北村さんちの遺跡めぐり
野々市町 地図g
御経塚遺跡・御経塚シンデン遺跡 オキョウヅカイセキ・オキョウヅカシンデンイセキ |
野々市市御経塚 2004/6/5 2017/6/17・11/14 |
2017年の 御経塚遺跡 国史跡 縄文特別展示室 |
撮影日2017/11/14 |
「発掘速報!!富奥の古代」を見学に行った野々市ふるさと歴史館には、
御経塚遺跡や御経塚シンデン遺跡の資料なとが展示されている。
野々市市ふるさと歴史館には、 御経塚遺跡から出土した重要文化財「石川県御経塚遺跡出土品」や末松廃寺をはじめ、 市内の縄文時代〜中世 の遺物の展示がある。 |
この野々市市ふるさと歴史館には、2004年に見学に行ったが、
当時は「野々市町埋蔵文化財収蔵庫」と名付けられていて、御経塚遺跡の出土品の展示はほとんどなかった。
2010(平成22)年に、御経塚遺跡出土品4219点が重要文化財の指定を受けて、
館内の「縄文特別展示室」には、御経塚遺跡出土品が展示されている。
野々市市ふるさと歴史館の北側に、国史跡の御経塚遺跡がある。駐車場あり。
御経塚遺跡は、縄文時代後期から晩期終末(3700〜2500年前ごろ)にかけて続いた環状集落。 集落の中心には祭祀・集会の広場があり、その周りに住居が並んでいた。 一時期の人口は60〜100人ほどと推定されている。 1977年(昭和52年)に、北陸地方を代表する縄文遺跡として国指定史跡となり、 竪穴住居やトチ・クリの実る原生林が復元された。 |
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御経塚遺跡 |
竪穴住居復元 |
住居跡 |
住居跡 背後は復元された原生林 |
野々市市ふるさと歴史館の2階は、「縄文特別展示室」となっている。
縄文特別展示室では、「御経塚遺跡出土品」(重要文化財)の展示をしている。 | |||||||||
出土した遺物のうち4219点は、長期に定住した集落遺跡の生業や精神活動を知り得るものとして、 2010年(平成22年)に重要文化財の指定を受けた。 土器は東西日本の影響を受けているが、 北陸地方独自の特色を持ち、後期からの変遷をたどれるものである。 土製品を代表する土偶は、この地方で最も出土数が多く、形態や文様から時期区分が可能である。 石器は根菜類の採集具である打製石斧や木の実を加工する磨り石や敲き石などの割合が高く、 植物質食料を重視する生業活動がうかがわれる。 石製品には御物石器・石棒・石冠などの祭祀や呪いに関係する特殊なものがあった。 石製品の垂飾や玉類には新潟県産のヒスイから作られたものもあり、当時の人々の交流が分かる。 |
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展示室の様子1 |
展示室の様子2 |
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展示室では、ガラス越しの写真で、きれいには撮れないので、 パンフレットの写真を引用させていただきます・・
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2017年の 御経塚シンデン古墳群 御経塚シンデン遺跡 |
野々市市御経塚 |
御経塚遺跡から道路を挟んで北側のショッピングセンターの西には、御経塚シンデン遺跡がある。
御経塚シンデン古墳群も発見されている。
御経塚シンデン遺跡は、弥生時代後期後半から古墳時代初頭までつづいた集落跡で、 複数の竪穴建物や掘立柱建物がみつかっている。 その後、集落は移動し、 古墳時代前期(250年ごろ〜300年代)には首長権を示す古墳群が造営された。 前方後方墳4基と方墳11基(御経塚シンデン古墳群) 古墳の周溝は確認されているが、墳丘と埋葬施設は後世の削平によって失われている。 周溝から壺などが出土している。 遺構位置図 ほんの一部が「経塚公園」となる。 他は住宅やお店が立ち並ぶ。 |
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水田の下から姿を現した前方後方墳(ST01) 御経塚シンデン1号墳 (説明板から) |
古墳の周溝から出土した土器 (説明板から) 実物はふるさと歴史館に展示されている。 |
公園と説明板 |
古墳らしい高まりは、単なる築山だ・・・。 |
御経塚シンデン遺跡では、後世の鎌倉時代には、経塚がつくられた。
ショッピングセンターができる前は、田んぼの中に経塚の小さな林が見えていた。
現在は開発され、経塚のあった辺りだけが、「経塚公園」として残っている。
御経塚 | |||
元の御経塚の村から北へ約200mにある。 一辺14mの方形だった。 開発前の御経塚 (ふるさと歴史館展示写真から) 経塚とは、鎌倉時代経典を永く後世に伝えるため、地中に埋めて塚にしたもの。 経塚に伴う遺物は発見されていないが、付近から五輪塔などがみつかっている。 |
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経塚 公園内にある。 御経塚町の地名の由来である経塚の付近には、 その昔、天台宗の眞願寺という大きなお寺があり、 火災で焼失したので、お経を埋め、塚にしたことや、 女性が塚に上がることは禁じられていて、 もし上がると子どもが産めなくなるという 伝承がある。 |
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経塚の祠に納められていた石仏 軟質の左岸を彫り出した僧形の像で、 法衣に袈裟を着け、頭部に冠を戴いている。 右手は胸の前に置き、左手は膝の上で印を結んでいる。 背面に刻まれた銘文から この石仏は、天保10年(1839)に伊三衛門ら4名が、石工琢磨に依頼して造立されたと分かる。 |
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平安時代中期から始まった供養塔・墓標で、 空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の五つで構成されている。 |
ふるさと歴史館には、他にもいろいろな遺跡の説明や出土品の展示があるのて゜、
ぜひ見学してください!
2004年の |
(撮影日2004/6/5 ) |
現在、SATYショッピングセンターとなっているところには、古墳群があった。
SATYができる前は、水田となっていて、御経塚と呼ばれる塚だけがあった。
SATYを建設するに先立ち、大掛かりな発掘が行なわれた結果、
弥生時代後期の集落跡であるとともに、
古墳時代前期の大古墳群だったことが明らかになった。
御経塚シンデン古墳群配置図
昭和61年から63年にかけた調査で、
全長27mを測る前方後方墳1基と、一辺9〜14mを測る方墳11基が確認され、
その後の部分調査でも東側にさらに前方後方墳1基、方墳1基が確認されている。
これらの古墳は、その直前まで営まれていたムラを全て移動させた後に築造されたもので、
被葬者となった首長の力の強大さがうかがわれる。
耕地にするために、早くから破壊された平地の古墳。
今はにぎやかなショッピングセンターの下で、静かに眠っている。
発掘の様子(説明板から)
7号墳 |
10号墳 |
SATYと道を挟んで南側は、以前から公園になっている。
ここは縄文時代後期〜晩期に営まれた径200m以上の環状の大集落跡である。
この遺跡は昭和29(1954)に旧押野中学校生徒らにより発見され、平成8(1996)年まで発掘調査がされた。
公園の西側には野々市町埋蔵文化財収蔵庫があり、
御経塚遺跡、シンデン古墳群の資料のほか、末松廃寺の遺物などが展示されている。(無料)
古代住居が復原されている御経塚遺跡
調査では、30軒の住居跡とともに
当時の人々の生活を物語る土器・石器などの遺物が発見された。
最初の調査で発見された御物石器
石囲いの中に埋納されていた呪具で、研究者の注目を集め、
北陸における縄文時代晩期の初めころの標準となる「お経塚式土器」が設定された。