北村さんちの遺跡めぐり
更新日2025/9/9

国内最古 笠形木製埴輪
金沢市 南新保ゴマヂマチ遺跡
現地説明会参加報告
撮影日2025/7/27

2025年7月26日の北陸中日新聞に
「国内最古 笠形木製埴輪  金沢ゴマヂマチ遺跡」 の記事が載った。

 北陸中日新聞の記事から
 金沢市大友地内の南新保ゴマヂマチ遺跡で前方後方墳2基から、
  祭祀に用いられた笠形の「木製埴輪」が出土した

 笠形の出土は北陸3県では初めてで、前方後方墳からの出土は国内初。
 担当者は、国内最古の事例で「従来考えられていた前方後方墳の祭祀形態に一石を投じる発見」と話している。

 現地説明会は 2025/7/27 午後1時半からということで、現説に参加する。  

南新保ゴマヂマチ遺跡付近の地図g

金沢市 南新保ゴマヂマチ遺跡

金沢市大友
撮影日2025/7/27

県立中央病院の北約200m、土地区画整理に起因する調査だ。
60〜70人の参加者がいて、駐車場もいっぱい、空き地に詰めて駐車。

「南新保ゴマヂマチ遺跡」の位置
  現説資料から


元々耕作地だったので、
 墳丘は無くなっているが、
発掘の結果、前方後方墳の形が見えてきた。
そして笠形木製品が出土。
木製埴輪と考えられるものだ。




3基の古墳配置図  現説資料から

3基とも、4世紀の築造と推定されていて、
1号墳→3号墳→2号墳
の順につくられた
と考えられている。

遺構名 規模
1号墳
(SD6016)
陸橋部をもつ方墳 11.7m
周溝幅1.5〜3.2m
周溝深0.10〜0.55m
2号墳
(SD6021)
前方後方墳 34.0m
周溝幅2.7〜8m
周溝深0.45〜0.65m
3号墳
(SD6035)
前方後方墳 約33.3m
周溝幅約2.5〜6.5m
周溝深約0.15〜0.35m

   

 1号墳(SD6016)  陸橋部をもつ一辺11.7mの方墳
   周溝幅1.5〜3.2m 周溝深0.10〜0.55m
 方墳から前方後方墳への過渡的な方墳
 今回報告の中で一番古い  周溝から時期を示す土器が出土
 墳丘は消失
  
    1号墳   手前が陸橋部
 2号墳(SD6021)   長さ34.0mの前方後方墳
  周溝幅2.7〜8m・周溝深0.45〜0.65m
 北加賀最大の前方後方墳
 周溝から古墳祭祀を示す土器や木製品が多数出土
 3号墳と並列  墳丘は消失

   2号墳  前方後方墳の形がくっきり浮かび上がっている!!
左に3号墳 右に1号墳がある
 3号墳(SD6035)  長さ約33.3mの前方後方墳
  周溝幅約2.5〜6.5m・周溝深約0.15〜0.35m
 2号墳と並列する
 1号墳より新しく2号墳よりも古い
 周溝から土器や木製品が出土
 墳丘は消失

   3号墳 前方後方墳の南半分が発掘されている

現地発掘事務所内では、出土品が展示されている。

 笠形木製品
 笠形の「木製埴輪」は位の高い人に差しかける長柄のかさを模したもの
 円盤状のかさの部分とくい状の支柱で構成され、
  祭祀では古墳の周囲を取り巻くように立てられていたとされている

2号墳・3号墳の周溝からから出土した笠形木製品

大きいもの(A)は、長径47.5cm・短径44.0cm。

前方後方墳からの出土は国内初
木製品を前方後方墳に立てるという古墳祭祀が
  行われていたことが明らかとなった
 国内最古の事例である

外面の損傷具合が裏面よりも強くみられることから、
 外面が風雨や日光に長時間繰り返しさらされる環境、
 前方後方墳に一定期間たてられていたと考えられている


一つずつ紹介します!!

笠形木製品A
2号墳後方部南溝から出土

笠形木製品B
2号墳前方部北溝から出土

笠形木製品C
2号墳後方部周溝から出土
    

笠形木製品D 
2号墳後方部北溝から出土

笠形木製品E
2号墳くびれ部北溝から出土

笠形木製品F
3号墳南溝から出土

   

 そのほかの出土品展示

建材か柵か

上・ホゾを持つ方形木製品
下・鋤

板状木製品

壺    底部穿孔壺

底部穿孔壺    大型壺

壺 二重口縁壺

木製の「笠形埴輪」というのを今回初めて知った。
現説会場の事務所には
 畿内周辺出土の「笠形木製品」の例として
 京都府長岡京市今里車塚古墳(古墳時代中期 前方後円墳)や
 奈良県橿原市四条1号墳(古墳時代中期 方墳)
 の図が展示されているが、著作権の関係で引用できない。
インターネットで調べたところ、国立博物館に、「応神天皇陵の笠形木製品」が保管されていることや
ニサンザイ古墳、玉手山9号墳などで、木製の笠形木製品・笠形木製埴輪が出土したとわかった。
滋賀県栗東市の椿山古墳では、2016(平成28)年月の調査で、笠形木製品が出土したが、
 径75cmのもので、応神天皇陵に次ぐ大きさだった。

「南新保ゴマヂマチ遺跡」現地説明会資料が、インターネット上に公開されているので、ご覧ください。


石川県庁19階展望ロビーから見た南新保ゴマヂマチ遺跡


近くの石川県庁展望ロビーからの景色を楽しみました。


   

木谷公園と木谷藤右衛門

金沢市粟崎町
撮影日2025/7/27

加賀藩の豪商といえば、銭屋五兵衛が有名だが、木谷藤右衛門も豪商だった
江戸時代に粟崎湊(河北潟口に近い大野川川岸にある川湊)を中心に活躍した船主であり、
 嶋崎家、銭屋家らと共に海運業を営む一方で、
 地元加賀藩を初めとする各地の藩に融資をし、諸藩を経済的に支えていた加賀の豪商である。

 木谷家(木屋)は、戦国時代から粟崎を拠点に材木や米の廻船業を営み、
  江戸時代中期からは加賀藩の御用商人として木材、米、金融、北前船交易で莫大な富を築いた

 主は代々、藤右衛門(トウエモン)を名乗り、幕末の天保年間には、
  全国長者番付で東の横綱・三井家(江戸)と並んで西の横綱に格付けされた。
 新興の銭五には勝るとも劣らない、日本で一、二を争う大富豪だった。
 兼六園のことじ灯籠は木谷家が前田家に献上したものと伝わり、
  尾山神社の敷地も木谷家が寄付したと伝わる

 明治後期、時代の波に抗しきれず事業を整理したが、
  木谷家墓所はいまも粟崎に残されていて、屋敷の跡は木谷公園となっている

 木谷藤右衛門家文書は、現存する文書が、
  内容が調達金関係や商取引関係の文書及び借用証文などが大半を占めており、
  これらは、木谷家が融資した相手(武家大名、家臣、各地の商家等)や
   木谷家の経営実態、当時の日本海の海運状況、
  さらには関係各藩の財政状況を知るうえでも重要な歴史資料であるとして、
  平成16年に県指定文化財に指定された。
 内灘町歴史民俗資料館に保存されている。
       (いいじ金沢HP 石川県HPから)


木谷公園
木谷家の屋敷跡

木谷公園

すぐ側に大野川が流れている
船着き場みたいなところもある

木谷家 顕彰碑  公園内にある

「木谷吉次郎翁」
木谷吉次郎は
 豪商木谷藤右衛門8代目の分家作蔵の長男として
 安政5年(1858)この地に生まれ、
 30才のころ関西に出て
 企業の設立に企画、敏腕をふるい巨額の富を築いた。
還暦を迎え故郷に帰り、
 報恩の余生を送り蓄財の全てを育英、公共に投じた。
73才の時粟崎村長に推され、
 村の発展に全力を傾注した。
少年期より漢学者瀬尾健造に師事し
 育てた儒教的倫理観に基づく質素な生涯は
 村民の敬慕を集めた。      (金沢市)

木谷家墓所も近くにある。(金沢市粟崎町ト119)

蚊がいっぱいなので、早々に帰宅した。残念!!

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