北村さんちの遺跡めぐり
更新日2016/6/24
大聖寺城跡 加賀国府を考える 河田山古墳群 ほか |
2016/3/6ほか |
2015年秋から2016年春にかけての、地元・石川県加賀の話題あれこれ・・・
大聖寺城跡発掘調査現地説明会 |
加賀市大聖寺八間道 |
平成28年(2016)3月6日、大聖寺城跡(錦城山)発掘調査現地説明会に参加、初めて大聖寺城跡の見学に行く。
錦城山城址保存会のすばらしいホームページがあり、散策マップがあったので、
その散策マップと当日資料を参考に、大聖寺城跡の配置図を作った。
大聖寺城跡配置図 右が、北です |
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大聖寺城跡とは、 錦城山(標高67m)の名称でも知られる16世紀後半の城跡。 加賀市では、平成23年度から、 現況確認のための発掘調査を行っている。 26・27年度は「対面所」といわれる場所の発掘が行われた。 |
「対面所」と呼ばれている所なので、城に用事がある人たちと、城側の人が対面する場所だろうと考えられていたが、
今回の発掘で、建物土台石とみられる遺構が確認され、「対面場所」の可能性が高くなってきた。
発掘の成果 当日資料から | |
対面所では、礎石建物の土台石とみられる大きく平たい石が5箇所で確認された。 ほかにも、掘っ立て柱建物の可能性がある柱穴も調査区域に散らばっている。 土層の観察からは、少なくとも3回にわたり、地盤の造成が行われたことも明らかになった。 造成土の下は、水や泥が溜まった沼地になっている箇所もある。 当時の土木技術をもって、何とか建物が建てられるようにと盛土を繰り返したことが想像できる。 土台石、柱穴とも、必ずしも一直線上には並ばず、また調査区外へも建物は広がるようだ。 同時期に存在したというよりは、造成を繰り返す中で建て替えが行われたと考えられる。 遺物は、土師器が若干出土しているほか、石製の盤のようなものも確認されている。 対面所は地区全体が岩盤で囲まれ、地区内は3段の平坦面が続いているが、 本来は岩盤でできた大きな谷であったと推定される。 曲輪として平坦面を造成するため、 壁際は岩盤がほぼ垂直に立ち上がり、簡単には登ることができない構造となっている。 平成26年度の調査では、壁際を切土するとともに、壁沿いに側溝が設けられていることも確認された。 |
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地面は水気が多く、ぐちゃぐちゃで、元は沼地だったというのがよくわかる。
現説終了後、大聖寺城跡に登る。
大聖寺城跡 | |||
大聖寺城址・錦城山の由来 (説明板から) 標高約67mの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、 加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。 現在の配置は豊臣家臣の溝口秀勝が 天正11年(1583)大聖寺領主となって四万四千石で封ぜられたころに修復したと推定される。 本丸を始め二の丸・鐘が丸などか巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防備を固めていた。 慶長3年(1598)溝口秀勝が越後新発田に転封した後、 小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が七万石の領主として入城した。 慶長5年、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。 同年8月3日早朝、山口軍1200に対して前田軍は25000の圧倒的兵力で攻め立て、 山口親子を始め多くの将兵が討ち死にした。殿閣を焼く煙は天にそびえたという。 落城後前田利長はすぐに修築し城代を置いたが、 元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、以後再建されなかった。 藩政時代はお止め山として一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。 現在でも貴重な動植物が多く、秋の紅葉の美しさから 明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。 大聖寺という地名は、 古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名に由来しているといわれている。 |
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手前の対面所から奥の二の丸・本丸に向かう |
二の丸 |
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大聖寺城 左・本丸へ 右・二の丸へ |
櫓台跡 |
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手前が本丸跡 奥中央の櫓台跡から左に土塁が続いている。 山口玄蕃頭宗永公の碑が立てられている。 |
本丸跡 左側には土塁がある |
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大聖寺城 本丸跡より対面所跡を見下ろす ブルーシートが見える。 |
本丸からの眺め 眼下に錦城小学校が見える。 |
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左階段を行くと鐘が丸 右に行くと本丸。 |
鐘が丸跡 |
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左奥に鐘が丸跡がある。 右側に矢竹が生えている。弓矢に使ったのか? |
贋金造りの洞穴のところからも城跡に登れる。 白く見えるのは「贋金造りの洞穴」説明板 |
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贋金造りの洞穴 明治元年明治維新政府から越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩は、 この洞穴の中で贋金を製造した。 銀製品をとかし弐歩金を造り山代温泉の湯に浸し通貨として広く通用し政府の命を果たした後に 露見に及び製造責任者市橋波江に切腹を命じた。 しかし子息には倍の禄を与えて功に報いた。 この事件をパトロン事件という。(パトロンとは弾薬の意味)
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錦城山保存会のホームページによると、平成27年度は、15回の錦城山清掃活動が行われている。
保存会のおかげで、大聖寺城跡がきれいに保たれているんだと、実感した。
長流亭 (重要文化財) 錦城山の東のふもと、江沼神社の西北隅にある。 | |
長流亭は、大聖寺藩三代藩主前田利直の休息所として、 1709(宝永6)年に、藩邸の庭園の一隅に大聖寺川を臨むように建築された。 当初は「川端御亭」と呼ばれていたが、後に利直の雅名からとって「長流亭」と称された。 建物は、桁行5間(9.5m)梁間4.5間(8.4m)で 南面に玄関を配し、東面に土庇が附く一乗寄棟造、こけらぶきです。 1934(昭和9)年に国宝に指定され、 1950(昭和25)年文化財保護法の施行により重要文化財に改称された。 数次にわたり修復工事が行われてきたが、 建立から280有余年経った現在も落ち着いた姿を見せている。 |
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すぐ横で、枯れ葉を燃やしていたので、靄がかかったようになっている。
長流亭と江沼神社も大聖寺城の範囲に入ると考えられている。
すぐそばを流れる大聖寺川から眺めると風情のある建物なのだが・・・・
予約をすれば、内部の見学もできるそうだ。
江沼神社 錦城山の東ふもとにある。入口は東側。 | |
江沼神社は、宝永元年(1704年)、大聖寺藩三代藩主・前田利直邸内に 前田家遠祖の菅原道真公の霊を祀る天満天神社を建立したのがはじめとされ、 藩祖・前田利治公をお祀りした松嶋神社が明治10年に江沼神社と改称、 同12年天満天神社を合祀、同16年に県社に昇格した。 |
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江沼神社鳥居 |
千鳥破風唐破風付入母屋造りの拝殿 |
石垣の上に建てられた流造の本殿 |
深田久弥の文学碑 「日本百名山」の著者・加賀市出身 |
江沼神社庭園 加賀市指定文化財 この庭園は、旧大聖寺藩の園地で、 3代藩主前田利直公が宝永6年(1709)藩邸再建に伴い長流亭とともに築造したもの。 壮大なひさご池、中島にかかる八ッ橋、 石組の間から湧き出る清水(錦城山の下から引いているとも伝える)など、 作庭にあたっては今の兼六園の影響があったと推定されている。 明治以降、江沼神社建築など周囲の改変はあったものの 重要な池・島・涌泉や石組は原形を残した数少ない池泉回遊式武家庭園である。 (説明板から) |
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境内に大聖寺川の船着き場がある。 運が良いと、「大聖寺流し舟」が見られる。 |
大聖寺流し舟は、予約すれば乗船できる。
加賀国府を考える |
小松市河田町(コウダマチ)ほか |
2016年2月14日、小松市埋蔵文化財センター主催「加賀国府を考えるpart4 瓦に学ぼう 加賀国分寺」という講座に参加。
出土した瓦から、加賀国分寺の場所を推定してみようという、この講座は、「国府公民館」で開催された。
国府とは奈良時代から平安時代に全国の国ごとに置かれた役所。
国府の近くに国分寺や総社(惣社)があるという可能性が高いので、
加賀国府・加賀国分寺・加賀総社神社の、どれか一つが確定すれば、あとの二つはその近くを探せばいいということになる。
この河田町には、「国府(コウ)」という地名が残っていて、その近くに総社と考えられる神社がある。
国分寺での使用が推測されている瓦が国府台地周辺の集落遺跡で出土している。
(講座があった日は雨だったので、写真は後日撮影した。)
十九堂山(ジュクドヤマ)遺跡 | 小松市古府町 |
十九堂山遺跡 瓦が出土している。 国分寺推定地である。 現在は墓地となっている。 |
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十九堂山遺跡のあたりは、 周りより一段高くなっているので、 国府や国分寺の立地には ぴったりかもしれない・・・・ |
十九堂山遺跡の400mほど南に石部神社がある。
加賀総社 石部神社 | 小松市古府町 |
現地の由緒書きによると 弘仁14年(823)、越前国から分かれて加賀国ができた。その府庁のあったところがこの近くである。 その南に当社がすでに祀られていたと伝えられる。 府の南にあったので府南社(フナンシャ)ともいわれ、この地を府南山と号した。 当時国司は、毎月一日に加賀の主な神社八社を廻り参詣した。 やがて当社を加賀国総社とし、ここを参詣することによって八社を廻るのに代えた。 当時の当社の隆盛と規模の雄大さは、加賀国第一であったといわれている。 延喜年間(904)に「式内社」に列せられ、神名帳に登録されている。 安元2年(1176)に国司と白山衆徒との争乱よる涌泉寺事件に関係して、神社は大きな被害を受けた。 その後は往年の盛況はなく、応永28年(1421)の足利義持判書に 「南禅寺領加賀国府南社御供田云々」とある如く、南禅寺と所領争いもあった。 慶長5年(1600)小松城主丹波長重は、社殿を修理し宝物を納められた。 加賀3代藩主前田利常は厚く当社を尊信し、歴代藩主もまた厚く敬い奉幣した。 明治5年 郷社となる。 現神殿は昭和37年に造営された。 現在は盛時の面影はない。 付近に残る数々の遺跡や旧地名に往年の状況を偲ぶことができる。 (説明板から) |
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北から見た石部神社 「加賀国惣社府南□□石部神社」と刻まれた石碑 |
一の鳥居 |
参道 |
二の鳥居と社殿 |
参道脇に置かれている石は、 昭和初期に十九堂山が整地される際に 加賀国分寺の礎石を持ってきたものといわれている。 塔心礎みたいに見える・・・? |
実は、この国府地区には、現在も国分寺がある。
現代の国分寺は、真宗大谷派
聖武天皇の時代の国分寺との関係は・・・ないだろうな?
小松市経済観光文化部発行の「加賀国府を訪ねる」というパンフレットもあります。
小松市国府地区の遺跡
「加賀国府を訪ねる」パンフから引用
黄色い部分が加賀国府推定地
平成28年度には、能登の七尾市で「国府サミット」が開かれるそうで、開催が楽しみだ!!
河田山古墳群とその周辺 |
小松市国府台ほか |
2015年秋は、小松市埋蔵文化財センターの遺跡調査ボランティアに参加し、数回河田山古墳公園に通い、
河田山1号墳の周辺の測量を体験した。
次回は移築されている12号墳石室内の床の発掘だということだったけれども、いつになるのでしょうね?
河田山古墳群配置図
(河田山資料館展示から)
■ | 前期古墳 |
■ | 中期古墳 |
■ | 終末期古墳 |
■ | 時期不明古墳 |
■ | 保存古墳 |
河田山古墳群は
前期には前方後方墳や前方後円墳という首長墓形式のものが各尾根に分散して築かれたが、
中期に入ると伝統的な形の方墳が特定の尾根筋に連続し、小型のものは密集する。
際だった有力墓はみられず、点在する円墳の内容がやや充実する。
小地域の氏族墓域としての性格が強く、古墳群の展開は5世紀末には終わりを迎える。
現在の河田山古墳群周辺
12号墳(移築)・1号墳・9号墳が河田山古墳公園に保存されている。
2号墳・4号墳・5号墳・8号墳が現状保存されている。
他は消滅
5号墳の場所は、まだはっきりしない・・・・。
埴田山古墳群の●は、今回見学した古墳(後述)
河田山古墳群 (コウダヤマコフングン) | ||
河田山8号墳 撮影日2015/10/26 径10mほどの円墳か? 小松埋文センター長の樫田さんの案内で 遺跡調査ボランティアの人たちと一緒に見学。 |
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河田山2号墳 撮影日2015/10/27
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河田山4号墳 撮影日2015/11/7 径20m位ありそうだが、 ジャングルの中。 一部削られているようにも見える。 |
河田山の火葬墓 | 河田山資料館展示から |
河田山1号墳の南西斜面で、土を掘りくぼめただけの簡単な土壙が数箇所発見された。 そのうちの2基の土壙から、火葬骨をおさめた須恵器の骨蔵器が出土した。 1号火葬墓は、縦約65cm・横約50cmの隅を丸くしあげて、四角くほりこんだ形の土壙である。 この土壙の山側隅に、丸底の須恵器壺を利用した骨蔵器が埋納されていた。 2号火葬墓は掘りこまれた明瞭な土壙ではないが、 須恵器坏身を蓋にし、台付須恵器壺を転用した骨蔵器が納められていた。 いずれも須恵器の特徴から奈良時代の火葬墓である。 |
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1号火葬墓骨蔵器 |
2号火葬墓骨蔵器 |
国府創立以前の有力者の墓域が、奈良時代においても続いていたことが注目されている。 |
河田山古墳公園の南東約200mの埴田山丘陵先端に古墳がある。
埴田山古墳群の中の1基だ。
埴田山古墳群 | 小松市河田町 撮影日2015/10/26 2016/3/6 |
河田山古墳群の南にある丘陵には埴田山古墳群がある。 埴田山古墳群の位置 (河田山資料館展示から) 今回見学した古墳の名称は、わからない・・・。 |
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河田山の麓(北)から見た古墳 |
立派な墳丘。径20m位ありそうだ 周溝らしきものもある。 |
加賀の古墳のリストなどでよく見る那谷金比羅山古墳。見学できるのか?
那谷金比羅山古墳 | 河田山資料館展示から 撮影日2015/10/26 |
径約10mの円墳 極彩色の壁画が発見された高松塚古墳と同じ形態の横口式石槨とよばれる埋葬施設をもつ。 わずかに残された2個の須恵器から、8世紀初めの築造と推定され、 北陸地方の古墳の中で最後につくられた古墳と考えられている。 |
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実測図 |
石槨の写真 |
もう、この那谷金比羅山古墳は見学できないそうである。(消滅)
加賀三代藩主 |
小松市河田町 |
河田山古墳公園の西約500mの加賀産業道路沿いにある。
「ひろい動物病院」の南隣り。
前田利常侯灰塚 |
塚の頂には、「前田利常灰塚之址」の碑が立つ |
故 中納言前田公 諱(イミナ)利常 灰塚の碑 刻まれた内容 「加賀国能美郡小松邑の東北2里、徳橋郷三宅野で火葬した所である。 我が十世の祖である中納言利常公が亡くなられ、遺命によって荼毘にした。 遺骨を野田山に葬り、燃え残りをここに埋め、灰塚と称した。 公は、小松城で万治元年(1658)に亡くなられた。 今(明治11年 1878)をへだたること、二百二十有余年である。 この塚は、今は毅然と、このようにある。 しかし、世の移り変わりが激しく、 形の変わることをおそれてこの事を記し、石碑を建てた。 明治11年7月 十世孫正三位前田斉泰 謹識 」 |
来丸古墳群 |
能美市来丸町 |
2011年に能美市の来丸古墳群の見学に行った。
最近、そばを通りかかったら、説明板が新しくなっていたので、新しい説明板の紹介を・・・。
来丸古墳群のページ
2011年見学時の説明板 |
2016年見学時の説明板 |
来丸古墳群分布図 (説明板から) この図は、北が下です。 来丸古墳群は、4基の円墳からなる 群中最大の2号墳は、 直径21m・高さ2.5mで、幅3〜4mの周溝がめぐっている。 来丸物見山古墳群は、3基の円墳からなる。 直径8.5m〜13mの大きさで、 ここから出土したと伝わる土師器の碗が 能美市立博物館に保管されている。 来丸古寺古墳群は、、6基の円墳からなる。 直径7.5m〜14mの大きさ いずれも調査がされていないので詳細不明だが、 5世紀後半〜6世紀前半の築造と推定されている。 能美古墳群よりひとまわり小さい規模を主体としているので、 この被葬者は、能美古墳群に眠る人々を支えた村の有力者と考えられている。 伝 来丸物見山古墳群出土の土師器 (以上 新しい説明板から) |