北村さんちの遺跡めぐり
更新日2002/10/2

狐山古墳・法皇山横穴古墳
御幸塚古墳
栄谷丸山古墳
2004/4/10

加賀市の地図g

  

狐山古墳(国史跡)
きつねやまこふん

加賀市二子塚町
(撮影日2002/9/21)

小松方面から国道8号線の加賀市津波倉町の交差点を左に曲がったところに二子塚という町がある。
そこのこんもりした林が狐山だ。
訪れたのは9月21日だったが、彼岸花がもうすぐ満開になりそうだった。

後一週間ほど後だったら、とってきれいだっただろう。最近は彼岸花の名所として有名らしい。
周辺には前方後円墳2基を含む37基の古墳が確認されて、二子塚古墳群と名づけられている。(狐山古墳以外はほとんど破壊された)

狐山古墳全景
右側が後円部。
全長56mの前方後円墳。前方部幅25m後円部径30m高さ5.5m。
周壕あり。
1932(昭和7)年、土取り工事により後円部から凝灰岩製箱式石棺の一部が露出、壮年男子の骨とともに中国製の画文帯神獣鏡、銀製帯金具、金銅製空玉、銅鈴、玉類、刀子、鉄族、甲、短甲、朱粉末約20kgなどが出土した。
5世紀代の築造と推定されている。


石室の覆い屋
石室は傷みがひどいらしく綿に包まれて覆い屋の中に納められている。
小さな窓からは僅かに石棺の朱色が見えた。
石棺の中から20個以上の歯を残した壮年男子の遺骸が副葬品とともに埋葬されていた。

出土した画文帯神獣鏡は、中国鏡で名古屋市大須二子山古墳と同じ鋳型で作られている。

法皇山横穴古墳(国史跡)
ほうおうざんおうけつこふん

加賀市勅使町
(撮影日2002/9/21)

現在までに80基近くの横穴が確認されており、未確認のものもあわせると200個以上あるという驚くべき遺跡である。
今は史跡公園(昭和46年から)となっていて収蔵庫もそばにあり、出土品も見学できる(無料)。
名前の由来は花山法皇の御陵と言う伝説に基づいている。
花山法皇という人は、いろいろなところに伝説が残っている興味深い人物だ。今度調べてみよう!

調べました!花山法皇
花山天皇(かざんてんのう)は平安時代にいた第65代の天皇。
藤原氏の勢力争いに嫌気がさし、法皇となり、全国の寺院を巡った。拾遺和歌集を編纂した。

凝灰岩質の標高40mほどの小高い丘に掘り込まれた横穴墓。

横穴の前に立つ私
横穴は以前は、宝物の隠し場所とか、洞穴住居とか言われていたけれど、実はお墓なのです。
出土品は、須恵器が中心。他に鉄鏃、金環、銀環など。
6世紀後半から7世紀末期にかけて築造。
横穴は奥に棺台を持つ玄室と、その前に前室があり、入口から前庭部が広がるのが一般的。





横穴その1・その2

横穴は横に長い前室と、その奥に長方形の玄室が設けられている。
天井はドーム形・アーチ形・家形のものなどさまざまな形態が見られる。
内部には当時横穴を掘り進めたときの工具の痕跡が残るものもある。
横穴は全長4mから6mくらいが多いが、中には全長10mを超え、大人が立って歩けるほどの高さがある大型のものも見られる。

栄谷丸山古墳
さかえだにまるやまこふん

加賀市栄谷町
(撮影日2002/9/21)

法皇山から少し小松側へ行ったところにある。
法皇山より規模は小さいが、同じような穴が開いている。
石室は岩が四角に掘られてているものが多く、法皇山より造りが丁寧だと感じた。

合計13基の横穴が確認されている。
横穴はほとんどが玄室・前室の2室からなり、入口から前庭部が広がっている。
土器が中心だが、直刀や金環も出土している。
築造時期は、
法皇山横穴古墳より後の7世紀後半に始まり8世紀初頭に終わったと推定されている。
  (昭和32・33年発掘調査)


    


小松の串茶屋の遊女の墓に訪れた。
立派な墓を建ててもらった遊女たち。
でも、亡くなった年令が、20歳前後なのが哀れで、写真を撮るのは辞めて、そこから300m東にあるという御幸塚に行った。

小松市の地図g

御幸塚古墳
みゆきづかこふん

(三湖台古墳群)

小松市串茶屋町
(撮影日2002/9/21)

平安時代に花山法皇が訪れ、周辺の景観を賞せられたという伝承から、地名の由来となっている。

付近には胴百・頸塚・女郎塚・狐塚などの古墳がある。

戦国時代は御幸塚城が築かれていたので墳丘の形はくずれている。

全長約30mの前方後円墳。後円の長径は12.7m。
明治30年、直刀片や土器が出土。

   

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