北村さんちの遺跡めぐり

白山市   地図g

松任城跡

白山市西新町ほか
2014/7/1

加賀藩2代藩主前田利長が、一時在城したという松任城。
前田利長の没後400年記念・白山市立博物館歴史フォーラム「前田利長と松任城」が、
2014年(平成26年)6月29日に開催された。

松任城の跡は、JR松任駅前におかりや公園として、わずかに残っている。

松任城址公園

つい最近まで「おかりや公園」と呼ばれていたが、いつ変更したのかな?

本丸跡が公園となって、四周を取り囲む内堀の内側石垣の石列により、
本丸主郭全体の面影をとどめている。

堀は埋め立てられてしまった。
公園の中には土塁状の高まりが、南西隅と北及び北西隅に見られる。


城址公園南西隅の土塁状の高まり


櫓台跡だとされている。

発掘調査が少しずつ行われているが、松任城があった時代の遺物は、
松任城址公園北の立体駐車場建設の際の発掘で出土した「天目茶碗」ぐらいである。
   (フォーラム会場で展示されていたが、撮影は×)

 松任城は、平安末期に当地を支配していた松任氏(林氏の庶流)の館として成立した。
 一向一揆の時代は、松任組の本拠地として城郭化が進み、
 長亨年間(1487〜88年)に鏑木常専が城主として入城し、その後鏑木3代の居城となった。
  鏑木氏は加賀一向一揆の中で重きをなし、松任城は一揆の拠点の一つとなったが、
   1580年(天正8)に織田信長の武将・柴田勝家に攻められて松任城は落城、鏑木氏は滅亡した。
 一揆解体後は、織田方の城として30数年にわたり、城下町の整備も伴いながら、
    本格的に城郭化がすすんだと推定されている。
 城主として、加賀藩2代藩主・前田利長が3年(天正11〜13年・1583〜85年)、
           (1585年は末森合戦があり、前田方が勝利)
        丹波長重が11年在城している。
 しかし幕府の一国一城政策により廃城された。



松任城古図
(フォーラム資料から)

廃城後約60年を経過した延宝年間に写された「松任城古図」。

本丸・二の丸・三の丸・出丸矢倉台・出丸などがみられ、
それらは幅9〜23mの水堀や、空堀、土塁により防御されており、
外堀で区画された城跡は、南北305m、東西301m余であったと推測されている。
昭和34年、松任城址保存会により、松任城址の区域を示す高さ1mほどの石碑が建てられている。

松任城址付近の地図

現在の地図に、松任城古図を重ね合わせてみる。
 (あくまでもイメージです)

は城の堀跡

は、区域を示す石碑のあるところ



東北隅の石碑

 松任駅南口にある。
旧大手先前の石碑

北陸信用金庫の前にある。
東南隅の石碑

 信誠寺前にある
西南隅の石碑

 聖興寺裏にある。
西北隅の石碑


 松任金剣宮前にある。

新しい石碑たなあ。

    

加賀国松任城 出城之址 白山市成町
撮影日2018/10/21

自宅の近くに出城城址公園があると知り、探しに行く。
「出城之址」と刻まれた巨石の横には、由来が刻まれた石がある。
住宅街の片隅にあり、駐車場もない。
地名は成町(ナリマチ)だが、地区名は「出城地区」で、近くには出城公民館がある。

 天正5年9月、越後の上杉謙信が天下制覇をしようと、
    能登国七尾城を攻め落とし、加賀国松任城に攻め入った。
 松任城主・鏑木頼信がよく防戦したが、
  松任城の外城の成村の出城を攻め落され、ついに謙信と和睦をした。
 この地は、謙信の陣屋跡とも伝えられている。

小さな公園に石碑

石碑と、その左に由来碑

    

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