北村さんちの遺跡めぐり
更新日2018/3/9

金沢市の観光・遺跡
ちょこっと古墳

2017/11/22
2017/12/9

雑事に追われて、なかなか古墳見学に行けないので、近くを見学して我慢・・・。
金沢城近辺の、ちょっとマイナーな観光。
最後に古墳・・・。

金沢市の地図g

尾崎神社

金沢市丸の内
撮影日2017/11/22

尾山神社は有名だけど、尾崎神社はどうなのだろう?
小学校2・3年の頃、この尾崎神社のそばに住んでいて、とても懐かしいです。

 尾崎神社は   天照大神、東照大権現(徳川家康)、第二代加賀藩主前田利常を祀る。
 寛永20年(1643)、東照大権現を祀ることを許された四代藩主光高が、
    金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立。
 徳川家葵の紋がところどころにちりばめられた十数棟に及ぶ社殿を誇った神域は、
    「金沢城の江戸」「北陸の日光」と呼ばれ崇められた。
 明治7年(1874)、尾埼神社と改称。
 明治11年(1878)、金沢城内に駐留した陸軍省の都合により現在地に移築され、
  昭和25年に、「本殿附厨子・中門・透塀・拝殿及び幣殿 附棟札3枚」が重要文化財に指定された

神門 境内南側から見る

西側にある鳥居

拝殿  国重要文化財

拝殿の扉には、葵の御紋

中門、透塀、本殿
中門は、幣殿と本殿の間に建ち、平唐門で、
その両脇から透塀が伸びて本殿を取り囲んでいる。

境内社 豊受稲荷社


辰巳用水分流再興碑  (1889年に建碑)
境内にある。

説明板があるが、読めない部分がある。
辰巳用水の分流が、
  明治時代に一時途絶えたのを再興したときの記念碑だという。


「兼六園周辺 文化の森」

金沢市石引4丁目
撮影日2017/11/22

「兼六園周辺文化の森」は、兼六園を中心とする半径約1kmの範囲の中に、
   藩政期から近代に至るまで各時代の歴史が重層的に集積する石川県を代表する緑豊かな文化空間となっており、
   数々の文化施設や公園緑地が整備されている。

兼六園、金沢城など江戸時代の武家文化と、それ以来受け継がれてきた伝統文化を味わうことができるほか、
  石川県立歴史博物館、石川四高記念文化交流館など、
   明治、大正期のモダンな建物を通して、当時の金沢の歴史と郷愁を堪能することができる。
           (説明板から)


「兼六園周辺 文化の森」地図 

いしかわ赤レンガミュージアム
  (石川県立歴史博物館・加賀本多博物館)
     の前にある地図から


   

旧陸軍第九師団司令部庁舎
(石川県庁石引分室)

金沢市石引4丁目
撮影日2017/11/22

現在は、石川県立歴史博物館の分室となり、外観のみ見学が可能。
説明板がある。

 旧陸軍第九師団司令部庁舎 (石川県庁石引分室)       県登録有形文化財
 この建物は、明治31年に金沢城二の丸跡地に旧陸軍第九師団司令部として建てられた。
 木造2階建、瓦葺で、
  正面玄関のピラスター(付け柱)やペディメント(三角形の切り妻壁)、
  上げ下げ窓の下に付けられた手すり状の意匠など、
  初期洋風建築のもつ簡素なルネサンス風の外観を特徴とする。
 明治期の庁舎建築の好例で、造形の規範となった建物として貴重である。

 昭和24年からは金沢大学本部が使用。
 昭和43年に石川県が取得し、現在地に移築された際、
   両翼がほぼ半分に切り縮められて、
   外壁が漆喰塗りからモルタル塗りに変更されたが、ほかはほぼ原形を保つ。
 平成16年3月まで、「石川県庁舎石引分室」や「県民ふれあい公社」として利用されていた。
 平成19年(2007)から、石川県立歴史博物館の分室となる。
 陸軍第九師団は、日本帝国陸軍の師団で、
  日清戦争の後、軍備増強の必要性から1898年(明治31年)に新設された6個師団の一つ。


旧陸軍第九師団司令部庁舎


設計は、陸軍経理部
面積275u

旧陸軍第9団司令部庁舎の右側にあるのは、旧陸軍金沢偕行社。


左手前 旧陸軍第9団司令部庁舎
右奥 旧陸軍金沢偕行社




旧陸軍金沢偕行社
キュウリクグンカナザワカイコウイャ
(石川県庁舎石引分室)

金沢市石引4丁目
撮影日2017/11/22

現在は、石川県立歴史博物館の分室となり、外観のみ見学が可能。
説明板がある。

 旧陸軍金沢偕行社  県登録有形文化財

 この建物は、明治31年(1898)大手町に陸軍金沢偕行社として建築された。
 木造瓦葺き2階建ての建物で、
   マンサード屋根やドーマー・ウインドウ、コリント式のピラスターなど、
   ややバロック風のデザインで高度の洋風様式技巧を示している。

 明治42年(1909)現敷地内に移築。
 戦後は北陸財務局と金沢国税局が使用した。
 昭和42年に県が取得し、昭和45年から55年には郷土資料館収蔵庫として使用。
 平成15年3月まで公園緑地課、県道路公社が利用。
 平成19年(2007)より石川県立歴史博物館の分室となる。

 「偕行社」とは、
   旧日本帝国陸軍の将校・陸軍将校生徒・陸軍高等文官の親睦組織及びその施設。
 現在も、形は少し変わったらしいが、同じ名前で自衛隊の親睦団体がある。



旧陸軍金沢偕行社


設計は、陸軍経理部

建築面積282u

この横は県立能楽堂だ。

この旧陸軍第九師団司令部庁舎旧陸軍金沢偕行社
  移転・整備して2020年10月、「国立工芸館」が開館することとなる。

旧金澤兵器支廠兵器庫
キュウカナザワヘイキシショウ ヘイキコ
(現・石川県立歴史博物館
・加賀本多博物館)
国指定重要文化財

金沢市出羽町
撮影日2017/11/22

いしかわ赤レンガミュージアム(石川県立歴史博物館・加賀本多博物館))の赤レンガ建物は、かつて陸軍兵器庫だった。

 旧金澤陸軍兵器支廠の兵器庫三棟は、
   いずれも煉瓦造、二階建で、左右対称を基本とした端正な意匠になっている。
   90mに及ぶ長大な建物が並ぶ姿は壮観である。
 明治32年3月出羽町練兵場の一角で整地工事が開始されたが、
   この3棟は、明治42年(1909)から大正3年(1914)に建てられたものである。

 竣工から戦前まで幾度となく修繕工事が行われてきたが、
    建物の形状を変える決定的な改装工事は行われてない。
 戦後は昭和47年まで、金沢美術工芸大学に使用されていた。
 大学の移転を機に県が取得、
 1986(昭和61)年、石川県立郷土資料館がここに移転し、石川県立歴史博物館として開館した。
  博物館として再活用するにあたり、外観は創建当時の姿を忠実に復元し、
    内装は建物の文化財としての価値と展示設備との調和をはかりながら改装された。
 歴史的建造物の保存と博物館としての再利用が評価され、
   1990(平成2)年には国の重要文化財に指定され、翌年には日本建築学会賞も受賞。
 陸軍兵器廠(リクグンヘイキショウ)は、日本帝国陸軍の機関の一つ
  兵器・弾薬・機材などの補給、要塞の備砲工事を担当した。

全長90mの建物だ

3棟が整然と並んでいる。

棟名は、
第五號兵器庫・第六號兵器庫・第七號兵器庫
いずれも煉瓦造、二階建、桟瓦葺

 第5棟:明治42年(1909)竣工 建築面積1,243.0u
 第6棟:大正2年(1913)竣工 建築面積1,322.3u
 第7棟:大正3年(1914)竣工 建築面積1,322.3u

石川県歴史博物館には、数回見学に行っているが、最近では、
2016年の春季特別展「加賀・能登王墓の世界」に行き、それに伴う書籍も購入した。   

加賀八家「奥村家」(宗家)屋敷跡

金沢市石引4丁目
撮影日2017/11/22

現在の医療センターのある所は、加賀藩家老奥村家の屋敷跡だ。

 八家というのは、加賀藩の年寄「家老」の職にあたる門閥のことで、
    八家あったことから名付けられた。

 
元禄3年、5第藩主前田綱紀の定めたもので、
   本多家(50000石)、長家(33000石)、横山家(30000石)、前田家(長種系18000石)、
    奥村家(宗家17000石)、村井家(約16500石)、奥村家(12000石)、前田家(直之系11000石)があった。
      (幕末時の禄高)
 奥村家(宗家)は尾張(愛知県)荒子城以来の前田家旧臣で、
   藩政時代初め永福から栄滋まで14代を数え、
   禄高は永福の11950石から数回加増され、17000石を世襲した。
 初代の奥村永福(オクムラ ナガトミ)は、加賀能登越中の境の末森城主として、
   天正12年(1585)、富山の佐々成政の侵攻を撃破して前田家の危機を防いだ。
 屋敷は元和6年ころ、今の兼六園の地に賜り、元禄9年、石引町のこの地に移されて明治に至った。
 敷地は1万坪を越え、明治以降陸軍病院が置かれ、戦後国立病院となった。(現在は、医療センター)

奥村家(宗家)屋敷跡の土塀
道路に沿って残る約300mの土塀と
戸室石の石組み
に往時の広壮な邸の一端がしのばれる。

横の堀は辰巳用水

塀の中には、医療センターがある。

土塀に続く東側には、「史跡辰巳用水の石碑」、
「奥村家屋敷跡」の説明板
「北陸学院ウィン館」の案内板
   が並ぶ。

 「旧ウィン館」は、アメリカ人宣教師T・C・ウィンが設計し、明治21年に創建されたもので、
  下見板張り、ベランダなど典型的なコロニアルスタイル(植民地様式)の数少ない建物である。
  金沢市指定保存建造物となっている。
 この時は「北陸学院歴史ものがたり」が、
       旧ウィン館で展示されていて開館中だったが、見学してこなかった。

「史跡 辰巳用水」の石碑

兼六園に流れこむ辰巳用水は
 1632年、3代目藩主前田利常が板屋兵四郎に命じて
 金沢城の防火のために造らせたもの。
辰巳用水は全長約10kmの用水で
 金沢城の防火以外にも城内での生活の水や、
 金沢城の堀のための水にはもちろん、
 農業用水としても利用されていた。
 辰巳用水は東京都西多摩郡の玉川上水、静岡県裾野市の箱根用水とともに
  日本三大用水の1つといわれているが、
  当時掘った隧道が現在でも残っていて使われているのは日本では辰巳用水だけだそうだ。       

生活用水が辰巳用水に入り込むようになったため、
 現在、兼六園に流れる水は、市内を流れる用水とは別に、
  末町の犀川浄水場付近から兼六園専用ルートで取水されているそうだ。

野田山三角点古墳
長坂古墳群

金沢市野田
撮影日2017/12/9

石川県埋蔵文化財センターのホール展「口能登・中能登の古代遺跡」を見学に行き、帰り道
    野田三角点古墳を初めてまともに見学した。
果樹園になっているので、なかなか見ることができなかったが、時期が良かった。
前田家墓所がある山のてっぺんだ。

 野田山三角点古墳は、長坂古墳群の中の1基。
  径42mの円墳 高さ2〜3mほど。標高175m。
  直径に比して低平な墳丘をもち、尾根側には幅8mの溝、
斜面には幅1.5mのテラス状整形を施すことによって周囲との境としている。


野田山三角点古墳測量図

(石川考古学研究会会誌から)



 直径42mという北加賀最大級の平面積をもちながら、
     比高差が2mという低平な墳丘で、普通の古墳とは趣を異にしている。
  4世紀代の古墳ではないか?
        (石川考古学研究会会誌から)

野田山三角点古墳 墳丘

なだらかすぎて、
  古墳とは思えない!

墳頂には、三角点がある(標高175.1m)
採ってもらえなかったリンゴの間から
三角点の標柱が見えている。

果樹園なので立ち入り禁止

   

 長坂古墳群
 金沢市南郊の野田山にある古墳群
 山頂の野田山三角点古墳、山麓の長坂二子塚古墳が代表的なもの。
 野田山三角点古墳につらなる尾根上に、山科上野塚(径16m)がある。
 野田山山麓にも、点々と古墳があったが、耕地整理、土地区画整理等によって全て削平。
 所在が確認されているのは、長坂二子塚古墳長坂2号墳の2基。
 他に善助塚、狐塚、味噌塚などの塚があったと文献等にある。
  長坂二子塚古墳は 全長50mの前方後円墳
    後円部径29m 前方部幅23m・前方部長さ21m
  1905年の調査で、
     鏃状銅製品2・鉄剣2本以上、やり1・刀子1以上・勾玉2・管玉11などが出土。
  1968年に破壊、1969年の周溝の北側半分の調査で、墳形規模が確認された。
  周溝から埴輪が出土。(円筒埴輪・朝顔形埴輪・壺形埴輪)
  埋葬施設は粘土槨と考えられている。
  4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。

長坂二子塚古墳・長坂2号墳位置図

(石川考古学研究会会誌から)
 長坂2号墳は  長坂二子塚古墳の西50m。
  一辺17.5mの方墳
  1977年に発見されて、一部調査。墳丘は削平されていた。
  壺形土器が出土。
  長坂二子塚古墳とほぼ同時期の4世紀末〜5世紀初頭の築造と推定されている。

長坂二子塚古墳が残っていれば、金沢市の代表的な遺跡となっただろう。
跡地は、住宅地に姿を変え、どこにあったのかも分からない。
金沢市は金沢城の整備にばかり力を入れている・・・。

ホール展「口能登・中能登の古代遺跡」 県埋文センター展示から

金沢市天池町
県埋文センター内

撮影日2017/12/9

今年3月に発掘調査報告書が刊行された遺跡から、
 口能登の四柳白山下遺跡、福井ナカミチ遺跡、中能登の能登国分寺跡(古府・国分遺跡を含む)の
  パネルと出土品の展示があった。


現地を見学してから、
また、紹介したいと思います。



  

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