末松廃寺
チカモリ遺跡
横江荘遺跡
2004/4/10
 
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末松廃寺
すえまつはいじ

石川郡野々市町末松
(撮影日2004/4/10 )


末松廃寺 北側入口
野々市の田んぼの中に「カラト石」と呼ばれる巨石があった。
江戸時代に、東別院に寄進しようとして、
  村人が動かそうとしたけど、重すぎてダメだった。
昭和時代になって、末松に生まれ育った高村さんという人が、
  この石がお寺の塔の心礎だと気付き、
  発掘したところ、寺院の遺跡が発見された。
白鳳時代(7世紀後半頃)の遺跡と考えられている。


末松廃寺平面図
 (説明板から)

能登国分寺くらいの規模の敷地に感じられた。

発掘調査の結果、金堂を西、塔を東に配置した
 法起寺式伽藍構成となっていることがわかったけれども、
 中門、回廊、僧坊は見つからなかった。
用途不明の掘立柱建物跡が見つかっている。


水田にころがっていた塔心礎
塔の心礎だった石は長径2.24m・短径1.65mで
  上部には径58p・深さ11pの柱孔がある。
今は塔跡の真中に鎮座している。
能登国分寺跡の塔心礎より一回り大きいので
  七重塔ともいわれている。




塔跡
柱跡から棟の大きさは一辺10.8mとわかった。
白鳳時代としては超大型の規模で、
 高さは56mと推定されている。






金堂跡
東西20m、南北18.5mの大きさで周りに雨落溝があり、
  創建時の屋根に葺かれた瓦が堆積していた。
金堂の西側で瓦に混じって
  銀の和同開珎(708年製とされる)1枚が発見された。





焼き物で作られたミニチュアの塔
何らかの理由で塔が倒壊した後、
 再建されない塔の代わりに祀られていたもの。
平安時代の作。

   (2004/6/5 御経塚遺跡横の
    野々市町埋蔵文化財収蔵庫にて)


チカモリ遺跡

金沢市新保本町
(撮影日2004/4/10 )



この遺跡は耕地整理の際に発見され、昭和29年に発掘調査された。

調査の結果、半分に割った柱が約250本、丸太の柱が45本などが出土し、
   最も太いものは、約85cmもある。
巨木文化の遺跡は、
  青森県三内丸山遺跡、新潟県寺地遺跡、石川県能登町真脇遺跡などがある。




円形配置の半割の柱

クリの木を半分に割ったものが幾重にも円形に配置されて検出された。




6本の柱

巨大な木柱6本が長方形に配置されて検出。建物跡と考えられている。


資料館がある。(入場無料)

出土した木柱は、水の中で保存されている。
       (資料館内)

    

横江荘遺跡
よこえしょう

松任市横江町
(撮影日2004/4/10 )

松任市で石川県鉄工団地が造成されたとき、偶然発見、調査された。(昭和45年)
出土品は平安初期を中心とするもので、多くの土器・木器が発見されたが、
墨書土器の「三宅」という文字と、地名の「横江」ということから「東大寺横江荘」と確認された。
4棟の建物跡が確認され、開発か保存かでもめたが、荘家の一部が保存・整備されている。

三宅とは・・・・・荘園の管理事務所のことです。

   

なぜ、こんなところに東大寺領があるのだろう?
 横江荘は、817年(弘仁8)年に死んだ平城天皇の妃朝原内親王の残した領地のひとつで、
翌年母の桓武天皇の妃酒人内親王によって東大寺へ寄進された。
 8世紀後半から9世紀初頭にかけて、東大寺が北陸に多くの荘園を開拓したが、
その管理機構の発見は全国的に珍しい。




横江荘入口の石碑と周りの風景




横江荘荘家の中心棟跡
荘官の住居と推定されている。
奥のほうは倉庫・収蔵庫跡と推定されている。



横江のあたりは平安初期の
「日本霊異記(にほんりょういき)にみえる、加賀の古代を彩る悪女の横江臣成刀自女(よこえのおみなりとじめ)のふるさとである。」
というふうに参考資料に書いてあるけど、なんのことかなー。今度調べてみよう。

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