更新日 2020/4/5
小松市埋蔵文化財センターの
イベントに参加して
その2撮影日2019/11/7
ほか
「古墳を見つける山歩き」で見学した古墳群の紹介・その2です。
そのほか、いろいろ…。
下開発茶臼山古墳群 |
能美市松が岡 |
何度もきているが、
「古墳を見つける山歩き」(11/7)のときに、以前より墳丘が確認しやすくなっていると感じて、
でも写真がなかなか撮れなくて、
その後(11/13)に行ったが、まだ雑草が多くてきれいに撮れなくて、
年が明けてもう一度行く。(2020/1/25)
東支群の跡地には、旧辰口町の健康センターが建設されていたが、
市町村合併で能美市となり、建て替えられて現在、福祉関係の施設が入る建物になっている。
その一角には「チャウスカフェ」というカフェもある。
チャウスカレー
チャウスカフェにて
下開発茶臼山古墳群は、 能美古墳群をのぞむ、辰口丘陵北西部の辺縁部に位置している。 複雑に入り組む谷によって隔てられた3つの尾根上にそれぞれ群をなし、古墳時代中期から後期にかけてつくられた。 28基確認されている。 昭和27年から昭和61年まで3回発掘調査が行われた。 西支群の9号墳からは175枚の竪櫛や竪矧皮綴衝角付冑、三角板革綴短甲などの甲冑が出土した。 |
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下開発茶臼山古墳群の詳細は、下開発茶臼山古墳群のページを見ていただいて、
ここでは、撮った写真を中心に紹介する。
下開発茶臼山古墳群 西支群 |
残された西支群
4基残っているというが、一つのはげ山!
その他の墳丘は、土が削り取られて無い。
一番高いところが9号墳
その左に、10・11号墳
9号墳の向こうに28号墳
ふもとに説明板がある。
円墳ばかりの古墳群、それも決して大きいとは言えない古墳が、なぜ注目されるのかというと、
9号墳から甲冑や竪櫛が出土したからだと私は思う。
下開発茶臼山9号墳 | ||||||||
東西17.2m南北15.7m・高さ1.5mの円墳 周溝幅1〜1.7m 2基の埋葬施設がある。(木棺は完全に腐朽) 第1主体部(北側)は、隅丸長方形(6×2m)で、 銅鏡1・玉類139以上・竪櫛50・鉄製刀子・鉄刀などが出土 第2主体部は、長楕円形(6×2.4m)で、 玉類1323以上・竪櫛125・鉄斧2・鉄製刀子・鉄刀・鉄剣・鉄鏃42・短甲・冑・板錣などが出土。 5世紀前半の築造と推定されている。 出土したものの特徴 装身具が大量に出土していて、翡翠、瑪瑙、緑色凝灰岩、滑石、ガラス製の多種多様な玉類と 県内最多となる竪櫛の出土は特筆される。 武具は三角板革綴短甲と竪矧板革綴衝角付冑の組み合わせで、 加賀地域では最古の出土例となる。 冑は革綴から鋲留への過渡期の型式を示しており、全国的に希少である。
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下開発茶臼山28号墳 径8m程度の円墳 周溝幅0.7〜1.7m 9号墳の周溝からのびてくる溝がつながっている。遺物なし 28号墳 9号墳の北西にくっついている |
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下開発茶臼山10号墳 径6m程の円墳 周溝幅0.8〜1m 墳丘中央で土師器碗 手前が10号墳 右奥は西尾根支群の林 |
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下開発茶臼山11号墳 径約11mの円墳 周溝幅0.9〜1.4m 遺物なし 11号墳 奥のビルは辰口芳珠記念病院 |
本当のところ、残っているという4基の古墳は区別がつかない…。
西支群頂部から見た能美古墳群
このホームページのトップの写真と
同じアングルで撮っているが、
手前の樹が大きくなって、和田山古墳群しか見えない。
下開発茶臼山古墳群 西尾根支群 |
西尾根支群は整備に伴い盛り土がなされて、尾根に沿って小さな円墳がある様子を観察できるようになっている。
下開発茶臼山27号墳 (半壊) 径8m程度の円墳 周溝幅0.9〜1.3m深さ0.4〜0.7m 土坑3基を検出したが古墳の遺構かは不明 須恵器3・土師器5などが出土 報告書では、保存されていないことになっている。 |
下開発茶臼山26号墳 東西6.2mの円墳 周溝0.5〜1.3m深さ0.2〜0.5m 土師器碗の破片が出土 西から見る |
下開発茶臼山25号墳 径7m程の円墳 周溝幅最大1.0m深さ0.2m 遺物なし 西から見る |
下開発茶臼山24号墳 東西8.5mの円墳 周溝0.8〜1.0m深さ0.3〜0.4m 遺物なし 左奥は 西支群の丘 |
下開発茶臼山23号墳 径4m前後の円墳 周溝幅最大2.5m深さ0.7m 周溝は22号墳との重複を避けるために 完全には回っていない 遺物なし 西から見る |
下開発茶臼山22号墳 東西6.5mの円墳 周溝幅0.7〜0.8m深さ0.1〜0.3m 完形の須恵器6が出土 南から見る |
下開発茶臼山21号墳 南北7.7mの円墳 周溝幅1.1m〜1.2m深さ0.2〜0.8m 鉄刀・鉄斧・鉄製鋤先・土師器が出土 南から見る |
下開発茶臼山20号墳 南北8.8m東西7.8mの円墳 周溝幅0.9〜1.7m深さ0.4〜.6m 木棺直葬と推定されている。 鉄刀1・鉄鏃6・玉類30・須恵器3が出土 北から見る 右奥19号墳 |
下開発茶臼山19号墳 南北9.3m東西9.2mの円墳 周溝0.8〜1.5m深さ0.3〜0.5m 須恵器が出土 19号墳を南から見る 右奥20号墳 |
下開発茶臼山18号墳 東西13.7m南北13.6m・高さ2mの円墳 周溝幅1〜2.8m深さ0.6〜0.8m 須恵器甕が出土 東から見る 周溝も確認できる |
河田向山古墳群 コウダムカイヤマコフングン なぞとき調査隊 |
能美市泉台町 |
2014年3月に参加した「古墳を見つける山歩き」でも、最後はここだったのだが、
2019/11/7の「古墳を見つける山歩き」の最後の見学もこの河田向山古墳群。
その時に、今後発掘をしたいという話を聞いていた。
その後、この河田向山古墳群の調査に向けて、
「なぞとき調査隊」(加賀立国1200年遺跡魅力発信委員会)が発足した!
なぞとき調査隊には、私の夫が参加して、12/12〜21の期間で、
古墳群北の仮称1・2号墳周辺での下草の仮払いや低木の間伐を行なった。
仮称1号墳は、直径20m前後の円墳で、高い墳丘を確認することができる。
仮称1号墳から南に連なって、1号墳・2号墳を含めて計6基〜8基の古墳状の高まりがある。
全てが古墳かは、調査を待つしかないが、確実なのは6基あるそうだ。
今後が楽しみである。(古墳番号は全て仮称)
河田向山古墳群の位置
(「河田向山古墳群だより」から)
能美市と小松市の境界にまたがる
仮1号墳・2号墳は能美市
その他は小松市となる。
この河田向山古墳群と同じ丘陵の東にある
小松市八里向山F遺跡7号墳からは、
鉄製の短甲が出土している。
なぞとき調査隊の活動が済んで後、きれいになった河田向山古墳群を見学した。(2020/1/25)
(仮)1号墳
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(仮)2号墳
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(仮)3号墳 この古墳群が、計6基だとしたら この高まりは古墳ではないかもしれない この写真だけは2019/11/7のものだ |
(仮)4号墳 |
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(仮)5号墳 |
(仮)6号墳 |
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(仮)7号墳 |
(仮)8号墳 |
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8号墳の南はすぐ斜面となって平地につながる。 |
7号墳・8号墳の間には、溝が確認されていないので、
2つ合わせて、前方後円墳だったらいいなと、ひそかに考えている筆者です…。
なぞとき調査隊は2019/12/14に河田向山古墳群で結成式が行われ 年末には「河田向山古墳群だより第1号が発行された。 |
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2019/12/15の北陸中日新聞の記事 |
河田向山古墳群だより第1号 |
2020年3月に予定していた「なぞとき調査隊」の2回目の活動は、中止となった。残念だ…。
以上、「古墳を見つける山歩き」で見学した古墳群、終わります!
2020年3月には「古墳を見つける山歩き」第2弾も計画されていたが、これも中止となった。
荒屋古墳群 |
能美市松が岡 |
「古墳を見つける山歩き」では行かなかったが、下開発茶臼山古墳群の近くにあるので、荒屋古墳群も見学した。
何回か見学しているが、2012年の写真が一番良いみたい。
でも、今回の写真も紹介しておこうかな…
荒屋古墳公園配置図
荒屋古墳群のA支群が史跡公園となっている。
A支群は、丘陵頂部の平坦部に方墳と円墳がコの字状に配置され築かれている。
円墳の周溝から須恵器、土師器が出土、
その特徴から5世紀後半〜6世紀前半の築造と推定されている。
一方、方墳群は出土遺物は無いが、
墳形から古墳時代前期の4世紀代の築造と推定されている。
方墳が集中する古墳群は市内でも荒屋古墳群のみで、
墳形、時期の異なる古墳群が隣接してい築かれている点も注目されている。
(能美市ホームページから)
荒屋1号墳 方墳 18m×14.5m ・高さ2.5m |
荒屋2号墳 方墳 一辺10m・高さ0.5m |
荒屋9号墳 円墳 |
荒屋3号墳 方墳 一辺14.5m・高さ1.7m |
荒屋4号墳 方墳 一辺15.5m・高さ2.5m |
荒屋10号墳 方墳 |
荒屋5号墳 方墳 17m×14m・高さ1.5m |
荒屋8号墳 円墳 径30m・高さ3m |
荒屋6号墳 円墳 径13m・高さ1.5m 周溝あり |
荒屋7号墳 円墳 径11m・高さ2.5m |
荒屋12号墳 円墳 |
荒屋13号墳 円墳 奥は6号墳 |
荒屋14号墳 円墳 |
荒屋11号墳 円墳 標柱がない |
この古墳群のそばにあるパン屋さんのパンがおいしいそうです!
石子八幡神社 (古墳?) |
能美市石子町 |
テレビ金沢「となりのテレ金ちゃん」の中の「誉のどこ行く」で、古墳だと話されていたので、見学に行く。
和田山5号墳から南約1kmの石子町の八幡神社。
神社の由来碑には、古墳だろうと書かれている。
石子町八幡神社 | |
起源と創立は不明だが、平安の昔、嘉応2年(1170)石清水八幡宮の神領であったので、 八幡大神を勧請して石子八幡神社を創立した。 俗称「蟻の宮」といわれている。 古老の伝えによると、「多くの蟻が一夜のうちに、土を運んで小山を作った」といわれているが、 考古学者は古墳だったと推定している。 神域は内苑と外苑に分かれている。 内苑は、蟻が築いたという小山を崩して、社殿が造営されたもので、小山の一部は今も北側に残っている。 外苑は社叢で照葉樹林の原生林。 祭神は、応神天皇、神功皇后、比淘蜷_。 (由来碑から) |
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石子町八幡神社 社叢 |
石子町八幡神社 正面 鳥居 |
社殿は少し高くなっている |
社殿の北側に、高まりが… |
墳丘のなごり? その1 |
墳丘のなごり? その2 |
高堂遺跡 |
小松市高堂・能美市寺井 |
「高堂遺跡」が残っていると知り、初めて訪問した。
「高堂」は「タカンド」と読む。
高堂遺跡は 小松市高堂町から寺井町(能美市)寺井にかけ広がる大きな遺跡。 昭和54年、金沢西バイパスの建設に先立って、遺跡の一部で発掘調査 弥生時代末期から室町時代にかけて営まれた集落遺跡 なかでも古墳時代(4世紀〜7世紀)と平安時代前期(9世紀)を中心とする 遺構、遺物がたくさん発見された。 古墳時代では、高床式倉庫・方形周溝墓・井戸・溝などが発見されて、 壺・甕・高坏・器台などの土器と共に、鍬や鋤などの木製農具も出土した。 平安時代では、十数棟にも及ぶ掘立柱住居や倉庫跡が発見されたほか、 木簡2・和同開珎をはじめとする皇朝十二銭が約60枚、墨書土器約160が出土 1つの木簡は「金光明最勝王経護国品」と書かれたもので、 当時の国家鎮護を祈る経題を記したもの この木簡は、全国でも初めての出土で、 高堂遺跡で国家的儀式がおこなわれていたことを示す貴重なもの 皇朝十二銭は、建物を建てるときの儀式として埋納されたものと考えられ 墨書土器には、「改吉」・「隆」・「良」などの吉祥句を書いたものが多い これらのことから、平安時代の高堂に 国家制度にもとづく公的機関(役所など)が存在した可能性がある。 (説明板から) |
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発掘調査時の状況 溝や土坑が発見されているというが、 はっきり言って、よく分からない図だ |
金沢西バイパス道路のそばに 小さな公園として残っている。 |
東酒造酒蔵 国登録有形文化財 小松の石文化 |
小松市野田町 |
「神泉」で知られる造り酒屋・東酒造(ヒガシシュゾウ)。
東酒造 正面
創業は万延年間で、約150年経っている。
現当主は、7代目。
「神泉」は、夫の父がお気に入りのお酒だ。
酒蔵は小松市で採れた石材を使った重厚な建物で、国登録有形文化財になっている。
酒蔵は昭和24年に建て替えられたもので、
地元の観音下(カナガソ)の山から切り出した石でつくられた3つの石蔵を中心に構成されている。
当時としては断熱効果が優れているといわれ、貴重な酒蔵だった。
2016年に、「小松の市石文化」が日本遺産に認定されて、この石蔵が注目されている。
石造りの蔵 |
左の写真と同じ蔵 方向を変えて見る |
木造の作業場の土台も石で造られている |
窓のデザインもシャレている |
小松の石文化は、市内のいたるところで息づいている。
小松市内で採掘された石材は、小松城本丸櫓台の石垣の一部にも使われている。
身近なところでは、家の塀や神社の鳥居、墓石…。
街中を歩くと、黄色味を帯びた特徴の観音下石が見られる。
小松の石は、市内だけでなく、国会議事堂や甲子園会館にも使われている。
遺跡では ないけど・・・ |
蝶屋桜の名所づくり 西米光町河津桜 |
白山市西米光町 |
2020/3/9北陸中日新聞に
「川沿い ピンクに染まる
白山市蝶屋地区で早咲き桜「河津桜」が見頃を迎え、濃いピンクの花が訪れる人たちを楽しませている。
ボランティア団体「蝶屋桜守の会」が2014年西米光町の堂尻川沿いに約50本を8m間隔で植樹した。」
という記事が掲載されたので、すぐに見学に行ってきた。
新聞に出たせいで、 車が一杯! |
濃いピンクの花が特徴の河津桜 少し遅くて 葉桜になりかけている…。 新聞の写真はきれいだったが、 どうしたら あんなにきれいに撮れるのかなあ…。 |
桜の名所になるといいですねー!
銅造 地蔵菩薩半跏像 附台座・光背 石川県有形文化財 彫刻 |
白山市東三番町 |
JR松任駅そばの白山市立中川一政記念美術館のそばに「史跡」がある。
白山比盗_社の前身、白山寺にあったとされる地蔵院護摩堂と伝えられ、 明治初期、廃仏毀釈の際、取り除かれ東三番町に移された。 台座銘文から南北朝時代の康永元年(1342)の作と分かる。 鑞型鋳造法が用いられ台座を含め8部分に分けて鋳造されている。 鑞型原形は精緻な細工が可能であり、また原形の持つ柔和な風合いが移植されやすいので、 本像も衣紋は写実的に表現された鎌倉時代の様式が踏襲されるとともに、 やさしく穏やかな表情で、美しい肌合いの仕上がりとなっている。 当初は、全体に鍍金がされた金銅仏であったと考えられている。 台座は天和2年(1682)、加賀藩の鋳物師「平井但馬守家長」が補鋳したもの。 洗練された技巧が見られる優品で制作年代がわかる南北朝時代の基準作であるとともに 神仏分離の歴史を伝える遺例として貴重だ。 (説明板から) |
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地蔵菩薩半跏像 (説明板の写真) 形状は 銅造 鑞型別鋳組合せ 像高57cm 石川県の有形文化財には 平成23年12月20日に指定された。 |
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このお堂に安置されている。 |
石碑には「延命地蔵尊」と刻まれている。 |
ガラス越しにお堂の中を見る 幕のある扉の中に 地蔵菩薩様が安置されているのかな 左側には、 ガラスに後ろの景色が写り込んでいる。 |
見学したのは、2019年5月、中川一政記念美術館へ久しぶりに行った帰りの事。
紹介するのを忘れていた。