北村さんちの遺跡めぐり
更新日2018/1/26

富奥の古代
野々市市ふるさと歴史館展示から・その1
2017/11/14・12/3・2018/1/9

2017年11月14日の北陸中日新聞に、
古墳~平安時代を中心に栄えたとされる野々市市富奥地区の出土品を紹介する「発掘速報!!富奥の古代」が、
野々市ふるさと歴史館で開かれていると掲載されていたので、早速、見学に行く。
なんと!古墳が発見されたという・・・

野々市市ふるさと歴史館には、
御経塚遺跡から出土した重要文化財「石川県御経塚遺跡出土品」や末松廃寺をはじめ、
市内の縄文時代~中世 の遺物の展示がある。

この野々市市ふるさと歴史館には、2004年に見学に行ったが、
当時は「野々市町埋蔵文化財収蔵庫」と名付けられていて、御経塚遺跡の出土品の展示はほとんどなかった。
2010(平成22)年に、御経塚遺跡出土品4219点が重要文化財の指定を受けて、
館内の「縄文特別展示室」には、御経塚遺跡出土品が展示されている。

発掘速報 富奥の古代
平成29年度 野々市市埋蔵文化財企画展

石川県野々市市
撮影日2017/11/14・12/3
2018/1/9

野々市市の中南部にあたる富奥地区は、石川県最大の河川・手取川によってつくられた扇状地の中央に位置している。
この地区の人々の営みは縄文時代から確認されているが、本格的な開発が始まるのは古墳時代から。
以後、国史跡の末松廃寺跡や、中世の林・富樫氏を中心とした武士団によって開発された集落跡など、連綿と続いている。
今回は古墳時代~古代の遺跡を中心に最新の成果を展示・紹介する。   (説明文から)
後日、紹介されていた遺跡が現在どうなっているか見て来たので、合わせて紹介する。

野々市市の地図g

 上新庄チャンバチ遺跡    新発見! 野々市市新庄1丁目
 南に隣接する熱野遺跡(ネツノイセキ)(白山市)とともに、弥生時代のムラの跡として知られている。
  平成29年度の調査で、4世紀前半の前方後方墳が見つかった。
  墳長17m、周溝を含んだ全長22mの前方後方墳
  野々市南部で古墳時代前期の古墳が見つかるのは初めてで、南部にも当時、有力者がいたとみられる。
 これまで古墳時代前期の古墳は
   市北部にある御経塚シンデン古墳、二日市イシバチ遺跡の2カ所で見つかっており、
   南部では古墳時代後期(7世紀前半)の上林古墳が確認されていた。

発掘時の前方後方墳の写真
(ふるさと歴史館展示写真から)

2017/12/3の現地の様子
道路になってしまうようだ・・・。

 

 下林バンジョウアゲ遺跡 野々市市下林
 平安時代(9世紀)のムラの跡の遺跡
  発掘調査で、カマドを備えた竪穴建物や掘立柱建物のほか、
   坑に土器を埋めてお祀りをした場所の跡が発見された。
  見つかった建物や遺物からは、10世紀以降のものはほとんど見つからないことから、
   このムラに人々が暮らしたのは9世紀の約100年間だけであったと考えられている。

発掘時の写真
(ふるさと歴史館展示写真から)

2017/12/3の現地の様子
そばには建物が建っている。

須恵器の盤 (平安時代)
墨書土器 「大」と書かれている。
(ふるさと歴史館展示から)

奥・須恵器 壺   手前・須恵器 坏蓋
(ともに平安時代)
(ふるさと歴史館展示から)

土師器の甕 (平安時代)
(ふるさと歴史館展示から)

 

 上林遺跡 野々市市上林
 現在の上林集落の南側に広がる古代のムラの跡の遺跡で、
    時代は弥生時代と奈良・平安時代(8世紀後半~9世紀前半)
 調査地内では、竪穴建物1棟、掘立柱建物8棟が見つかり、
  生活道具の土師器の甕などの土器が出土。
  弥生時代前半の土器や石製品も発見されている。

発掘時の写真
(ふるさと歴史館展示写真から)

2017/12/3の現地の様子
そばには建物が建っている。

左・石鍬  右・未成品の石鍬
(ともに弥生時代)
(ふるさと歴史館展示から)

左 中・土師器 甕    右・須恵器 壺
(ともに古代)
(ふるさと歴史館展示から)

 

 粟田遺跡 野々市市上林
 縄文時代・古代・中世の遺跡
 奈良・平安時代(8~9世紀)では、竪穴建物や、
  倉庫に使用されたとされる掘立柱建物、食器に使われたと思われる土器が出土した。
 その中でも、須恵器の坏と、土師器の皿の底にそれぞれ「七」「大」の文字を記した土器を発見した
 この文字は粘土が乾く前に刻まれたと考えられている。


左・刻書土器 須恵器 坏「七」

右・刻書土器 土師器 皿「大」


(ふるさと歴史館展示から)

 

 上林新庄遺跡
 上林古墳
  
野々市市上林
 上林新庄遺跡は、7世紀初頭から9世紀後半を主体とする大集落跡である。
 上林古墳は 1991年度の上林新庄遺跡の発掘中に発見された古墳。
  加賀第一の河川・手取川により形成された手取扇状地の扇央部に位置している。標高41m。
  遺構として確認されたものは、横穴式石室の最下列1段とそれに伴う墓坑で、
  現況が田だったので、マウンドはない、周溝も確認されなかった。
  横穴式石室は全長7.9m 羨道長さ3.2m、玄室長4.7m、

  石室内では、平瓶1点が出土。
  7世紀前半の築造と推定されている。
  築造時期から考えてもこのような古墳が1基のみで単独に存在することは考えられないのだが、
    周辺の調査などでは、新たに発見できなかった。
  南西約2.7kmには、横穴式石室が確認された田地古墳(白山市)、
    北西約1kmには、詳細不明の末松古墳がある。

上林古墳の横穴式石室
(ふるさと歴史館展示から)

左下が、上林古墳から出土した平瓶
そのほかは、上林新庄遺跡の出土品

(ふるさと歴史館展示から)
  上林古墳は、現在の「うつのみや野々市上林店の西の道路付近と思われる。

 

 末松古墳 野々市市末松
撮影日2017/1/9
 野々市市の南西端、末松にある大兄八幡神社の境内に参道をはさんで末松古墳の名残が見られる
 本格的な発掘調査が行なわれたという記録は残っていない。
 主体部(埋葬施設)があったと思われる部分もすでに壊されている。
 正確な測量を行なったわけではないが、住宅地図からの略側では
       径20m前後の大きさだと考えられている。
 規模や立地、形態から上林古墳と並ぶ古墳と考えられている。

大兄八幡神社 鳥居

大兄八幡神社 社殿

参道左の高まり

参道右の高まり

北から見た墳丘?

葺石?

末松古墳のそばには、国指定史跡の末松廃寺がある。

 末松廃寺        末松廃寺のページ


末松廃寺出土の
  軒丸瓦  平瓦

 
  (ふるさと歴史館展示から)

他にも
末松廃寺出土の
「銀製和同開珎」も展示されている。

 

野々市の古墳

野々市市御経塚

御経塚シンデン古墳群 上林古墳 末松古墳は、紹介できたが、野々市市には他にも古墳があったそうで、
二つ紹介する。
どちらも埋没古墳というか消滅古墳だ。

押野大塚遺跡の
大塚古墳
 通称「オオツカ」という地名のとおり、
  江戸時代には周囲約73mの大きな古墳があったと伝えられているが、
  明治時代におこなわれた耕地整理により失われた。
 大塚古墳は、現在は「大塚交差点」として、その名を残すのみだ。
二日市イシバチ遺跡の
古墳群
 弥生時代後期後半から続く集落跡が大きく成長し、古墳群を形成するまでになった。
 確認された古墳は全部で5基で、いずれも方墳と考えられている
 道路築造予定地の細長い調査区であり、全形が確認できたものはないが、
 一番大きなものでは一辺25mを超えるようなものも確認されている
 集落の西隣りに、墓域を設けたムラの景観全体が想像できる県内でも珍しい例。
 この地は現在、「つばきの郷」という住宅街になりつつある。

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