載せられ露出している。
 古墳の前庭部で縄文土器が出土しているので人々が住んでいたと考えられている。
 横穴式石室の玄室は長さ4.5m、羨道部は長さ約3m・幅1.4m。
 木棺だったので棺は残っていない。
 玄室から須恵器の食器や土師器の壺・須恵器の大壷が出土。
 出土品から7世紀初め頃の築造と推定されている。




 東諏訪間1号墳全景


石室入口

石室内部


松岡古墳群
まつおかこふんぐん

吉田郡永平寺町松岡

   

パンフレットより
松岡古墳群は九頭竜川がまさに福井平野に流出する地の南方の山々に立地する古墳群を指します。
広義には永平寺町から福井市の原目山にかけての約150基の古墳群です。

その中の松岡町を中心にする松岡古墳群(松岡支群)は方墳・円墳・前方後円墳が混在し、
 約50基前後の古墳からなります。

松岡古墳群の第一の特徴は、この地域に大型古墳群が集中していることがあげられます。
全長129mの手繰ヶ城山古墳をはじめ50m以上の前方後円墳が6基点在しています。

第二の特徴は、これらの大型古墳の被葬者は必ず
 越前固有の笏谷石で作られた舟形石棺に安置されていることです。

この2つの大きな特徴を備える古墳は北陸で唯一松岡古墳群のみです。
それゆえ、松岡古墳群の大型古墳は越の国を支配した大首長の墓とされる根拠とされています。

したがって、松岡古墳群がある松岡町は古代において北陸の他の地域よりいち早くひらけ、
     3世紀から5世紀にかけて越王国の都があったと想像されています。

松岡古墳群俯瞰図(パンフレットより)
 松岡古墳群 とは 
 九頭竜川の南側、福井平野の東端に位置する尾根上に分布する古墳群。
 前方後円墳4基と陪塚3基からなる
 手繰ヶ城山古墳は、全長約129mの前方後円墳。松岡古墳群中最大規模を誇る。
  2段築成で埴輪あり 葺石あり
  古墳東側に陪塚を配し、4世紀中葉頃の築造と推定されている。
 鳥越山古墳は、全長53.7mの前方後円墳
  段築のない地山削り出し。後円部頂およびくびれ部より埴輪が出土。
  埋葬施設は舟形石棺直葬墓と竪穴系横口式石室の2基が検出されている。
  後円部墳頂部より、石釧・砥石・馬具・鉄製品・土器などが出土している。
  5世紀中葉頃の築造と推定されている。
 石舟山古墳は、全長79.1mの前方後円墳
  古墳南西側に陪塚を有する。
  墳丘は2段築成で埴輪が巡らされている。
  5世紀中葉頃の築造と推定されている。
 二本松山古墳は、全長89mの前方後円墳
  前方部の東側に陪塚を有する。
  明治13年(1880)と同39年に発掘調査が実施されて、舟形石棺
   その副葬品として銅鏡・冠・管玉・鉄剣・鉄刀・刀装具などが出土している。
  二段築成で外部施設として埴輪を持つ。
  5世紀後葉頃の築造と推定されている。
 以上の古墳群は、九頭竜川の水利権を押え流域各地区の首長の上に立った
  「越の国の王」ともいうべき大首長の墓と考えられる。
                (福井の文化財HPから)

報告書から抜粋
「手繰ヶ城山古墳 測量調査報告書」(2011年)

1 手繰ヶ城山古墳
2 六呂瀬山1号墳
3 六呂瀬山3号墳
4 石舟山古墳
5 鳥越山古墳
6 二本松山古墳
7 乃木山古墳
8 春日山古墳
9 南春日山墳墓群
10 檜ノ木坂古墳
11 泰遠寺古墳
12 稲荷山古墳
13 袖高林古墳群
14 吉野八幡神社古墳
16 重立山古墳群
17 三角山古墳
18 重立山16号墳
20 葵遺跡
21 室遺跡

   

手繰ヶ城山古墳 見学記
松岡古墳群

永平寺町松岡
撮影日2024/2/13

永平寺町の松岡古墳群の1基・手繰ヶ城山古墳。
20年以上前から行きたかった古墳。すぐそばまで自動車で行けると聞いたので挑戦!

手繰ヶ城山古墳付近の地図g

えちぜん鉄道勝山永平寺線志比境駅の東約700mほどに、大きな案内板。

国道416号線沿いに大きな案内板
「手繰ヶ城山古墳



ここを曲がって南に向かう。

法寺丘生活改善センターの前には
  永平寺町史跡名勝マップと手繰ヶ城山古墳の説明板がある。



法寺丘生活改善センター
永平寺町史跡名勝マップ
手繰ヶ城山古墳の説明板

通り過ぎてしばらく行くと白山神社。

 白山神社

更に行くと突然車両通行止め!!

奥の白い案内板に
「手繰ヶ城山古墳」と書かれている。


この奥に駐車スペースがあるようだが……
ここに駐車場して階段や山道を登る。
(この向こうは土砂崩れで道がふさがれていた……能登地震?)

登り口にある説明板

インターネット上に
  「手繰ヶ城山古墳 測量調査報告書」(2011年)が公開されているので参考にさせてもらった。

 手繰ヶ城山古墳は、全長約129mの前方後円墳。松岡古墳群中最大規模を誇る。
 2段築成で埴輪あり 葺石あり
 古墳東側に陪塚を配し、4世紀中葉頃の築造と推定されている。

手繰ヶ城山古墳測量図
  
(福井大学考古学研究会1978)
  
 報告書から

前方部先端

前方部から後円部を見る

後円部 大きい陥没抗あり 
墳頂から西方向の眺望

後円部から前方部を見る

くびれ部から後円部の造り出しを見る

前方部から陪塚を見下ろす

後円部造出しから陪塚を見下ろす

後円部と造り出し

陪塚(方墳)

     

春日山古墳
かすがやま
松岡古墳群
撮影日2003/11/15

約20mの円墳 6世紀末の築造と推定されている。

昭和28年、松岡公園整備の際、石室が露出、発掘が行なわれた。
1992・3年、整備のため調査

覆い屋に守られた春日山古墳石室

天井石はすでになかったので、墳丘の高さは不明。
墳丘のほぼ中央に、ほぼ東西に両袖式の横穴式石室がある。
玄室長3.7m・幅2m 羨道長5m・幅0.8m
床には扁平な川原石がきれしに敷かれている。
玄室の水を抜くための排水溝が整備していた。



春日山古墳の横口式石棺

蓋は長さ2.4m・幅0.9m
身は長さ2m・幅0.8mで
縄状突起がある。
越前でははじめてのもので、出雲地方の石棺に見られる特徴
盗掘されていて石棺の中は空っぽだった。
遺物は石室から出土。須恵器・土師器・鉄製の馬具類・切子玉1・ガラス玉120など

泰遠寺山古墳
たいおんじやま
松岡古墳群
撮影日2003/11/15

1645年ごろから破壊が始まり、昭和8年までに変電所の造営で完全に削平された。
江戸時代の「越前名跡考」などの文献に記載がある。
1992年(平成4)発掘調査で、全長64mの帆立貝形前方後円墳と判明
葺石あり 埴輪あり 馬蹄形の周壕あり

泰遠寺山古墳の石棺

春日山古墳の石室の横に石棺だけが保存されている。
1914・15年の京福鉄道の採土工事時、
石棺と副葬品が調査されずに取り出された。


石棺は足羽山の笏谷石製の刳抜式舟形石棺
全長2.7m 棺身長2.3m・幅0.9mで排水溝がある。
棺蓋は破壊されている
鏡2・勾玉5・管玉8・棗玉2・トンボ玉2・丸玉11・小玉448などが出土。
5世紀中葉の築造と推定されている。

乃木山古墳
のぎさん
松岡古墳群
撮影日2003/11/15

全長30m以上で、形は不明 (たまたま帆立貝形に復元した)
3世紀中葉の古墳時代初期の築造と推定されている。

標高110mの二本松山丘陵の先端尾根上に立地。
大正時代にこの古墳の上に乃木大将の銅像が建立され「乃木さん山」と呼ばれていた。
埋葬施設は3ヶ所。
全国でも珍しい素環頭鉄剣、木製枕などが出土
3世紀半ば頃の発生期の古墳と考えられている。
この写真は工事現場の看板に使われていたものを引用させていただきました。

三峰山城跡古墳
みつみねやま
松岡古墳群
前方後方墳3基

三つの峰があるので三峰山という。

この三つの峰には前方後方墳が三つあったが、
 南北朝時代に山城が築かれたために古墳のほうは変形してしまっている。
案内板にも古墳の説明はない。

吉野八幡神社古墳
よしのはちまん
松岡古墳群
撮影日2003/11/15

昔からここは古墳と認識されていたが、その上に神社が建つ。

5世紀前葉の築造と推定されている。
 円墳と思われる

1990年(平成2)、社殿改築の際に調査。
現状で東西20m・南北15mで円墳と考えられている。
2段築成か?
埴輪が出土。
墳丘中心から東寄りに、粘土槨でおおわれた箱形木棺が見つかり、
鉄刀8・鉄鏃9、鉄鉾、ミニチュア農工具(鉄鍬3・鉄鎌3・刀子2・やりがんな3・鉄鑿2)が出土。
これは副葬品をおさめた棺で本当の棺は別に存在すると考えられている。
出土した埴輪から5世紀末の築造と推定されている。

 南春日山墳丘墓
  みなみかすがやま
 弥生時代の4基の墳墓がある。
 1号墓は四隅突出型墳丘墓(45×30m)で突出部を含めると50m程で弥生時代では北陸最大。
 石舟山古墳
  
いしふねや
 全長85m、5世紀中葉の前方後円墳
 埴輪はあるが葺き石は不明。舟形の石棺がある。
 埴輪や須恵器が出土。
 鳥越山古墳
  
とりごえやま
 全長54m、5世紀中葉の前方後円墳
 後円部中央に県内最大の舟形石棺があり、その横に横穴式石室がある。
 二本松山古墳
  にほんまつやま
 全長89mの5世紀後葉の前方後円墳
  2つの石棺を持ち、四獣鏡、鍍金冠、鍍銀冠、眉庇付冑など貴重な遺物が出土。
   後円部径50.5m・後円部高8.9m  前方部長38.5m・前方部幅26.0m・前方部高さ4.7m
   2段築成  
   埴輪あり(円筒埴輪や朝顔形埴輪) 墳丘裾部や段築間の平坦面で埴輪列
   舟形石棺2基
  5世紀末の築造と推定されている。
 永平寺町の九頭竜川を望む二本松山丘陵の山頂に位置、頂上には273.1mの三角点がある。
 江戸時代の享保年間(1716〜)の盗掘時に石棺の中から副葬品が持ち出されて売却されたことが記録に残っている。
 この石棺(第1号石棺)が明治13年(1880)に再発掘された時の略測図が残されている。
   舟形石棺で、縄掛け突起を除いた長さ287.7cm・幅115.5cmと考えられている。
   現在副葬品は勾玉1個が残るだけである。
 明治39年(1906)、陸軍測量部が山頂に三角点を設置した時、
   もう一つの石棺(第2号石棺)が発見され、調査された。
   舟形石棺で、縄掛け突起を除いた長さ192.4cm・幅76.4cm
   副葬品として、鏡1・鍍金冠1・鍍銀冠1・管玉4・鉄剣1・鉄刀3
    ・鹿角製刀装具13・責金具2が出土。
 平成14・15年度に測量調査・発掘調査、、全長89mの前方後円墳と確認された。
                      (あわら市郷土歴史資料館資料から・2015年)
 手繰ヶ城山古墳
  てぐりがじょう
  (国指定史跡)
 全長129mの4世紀中葉の前方後円墳
 南側に2つの方形の造り出しを持っている。
 埴輪はしっかりしたタガと黒斑を持つ。
 北陸第2の規模の古墳。
 川原石や、山石が葺いてあり、古墳の周りには3重の埴輪列が巡っていた。

     

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