北村さんちの遺跡めぐり
更新日2012/9/28

加賀藩前田家墓所へ 2012/5/27

2012年5月、新聞に「加賀藩主・前田家墓所の清掃が、有志によって行われた。」という記事を読み、
前田家墓所の見学に向かう。
その後、6月には「熊出没」のニュースが報じられたが・・・・・・。

金沢市     地図g

加賀藩前田家墓所
国史跡

金沢市野田
撮影日2012/5/27

古墳時代の方墳のような、お墓にびっくりです!

 野田山墓地の最も標高の高い一角に、
   江戸時代の加賀藩主前田家の歴代当主をはじめその正室、子女などの近親者たちが眠る前田家墓所がある。
 平成21年2月12日、野田山の加賀藩主前田家墓所は、富山県高岡市の前田利長墓所とともに国史跡として指定されている。

 藩祖前田利家の実兄利久)がこの地の山頂近くに葬られたのが、野田山墓地の始まりとされている。
 利家以降、歴代藩主とその正室のほんんどは野田山に葬られた。
 前田家墓所の周囲には家臣の墓が造られ、のちには町人の墓も立ち並ぶようになり、現在の野田山墓地へと続く。
 現在は加賀藩主前田家墓所は成巽閣が管理をしている。

 前田家の墓はいずれも土を高く盛り上げた土饅頭形式。
 藩主とその正室の墓は四角形の土檀を階段状に重ねた特徴的な外観をしていて、
         一見、古墳時代の方墳によく似たものとなっている。
 墓の周囲には溝を廻らせて外界と墓域を区画している。
 大きさは、利家墓で一辺約19m、他の藩主墓でも一辺約16mと、他藩では類を見ない大規模なものとなっている。
       (いいね金沢・金沢市公式ホームページから)

      前田家墓所配置図(現地・成巽閣が立てた案内板から作成)

没年 説明板 記号 名前 没年 説明板
①A 藩祖 利家公 1599 ⑧A 8代 重 1753
①B 藩祖夫人 芳春院 1617 ⑨A 9代 重靖(シゲノブ)公 1753
①C 藩祖兄  利久公 1587 ⑩A 10代 重教公 1786
豪姫(利家の四女) 1634 ⑩B 10代夫人 寿光院
②A 2代 利長公 1614 ⑪A 11代 治脩(ハルナガ)公 1810
②B 2代夫人 玉泉院 1623 ⑪B 11代夫人 法梁院
③A 3代 利常公 1658 ⑫A 12代 斉広(ナリナガ)公 1824
③B 3代夫人 天徳院 1622 ⑫B 12代夫人 真龍院 1870
③C 富姫(利常の四女) 1662 ⑬A 13代 斉泰公 1884
④A 4代 光高公 1645 ⑬B 13代夫人 景徳院 1870
④B 4代夫人 清泰院 ⑭A 14代 慶寧公 1874
⑤A 5代 綱紀公 1724 ⑭B 14代夫人 霊鑑院
⑤B 5代夫人 松嶺院 ⑭C 14代夫人 顕光院(継室)
⑥A 6代 吉徳公 1745 ⑮A 15代 利嗣公
⑥B 6代夫人 光現院 ⑮B 15代夫人 慈照院
⑦A 7代 宗辰(ムネトキ)公 1747 ⑰A 17代 利建公
⑦B 7代夫人 梅園院

現在、野田山・加賀藩主前田家墓所の面積は約8.6haを測り、墓域内には約80基の墓が建てられている。
 成巽閣が管理しているが、富姫の墓(③C)は宮内庁の管理、豪姫の墓はこの図には描かれていない。

 藩祖前田利家の墓は前田家墓所内の最も標高の高い一角に築かれていて、
そのすぐ横には利家の正室・まつの墓が、さらにその横には利家とまつの長男で加賀藩前田家2代利長の墓がある。

 代々の加賀藩主の多くは野田山の前田家墓所に葬られた。
4代藩主光高と9代藩主重靖は金沢市内の天徳院に葬られたが、昭和20年代に天徳院から野田山へと改葬された。
現在、全ての加賀藩主の墓を野田山の前田家墓所でみることができる。

加賀百万石の礎を築いた忠臣を顕彰する「亀趺碑(キフヒ)」
亀の上に石碑が乗っている。

駐車場のそば、前田家墓所の手前にある
  奥村家の墓所入口に立っている。

亀趺碑は、全体の高さ3.3m
 戦国期の末森城の戦い(1584)などで藩祖利家のために活躍した
 奥村永福(1541~1624)の軍功をたたえるため、
 1673年(5代藩主綱紀の時代)に建立された。
碑文は綱紀に仕えた儒学者木下順安(1621~98)が記した。
全国の亀趺碑、約250例の中でも4例しかない最古級の形式であることが確認された。

これら4例は「山口重信墓碑」(大阪府東大阪市、1647年)などで1639~52年にかけて建立された。
永福碑はそれから約20年後だが、碑上部に方形の穴を横にうがち、他の4例にはない中国古来の形式をとっている。

亀趺碑とは
亀の形を刻んだ台石(趺)の上に碑を立てた墓碑や顕彰碑。
 中国で後漢(25~220年)時代にはじまり、高位高官の墓石にのみ許された。
 亀は主君を支える象徴で、身分秩序を重んじた儒教の思想を反映。
 日本は江戸時代に始まり大名墓などで採用された。

(奥村家の亀趺碑については、北陸中日新聞 2013/6/21のトップ記事に載った内容を引用させていただきました。)

奥村家は、加賀八家の一つ。

 加賀八家
 加賀藩では、元禄3年(1690年)以降、8つの家柄が藩の重役である年寄衆を代々世襲した。
 これを八家といい、家臣の中でも別格の扱いとされ、
  月交代で藩の執政を担当、重要事項の決定には合議制をしいた。
 奥村宗家、奥村支家、本多家、前田家(土佐守系)、
  前田家(長種系)、横山家、長家、村井家の八家

 加賀八家のうち、6家は野田山に墓所があり、その面積は、併せて約14haになる。
  八家墓所は、前田家墓所をとり囲むように配置され、
      北東側には長(ちょう)家、
      北側には前田土佐守(とさのかみ)家、奥村(宗)家、横山家、
      西側には村井家、奥村(支)家がある。
  八家の本多家、前田長種(ながたね)家は金沢市内にあるそれぞれの菩提寺(ぼだいじ)に墓所がある。
                  (いいね金沢・金沢市公式ホームページから)

 

①A  藩祖 前田利家の墓
説明文
 高徳院、名は犬千代、後に孫四郎、永禄5年(1562)には、又左衛門と改める。天文7年(1538)尾張国荒子城主前田利春公の4男として生まれた。
 利家公は14才のときに織田信長に仕え、生涯40回以上の戦いに参加、数々の武勲をあげていた。
なかでも初陣の海津の戦い(1551)、桶狭間、長篠、賤ヶ岳の戦いや末森城(現石川県押水町)の激戦(1584)は有名である。また、「槍の又左」と異名をとるほど槍の名手であったという。
 天正13年(1585)9月、豊臣秀吉から羽柴筑前守の号を譲られている。秀吉の天下統一の大業は、利家公に負うところが多大であったといわれている。
 大名としては、元亀元年(1570)、近江国長浜で1万石を領したのにはじまり、越前府中(福井県武生市)で3万3千石余、ついで能登一国を領有し、加賀国石川河北両郡を秀吉から増封され、天正11年(1583)4月25日(新暦6月14日)に金沢城(当時は尾山城)に入城した。利家公が金沢入城と共に加賀藩の時代が始まったのである。
 この日を記念して毎年6月14日には封国祭と百万石祭が盛大に行われている。
 慶長4年(1599)大阪城で逝去、享年62才。
 金沢の尾山神社は公を祭神として祀っている。

 

①B  藩祖利家公夫人の墓

夫の利家公の隣に葬られている。
説明文
 芳春院、名は松、または昌。
 天文16年(1547)尾張国海東郡沖の島に生まれる。
 同19年利家公の邸に入り、後にその正室となる。当時利家公は尾張国荒子城主であった。
 利家公が戦国時代を生き抜いて百万石の太守に出世したが、その夫人としての芳春院の内助の功は高く評価されている。
 関ヶ原合戦の後(利家公の没した翌年)徳川方と加賀藩との融和のために進んで人質となつて、江戸へ送られたのである。
 慶長19年(1614)までの15年の長い間、加賀藩のために、忍従の月日を過ごされたのである。
 元和3年(1617)金沢で没した、享年71才。

  

①C  前田利久公の墓  藩祖利家公の兄



藩祖利家公より、
標高が高い場所に葬られている。
説明文
 尾張国荒子城主前田利春公の嫡男として生まれる。
 永禄3年(1560)父の跡を継いで尾張荒子城主となったが、永禄12年(1569)に織田信長の命によって弟利家公に家督を譲った。
 利家公は常に兄を重んじ、利家公が金沢城に入城(1583)後、利久公を金沢に迎えたのである。
利久公は客分として鄭重に待遇され、家臣からは御隠居様と呼ばれていた。
また利家が末森の戦いなどで出陣した場合には、金沢城の守護を代任したりした。
 天正15年(1587)没する。
 利家公は野田山に墓所を定め、その最も高い所に利久公をはじめて埋葬したのである。

 

②A  2代 利長公の墓


父利家公と母・芳春院のそばに葬られている。
説明文
 瑞龍院。
 初代利家公の嫡男として永禄5年(1562)尾張国荒子に生まれる。母は芳春院。
 幼名利勝、後に利長と改めた。利家公と共に戦国歴戦の武将である。
 慶長3年(1598)2代藩主となったが、同4年には、利家公が逝去され、翌5年には関ヶ原の合戦が起きるなど徳川方と大阪方との関係が悪化し、雄藩たる加賀前田氏の去就は天下の注目を集め利長公の心労は並々ならぬものがあったのである。
 利長公の在位はわずか7年であるが、金沢城の修築にキリシタン大名として有名な高山右近を用いて百間堀の石垣などを作らせた。
 慶長10年に弟利常に藩主の座を譲り、自らは富山城に住まわれた。
 慶長14年(1609)には居城が焼失したので、海陸交通の重要な地である高岡に城を築き移り住んだ。 
 この間に高岡の開発に努め、今日の商工都市高岡の発展の基礎を築いたのである。
 慶長19年(1614)高岡城で苦難の多かった生涯を閉じた。享年53才。
 高岡の名刹瑞龍寺は公の菩提所である。

 

②B  2代利長公夫人の墓


夫の利長公よりも
標高が高い所に葬られている。

織田信長の娘だから、位が上なのか・・・
説明文
 玉泉院。名は永、天正2年(1574)織田信長の4女として生まれる。
 天正9年(1581)越前府中(福井県武生市)に入輿した。
 豊臣秀吉の側室淀君、2代将軍徳川秀忠の夫人崇徳院とは従姉妹である。
 利長公逝去後は玉泉院と称し、高岡より金沢城に移り、元和9年(1623)2月に没した。享年50才。
 金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称され、樹木・泉石を配し路地が造られ庭園とした。

 

中納言宇喜多秀家夫人 豪姫の墓
 前田家墓所の配置図には描かれていない。 2代利長公の近くにある。

新しい花が手向けられていた。

最近 はやりの歴女さんたちが
花を供えているのかもしれない。
説明文 (成巽閣が立てた説明板ではない)
 藩祖前田利家公の4女、母は芳春院(お松の方)。天正2年(1574)生まれ
 幼少の頃、豊臣秀吉の養女となり、天正17年宇喜多秀家に嫁ぐ
 関ヶ原の合戦の後、備前岡山城主宇喜多秀家は2人の男子と共に八丈島に配流。
 豪姫は生家前田家にて余生を送り61才で生涯を閉じる。寛永11年(1634)没
 この墓は三百有余年間、代々前田利包(修理)の子孫によって守り続けられた。
 現在は、豪姫を偲ぶ会(大連寺)にて守られている。
 豪姫菩提寺は、野町浄土宗大連寺である。

 

③A  3代 利常公の墓
説明文
 微妙院。初代利家公の4男として文禄2年(1593)金沢に生まれる。
 2代利長公に男子がなかったので慶長10年(1605)その跡を継いで藩主となる。年13才。
 2代将軍秀忠の二女珠姫を正室に迎え、徳川方との融和政策を進めたのである。
 利常公は改作法という画期的な農政を実施した。
 このため加賀藩百万石の治世が安定したのである。
 また美術工芸の振興に努め、さらに神社・仏閣の造営にも力を注ぎ、名工をまねいてこれに当たらせた。
 羽咋の妙成寺(利常の生母・寿福院の菩提寺、本堂他が国の重要文化財)、小松の小松天満宮(国の重要文化財)と那谷寺(国の重要文化財)、高岡の瑞龍寺(国宝)などはいずれも前田利常の時代に造営されたものである
 寛永16年(1639)長男光高に継がせ、小松に隠居所としての居城を作り晩年を過ごされた。
 その間に小松の商工業振興に務め、今日の隆盛の基礎をつくられたのである。
 万治元年(1658)小松で逝去した。享年66才。

利常公の墓のそばにある村井家墓所


村井家は加賀八家の一つ

 

③B  3代利常公 夫人の墓

百万石行列でおなじみの「珠姫様」の御墓

8人の子どもがいるのに、24才で亡くなっている。

夫の利常公とは少し離れたところに葬られている。
説明文
 天徳院。名は子々または禰々、後に珠姫。
 2代将軍徳川秀忠の2女で慶長4年(1599)伏見邸内に生まれる。
 同6年(1601)江戸より金沢へ入輿、利常公へ来嫁する。珠姫3才の時である。
 公子女8人を生み元和8年(1622)24才で没した。
 金沢小立野に葬り、一寺を建て、おくり名をとり、天徳院と称した。
 50年後の寛文11年(1671)に利常公の墳墓のあるこの地野田山に移葬された。
 公子長男光高公は加賀藩を継ぎ、二男利次公は分藩し富山藩祖、三男利治は大聖寺藩祖である。

   

③C  3代藩主利常4女 八条宮智忠親王妃富子御墓

宮家に嫁いだが、
前田家墓所に墓が造られている。
説明文
 元和7年(1621)3代藩主利常公の4女として生まれる。母は天徳院。
 寛永19年(1642)八条宮智忠親王の妃となる。
 寛文2年(1662)京都にて逝去され、霊柩を利常公の墳側に帰葬した。
 御墓は明治36年より宮内庁の管轄となっている。
 京都の桂離宮は八条宮初代智仁親王の時創始されたが、2代智忠親王が加賀百万石のお姫様を奥方に迎えられたので、加賀藩という大きな後ろ盾ができて、新御殿を増築し庭園も現在みられるような美しいものに完成することができたのであろう。

 

④A  4代 前田光高の墓
説明板
 陽広院。3代利常公の嫡男で元和元年(1615)に金沢で生まれる。
 母は将軍秀忠の娘珠姫(天徳院)、夫人は3代将軍家光の娘(水戸光国の姉)を迎えたため、徳川家とは至極円満な間柄となった。
 公は非常に聡明な若君で学問を好み、江戸の儒家林羅山を師とし、和歌は烏丸光広について研鑽を積んだ。数々の著書が残されている。
 寛永16年(1639)4代藩主となったが、わずか6年目の正保2年(1645)に31才の若さで逝去されたので藩にとっても大きな痛手であった。
 幸いにも実子に5代綱紀公がおられ危機をまぬがれた。
 重要文化財尾崎神社は公の造営である。

  

⑤A  5代 綱紀公の墓
説明文
 松雪院。寛永20年(1643)江戸で生まれる。
 4代光高公が夭折されたので、正保2年(1645)嫡男綱紀公がわずか3才の時、5代を継がれたのである。
 3代利常公が存命であったので、その後見となっている。
 将軍家綱の一字をもらい初め綱利といったが後に綱紀と改めた。
 正室は会津の保科正之(3代将軍家光の弟)の娘であり、徳川家とは一段と密接な関係になった。
 公の治世は79年の長きにおよび、この間に素晴らしい業績を残された
 自らも学者として著名であるが、その署は中国の乾隆四庫にもまさるといわれ、かの有名な新井白石が加賀は天下の書庫なりと感嘆したほどである。
 また多くの名工を招き美術工芸の発達をうながし、薬学の研究、加賀宝生の奨励など文化面での功績は数えきれぬほどである。
 さらに内政面においても、藩職制の整備をはじめ土木事業、農政施策や救貧事業などみるべきものが多かった。中興の英主といわれている。
 享保9年(1724)5月、82才の長寿を全うされた。

  

⑥A  6代 吉徳公の墓
説明文   読めない所がある。
 護国院。元禄3年(1690)、5代藩主前田綱紀の3男として江戸で生まれる。
 幼名は犬千代、後に江戸幕府 第5代将軍・徳川綱吉の一字をもらい吉治、後に吉徳と改めた。
 享保8年(1723)父・綱紀が高齢と病のため、家督を譲られて第6代藩主となる。
 公の存命中は元禄・享保の文化爛熟期であり、一般に贅沢の気風が流れ、その反面、家臣の窮や藩財政の逼迫など、加賀藩の財政は急速に悪化した。
 そこで財政の建て直しに努め、身分が低いが財政的手腕のある大槻伝蔵を重用し、一時大いに実効をあげたが、老臣たちから反発を受け、後の加賀騒動の原因になったといわれている。
延亨2年(1745)没した。享年56才。

吉徳公の墓の横にある墓


3つの小さな土饅頭が並ぶ。
幼くしてなくなった子どもの墓。

  

⑦A  7代 宗辰(ムネトキ)公の墓
説明文
 大応院。6代吉徳の長男。亨保10年(1725)金沢に生まれる。
 延亨2年(1745)7代藩主となったが、在位わずか1年半で没した。享年22才。
 治世上著名なものはないが、加賀騒動の張本人といわれる大槻伝蔵朝元が越中五箇山へ追放され、その牢屋で自殺するという事件があった。

   

⑧A 8代 重凞(シゲヒロ)公の墓
説明文
 謙徳院。6代吉徳公の2男。亨保14年(1729)江戸で生まれる。
 延亨4年(1747)から宝暦3年(1753)までの6年間在位し、江戸で没した。享年25才。

  

⑨A  9代 重靖(シゲノブ)公の墓
説明文
 天珠院。6代吉徳の5男。享保20年(1735)金沢に生まれる。
 宝暦3年(1753)位を継いだが、わずか5ケ月間在位しただけで、同年9月に没した。享年19才。

  

⑩A  10代 重教公の墓
説明文
 泰雲院。6代吉徳公の7男として寛保元年(1741)金沢で生まれる。
 宝暦4年(1754)から明和8年(1771)まで在位し、天明6年(1786)46才で没した。
 6代吉徳公以後、藩主の交替は7・8・9・10代と矢継ぎ早に行われ、そのため藩の財政は逼迫した。
 その救済策として銀札という紙幣を発行したが、極度のインフレが生じ、各所で一揆がおこり、藩内は騒然とした。
 銀札は1年目で発行を停止したが、藩の財政に尾を引く結果となった。
 宝暦9年(1759)には大火が起き(宝暦の大火)金沢の市街は二日間燃え続け、その9割ほどが灰燼に帰すという惨事があった。
 さらに天明の大飢饉に見舞われるなど、事件が続発したのであった。

   

⑪A  11代 治脩(ハルナガ)公の墓

夫婦が並んで葬られている。
説明板
 大梁院。6代吉徳公の10男として延亨2年(1745)金沢で生まれる。
 明和8年(1771)に藩主となる。
 7代から11代までの5人の藩主は、6代吉徳公の実子である。
 まさか十男が藩主になるとはだれも予想しなかったが、十代重教公には後嗣がなかったので越中の名刹勝興寺の住職に入れられたのを呼び戻され還俗して11代目を継いだのである。
 治脩公は学問の振興に力を尽くし、学者で家老の奥村尚寛を学校総奉行に命じ、藩の学校を創立させた。
 学問の明倫堂、武芸の経武館の両校で初代明倫堂学頭には新井白蛾が任じられた。
 また、小松にも集義堂、修道館の二校を開校し、藩臣の子弟は入学するためにきそって勉学に励んだのである。
 なお、7代から11代まで短期間に藩主の交替が行われたのでその儀式の費用が藩財政を圧迫し、ひいては藩全体に影響したことは否めない。
 享和2年(1802)に位を譲り文化7年(1810)に没した。享年66才。

  

⑫A  12代 斉広(ナリナカ)公の墓
説明文
 金龍院。10代重教の2男として天明2年(1782)金沢で生まれる。
 初めは利厚といったが、将軍家斉の一字をもらい斉広と改めた。
 享和2年(1802)から文政5年(1822)まで在位し文政7年に没した。享年43才。
 斉広公は時勢を深く洞察し洋学の移入を急務と考え蘭医宇田川玄真をはじめ、本多利明、伊能忠敬らの学者を招き藩士に教えたので、黒川良安、西村太沖、遠藤高璟らの科学者や富田景周、津田鳳卿、奥村栄実らの学者が輩出した。
 兼六園が完成したのも事蹟の一つである。
 竹沢御殿という広大な屋敷を造営し、そこに時鐘を置き人々に正しい時刻を知らせた。
 「兼六園」という名称は白河楽翁(松平定信)が命名したもので、宏大・幽遂・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ねることをいう。

  

⑫B  12代斉広公 夫人の墓

夫の斉広公の向かい側の、
少し標高が高い所に葬られている。
説明文
 真龍院。名は隆
 前関白太政大臣鷹司政凞の2女として、天明7年(1787)4月に生まれる。
 文化4年(1807)12月江戸に入輿し、文政7年(1824)に斉広公が43才で没した後、剃髪して真龍院と称した。38才の時である。
 天保9年(1838)江戸より金沢に移り金沢城の金谷御殿に入った。
 文久3年(1863)には、13代斉泰公が真龍院のために造営した巽御殿(現在の成巽閣)に移り住んだのである。
 江戸より金沢の旅は自筆の紀行文(道記一巻)として残されている。
 明治3年(1870)6月逝去、享年84才。

  

⑰A  利建の墓  現代の墓

左側 従四位・前田利建の墓

右側 前田政子の墓

累代の墓

今後は、この墓にみんな一緒に葬られる事となるそうだ。
成巽閣が墓所と指定した地域のすぐ外側にある。
 いわば、現代の墓である。

加賀藩の系譜

藩主に
なった年
藩主名 正室 《出身》
藩祖兄 利久 荒子城主前田利春の長男
(利家の兄)
1583 藩祖
初代
利家 荒子城主前田利春の4男 芳春院
1598 2代 利長 利家の長男
母 芳春院
玉泉院 《織田信長の四女》
1605 3代 利常 利家の4男
母 側室・寿福院
天徳院(珠姫)
 ≪2代将軍 徳川秀忠次女 母は継室・江≫
1639 4代 光高 利常の長男
母 天徳院
清泰院
 《(3代将軍・徳川家光の養女(水戸藩主徳川頼房の4女
 徳川光圀の姉)》
1645 5代 綱紀 光高の長男
母 清泰院
松嶺院 
 《会津の保科正之(3代将軍家光の弟)の娘》
1723 6代 吉徳 綱紀の3男
母 側室・町姫
光現院
 《尾張藩 第3代藩主・徳川綱誠の娘で徳川綱吉の養女》
1745 7代 宗辰
(ムネトキ)
吉徳の長男
母は吉徳の側室・浄珠院
梅園院
 《陸奥会津藩 第3代藩主・保科(松平)正容の娘》
1746 8代 重凞 
(シゲヒロ)
吉徳の二男
母は吉徳の側室・民(鏑木氏)
なし
1753 9代 重靖
(シゲノブ)
吉徳の5男
母は吉徳の側室・縫(奥泉氏)
なし
1754 10代 重教
(シゲミチ)
吉徳の7男
母は吉徳の側室・流瀬
寿光院
 《紀伊国紀州藩 第7代藩主・徳川宗将の長女》
1771 11代 治脩
(ハルナガ)
吉徳の10男
母は側室の常春院(園田氏
法梁院(正姫)
 《大聖寺藩の5代藩主・前田利道の娘》
1802 12代 斉広
(ナリナガ)
10代重教(隠居後)の2男
母は 側室・貞琳院(山脇氏)
維学心院(琴姫) 《高須松平勝当の娘》
継室は眞龍院(隆子) 《鷹司政煕(公家)の娘》
1822 13代 斉泰
(ナリヤス)
斉広の2男
母は側室・八百(小野木氏)
景徳院(溶姫)
 《11代将軍・徳川家斉の二十一女》
1866 14代 慶寧
(ヨシヤス)
斉泰の長男
母は11代将軍・徳川家斉の娘・溶姫
正室は霊鑑院(有馬崇子)
 《筑後久留米藩9代藩主・有馬頼徳の娘》
継室は顕光院(鷹司通子)
 《関白太政大臣を務めた鷹司政通の娘》
1869 版籍奉還
15代 利嗣 慈照院
17代 利建

 

源平ゆかりの史跡
鳴和の滝

金沢市鳴和
(撮影日2011/9/13)

義父の友達の家の近くに、名所「鳴和の滝」があるというので、見学に行く。

鹿島神社の脇にある鳴和の滝

滝というので、どうどうと流れるものだと思っていたが、
ちょろちょろと竹の樋から落ちる一筋の水だった。


安宅の関を通り過ぎた源義経主従は、ここまでくれば一安心と金沢市鳴和の鹿島神社で休憩することにした。
そこに安宅の関守富樫泰家がやってきて、地元の酒を差し入れた。
富樫の弁慶の知恵と義経の勇気に感服しての行動であった。
その酒で義経らと富樫は宴を開き、
 弁慶が「これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水(勧進帳より)」と延年の舞を舞った。

弁慶が舞っているそばには見事な滝が流れており、この滝は鳴和の滝と呼ばれ、ここ鳴和町の名前の由来になったと言う。
現在も鳴和の滝は流れてはいるが、残念ながらその滝に当時の面影は見ることはできない。


金沢市観光協会が立てた石碑の右上から
滝の水が落ちている。

見えないなぁ・・・。


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