北村さんちの遺跡めぐり
中能登町(鹿島町) 地図g
小田中古墳群 |
中能登町(旧鹿島町)小田中
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水白鍋山古墳から南へ2kmの小田中の集落の中に、親王塚古墳と亀塚古墳が向かい合うようにある。
陵墓参考地となっていて中には入れない。
2002年の小田中古墳群 | 撮影日2002/5/25 |
小田中太郎の伝説というのがあるらしいのです。
能登国観音札所 第十番 小田中観音堂 親王塚古墳手前に「観音通」の道標があり、そこから1.3キロの山中に立派なお堂がある。 小田中太郎が観音の夢のお告げによって、唐土に渡り、苦しんでいた姫を救って王となったものの、 望郷の念止み難く、観音の力によって亀に乗り故郷に帰った。 その折の観音が本尊で、親王塚古墳と亀塚古墳は太郎と亀の墳墓である。 |
まるで浦島伝説です。
小田中古墳群配置図 上が亀塚 下が親王塚 |
一周して、大きな円墳を実感した。
小田中親王塚古墳 |
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小田中亀塚古墳 |
寿永2年(1183年)砺波山で源平の合戦があった。
木曾義仲の軍勢5万人と平維盛(平清盛の孫)の軍勢10万人が激しく戦った。
源氏軍は「火牛の戦法」で平氏軍18000人を地獄谷に追い落とした。
一方、能登と越中の境の志保までも源氏軍1万人と平氏軍3万人の戦いがあり、ここでも源氏が勝った。
このとき、源行家(新宮十郎義盛・義経の叔父)は、小田中の親王塚の前に陣をはったと「平家物語」に書かれている。
2013年の小田中古墳群 | 撮影日2013/5/4 |
11年ぶりに行ったら、古墳の中の木が整理され、墳丘が見えるようになっていた!
小田中親王塚古墳
撮影日2013/5/4
崇神天皇皇子・大入杵命(オオイリキノミコト)の陵墓として宮内庁が管理している。
小田中親王塚古墳は 全長72mの帆立貝形古墳。 後円部径64m・高さ15m。 銅鏡(三角縁神獣鏡)や玉類、腕輪形石製品などが出土している。 4世紀中頃の築造と推定されている。 |
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小田中親王塚古墳全景 北西から |
小田中親王塚古墳周壕 一部は水をたたえている。 |
小田中親王塚古墳 裾から墳丘を見上げる |
小田中親王塚古墳 墳丘上の葺石 |
小田中亀塚古墳
撮影日2013/5/4
親王塚古墳から、旧街道の道をはさんで、すぐ北にある。親王塚古墳と共に、陵墓附属地として、宮内庁が管理している。
小田中亀塚古墳は 全長72mの前方後方墳 かつては全長61mと思われていた。 墳丘の大部分が、宮内庁治定範囲となっているが、後方部南裾・東裾・前方部西北隅は範囲外となっているので、 本来の墳丘より小さく思われていたようだ。 親王塚より新しいという説と、先につくられているという説とがあるが・・・・・。 |
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小田中亀塚古墳 親王塚古墳側(南)から見る 左が前方部 右が後方部 |
小田中亀塚古墳 前方部より後方部を見る |
小田中亀塚古墳 後方部裾から後方部を見上げる。 横長の後方部のようだ。 |
小田中亀塚古墳 後方部脇から前方部を見る |
『平家物語』(巻第七)の中で、「木曽殿は志保の山打ちこえて能登の新王の塚の前に陣をとる」と書かれていて、
昔から「親王塚」と呼ばれていたと考えられている。
明治8年(1875)、能登国造の祖、崇神天皇皇子大入杵命墓として陵墓に指定され、宮内庁が管理していると共に
1958(昭和33)年に町指定史跡になった。