北村さんちの遺跡めぐり
更新日2017/5/5
北加賀の古墳と神社 撮影日2017/3/5
3/19
4/16
考古学研究会会誌22号「北加賀古墳分布調査報告」(昭和54年)と、
HP「いしかわ文化財ナビ」を参考に、古墳を探しに行く。
金沢市北部から津幡町、かほく市。
岸川八幡神社 | 金沢市岸川町 撮影日2017/3/5 |
古墳マークがあると思って行ったが、横穴墓があるらしい。
横穴墓は、神社背後の高台にひばり団地が造成され、損壊しているという。
岸川八幡神社
背後は崖のようになっている。
横穴はどこにあるのかな?
波自加彌神社 ハジカミジンジャ |
金沢市花園八幡町 撮影日2017/3/5 |
古墳マークがあると思って行ったら、香辛料の神様として有名な波自加彌神社だった。
最近、かなり人気があり、新聞記事でもよく見かける。
横穴墓があるらしい。
波自加彌神社は、日本で一つしかない香辛料の神様を祀る神社 生姜の古名「はじかみ」を名乗る。 御祭神は、波自加彌神(調味・医薬・産業の神)と 護国正八幡神 毎年6月15日「しょうが祭り」に行われる。 江戸時代には、この祭礼に加賀・越中・能登の料理屋の主人はすべて参拝したという。 最近でも、殖産神「はじかみ」に由縁のある、生姜栽培加工業、スパイスや食品加工業、漬物組合、 菓子製造業、料理屋、薬種関係者など、 県内外から多数の人が、自社製品献納のうえ参詣して、 湯立神事によって調整された生姜湯がふるまわれる。 宝物殿には、60点以上が納められていて、 金沢市指定文化財の獅子頭「麦喰獅子(ムギクライジシ)鎌倉時代」と、 同じく金沢市指定文化財の「木造随神造一対・鎌倉時代」がある。 |
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ふもとの一の鳥居 |
二の鳥居と社殿 |
八幡波自加彌神社横穴は、旧参道脇にある。 高1.2m・幅2.0mで、奥壁のみ残る。 旧参道は今は通れなくなっているようだ。 この辺りかな? |
塚崎八幡神社古墳(比売塚古墳) |
金沢市花園八幡町 撮影日2017/3/5 |
塚崎町の八幡神社は円墳の上にある!
塚崎八幡神社古墳は 比売塚古墳ともいわれている。 径25mの円墳。 (古墳でないとする説もあり) |
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南から見た塚崎八幡神社古墳 |
神社の社殿は丸い墳丘の上にある。 |
径25mの円墳というが、大きく見える・・・・。
塚崎遺跡 |
金沢市塚崎町 撮影日2017/3/19 |
塚崎八幡神社古墳のそばの墓地から、南の台地に登ったところに塚崎遺跡がある。
説明板が立っている。辺りは畑。
墓地で偶然、遺跡の地主さんにお会いできて、説明板のあることを知った。
塚崎遺跡 (石川考古学研究会会誌第22号より引用加筆) 昭和46年北陸自動車道の建設に伴い、 約七千uにわたって全面的な発掘調査が行われ、 26棟の竪穴住居などが完掘された。 全国でも珍しい弥生〜古墳移行期(3〜4世紀)の集落遺跡。 一部消滅。 集落は、舌状台地の縁辺に、 大型の竪穴住居と倉庫を中心に数棟の竪穴住居が並んで一群をなし、それがいくつか複合している。 ここからは祭場や勾玉・管玉の製作場も発見され、 森下川流域にいとなまれたムラが、 鏡や多量の鉄器を管理する有力な司祭者の住む母集落を中心に統合されていくありさまがよく分かる。 遺跡の大半は道路の開通によって姿を消したが、 大量に出土した土器や石器・鉄器などの遺物は、県教育委員会に保管されている。 (説明板から) |
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塚崎遺跡と説明板 |
塚崎遺跡 |
塚崎遺跡から南を見ると、 塚崎1号墳のある山がみえる。 塚崎遺跡と塚崎1号墳の間に 北陸自動車道が通る。 |
塚崎古墳群 |
金沢市塚崎 撮影日2017/3/19 |
塚崎遺跡の地主さんに、塚崎古墳群の登り口をお聞きすることができ、見学できた。
塚崎1号墳の西の北陸自動車道の高架下に登り口がある。
登り口に入ってからは道らしい道はなくなっている。
塚崎古墳群は、尾根の先端の舌状台地にある塚崎遺跡から南の尾根を登ったところにある。 |
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現在東部環状道路ができているので、地形は少し変わっている。 |
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塚崎1号墳 |
塚崎1号墳 墳頂部 |
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塚崎1号墳 墳頂端部 |
塚崎1号墳からの眺め |
2回目の挑戦で見学することができた。
月浦古墳群 |
金沢市月浦町崎 撮影日2017/3/19 |
塚崎八幡神社から山裾沿いに南東に行くと、月浦八幡神社がある。
月浦神社の社殿は高台にあるので、 3度、山崩れの被害を受けてきた。 1757年・1945年・1964年に 被災し、再建されてきた。 910年創建 祭神は、応神天皇・誉田別之尊 (由緒書きから) 1994年に東部環状道路建設で、 遷座しているが、 高台にあることには変わりがない。 |
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ふもとの鳥居 |
社殿 |
八幡神社の背後から山に登る。
月浦古墳群は、森下川を望む尾根上にあり、塚崎古墳群の尾根続きの東方。 2基の方墳と1基の古墳状隆起がある。 2基の方墳はいずれも墳頂部平坦面が広く、両側にテラスを形成している。 |
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手前にある古墳状隆起 |
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1号墳 2号墳より上にある 一辺10.5m・高さ1.5mの方墳 墳頂部平坦面広い |
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2号墳 一辺8.5m・高さ1.5mの方墳 |
七ツ塚古墳群 |
金沢市吉原町 |
塚崎遺跡の西の丘陵には、七ツ塚古墳群があったが、北陸自動車道建設で、ほぼ消滅している。
七ツ塚古墳群配置図
(石川考古学研究会会誌第22号の資料に加筆)
神谷内古墳群・法光寺古墳群のある丘陵の、
森下川に面して派生した尾根上にある。
方形周溝墓10基が尾根上方の平坦面につくられていて、
古墳13基が平坦面と尾根下方につくられている。
方形周溝墓はいずれも弥生末期の土器が出土していて、
3世紀後半の築造と推定されている。
古墳は、月影式〜布留式の土器が出土しているので、
4世紀前半〜5世紀初頭にかけての築造と推定されていて、
尾根の高所から下に向けてつくられたと考えられている。
谷を隔てて東側にある塚崎遺跡とは密接なつながりがあると考えられてい.る。
御門古墳群 |
津幡町御門 撮影日2017/3/19 4/16 |
津幡町御門の集落の背後の山に、御門古墳群がある。
御門古墳群は 野瀬川右岸、御門地区背後の丘陵上につくられた古墳群
A群・B群の対岸に、1号墳というのがあるようだ。 |
白山神社から、山に登る。
白山神社
階段を登り、
社殿の左側(南側)を登るとすぐB群 (4・5号墳)がある。
B群 | ||
4号墳 一辺8m・高さ1.5mの方墳 墳頂部平坦面広い |
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5号墳 一辺8m・高さ1.5mの方墳 墳頂部平坦面広い |
B群から、山の奥に入ると小さなお社がある。
お地蔵さまが安置されている。
この辺りまでは、掃き目がわかるほどきれいに掃除されている。
このずっと奥にA群があるはずだが、道がなくなり、特定できない・・・・
あきらめて、後日もう一度挑戦してみるが、特定できず・・・
この山には頂部が3つあり、その一つに古墳があるのだが・・・これが特定しにくい理由でもあるのだが…
白山神社から、A群に行くのはあきらめて、一旦山を下り、
御門集落の西側のふもとから、もう一度山に登り、ようやくA群を見つける。
こちらの道も、山を入ってすぐの墓地、その上にある果樹園までは道があるが、そのあとは道が消える・・・
A群 | ||
A群のある山 |
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2号墳 径8m・高さ1.5mの円墳 |
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3号墳 径8m・高さ1.5mの円墳 |
まだ納得できない部分があるので、保留です・・・・
ところで、この「御門」という地名、何か由来があるのではないかと思い、調べて見ました。
津幡町英田(アガタ)地区の能瀬、御門(ミカド)の両区は 順徳上皇(ジュントクジョウコウ)ゆかりの地で、それにまつわる伝説が残っている。 1221(承久3)年、承久の乱に敗れた順徳上皇が佐渡へ流される途中、大しけに遭い、 やむなく王崎(現在のかほく市大崎)の浜に上陸されて、 御門に行在所(アンザイショ=仮の御所)を定め、3年間ご滞在されたと伝えられている。 こうして、村は御門と呼ばれようになり、 「御門屋敷」と呼ばれた屋敷跡は、能瀬川沿いの田んぼにあったといわれている。 |
隣の集落、領家(リョウケ)には、 大しけの際に上皇を導く光を発したとされる聖徳太子像を安置した広済寺がある。 |
能瀬川を挟んで対岸の英田郵便局)の真裏に、「龍ヶ口井戸跡」の石碑が建っている。 順徳上皇がご滞在された時に、 飲料水として差し上げるために掘られた井戸跡といわれている。 1986(昭和61)年の河川改修・道路拡幅によって埋められ、 1989(平成元)年8月に石碑が建てられた (英田地区の伝説「龍ヶ口井」の話より引用)。 |
(津幡町観光ガイドから引用しました) |
指江古墳 |
かほく市指江 撮影日2017/3/19 4/16 |
指江古墳は、河北潟に面した低丘陵上にある。
指江古墳とその周辺
(「かほく市
指江ジュウサンザカ遺跡・多田ツルガダン遺跡」の
発掘報告書より引用加筆)
指江古墳 | 方墳 | 一辺12m・高さ1.5m |
指江B遺跡 | 集落遺跡 | 縄文〜中世 |
指江ジュウサンザカ遺跡 | 集落遺跡 | 弥生時代 |
多田ツルガダン遺跡 | 集落遺跡、 散布地 |
古墳時代 中世 |
指江ジュウサンザカ遺跡・多田ツルガダン遺跡は、主要地方道高松津幡線の改築工事に伴い調査された。
現在、両遺跡付近には道路が通っている。
指江古墳は 河北潟に面した低丘陵上にあり、墳頂部平坦面の広い、低平な方墳。 一辺12m・高さ1.5mの方墳。 |
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指江古墳 墳丘 |
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台の上に乗っているように墳丘がある。 |
墳丘上 |
指江古墳に行く手前の尾根の先端の墓地が、 古墳に見える まるで方墳! |
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古墳を守るように ひっそりとたたずむ春日神社 |
昭和54年(1979)の考古学研究会会誌に
付近には、古墳もしくは古墳状隆起は認められず単独墳。(石川考古学研究会会誌22号・昭和54年)
・・・と書かれているが、
2016年発行「かほく市 指江ジュウサンザカ遺跡・多田ツルガダン遺跡」の発掘報告書によると、
指江古墳のすぐそばの古墳状隆起が調査されている。(主要地方道高松津幡線の改築工事に伴う調査)
調査の結果、指江ジュウサンザカ遺跡のマウンド状高まりは古墳ではないと判断された。
弥生時代後期の竪穴建物、土坑などが検出されて、集落跡であることが分かった。
壺や高杯などの弥生土器が出土し、県教育委員会から文化財として認定された。
多田ツルガダン遺跡には、中世の集落跡や古墳時代後期の須恵器窯があったと考えられているが、
古墳時代後期の集落は丘陵の反対側にある指江B遺跡と考えられている。
指江ジュウサンザカ遺跡のマウンド状高まり
平成23年の調査から5年ほどしか立っていないのに
もう雑木林となってしまった・・・。
昭和54年(1979)の考古学研究会会誌と平成28年(2016)の報告書の中の地形図が、
同じ場所でも全然違う地形図に見える・・・!
塚越1号墳 県指定史跡 |
かほく市宇気 撮影日2017/4/16 |
かほく市宇気の鋳鍛工業団地の「石川可鍛製鉄」の建物の奥(東側)に、
塚越1号墳とその南の方形周溝墓(5号墳)が史跡公園として残されている。
塚越古墳群は、宇ノ気川に面する台地の縁辺につくられた古墳群 前方後方墳1・方墳2・円墳2の計5基 工業団地造成のために、土砂を崩していたところ見つかった。 発掘をしようとしたところ、既に2号墳は破壊されていた。 かろうじて1号墳は遺跡として整備され残った。
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弥生時代の方形周溝墓から古墳に移行する時期の貴重な遺跡とみられている。 そのほか、溝状遺構や小鍛冶炉跡(奈良時代後半)と考えられる土坑が確認されている。 |
少し遅い花見だ!
塚越1号墳 | |
全長18m(南北18m・東西16m)の前方後方墳 周溝がある。 埋葬施設は3基検出されている。 箱形木棺を埋葬したと考えられていて、 その墓壙からヤリガンナ2・ノミ頭状鉄鏃1・ガラス製小玉1が出土 東側周溝の底からは、高杯などとともに装飾壺が破砕された状態で出土し、 墓前祭が行われた痕跡と考えられている。 古墳時代初頭(4世紀)の築造と推定されている。 塚越1号墳実測図 考古学研究会会誌22号より引用加筆 (方形周溝墓と考えられている5号墳は、発掘時から半分しかないようだ。 1972年に発掘調査されているが、その時の調査では埋葬施設は1基しか確認されていないので、 その後追加調査されているのかもしれない。) |
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1号墳全景 季節柄、桜がきれいだ! |
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1号墳後方部 左に前方部 |
後方部の埋葬施設がレンガで示されている。 |
後方部から前方部を見る |
前方部から後方部を見る |
溝状遺構や方形周溝墓が、1号墳の南側に保存されている。
溝状遺構の形がレンガで示されている。 1号墳の前方部そばにある。 |
5号墳の形がレンガで示されている。 1号墳の南側にある。 1号墳に先行する方形周溝墓と考えられている。 |
塚越古墳群は今回は14年ぶり2回目の訪問だが、
前回の記述が間違っていることに気付いたので、今回訂正いたします。