福井市   地図g

 花野谷古墳群
消滅した古墳
福井市花野谷町・宮地町
撮影日2015/2/22・2015/4/9

福井市文化財保護センターに花野谷古墳群の出土品が展示されている。



発掘時の花野谷1号墳

 (福井市文化財保護センター・平成26年度企画展パンフから)


この古墳群は消滅したと書かれているが、現在、現地はどのような状態なのか?



消滅した花野谷1〜3号墳があったところかなぁ・・・・・・

土取りで消滅だそうだ・・・・

 花野谷古墳群は 福井市東部の丘陵上にある。
  松岡古墳群へ向う峠の入口につくられた古墳
  土砂採取に伴い、1〜3号墳が、平成12(2000)年度に調査後、消滅。
 1号墳は、造出をもつ直径20mの円墳 高さ2.5m
  造出は長さ5.3m・幅10m
  墳丘上に割竹形木棺と箱形木棺の2基が確認されている。
  割竹形木棺の痕跡は長さ3.5m・幅1m
  鏡2面(三角縁神獣鏡・連孤文銘帯鏡)をはじめ、勾玉や管玉、ガラス玉
  漆製品・鉄剣・鉄鏃・刀子が出土
  箱形木棺は割竹形木棺の一部を切っていて、長さ3.6m・幅0.8m
  鉄鏃・袋状鉄斧・ヤリガンナが出土
  3世紀末〜4世紀の築造と推定されている
 2号墳は、1号墳の隣りにつくられた全長19mの小さな前方後円墳
   
 後円部径14m・前方部幅7m
  割竹形木棺は、長さ3.4m・幅1.1mで赤色顔料が塗られている。
  葺石なし 埴輪なし
  後円部に割竹形木棺直葬
  鏡(乳文鏡、内行花文鏡)や勾玉、管玉、竪櫛などの装身具、
   鉄製刀剣や槍、鉾、弓といった武器類
   鋤先や鉄斧、鎌、刀子などの農工具類、針状鉄製品がある。
  5世紀中ごろの築造と推定されている。
 3号墳は、1・2号墳の隣の尾根につくられた  12×13mの円墳
  棺の跡から、鉄製の刀や鏃・斧・ヤリガンナなどの武具や農工具が出土
  1・2号墳に比べると、出土品の種類や数量が少ない。
  5世紀後半の築造と推定されている。
          (福井市文化財保護センター企画展パンフ・展示・古墳辞典から)
 文化財保護センター展示の様子

1号墳出土品
斧     剣
鏃     槍

 

1号墳出土の鏡2面
福井市立郷土歴史博物館で
出展されているので写真の展示のみ。
 

1号墳出土の玉類
 

1号墳出土
甕   壺
 器台
 

2号墳出土の壺
  

2号墳出土の 勾玉・管玉  鏡2面
  

2号墳出土の壺   3号墳出土のハソウ
        3号墳出土の杯身

 

2号墳出土の滑石製の臼玉
 なんと17977個が出土

ほかに水晶製勾玉1・瑪瑙製勾玉4 
  ・緑色凝灰岩製管玉4が出土

消滅してしまったのが、惜しい古墳群だ!

 安保山古墳群
アボヤマコフングン
消滅した古墳
福井市安保町
撮影日2015/2/22・2015/4/9

福井市文化財保護センター・平成26年度企画展パンフに、安保山古墳群の発掘時の写真が掲載されている。


発掘時の安保山古墳群

手前から 1号墳・2号墳・3号墳
右奥  4・5号墳


(福井市文化財保護センター・平成26年度企画展パンフから)

現在足羽高校があるところには、安保山古墳群があった。

安保山古墳のあった丘陵

削平されて
現在は足羽高校の敷地となっている。

 安保山古墳群配置イメージ図

安保山古墳群
1975(昭和50)年に発掘調査。
前方後円墳2基・前方後方墳1基
・円墳2基
  の計5基が確認されている


 (福井市史では5基となっているが、
福井市文化財保護センターの資料では
4基となっている?)

(参考・福井市史)

 1号墳は 全長31.8mの前方後円墳
   後円部径18.3m・同高さ2.8m 前方部幅9.2m・高さ0.7m
  葺石なし 埴輪なし
  埋葬施設は、粘土槨に刳抜式割竹木棺
  盗掘されていたが、壺形土器片が出土
  4世紀後半の築造と推定されている。

 2号墳は 全長34.2mの前方後円墳
   後円部径21m・高さ2.6m 前方部幅14.4m・高さ1.2m
  葺石なし 埴輪なし
  盗掘されていたが、墓壙に箱形木棺があったと考えられている。
  鉄剣や朱が出土している。
  4世紀後半の築造と推定されている。
 2号墳を取り囲むように、溝で区画された方形遺構が6ヶ所確認されていて、
  溝から土器片が出土している。

 3号墳は 13×11.6mの円墳 
  葺石がある
  盗掘されていたが、墓壙が確認されている(箱形木棺か?)
  墳丘から土器片が採集されている
  2号墳の陪塚か

 4号墳は 全長23.5mの不整形の前方後方墳
  土壙がある

 5号墳は 径12mの円墳
  盗掘のため埋葬部は明らかでない
  土器片が出土。
  4号墳と5号墳は弥生時代後期の築造と推定されている。

 4号墳と5号墳の間に、5×5.5mの区画の竪穴式住居跡がある
  土器・鍍石・河原石・山石などが確認されていて、
  葬送儀礼用のもがり屋ではないかといわれている。

   

 鼓山古墳群
消滅した古墳
福井市直木町
撮影日2015/4/9

安保山古墳群の南約1km、
福井市の南端にある通称鼓山といわれる標高30mの独立丘陵上にも古墳があるという。
地図で調べると、鼓山は残っているようだ。
南のふもとに神社があるのでそこから山に上ってみるが、・・・・・実は現在の鼓山は南半分しか残っていない。
鼓山古墳群は、消滅した北半分の頂上にあった!!!
ひょうたん形の鼓山は北半分が削られて、現在住宅地となっている。
当然古墳も消滅・・・・・



鼓山の
南側のふもとにある八幡神社


しだれ桜がきれい!


   

 鼓山古墳群
 鼓山古墳(1号墳)は 全長48mの前方後円墳
     後円部径28m・高さ4m 前方部幅13m
  1963(昭和38年発掘調査
  木棺直葬で長さ4m・幅70cmで朱層がよく遺存していた
  棺内から 鉄剣・ヤリガンナ・刀子・ゆぎ
  棺外から 土師器坩・鉄斧・刀子が出土
  5世紀後半の築造か?

 2号墳は、1号墳後円部の中心から東北30mにある 径12m・高さ2mの円墳
  木棺の前後に礫を用いたと考えられる内部主体で
  鏡・鉄剣が出土
  1号墳の陪塚か?

 ほかに1号墳墳頂西側の縁辺から壺棺1基が出土

   

 太田山古墳群・墳墓群 福井市帆谷町ほか
撮影日2015/4/9

福井市文化財保護センター・平成26年度企画展パンフに、太田山墳墓群の発掘時の写真が掲載されている。


発掘時の太田山墳墓群

手前から 奥へ
1号墓(方形台状墓)
2号墓(方形台状墓)
5号方形周溝墓
4号方形周候墓とつづく


(福井市文化財保護センター・平成26年度企画展パンフから)
   

太田山墳墓群イメージ図


左上の部分が
太田山墳墓群
だが
現在は削平されて、
住宅地となっている



は方形台状墓
は方形周溝墓


(参考・福井市史)
 太田山墳墓群の発掘調査区内からは
   2基の方形台状墓(1・2号墳 名称は報告書に従う)と
   7基の方形周溝墓と土を失った円墳1基が確認されている。
 その他に
 太田山A群には、前方後円墳2・方墳41・円墳8
 南西側の太田山B群は 方墳12・円墳5が確認されている。
 1号墳(方形台状墓)は、18.7×17.0m・高さ3.0m
  埋葬施設は 土壙に箱形木棺を埋葬したものと考えられている。
  壺形土器などが出土しているが、この土器の年代は弥生時代中期中葉と推定されている。

 2号墳(方形台状墓)は、23×17m・高さ3m
  埋葬施設は 土壙に木棺を粘土で覆ったものと考えられている。
  細形管玉501個が2群に分かれて出土 朱もほどこされていた

 方形周溝墓の7基
  一辺6〜20m・高さ1mほどのもので、
  6号方形周墓と7号方形周溝墓から土器棺が確認されている

 5号方形周溝墓の西南に、径9mの円形周溝墓が半分確認されているが、
  出土した土器から6世紀後半の円墳の可能性がある。


現在の太田山  北西側から見る

山の中にA群・B群が残っているのかなぁ・・・・



    

水切古墳群
みずきりこふん

福井市川西地区水切町
(撮影日2003/5/1
2007/4/26
2011/6/4)

福井市外から海岸に行く途中に川西という地区がある。
佐野温泉という小さな温泉があるところである。

川西中学校の西側に1・2号墳があり、
川西中学校の北250mにある稲荷神社の社殿の高まりの途中に3号墳がある。

2003年・2007年・2011年と訪れた。

水切1号墳(雄穴)  
説明板によれば・・・
 300年前(1686年)、宋右衛門さんが発掘し、勾玉・金色釧・皿・高杯などが出土した。
 南北径24m・東西径17mの楕円状。
 円墳と思われていたが、その後の調査で、
前方後円墳と判明した。
 大きさは明らかではない。
両袖式横穴式石室
 玄室長 東壁4.1m 西壁4.3m
  ・幅 奥壁1.6m 中央部1.7mの胴張り ・高さ2.1〜2.3m
 羨道長 東壁6.5m 西壁5.6m
  ・幅 開口部1.8m 中央部1.7m    ・ 高さ1.5〜1.8m
 玄門部高さ1.7m
発掘したときの遺物は砂子坂西徳寺に保管されている。
 金環2・勾玉5・管玉1・切子玉7・小玉4など
7世紀初頭の築造と推定されている。

1号墳墳丘 2003/5/1
   

水切1号墳墳丘 石室の反対側から (2007/4/26)
   

石室入口  (2007/4/26)
 

  羨道から玄室を見る  (2011/6/4)
 

奥壁には仏像が彫られている (2011/6/4)
 

石室内部から外を見る  (2011/6/4)
  

 水切2号墳(雌穴)   1号墳の南東約18mにある。
  南北径15.1m・東西径12.6m・高さ2.5mの円墳
  全長9m(残存6m)の片袖式横穴式石室を持つ。
  石室は東壁残存長5.3m・西壁長3.7m  玄室長 3.9m・奥壁幅1.4m・高さ2.2m

2号墳墳丘  (2003/5/1)
  

石室内部 (2011/6/4)

石室内部から外を見る (2011/6/4)
   
 水切3号墳      (撮影日2003/5/1)
 1・2号墳の北250mの水切の稲荷神社の参道の階段横に
   ポッカリと穴があいているのが、3号墳である。
 穴を覗くと立派な切石積みの横穴式石室がある。
 残存石室長2.8m・奥壁床幅1.1m・天井幅0.9m・高さ1.7m
 7世紀前半(終末期)の築造と推定されている。
 墳丘は確認できない。

墳形は不明だが、
古墳の上に神社を建てたのだろう。 (2003/5/1)

石室内部  (2003/5/1)

     

2003年の酒生古墳群
さこうこふん

福井市篠尾町
撮影日2003/10/25

2003年10月25日、一乗谷とその入口にある酒生古墳群に出発
まず一乗谷を見学してから酒生古墳群へ
足羽川が福井平野に注ぐ谷口の右岸一帯、荒木町から高尾町にかけての丘陵上や山麓部には
     総数320基余りからなる北陸最大の古墳群、酒生古墳群がある。
山の中はなかなか行けないので山麓部分にあると思われる古墳を探した。
まず
新溜古墳(篠尾町)を探したけれど、見つからない。
地元の人にきいてもわからない。
ようやく狐塚の碑をみつける、、、、が竹林にしか見えない。
赤塚の碑を見つける。赤塚の上には民家があるようだ。
そこで農作業をしている人に聞いてようやく車塚とその前の案内板にたどりつく。


車塚の前にある案内板

酒生古墳群のなかでも篠尾町にある古墳を簡単に説明してある。
これらの古墳は6世紀ごろ(古墳時代後期)の中小古墳と考えられる。

車塚

古墳の封土が取れ、石室が露出したもの。
ここに赤い椿が生えていて、その椿に白い花が咲いたら、
この石室を開けてもいいという言い伝えがある

(次の写真のオカマ古墳の地主のおじさんの話より)。
でも赤い椿が白い花をつけることがあるのだろうか!?

オカマ古墳

古墳の石室の内殻だけが残ったもの
奥壁の周りしか残っていない。
地主のおうちのお庭になっている。
手前の大きな石も石室の一部だろう。



オカマ古墳の奥壁部分拡大

天井石はかなり大きい重そうな石だ。
地主のおじさんの話
「福井大地震のときに石室が前のほうにかなり動いた。」
このあたりは昔、さこん(酒生)長者という大金持ちがいて、
とても栄えていて立派なお墓を作ったらしい。





赤塚全景


前方後円墳。大きな木がはえているあたり。一部は畑?



狐塚遠景

円墳。現状は竹林。


このあたりの古墳は地主さんが管理しているらしい。

新溜古墳は、昭和37年土取りで舟形石棺が露出し発見された。
その中から人骨5、6体分・勾玉・管玉などが出土した。
消滅?




酒生古墳群配置図



篠尾町には他に横山古墳群(支群)というのがあって、直径10m程の円墳が10基以上存在する。
隣の高尾町にも天神山古墳群(支群)と名づけられた古墳が幾つかあるらしいので、探してみたが、
   そのあたりは新興住宅地(ニューウッドタウン高尾)となっており見つからなかった。
消滅したと思われる。

2021年の酒生古墳群
さこうこふん

福井市篠尾町ほか
撮影日2021/3/27

2003年に見学に行っている。
墓地の横の横山支群が残っているのではないかともう一度見学に行く。

酒生古墳群 全体図
(福井市立郷土歴史博物館内展示から)

酒生古墳群は福井市篠尾町・成願寺町・高尾町にある
1980年の福井県遺跡地図には、総数335基と記載されていて、
 北陸最大の古墳群と確認されている。
尾根上にある成願寺山支群・八郎山支群・天神山支群
山麓や平野部に位置する高尾支群・横山支群・篠尾支群・行塚支群の7支群からなる。

前方後円墳は成願寺山支群の13号墳だけで、現状ではそれ以外に確認されていない。

酒生古墳群周辺の地図


酒生古墳群
 平野部にある古墳の配置図


2003年の酒生古墳群配置図をパワーアップ!
ネット検索、地理院地図などで、作図した。
あくまでもイメージ図です!

今回は
狐塚古墳・新溜古墳・おかま古墳・車塚古墳・赤塚古墳
青い点線で示した
 見学地A (横山支群の一部)
 見学地B (高尾支群の一部)
 見学地C (天神山支群の一部)
を見学した。

配置図内の数字は、酒生古墳群の通し番号ではないかと思う。

1962年に新溜古墳、1976〜79年には天神山支群の3〜7号墳が調査された。
ほかに横穴式石室がある古墳として、
 狐山古墳・車塚古墳・オカマ古墳があり、6世紀中葉〜7世紀の築造と推定されている。

酒生古墳群については、
 車塚古墳のそばに簡単な説明板があるが、ネットで検索しても詳しいことはよくわからない。
 古墳辞典に掲載されている内容を主に記す。

天神山7号墳
消滅
酒生古墳群天神山支群

天神山支群は、開発が進み、現在はほとんど住宅地になっている。
天神山支群の中心部には、天神山7号墳があった。

 天神山7号墳は  径52mの円墳 高さ7.5m
 葺石なし 段築なし
 円筒埴輪と形象埴輪が出土、
 墳丘南西の基底部からは土師器辺も出土。
  墳頂中央部に、割竹形木棺が納められた粘土槨が2基、確認された。
 第1埋葬施設は、長辺7m・幅3.6mの2段墓壙を持つ。
  棺内から珠文鏡1・金製垂飾付耳飾1対・勾玉3・平玉750・竪櫛45、
   横矧板革綴短甲1・竪矧板革綴衝角付冑1・肩甲1・頸甲1・草摺1、
   鉄刀2・鉄剣8・鉄鉾3・鉄鏃多数・鉄斧1・ピン状鉄器1、
   鋲留胡ロク1・弓3・革盾1が出土。
 やや東に位置する第2埋葬施設は、長辺7.2m・幅3.2mの墓壙がある。
  棺内から獣形鏡1・勾玉3・管玉46・竪櫛3、
  鉄刀17・鉄剣20・鉄鏃23・刀子5・ヤリガンナ1が出土した。
 5世紀中葉の築造と推定されている。
 1978・79年に発掘調査

 天神山7号墳出土の遺物   (福井市立郷土歴史博物館の展示から)

金製垂飾付耳飾1対
福井県では若狭の
向山1号墳・西塚古墳でも出土している。


甲冑


革盾と、盾復元絵図
   

鉄鏃

鋲留胡ロク
腰につける「矢を入れる袋」
「ロク」は
「草カンムリの下に禄」という字!

  

狐塚古墳 酒生古墳群横山支群

径40mを超えるほどの大きな円墳だが、詳細不明!


全景

近づくと 墳丘が見える

墳丘上

墳丘上から墳裾を見る

 

新溜古墳 酒生古墳群横山支群

径20mの円墳
昭和37年土取りで舟形石棺が露出し発見された。
その中から人骨5、6体分・銅鏡・勾玉・管玉・ガラス製小玉などが出土した。
6世紀前葉の築造と推定されている。

新溜古墳の石棺
(古墳辞典から)


刳り抜き式舟形石棺
  


北東から見た新溜古墳

近づいてみる
 実は高まりが二つあって、どちらが新溜古墳かはっきりしない…。


近くの池のほとりに古墳の案内板

「←車塚 赤塚↑」


  

赤塚古墳 酒生古墳群横山支群

篠尾町の真ん中の独立丘陵(?)の北端にある。
車塚古墳のそばの説明板には、赤塚古墳は前方後円墳とある。(?)
古墳のあたりに、草取りをしている2、3人の人がいるが、
 地元の人ではなくて、古墳のことは知らないそうだ。


真ん中の標柱には
「赤塚古墳」の「赤」だけが見える。

北に張り出した尾根先にあるらしい。
墳丘がどこからどこまでかは、よくわからない。


オカマ古墳の前の道路から見た赤塚古墳

前回来た時は、大きな木があったが、スッキリしている。

オカマ古墳 酒生古墳群横山支群

民家の奥にあり、お庭に取り込まれているが、横の道を通って見学できるようになっている。
案内板には「オカマ」とある。


民家の後ろにある。

庭石になっている

奥壁側から

開口部

前回来た時、いろいろ話してくれた地主のおじさんは、お元気だろうか…。
さこん(酒生)長者のお墓だという伝説があるそうだ。

車塚古墳 酒生古墳群横山支群

車塚古墳のそばに古墳群の説明板がある。
前回来た時と同じ説明板!農地の中に石室が露出している。


説明板

東から見る

西から見る

どっちが奥壁かわからないほど崩れている

赤い椿の花が咲いている。

恵松霊園高尾公園墓地の古墳群
(見学地Aの古墳)
酒生古墳群横山支群

恵松霊園高尾公園墓地の西側には、林が残されていて、古墳が10基以上残されている。
墓地になっているところにも多くの古墳があっただろうが、壊されてしまった…。
説明板はないので、詳細は不明。
便宜上、北から順に、番号をつけて紹介する。
中には、狐山古墳(ここでは仮10号墳)と名付けられた径20mほどの墳丘があり、横穴式石室が露出している


(仮)1号墳

(仮)1号墳 斜面の石材

(仮)2号墳

(仮)3号墳

(仮)4号墳

駐車場の横には2基の古墳が整備されているが、
説明板はなし。
右にある標柱の文字は消えている…。

左(仮)6号墳 右(仮)5号墳

(仮)5号墳

(仮)6号墳

(仮)6号墳石材

(仮)7号墳

(仮)8号墳

(仮)9号墳

(仮)10号墳は
「狐山古墳」と名付けられているらしい。

(仮)10号墳 石室開口部

(仮)11号墳

(仮)12号墳

(仮)13号墳

  

高尾支群の南端の古墳
(見学地Bの古墳)
酒生古墳群高尾支群

ニューウッドタウン高尾の北東端に墓地があり、墳丘が残っているようだ。
詳細は不明。


北から

東から

南東から

   

天神山支群の南端の古墳
(見学地Cの古墳)
酒生古墳群高尾支群

国道158号線沿いの南側の廃材置き場の奥に墳丘が残っているようなので、店の人に了解を得て見学。
廃材の中に古墳!
通し番号52・53・54.・55のあたりです。


その1  (54号墳か?)

その2  (55号墳か?)

その3(その2と同じか?)

     

篠尾廃寺
しのおはいじ
福井市篠尾町字当垣内
撮影日2003/10/25

酒生古墳群などの古墳築造が終わった直後の7世紀後半に旧古墳群の中央に仏教寺院が建立された。

篠尾廃寺塔跡

大きな石はかつて建立された五重塔の心礎の石。
長辺2.6m、短辺1.3m、厚さ1.3m。
昭和46年に発掘調査が行われたが、
 伽藍配置などは確認できなかった。
古墳から篠尾廃寺に至る人々は古代の豪族生江の臣と関係があるといわれ、
  この豪族が新しい文化である仏教を受容する中で、古墳に変わる寺院を建立した。

この町の人に古墳がないかとたずねたときに、この遺跡を教えてくれた。近くに住んでいても、興味のない人にはただの石かな。

 御茸山古墳群 福井市安波賀中島町ほか
撮影日2015/4/9

酒生古墳群の南、一乗谷朝倉遺跡に至る道の西側は通称御茸山といい、古墳群がある。
見学できるのか調べていたら、登った人のブログが見つかり、
 とりあえず、下見にと行ってみたところ、
 駐車予定の道の駅「一乗谷あさくら水の駅」に、御茸山古墳群などが書かれた周辺MAPが置いてあり、
 下見ではなく、見学の山登りとなってしまった。
道の駅に置いてあったMAPには、小さな字で古墳番号も書かれている。
最高所は標高245mある。

御茸山古墳群
一乗谷朝倉氏遺跡の西部山地、南北にのびる尾根上に存在する総数155基余からなる古墳群
県有林にある73基を県指定史跡としている。
古墳群は、丘陵先端部・山頂部・西麓部の3支群からなり、前方後円墳2基・前方後方墳1基のほか、円墳や方墳で構成されている。
北にある酒生古墳群(総数300基余)とあわせて、越前平野でも中核的な古墳群と考えられる。
発掘調査はしていないので、詳細は不明である。

御茸山古墳群位置図 (31号墳そばの案内板に加筆)   左が北となる

主な古墳は
31号墳 径30mの円墳
37号墳 径28mの円墳
41号墳 全長70mの前方後円墳
44号墳 全長43mの前方後方墳
62号墳 径42mの円墳
63号墳 径26mの円墳
66号墳 全長45mの前方後円墳

87号墳は 径56.2mの円墳
66号墳のすぐ南側にある68号墳の辺りが、標高245m、古墳群中最高所にあるようだ。

福井市史に御茸山古墳群の詳しい資料が掲載されているが、古墳番号の付け方が違うようだ。

 道の駅「一乗あさくら水の駅」に駐車。


一乗あさくら水の駅 三連水車

直径3.6〜4.4mの3つの水車が回ることで、
水の駅内のビオトープや水路に水を供給している。



 すぐ南側にある「六地蔵登り口」から山に入り、約15分で、31号墳そばの休憩所に到着。
 30号墳がすこし削られて、展望休憩所になっていて、説明板と配置図板がある。

南から見た30号墳
右側に31号墳がある。

31号墳
31号墳は 径30mの円墳
 そこからは古墳を見学しながら、68号墳まで、ほとんど登りだ。
 37号墳  径28mの円墳


37号墳は遊歩道から一段上にある。

藪のため、遊歩道から墳丘は見えない。
標柱がかろうじて見える。

 41号墳  全長70mの前方後円墳
  後円部径34.2m・同高さ5m 前方部長33.8m・同幅32.2m・同高さ4.3m くびれ部幅19m

41号墳の 前方部脇より後円部を見る
くびれ部がくっきり!
 

41号墳の 後円部脇より前方部を見る
左の写真の左奥が、この写真の左前となる。
 

41号墳の 後円部側   奥に前方部
 

41号墳の後円部 左手前は42号墳(円墳)
   

42号墳 (円墳)

中央 42号墳 (円墳)
左手前は43号墳 (円墳)

44号墳そばの展望休憩所から東を見る
足羽川が流れている

44号墳そばの展望休憩所から西を見る
田園地帯だ
 44号墳 全長43mの前方後方墳
   後方部長さ29m・同幅29m・同高さ6.5m 前方部長さ14m・同幅17m・・同高さ3m

44号墳の 後方部から前方部を見る

44号墳の 前方部から後方部を見る

44号墳の 前方部先端 

44号墳の 前方部を見上げる 右に後方部 

45号墳 (円墳)

46号墳 (円墳)

47号墳 (円墳)

48号墳 (円墳)
 さらに南下・・・・・・。

中央が62号墳   (径42m の円墳)
手前右は61号墳 (22×10mの方墳

63号墳  (径26mの円墳)
 66号墳  全長45mの前方後円墳  通称鉢伏山古墳
  後円部径25m・同高さ3.3m 前方部長さ20m・同幅17.3m・同高さ5.5m くびれ部幅17.3m

66号墳の 前方部脇から後円部を見る

66号墳の 後円部から前方部を見る

66号墳の 前方部から後円部を見る
 

66号墳 右奥が後円部
 

67号墳
66号墳の前方部の先に2基あって、
遊歩道の奥にあるのが
この67号墳

 8.8×8.6mの方墳

操作の失敗で、
 写真に日付が刷り込まれてしまった…。

68号墳
66号墳の前方部の先に2基あって、
遊歩道側にあるのがこの68号墳

径17.7m・高さ3.1mの円墳

西の87号墳の方に行く道と、
 春日神社登り口に下りる道の分岐点そばにある。
古墳群中最高所にある古墳のようだ。

68号墳から引き返す。
87号墳まで行きたかったが、時間切れ・・・・・

六地蔵登り口から登り始めたのが、午後2時20分ごろ
31号墳の説明板で、午後2時40分  
44号墳で、午後3時10分
最後の68号墳で、午後4時7分
道の駅「一乗谷あさくら水の駅」に戻ったのが、午後4時40分
大急ぎで見学しても、2時間20分かかってしまった・・・・・・

一乗谷朝倉氏遺跡
いちじょうだにあさくらし

福井市安波賀町・城戸の内町他
撮影日2003/10/25

一乗谷を初めて見学に来たときは、戦国時代の町がそのまま忘れ去られて埋もれていることに、すごく感動してしまった。
たかが50年ほどたてば、全てが草木に覆われてしまうことに、「無常」をみた気がした。

朝倉氏の祖先は、兵庫県養父郡の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国した。
朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して、越前を平定した。
以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景5代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、こ
の間、京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都ともいわれた。
義景は、足利義昭を南陽寺に迎え、観桜の宴を催した。
しかし、天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き討ちにあい灰燼に帰した。

一乗谷は戦国時代1世紀の歴史だけがそっくり埋もれて残された貴重な遺跡で、
昭和42年から発掘調査がすすめられ、昭和46年には一乗谷を含めた278haが国の特別史跡に、
平成3年にはそのうち朝倉氏4庭園が特別名勝にも指定された。


5代当主朝倉義景の館跡

遺跡の中心的存在で、東西南北それぞれ80mあり、
東は山に接し、西、南、北の三方は高さ4mほどの土塁で囲まれ、
 外側には堀が廻らされている。
整然とした礎石が並び、
 常御殿や主殿など十数棟の建物跡が確認できる。


唐門

5代当主朝倉義景の菩提を弔うために
 その館跡に設けられた寺・松雲院の正門。
向唐門形式で、江戸時代前期の建物である。
この位置は館の正門にあたる。



5代当主朝倉義景の墓

松雲院建立の頃造られたと思われる石造りの墓で、
 館の東南隅にある。





湯殿跡庭園


朝倉義景の館跡を見下ろす山腹にある。
どの石も強い表情を持ち、迫力がある。
鶴岩亀岩を思わせる中嶋や出島があり、
 水路が山際に沿って南から北に走り滝口に注ぐ。
(と思われる。今は水が枯れている。)
一乗谷で最も古い庭園とされている。




復原町並


ここは入場料が必要(大人210円)
武家屋敷や庶民の町屋が形成されていた様子が
 リアルに再現されている。


染物屋の再現住居


発掘された建物礎石をそのまま使い、
柱や壁・建具なども出土した造物に基づいて復原された。
朝倉氏遺跡を全て散策するには一日でも足りないかもしれない。

南陽寺跡庭園 朝倉貞景が娘のために再考した寺で館の東北200m高台の景勝地にあり、朝倉の代々の女が尼僧として居住した。
石組は京都金閣寺庭園を燃したものといわれ、将軍足利利義を招いて観桜の酒宴をしたところ。
諏訪館跡庭園 館跡の南約400mにあり、義景の愛妻少将の館跡に設けられた上下2段の構成を持つ、この谷で最も大きく豪華な庭園。
中の御殿跡 湯殿跡から空掘を隔てた南の台地にある。義景の母高徳院の居館といわれる。
上・下城戸 一乗の谷の最も狭くなっている地点2ヶ所をえらんで土塁を築き城門とした。
上・下の城戸間は約1.7kmある。
一乗城山 遺跡の東部にある海抜436mの山に、山城が築かれた。
大きな礎石などが尾根上500mの範囲で残っている。

一乗谷川上流には、佐々木小次郎が「つばめ返し」を編み出したという一乗滝もある。
(小次郎の里ファミリーパークとして整備されている。)

小羽山30号墓
オバヤマ

福井市(旧清水町)小羽小羽山
撮影日2005/6/19

福井市役所清水支所の横の山すそに今井神社がある。その横の急坂を登ったところにある。
今井神社のすぐ後ろの山。

小羽山30号墓全景

長さ27m・高さ2.7mの四隅突出型墳丘墓
突出部を加えた大きさは28×33mになる。
墳頂部から
 カラス管玉1・朱を塗った石杵1や高坏などの
 多量の土器が出土。



突出部分の先端に立つ私
中心埋葬は、
 長さ5.3mの墓坑に、
 長側板の長さ3.7mの組み合わせの箱型木棺が
 安置されていた。
副葬品は
 碧玉製管玉103・ガラス管玉10・ガラス勾玉1・鉄製短剣1
 が出土。
墳丘裾テラス面に幼児埋葬の土壙墓を2基検出
そばで見ると突出部がはっきりわかるが、写真だとよくわからないかな。

発掘当時の様子(案内板より)

造営時期は土器から弥生時代後期中頃の2世紀初頭と考えられている。
北陸地方で最も古い四隅突出型墳丘墓。


小羽山30号墓実測図

小羽山には数十基の墳丘墓や古墳が確認されている。
1990〜94年の発掘調査で、墳丘墓は38基確認。
そのうち8基が四隅突出型墳丘墓。

30号墓に隣接した33号墓は、
 四隅突出型墳丘墓で、
 埋葬施設は箱形木棺で、
 大きさから幼児埋葬と推定されている。
小羽山古墳群12号墳は 前方後円墳(全長47m)で、 鏡1・ガラス小玉34が出土。
11号墳は前方後円墳(全長32.5m)で、どちらも4世紀の築造と推定されている。
古墳群は6世紀まで継続してつくられている。

福井市・坂井市・あわら市の地図g

 清水郷土資料館 福井市風巻町
(旧清水町)
撮影日2017/6/3

旧清水町の清水郷土資料館。
きららパークのきらら館の南に隣接している建物は、1階が公民館、2階が図書館、3階が郷土資料館となる。
図書館の受付で申し込むと、郷土資料館が見学できる。


清水郷土資料館 館内の様子     
  中央に在田2号墳石室復元展示

縄文土器の展示

小羽山古墳群出土品

小羽山12号墳出土ガラス玉
 塚の越古墳
  風巻の字塚の越にあったが、 大正9年(1920)土取りで破壊された。
  小型の墳丘があった。
  朱・素環頭太刀1口・細身管玉3個が出土して、東京国立博物館に所蔵されている。
  素環頭太刀は4世紀の古墳に副葬されていて、福井県では原目山2号丘に出土している。


塚の越古墳出土の太刀・管玉
        (館内展示写真から)

東京帝室博物館への寄贈証書
         (館内展示から)
出土地を間違って「森ノ越」としている。

福井市 旧清水町の古墳群 (郷土資料館展示から作成)

旧清水町は、日野川の左岸丹生山地の東に位置していて、
約200基の古墳が確認されている。



6基の前方後円墳、4基の前方後方墳は、
  いずれも4〜5世紀の築造と推定されている。



清水郷土資料館の目玉は、「在田2号墳石室」の復元展示だが、本物を見学したので、そこで紹介する。

 在田古墳群
アイダコフングン
福井市在田町
撮影日2017/6/3

清水郷土資料館に行って、見学できると知り、在田1・2号墳に行く。

清水郷土資料館から南約2.5kmの在田町の山裾に「熊野神社」「浄宗寺」「法満寺」「明厳寺」が並んでいる。
一番南にある明厳寺の裏山に在田1・2号墳がある。

在田古墳群配置図  (:現地説明板から)

1号墳 径15mの円墳 横穴式石室 古墳時代後期後半
(6世紀末〜7世紀前半)
2号墳 径10mの円墳 横穴式石室
3号墳 径13mの円墳 
4号墳 円墳?   横穴式石室
5号墳 一辺10m前後の方墳 古墳時代前期(3世紀)

1・2号墳が市指定史跡となっている。
明厳寺の裏山にある1号墳の下で、草刈りをしていた二人の女性に、駐車のお願いをして、場所をお聞きして見学。

明厳寺の鐘つき堂 右が本堂

その背後に説明板が小さく見えている。


説明板の後ろをあがると1号墳。

 在田1号墳   径15mの円墳  横穴式石室がある。

しっかりした墳丘がある。

墳頂

右側に石室石材露出

石材 石室は埋め戻されているようだ。

清水郷土資料館に1号墳石室の写真があったが、かなり崩壊しているようだった。

1号墳を下り、墓地の奥から東の尾根先に行くと、2号墳がある。

2号墳は山の上の木が繁っているあたりにある。

  本堂後ろの墓地から見る

この写真でいうと、
   左から回り込むように2号墳に登る
2号墳は石室が露出しているが、草だらけなので、除草をして撮影。

 在田2号墳  径10mの円墳 横穴式石室がある。
 昭和55年に発掘調査されている。
 石室は 玄室幅1.7m・長さ3.4m・高さ1.5m  羨道幅0.9m・長さ1.5m・高さ1.0m
 天井部は壊されていた。
 棺は腐朽してなくなっていたが、副葬品として、
   鉄器(直刀・刀子・鏃)、装身具(管玉)、紡錘車と土師器、
       須恵器(高杯・台付壺・小壺・提瓶・杯)が出土した。
 6世紀後半の築造と推定されている。
 3人ほどが埋葬されていたと考えられている。    (資料館内展示・説明板から)

南から見た墳丘

墳丘上から見た石室

石室入口から奥を見る

奥壁部分 

玄室から玄門を見る

玄門の樒石

清水郷土資料館に在田2号墳石室が、復元展示されている。



在田2号墳の復元石室
  玄室入口から奥壁を見る

      (清水郷土資料館展示から)



遺物が出土した時の様子を表している。

石室入口側

石室奥壁側

見られると思わなかった石室が見学できた。

御城山古墳
(後山古墳ともいう)

県史跡

清水町小羽の後山
撮影日2005/6/19

民家の後ろにお城山古墳の案内板と階段がある。

御城山古墳登り口

立派な階段と案内板があるが、
  その向こうは雑草をかき分けて、かなり急な坂を登ることになる。
前方部を西に向けている前方後円墳
全長44m、後円部径27m・高さ4m
くびれ部幅14m・高さ1.5m
前方部幅21m・高さ3m。
葺き石や埴輪は確認されていない。
5世紀初頭から前葉ころの造営と考えられている。

雑草と木立の中のお城山古墳
平安時代末に木曾義仲の家臣、今井兼平
    後山に山城を築城したという伝承がある。
確かに御城山古墳の墳頂部に山城の跡が確認されているが、
   これは戦国期のものと考えられている。
でも、今井城跡といわれている。

 今井兼平いまい かねひら) 仁平2年(1152年) - 元暦元年1月20日(1184年3月4日
  平安時代末期の武将。通称・四郎。よって今井四郎兼平ともいう。
  父は中原兼遠、兄弟に樋口兼光、巴御前がいる。義仲四天王の一人。
  木曽義仲とは乳兄弟でもあり、最後まで義仲と共に戦い、
    『平家物語』の「木曽殿最期」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。

  伝承墓所:長野市川中島に兼平塚。また、滋賀県大津市晴嵐にも墓所がある。 
  奉斎神社:長野市川中島鎮座の今井神社や松本市今井鎮座の今井神社の主祭神として祀る。
  今井神社は、ここ清水町小羽の小羽山30号墓のふもとにもある。

 

周辺の地図g

名勝 養浩館庭園 福井市宝永3丁目
撮影日2021/2/28

残念ながら、屋敷の建物は修理中で、お庭しか見学できなかったので、クーポン券は使わず無料で見学…。

案内図
(パンフレットから)

 

 養浩館庭園は、かつての福井藩主松平家の別邸で、江戸時代初期から中期につくられた。
 成立時期については詳らかでない点が多いが、3代忠昌(タダマサ)時代(1623-1645)に藩邸となり、
 城下を流れる飲料用の水路である芝原上水(シバハラジョウスイ)を
  引き込んで御泉水屋敷となったと考えられている。
 池を中心に、数寄屋造りの屋敷をそなえる回遊式林泉庭園となっている。
 福井城の本丸から北東約400mの位置にあり、福井城の外堀の土居に接している。
 「養浩館」の名は明治17年(1884)、松平春嶽によってつけられた。
 昭和20年(1945)の福井空襲による建造物の焼失後も、庭園はよく現在に伝えられていたため、
  昭和57年(1982)には、「良く旧態を残した優秀な庭園である」として国の名勝に指定されている。

南から見た庭園池

七重層塔(西)から見た庭園

南西から見た景色
東尋坊の柱状節理の岩による石組みの先に
数寄屋造りの屋敷が水の上に浮かぶように見える

手前の石は、自然石の石橋
ビニールシートで半分隠れている…

昭和20年の福井空襲で、建造物や樹木は焼失したが、
 文政2年(1823)の「御泉水指図」をもとにして庭園の修復と建物の復元が進められて、
 平成5年に完成し公開されている。

福井城舎人門遺構
フクイジョウトネリモンイコウ
福井市宝永3丁目
撮影日2021/2/28

養浩館から福井市郷土歴史博物館へ行く途中にある。
江戸時代の福井城の門「舎人門(トネリモン)」やその一帯が復原されている。

 博物館の建設に先立って発掘調査を行ったところ、
  福井城の北の外堀や石垣、土居、門の礎石、砂利敷き道路や水路、武家屋敷の跡などが見つかった。
 そのときの調査成果や、福井城下の絵図などをもとに、
  江戸時代の終り頃(19世紀中頃)の様子が復原されて、博物館の館外展示物として公開されている。
 舎人門」は、福井城の外堀に設けられた門の一つ。「御泉水裏御門」などとも呼ばれていた。
 この福井城舎人門遺構の付近は福井城北側の外堀の一部にあたり、「舎人門」から伸びる石垣と土居が、
  発掘調査で確認された。

石垣と土居は、
 明治時代の地面から上の部分は削られていたので、
 復原にあたっては石を積みなおしたり(6段分 約2.7m)、
 土を盛りなおしたりした。
石垣の石材は、
 足羽山産出の笏谷石
で、
 復原には福井城跡の発掘調査で出土した
 石垣石を再利用している。

 

福井市立郷土歴史博物館 福井市宝永3丁目
撮影日2021/2/28

もとは足羽山にあったが、2004年に現在地に新築移転した。

福井市郷土歴史博物館 入館券

福井市全般の展示がある。


福井市春嶽公記念文庫をはじめとする
 福井藩、越前松平家に関する資料が充実しているという。
古墳を中心に紹介する。
撮影可の印があるものをフラッシュなしで撮影しているので、不鮮明なものも多い。


足羽山山頂古墳の石室再現

明治16年、
 足羽山の山頂から
 偶然笏谷石製の石棺が発見された。
石棺は割られ中身が持ち去られた状態だった。
 その後昭和26年の調査で、石棺が納められていた竪穴式石室の底部が未破壊のまま見つかり、
  その調査結果をもとに推定復元された。
 笏谷石を積み上げて壁をつくり、すきまを粘土で埋めて密封していた。

龍ヶ岡古墳出土品1
上段 やりがんな  
下段 貝釧 鏡 竪櫛 繊維片

龍ヶ岡古墳出土品2
上段 剣 刀子 鋤先 斧 鉄製品
下段 二神二獣鏡 頸飾 朱 石釧

玉類
上段左・水晶製切子玉(水切古墳出土)
上段右・めのう製勾玉(水切古墳出土)
下段左・緑色凝灰岩製管玉(天神山7号墳出土)
下段右・勾玉(天神山7号墳出土)

竪櫛
左 宝石山古墳出土
右 天神山7号墳出土


上段左から ほう製鏡(鼓山古墳出土)
 細線式獣形鏡(天神山7号墳出土)
 珠文鏡(天神山7号墳出土)
下段左から 三角縁神獣鏡レプリカ 
三角縁神獣鏡(花野谷1号墳出土)

鉄器
上段 又鍬(三尾野7号墳出土
下段左 刃先(中山2号墳出土) 
右 U字状刃先(天神山13号墳出土)

鉄器の展示
上段左 刀子(天神山9号墳出土)  
右 手斧(天神山7号墳出土)
下段左 やりがんな(中山2号墳出土)
 右 鑿 (天神山7号墳出土)

剣類の展示
左から (中山古墳群出土)
 (天神山7号墳出土)
 槍先(天神山7号墳出土) 
 鉾先(天神山7号墳出土) 

天神山支群出土の馬具 (仮)7号墳以外)
左側上 辻金具 左下は鏡板  銅鈴
   右 

耳環の展示 
左から天神山9号墳 
 天神山11号墳 天神山10号墳

全て紹介できたわけではない。
天神山7号墳の出土物については、酒生古墳群の中でも紹介している。
博物館スタンプラリーというのをしていて、子供たちが楽しめるように企画されている。

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