北村さんちの遺跡めぐり
更新日2023/12/26

敦賀市   地図g  

金ケ崎城跡と天筒山
古墳見学

敦賀市金ケ崎町
撮影日2023/5/21

滋賀県に住む長男から、
「福井県敦賀市の金ケ崎城址で古墳が確認されたらしいよ」とメールが来て
インターネットで「越前・若狭の城と考古学-以敦賀市金ケ崎城跡の航空測量の意味するもの」を読む。

2018年1月6日の福井新聞に載った記事は
「2017年4月に敦賀市教育委員会が、ヘリコプターによるレーザー光線を使った測量で、
天筒山公園へ向かう山頂部手前の峰に前方後円墳が見つかった」というもの。

 レーザー光線による測量図  (福井新聞 平成30年1月6日記事から) 

 右上ので囲んだ部分が、確認された前方後円墳     

付近の地図g

 金ケ崎(天筒山)公園案内図一部拡大    (現地案内板から)

 古墳の位置は書かれていない。中央付近の女の子が歩いているあたりが古墳かな?

  

金ケ崎城址
金ケ崎古墳

敦賀市金ケ崎町
撮影日2023/5/21 9:4

駐車場そばには、「金ケ崎城跡・天筒山城跡碑」という大きな説明板がある。

 金ケ崎城跡・天筒山城跡
 金ケ崎城は敦賀湾に突き出た丘の上に築かれた中世の城
 現在は周囲が埋め立てられたが、北・西・南の三方を海に囲まれ、
  東に連接する天筒山城につづく尾根にも要害(城戸)を設けた難攻不落の城だった。
 ここで2度歴史を動かす合戦が行われた。
 ① 南北朝時代の金ケ崎城争奪戦
 ② 戦国時代「金ケ崎の退き口」と呼ばれる織田信長の撤退戦  ……

  説明板     右から左にお読みください!

  

 金ケ崎宮  金ケ崎城跡のふもとにある。
 後醍醐天皇第一皇子・尊良親王と
  後醍醐天皇皇太子の恒良親王を祭神として、明治2年に鎮座された。

   

摂社絹掛神社
 尊良親王御墓所見込地
 安政年間(江戸時代末期)、経塚が発見され、
  石室から銅製経筒、円鏡、椀(3点とも敦賀市文化財)が出土

 現在では、親王自刃の地として大切に保存されている。

   

「尊良親王御陵墓見込地」と刻まれた石碑

 月見御殿広場
 金ケ崎の最高地点(海抜86m)で月見崎といい、通称月見御殿と呼んでいて、
  南北朝時代の金ケ崎城の本丸跡といわれていて、
  戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。 (説明板から)

月見御殿

金ケ崎古戦場 石碑

月見御殿からの景色
右側の建物は火力発電所

月見御殿跡 
皇太子殿下臺臨之跡

月見御殿の手前に古墳がある。

 金ケ崎古墳   直径10mほどの円墳か 
  竪穴式石室がある。
  直刀、銅鏡が出土している。

 


三の木戸跡

南北朝時代(1336~1392)の、
 金ケ崎城の三の木戸の跡

地名は水の手といい、当時の用水場で
 付近から清水が湧き出ていたと
 伝えられている。



古墳かも

焼米出土地

戦国時代、金ケ崎城の兵糧庫があり、
 織田・朝倉の攻防戦で落城の際
 倉庫は焼け落ちその焼米が出土した
と伝えられている。

二の木戸跡

南北朝時代(1336~1392)の
 金ケ崎城の二の木戸跡

この付近で激戦があったといわれている
ここから東120mに一の木戸がある。

一の木戸跡

南北朝時代(1336~1392)の
 金ケ崎城の一の木戸跡
(最初の関門)

掘割は敵の侵入を妨害する役割を果たした。
戦国時代には朝倉市も利用した。

    

天筒山西1号墳

敦賀市曙町11-68
撮影日2023/5/21 10:12

一の木戸から東に上ったり下りたりして約20分で、「天筒山西1号墳」に着く。
この古墳が、レーザー光線を使った測量で確認された古墳だ。

 天筒山西1号墳は 墳長53mの前方後円墳
 敦賀市内で2番目の規模。
 前方の等高線が立て込んでいることから、海からの眺望を意識していると言える。

後円部側

後円部から前方部を見る

前方部

前方部から後円部を見る

前方部脇から後円部を見る

天筒山古墳群については、資料がなかなか見当たらないが
ネット検索で  2021/7/31の市民歴史講座  「敦賀の古墳時代に関する新知見
    ~沓見遺跡・手筒山古墳群などにおける最近の調査から

 というのが見つかったので引用させてもらった。
天筒山は手筒山ともいう。ネット検索で調べた資料は「手筒山古墳群」となっている

 天筒山古墳群について
 史跡金ケ崎城跡 地形図

   HP「史跡金ケ崎城跡保存活用計画」内の地形図を引用・加筆
 「天筒山西1号墳」が、レーザー光線による測量で、確認された古墳。
 左の月見御殿のそばにあるのは、「金ケ崎古墳」。
 この図の東(右)につづく天筒山の山頂近くには、天筒山1号墳・2号墳がある。、
 天筒山古墳群
 主な古墳として
  天筒山西1号墳(前方後円墳、墳長53m)
  天筒山1号墳(円墳、径50m以上)
  天筒山2号墳(方墳、一辺約33m)
         (ネット検索から) 

     

天筒山城跡
天筒山1号墳・2号墳

敦賀市泉
撮影日2023/5/21 10:45

天筒山西1号墳から東へ、山道や階段を登ったり降りたりして約30分。
天筒山の展望台に到着。

 見張台跡
 天筒山は、南北朝時代から戦国時代にかけて山城として利用されていた
 ここはその城郭の一部で、見張所跡と推定され
  自然の地形を利用して、人工的にも削平地をつく 敦賀全域に号令したと考えられている。
       (説明板から)

見張台跡は標高171m  この上に展望台  

展望台   カメラマンがいっぱい!

展望台からの景色 北西方向
 敦賀湾 奥は敦賀半島

展望台からの景色 南東方向
中池見湿地

見張台跡の手前(北側)に、天筒山1号墳(南側)・2号墳(北側)が並んでいる。

 天筒山1号墳 (天筒山古墳群)
  径50m以上の円墳
  2段築成 
  海からの眺望良好で恐らく中期前半の古墳。
  頂上に登る階段の脇にある。

南から見た墳丘

墳頂部

周溝跡 写真ではよくわからない

北から見た墳丘
 手筒山2号墳 (天筒山古墳群)
  一辺約33mの方墳
  2段築成 葺石がある。
  平野側からの眺望は悪い(1号墳の陰に隠れる)。
  敦賀市内2例目の埴輪(円筒埴輪)を持つ。

1号墳側(南)から見た墳丘

鉄塔が立つ

墳頂部

葺石?!

    

駐車したところまで引き返す。
帰り道はなんとなくわかっているので、気が楽。
焼米出土地あたりから金崎宮へ下りるジグザグの急な階段があるので、ひたすら降りる。
天筒山展望台から40分ほどかかった。

 下りた時に撮った案内板2枚

信長の戦いの案内板

駐車場そばの金前寺には、井戸があるらしい

    

気比神宮

敦賀市曙町11-68
撮影日2004/11/5

以前に越前二の宮である「剱神社」に行ったので、一の宮である「気比神宮」に行こうということでよった。

内鳥居
御祭神は
伊奢沙別命(いさざわけのみこと)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
譽田別命(皇統第十五代天皇)
玉妃命(たまひめのみこと)
武内宿禰命(たけのうちのすくね)
ちょうど結婚式が行なわれていた。
どこのどなたかわかりませんが写真を撮ってしまいました。

穴地蔵古墳
(県史跡)

敦賀市永大町
撮影日2004/11/5

敦賀市の西のほう、永大産業そばの貯木池の向かいの丘にある。

穴地蔵古墳への階段を登る。


近くに他に2基が存在していたが1基は消滅している。
2000年(平成12)、保存修理のための発掘調査。

穴地蔵全景


直径12m・高さ約3.5mの円墳
石室は南東に開口する。
7世紀前葉~中葉の築造




石室


花崗岩の平石積。
羨道は後代に改変
玄室は長さ3.7m・高さ2m。

石室内部

天井は2枚の石。
奥壁に石棚があり、上下2室に分けている。
石棚は高さ0.9m・奥行き1.9mで3つの石に分かれている。
元は一枚石ではないかと考えられている。

石棚を有する古墳は全国で100個ぐらいしかない。
福井県では敦賀市の鳩原2号墳・白塚古墳
        美浜町丹生の浄土寺2号墳
近県では、滋賀県マキノ町の斎頼塚古墳
石棚には後世、3つの地蔵尊が祀られていて、その中の1つには永正15年(1518)の銘がある。

向出山古墳群
むかいでやま
国指定史跡

敦賀市中
撮影日2004/11/5
2015/10/12

北陸トンネルを建設するときに、偶然温泉が発見され、
 北陸トンネル温泉と呼ばれているところに向出山古墳群がある。

向出山古墳群配置図

老人ホームの横の上り坂の途中に3号墳・4号墳があり、
    登り切ったところに大きな1号墳がある。

1号墳の南東部分は、国民宿舎「つるが荘」の建設で削られたが、
    残った部分は古墳公園として保存されている。

2号墳は、昭和58年に「7日間調査」の後、消滅した。

3号墳・4号墳は、墳裾ぎりぎりまで山が削られ、崖の上に、かろうじて残っている。
3号墳の石室をのぞくのは、かなり危険。
きちんと整備しないと、近いうちに崩れるかもしれない。

2004年の向出山古墳群 撮影日2004/11/5


1号墳全景
右奥に造出し部がある。
直径60m高さ9mの円墳
12×18mの四角い造出し部がついている。
二段築成で葺石(20~40cmの円石礫・川原石)がある。
大きさから考えると、今見えている部分は
二段築成の上段部分か?
5世紀初頭の築造。
墳頂に、並んで2つの埋葬施設(竪穴式石室)が発見され、
鉄地金銅装の眉庇付冑や頸甲が出土、市文化財になり、先ほどの「私立郷土博物館」に保存されている。
現在墳頂には、三角点の標識が建っているだけだ。
2号石室は追葬か?(葺石や1号石室は川原石が使われているが、2号石室は山石が使われている。)

古墳の中腹から見る造出部
帆立貝形前方後円墳とする説もあるが
あまりにも前方部が貧弱なので
やはり造出しのある円墳と考えるほうがぴったりくるかな。
消滅した2号墳
直径約16m・高さ約2mの円墳で葺石・埴輪があった。
埋葬施設は割竹形木棺(長さ約4m・幅約75cm)。
当初1号墳の陪墳かと思われていたが、1号墳より先に造られていたらしい。
4世紀後半の築造と考えられている。

3号墳全景
石室の天井部分が崩れそうなのか、墳頂上に板を並べてある。
右側に石室の開口部があり、その横は崖。
崖下には、住宅が建つ。
直径約15m・高さ約4mの横穴式石室を持つ円墳



3号墳石室入口

石室の全長約7.2m
玄室は長さ3.7m・幅2.0m・高さ2.7m。

昭和29年発掘調査。

3号墳石室内部


入口に蔓のある植物が垂れ下がっていて、不気味。
敦賀地域では最大規模の石室。

3号墳の横に4号墳がある。

4号墳墳頂部
これは
4号墳ではなかった・・・



3号墳・4号墳は6世紀後半から7世紀初頭の築造と考えられている。
向出山古墳群出土品リスト

1号墳 1号石室
倣製4神4獣鏡・不明銅鏡・滑石小玉39・ガラス小玉11・鉄鋤・砥石2・鉄刀多数・鉄剣多数・青銅鉸具・鉄鉸具・鉄鏃105・鉄鉾5・鉄刀子・鉄地金金銅装眉庇付冑2・鉄地金金銅装頸甲・鉄挂甲小札・須恵器・土師器ほか
2号石室
倣製4神4獣鏡・金銅三輪玉54・滑石小玉63・竹櫛・鉄衝付冑・鉄頸甲・鉄肩甲・鉄短甲・鉄鏃30・鉄刀多数・鉄剣多数・鉄鉾複数・鉄斧2・朱の固まりほか
2号墳 漆塗竹櫛43・滑石製小玉240・鉄剣2・鉄刀・やりがんな6・鉄斧2・鉄鏃10・砥石ほか
3号墳 金環・銀環・鉄刀・鉄鏃・馬具・須恵器など
4号墳 金環・管玉・鉄刀・鉄鏃・馬具・須恵器など

    

2015年の向出山古墳群 撮影日2015/10/12

向出山古墳群は2回目の訪問となるが、前回4号墳を見間違えていたので確認のため、再訪。

 向出山3号墳 
 直径15m・高さ4mの円墳
 横穴式石室がある。

説明版の後ろに3号墳墳丘

墳頂部 
天井石のなくなった所は板が置かれている。

墳頂からのぞき見る石室開口部

石室開口部

石室内部は、埋められている。

4号墳側から見る3号墳(奥のほう)

前回は、石室内部が見学できたのだが・・・。

 向出山4号墳
 直径約8m・高さ約2m横穴式石室を持つ円墳
 昭和29年発掘調査。

3号墳から見た4号墳の林

4号墳の案内板の後ろに石室が露出している

ぼろぼろになった石室

方向を変えて 石室を見る

説明版によると、、3号墳と4号墳の石室開口部の向きが反対になっているが、
4号墳の石室は、崩れすぎていてどこが開口部なのかよくわからない。

 向出山1号墳
 直径60m・高さ9mの円墳に、12×18mの四角い造出し部がついている。
 5世紀後半の築造と推定されている。

墳丘図 (説明版から)

出土品 (説明版から)

北から見た1号墳

  向こう側に造り出し部がある。

1号墳墳頂から造り出し部を見る
 
造り出し部から、墳頂部を見る
現在墳頂には、三角点の標識が建っている。

造り出し部下から、墳頂部を見上げる

墳頂部から敦賀湾を見る

  

 向出山古墳群データ
 向出山古墳群は、明神山古墳群とともに中郷古墳群と呼ばれている。
 敦賀平野の南東部の山麓に位置する。
 明神山古墳群は5基からなる古墳群で、
  明神山1号墳は、段築および葺石を備えている前方後方墳である。
   1号墳前方部東側には陪塚が築かれている。
 向出山古墳群は現存3基からなる古墳群(1基は消滅)
 向出山1号墳からは、
  仿製四神四獣鏡・鉄地金銅装眉庇付冑・鉄地金銅装頸甲・鉄剣・鉄刀など多数の副葬品が出土している。
 中郷古墳群は、5世紀~6世紀の築造と推定されている。  (HP福井の文化財から)

向出山古墳群配置図 (3号墳前の説明版より)

老人ホームの横の上り坂の途中に3号墳・4号墳があり、
 登り切ったところに大きな1号墳がある。

1号墳の南東部分は、
 国民宿舎「つるが荘」の建設で削られたが、
 残った部分は古墳公園として保存されている。

2号墳は、昭和58年に「7日間調査」の後、消滅した。

3号墳・4号墳は、墳裾ぎりぎりまで山が削られ、
 崖の上に、かろうじて残っている。
 1号墳  直径60m・高さ9mの円墳に、12×18mの四角い造出し部がついている
 二段築成 葺石(20~40cmの円石礫・川原石)がある。
 墳頂に、並んで2つの埋葬施設(竪穴式石室)が発見され、出土品が素晴らしかった。
 出土品は市文化財になり、「私立郷土博物館」に保存されている。
 現在墳頂には、三角点の標識が建っている。
 2号石室は追葬か?
   (葺石や1号石室は川原石が使われているが、2号石室は山石が使われている。
 5世紀後半の築造と推定されている。。
 出土品は
  1号石室から
   倣製4神4獣鏡・不明銅鏡・滑石小玉39・ガラス小玉11・鉄鋤・砥石2・鉄刀多数・鉄剣多数
   ・青銅鉸具・鉄鉸具・鉄鏃105・鉄鉾5・鉄刀子・鉄地金金銅装眉庇付冑2・鉄地金金銅装頸甲
   ・鉄挂甲小札・須恵器・土師器ほか
 2号石室から
  仿製4神4獣鏡・金銅三輪玉54・滑石小玉63・竹櫛・鉄衝付冑・鉄頸甲・鉄肩甲・鉄短甲
  ・鉄鏃30・鉄刀多数・鉄剣多数・鉄鉾複数・鉄斧2・朱の固まりほか
 2号墳  消滅している
 直径約16m・高さ約2mの円墳  葺石あり 埴輪あり
 埋葬施設は割竹形木棺(長さ約4m・幅約75cm)。
 出土品は 漆塗竹櫛43・滑石製小玉240・鉄剣2・鉄刀・?6・鉄斧2・鉄鏃10・砥石ほか
 5世紀後半の築造と推定されている。
 当初1号墳の陪墳かと思われていたが、1号墳より先に造られていたらしい。
 3号墳  直径15m・高さ4mの円墳
 横穴式石室がある。
  石室の全長7.2m 玄室は長さ3.7m・幅2.0m・高さ2.7m。
 敦賀地域では最大規模の石室。
  出土品は金環・銀環・鉄刀・鉄鏃・馬具・須恵器など
 6世紀の築造と推定されている。
 昭和29年発掘調査。
 4号墳  直径8m・高さ2mの円墳
 横穴式石室がある。
  出土品は金環・管玉・鉄刀・鉄鏃・馬具・須恵器など
 6世紀の築造と推定されている。。
 昭和29年発掘調査。

        

八幡神社
私立敦賀郷土博物館

敦賀市(住所不明)
撮影日2005/11/5

秀吉の時代に敦賀城の城主だった大谷吉継ゆかりの神社。
大谷吉継は本殿の欄間飾りや鳥居、灯篭などを寄進した。



八幡神社本殿


この左横に私立郷土博物館がある。


私立敦賀郷土博物館 正面
入場料200円となっていたが、
  奥さんが「忙しくて説明できないからいりません。」と言われたので、
  好意に甘え無料で拝見させてもらった。
中へ入ると、整理ができてないとはいうものの、
  いろんなジャンルの、そしていろいろな時代のものが、
よく集めたなと感心するほど多量に展示されていた。
向出山古墳群から出土した2つの冑・鉄刀多数・鉄剣多数などがそのまま展示されており、感動した。
写真に撮りたいくらいだったが、我慢した。
見る価値はあった。
帰り際に神社の奥様に「貴重なものを見せて頂いてどうもありがとうございました。」
と挨拶したら、説明できないことをとても恐縮していらした。

「私立」というのはどういう意味なのか?
多分、神主さんの(先代か先々代の人だと思うが)趣味で集めたものを展示してあるのだろうと思う。
でも本当に素晴らしいものがいろいろあったのです。

白塚古墳
(県史跡)

敦賀市縄間
撮影日2015/10/12

HP「古墳とかアレ」さんのナビの通りに行ったら、迷うことなく着いた。
墳丘はどうなっているのかはよく分からないが、横穴式石室が露出している。

 白塚古墳は、円墳と考えられている。
 横穴式石室は、全長5mほどで、立派な石棚がある。

白塚古墳」と書かれた標柱
その後ろに横穴式石室がある。

横穴式石室

石室内部

奥壁部分  りっぱな石棚

石棚の手前の床には、
大きな石が2個おかれている。

石室内部から外を見る

白塚古墳の東隣りには、石材が散乱しているので、もう一つ古墳があったのではないか?


白塚古墳の隣りの石材 その1

天井石か?

白塚の隣りの石材その2

白塚の隣りの石材その3

石棚のある古墳は、
 福井県では敦賀市の穴地蔵古墳・鳩原2号墳・白塚古墳、美浜町丹生の浄土寺2号墳があるが、
これで、穴地蔵古墳と白塚古墳を見学したこととなった。

敦賀市の古墳・場所不明のページ

調べたことだけでも記録しておきます。

立洞2号墳
たてがほら

敦賀市井川75号立洞

立洞古墳群は4基からなる。
そのうちの2号墳が、昭和51年、北陸自動車道建設に伴い発掘調査され、一部を除いて復元され県史跡となった。
(4分の1が削平された。)

立洞2号墳は、前方部が北方にある帆立貝形古墳
全長24m、後円部径22.4m・高さ4.6m、前方部長さ1.6m・幅7m。
2段築成・葺石あり。

埋葬施設は、割竹形木棺1基(長さ6,2m・幅0.68~0.79m)で、盛土作業中に安置したので墓坑はない。
棺内外に粘土や朱が確認された。
棺内から石釧3・素文鏡1・黒漆塗り竹櫛2・管玉6・ガラス玉25・鉄剣1・鉄斧1が出土。
石釧があったことで、畿内政権との関連をうかがわせる古墳だ。
4世紀末から5世紀初頭の築造と考えられている。

2007年5月3日、敦賀の高速道路そばにあるはずの井川地区の立洞2号墳をもう一度探してみる。
 井川の高速道路を挟んで東にある谷口地区に行って探す。
 たまたまその日は井川の皇太神社の祭りで、谷口地区の旦那衆も神社に行くらしく、40代から70代くらいの男性が4、5人集まっている。
 その方々に聞いたけれど、はっきりしたことはわからなかい。
 色々聞いた結果、立洞2号墳は井川と谷口の間の高速道路脇東側(谷口側)の、高くなったところにあると推定した。
 発掘調査後、整備されたというが、高速道路ができる前のこと(昭和51年・1976年)で、現在は雑草と雑木に埋もれているということらしい。

小谷ヶ洞古墳群
こたにがほら
(中郷古墳群)

敦賀市吉河

2基からなる。
福井原子力センター建設により、緊急発掘調査され、調査後消滅した。

1号墳(標高50mに位置)
一辺20mの方墳。埴輪・葺き石はない。付近から土師器破片が出土。
2つの埋葬施設が確認された。
第1主体部は、割竹形木棺の直葬で、鉄剣・やりがんな・鉄剣などが出土した。
第2主体部は、埋葬方法は不明だが、鉄剣・やりがんなが出土した。
2号墳(標高64mに位置。1号墳より南)
直径25m・高さ4mの円墳。埴輪はないが、葺き石はあったかもしれない。
埋葬施設は、割竹形木棺で、棺内から、乳文鏡・管玉・刀子などが出土した。
石の間からは、土師器片が出土した。(供献土器か)

古墳時代前期・4世紀後半の築造と考えられている。

明神山古墳群
(中郷古墳群)

敦賀市坂下

詳しいデータはない。
明神山1号墳は、全長47m・高さ5.5mの前方後円墳。陪塚・葺石を持つ
この1号墳と円墳の3号墳、前方後円墳の9号墳が、各時期の首長墓と考えられている。

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