北村さんちの遺跡めぐり
津幡町 地図g
御門古墳群 |
津幡町御門 撮影日2017/3/19 4/16 |
津幡町御門の集落の背後の山に、御門古墳群がある。
御門古墳群は 野瀬川右岸、御門地区背後の丘陵上につくられた古墳群
A群・B群の対岸に、1号墳というのがあるようだ。 |
白山神社から、山に登る。
白山神社
階段を登り、
社殿の左側(南側)を登るとすぐB群 (4・5号墳)がある。
B群 | ||
4号墳 一辺8m・高さ1.5mの方墳 墳頂部平坦面広い |
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5号墳 一辺8m・高さ1.5mの方墳 墳頂部平坦面広い |
B群から、山の奥に入ると小さなお社がある。
お地蔵さまが安置されている。
この辺りまでは、掃き目がわかるほどきれいに掃除されている。
このずっと奥にA群があるはずだが、道がなくなり、特定できない・・・・
あきらめて、後日もう一度挑戦してみるが、特定できず・・・
この山には頂部が3つあり、その一つに古墳があるのだが・・・これが特定しにくい理由でもあるのだが…
白山神社から、A群に行くのはあきらめて、一旦山を下り、
御門集落の西側のふもとから、もう一度山に登り、ようやくA群を見つける。
こちらの道も、山を入ってすぐの墓地、その上にある果樹園までは道があるが、そのあとは道が消える・・・
A群 | ||
A群のある山 |
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2号墳 径8m・高さ1.5mの円墳 |
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3号墳 径8m・高さ1.5mの円墳 |
まだ納得できない部分があるので、保留です・・・・
ところで、この「御門」という地名、何か由来があるのではないかと思い、調べて見ました。
津幡町英田(アガタ)地区の能瀬、御門(ミカド)の両区は 順徳上皇(ジュントクジョウコウ)ゆかりの地で、それにまつわる伝説が残っている。 1221(承久3)年、承久の乱に敗れた順徳上皇が佐渡へ流される途中、大しけに遭い、 やむなく王崎(現在のかほく市大崎)の浜に上陸されて、 御門に行在所(アンザイショ=仮の御所)を定め、3年間ご滞在されたと伝えられている。 こうして、村は御門と呼ばれようになり、 「御門屋敷」と呼ばれた屋敷跡は、能瀬川沿いの田んぼにあったといわれている。 |
隣の集落、領家(リョウケ)には、 大しけの際に上皇を導く光を発したとされる聖徳太子像を安置した広済寺がある。 |
能瀬川を挟んで対岸の英田郵便局)の真裏に、「龍ヶ口井戸跡」の石碑が建っている。 順徳上皇がご滞在された時に、飲料水として差し上げるために掘られた井戸跡といわれている。 1986(昭和61)年の河川改修・道路拡幅によって埋められ、 1989(平成元)年8月に石碑が建てられた(英田地区の伝説「龍ヶ口井」の話より引用)。 |
(津幡町観光ガイドから引用しました) |