北村さんちの遺跡めぐり

加賀市    地図g   

山ノ下寺院群と古墳
(加賀市の古墳群探索その1)
加賀市大聖寺神明町
撮影日2016/11/13
2017/1/28

大聖寺は、加賀前田藩から分封された支藩、大聖寺藩十万石の城下町だった。
藩主の菩提寺であった実性院、芭蕉ゆかりの全昌寺など7寺院と1神社が並ぶ通りがあり、
     山の下寺院群とよばれている。

駐車場もあり、観光名所となっている。

実性院の裏山の頂上には、「実性院裏山古墳」がある
全昌寺の墓地には、神明町古墳群がある

山ノ下寺院群と古墳  配置図
       (石川文化財ナビから作成)

古墳は、○・赤字で表している。
神明町古墳群の その1・その2は大体の位置で確定ではない。

山ノ下寺院群とは
 大聖寺城下の南西部に連なる丘陵地、石堂山の北東部に位置する。 
 寺院と下級武士が多く集まった町で、古くは「山の下寺町」と呼ばれた。
 天明6年の大聖寺町絵図には、
北から神明宮、白山社、本光寺、宗寿寺、正覚寺、全昌寺が描かれていて、
下屋敷に抜ける道の両側に足軽や徒士などの下級武士の屋敷が続いていた。
 昭和33年には、この山ノ下と加賀神明宮の表参道にあたる東田町、西田町の
   三町が統合し「神明町」となった。
 「大聖寺藩史」によれば、寛永末頃、城下の整備に伴い、
   大聖寺藩は、越前との国境の防御を兼ねて、
     意図的に寺院を集めたとされている。
 いずれも禅宗、浄土宗、日蓮宗の三宗に限られていて、
    前田家と激しく対立していた浄土真宗の寺院は除外された。
 この下屋敷町には、実性院、蓮光寺、久法寺がある。
 神明町と下屋敷までに至る一帯に分布する寺院を総称して
     「山ノ下寺院群」と呼んでいる。

   

 曹洞宗 金龍山 実性院(ジッショウイン)  
 大聖寺藩前田家の菩提寺で「萩の寺」としても知られている。
 現存する建物はいずれも江戸時代後期のもの
 裏山の墓所には、歴代藩主の墓がすべて揃っている。

実性院

通称「萩の寺」

境内 萩の季節にはとてもきれいだ

寺の前には、仏像が並ぶ

実性院の脇から裏山に上ると、前田家廟所がある。

 大聖寺藩 前田家廟所
 大聖寺藩祖・前田利治公から第14代藩主・利鬯(トシカ)公までの墓が並んでいる。
  外様大名(十万石)で歴代藩主の墓が一ヶ所に造られているのは全国でも珍しい。

説明板 抜粋

初代・利治公の墓  一番大きい(基壇が高い)
 コの字形に墓が並ぶ

西側
右にあるのが初代の墓

中央(北側)
背後の山の上に、裏山古墳があるという。

東側
藩主のほかに、奥方様や殉死した家来の墓もあるので、計30基くらいある。

    

 日蓮宗身延派 華徳山 蓮光寺(レンコウジ)
 本堂の柱や天井は創建当時のもので、柱は金沢城の残材を使用している。
 毎年1月15日に行われる星祭りは、下帯姿の僧侶が樽に張った水を被る荒行で知られている。
 頭がすっぽり入るほど大きな茶碗と道具を使った大茶盛りが人気。



蓮光寺 正面


参道に小さな建物が・・・中にお皿が飾られている。

NHK初代会長・岩原健三氏の似顔絵が描かれた皿
大聖寺出身 お墓もこの蓮光寺にある。

    

 法華宗本能寺派 長昌山 久法寺(キュウホウジ)
 境内にある高松稲荷の本山は、岡山県岡山市の最上稲荷(三大稲荷のひとつ)

 イギリス人リトルウッドの墓がある。    (加賀藩の語学教師。1872年没)
 柿澤理平(カキザワリヘイ)のお墓がある。   (日本で初めて鉛筆を作った人)

久法寺 正面

山門

    

 曹洞宗 熊谷山 全昌寺(ゼンショウジ)
 この寺はもと山城にあったが、1597(慶長2)年、大聖寺城主山口玄蕃の信仰を得て大聖寺に移された。
 1689(元禄2)年、「おくのほそ道」の旅の途中、
    松尾芭蕉と曽良が宿泊したことで知られていて、境内には両者の句碑がある。
   「庭掃いて出でばや寺に散る柳」 芭蕉
   「よもすがら秋風聞くやうらの山」 曽良

 別棟には、五百羅漢像が安置されている。

山門

本堂


左の建物の中に
 「木造五百羅漢像」が安置されている。

        (市指定文化財)

五百羅漢像は
1867(慶応3)年以来、藩士や町人の寄進により、
   京都の仏師の手で製作されたものである。

    

 浄土宗 幽谷山履行院 正覚寺(ショウガクジ)
 靴を履いた珍しい「履行阿弥陀如来(クツバキアミダニョライ)」が安置されている。
 寺に残る書物には、遠くインドから中国を経て日本に伝えられた仏像であると書かれている。

 また平清盛がこの仏像を仏御前に与え、仏御前が故郷の原町(小松市)に持ち帰ったものである。
 仏御前が持ち帰った後、大切に原町のお寺でお祀りされていたが、
  一向一揆などの混乱でお寺が荒れ果て履行阿弥陀如来も行方不明になってしまったが、
  深誉上人という知恩院で修行された僧侶が夢のお告げにより原町にて仏像を発見し、
  大聖寺に寺を建てた。それがこの正覚寺である。

 正覚寺では、履行阿弥陀如来にちなみ、履物供養を行っている。

正覚寺 正面

境内

    

 日蓮宗 久昌山 宗寿寺(ソウジュジ)
 大聖寺藩の関所の門が払い下げられ、山門として移設されている。(加賀市指定文化財)

宗寿寺山門

本堂

宗寿寺庭園はきれいだ!

庭園から続く墓地周辺は、紅葉の真っ盛り




山門脇には、スダジイの大木がある。
加賀市指定文化財(天然記念物)

幹囲5.75m、樹高14.5mで
   枝張りは東西16m、南北19.5m
地上10〜11mの主幹上に7種類(スギ、ヤマウルシ、ウメモドキ、タブ、ネズミモチ、ハイイヌツゲ、ツタウルシ)の
 樹木を着生させ、特にスギの癒着は大木となっている。

その実態が珍奇で、景観も特異であり、当地方の自然植生を示す貴重な例として、価値が高い。

    

 法華宗 鳳栄山 本光寺(ホンコウジ)
 「日本百名山」の著書で知られる深田久弥のお墓があり、全国から登山愛好家が訪れる。
 寺院群の中で最も高い場所にある。

本堂は奥の右側上
中央の森の中に古墳がある。(仮1号墳)

石段を上がったところに山門

    

 神明町古墳群  全昌寺の墓地に2基の古墳が確認されている。
 全昌寺の墓地にあるとなっているが、古墳のあるのは、本光寺の近くだ。

本光寺から見た仮1号墳

仮1号墳 墳頂の墓石



仮1号墳 方向を変えて


墳頂の墓石は、五輪塔。

本光寺の住職の墓だろうか。


 仮1号墳から更に奥(北)に行くと仮2号墳が見える。

南側から見た仮2号墳

北側から見た仮2号墳 周溝跡も確認できる。
仮2号墳から北を見ると、もう一つ古墳らしいものがある。何だろう・・・?


頂上には建物がある・・・なんだろう。

仮3号墳?


実は、白山宮!

白山宮 墳丘に上る階段

白山宮  墳頂は広い

白山宮 墳頂から北に下りる道がある。

白山宮から下りると神明宮の境内に至る。
神明宮の境内に白山宮の鳥居と参道がある。
 白山宮は、1642年大聖寺初代藩主前田利治より社領を寄進され、
     1652年社殿を再建、棟札には「大勝寺氏神」と記されている。

神明町古墳群は詳細不明・・・。

 加賀神明宮(シンメイグウ)
 山ノ下寺院群では、唯一の神社
 1868(明治初)年の神仏分離までは真言宗の慈光院があった。
  昭和34年の改称以前は山下神社と称していた。
 旧縣社で祭神は天照大神。
 現拝殿は1824年再建の棟札がある。
 南の山上には白山宮が鎮座している。

 「天保由緒書」には神明宮、白山宮は往古より大聖寺惣鎮守で、神明宮はもと城下山田町に鎮座していた。
  地名は伊勢神宮鎮座地山田に因み、神明屋敷跡もある。

 「寛永由緒書」によれば、1616年に現在地に移り金沢藩より社領を寄進されている。

正面

社殿  初詣のおみくじがフラフラしている。

境内社 橋姫神社  機織りや織物の守護神




加賀神明宮の境内南にある白山宮の鳥居

    

 旧月田家住宅    城下町大聖寺の町並みとして、本光寺と神明宮の間に保存されている。
 旧月田家住宅は、大聖寺藩の下級侍であった家柄の建物

 文化11年(1814)頃に描かれたとされる「大聖寺絵図」でも、
    現在地(大聖寺神明町)に月田大助の名があることから、
       少なくとも幕末には建てられていたものと考えられている。
 建物の玄関、押入、縁などの一部に改造の跡があるものの基本形はよく残されていて、
   大聖寺錦町の早水家住宅と共に大聖寺における旧藩時代の下級の住宅として大変貴重なものである。


旧月田家住宅



山ノ下寺院群は11月の紅葉と1月の写真が混在しているので、見にくいかもしれませんが、ご容赦ください・・・。

 

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