北村さんちの遺跡めぐり

加賀市   篠原古戦場(首洗い池)と 実盛塚  のページ   地図g  

首洗池
(篠原古戦場)

加賀市手塚町
(撮影日2006/3/4)

篠原の集落辺りは、
倶利伽羅で大敗した平家の軍勢が、木曽義仲(源氏)の軍団をくいとめようとして失敗した篠原の古戦場である。

首洗池
斉藤別当実盛の首を洗ったという。
不気味な雰囲気!
首を洗ったら
黒髪が白髪になったという。

案内板から
寿永2年(1183)、倶利伽羅の戦いで木曽義仲に大敗した平家の軍勢は、加賀平野を南下し、篠原の地で陣を立て直し、義仲との決戦を図りました。
しかし勢いづいた義仲軍を阻止することはできず、平家軍はふたたび敗れ去りました。
このとき、敗走する平家軍で、ただ一騎踏みとどまって、戦ったのが斉藤別当実盛でした。
実盛は、老武者とあなどられることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦しましたが、手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最後を遂げました。
樋口次郎兼光が討ち取った首をこの池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わりました。
それはまがいもなく、その昔、義仲の命を助けた実盛の首でした。
この物語は「源平盛衰記」などに記されており江戸時代から人口に膾炙されていました。
なお、実盛着用の甲冑を、木曽義仲が多太神社に奉納したと伝えており、元禄2年(1689)芭蕉が「おくの細道」の行脚の途中に立ち寄り、この甲に寄せて「むざんやな 兜の下のきりぎりす」と呼んでいます。


実盛の首を真中に、
悲しいめぐり合わせに空を仰ぐ木曽義仲と
その部下
 手塚太郎光盛と樋口次郎兼光
(銅像です)
実盛の兜・袖・臑当は、木曽義仲が願状を添えて太多神社(小松市上本折町)に奉納したと伝えられる。

斎藤別当実盛という人     天永2(1111)〜寿永2/6/1(1183/6/22)
実盛が本拠地としていた武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、
 上野国に進出してきた義朝の弟・義賢という両勢力の緩衝地帯だった。
実盛は始め義朝に従っていたが、地理的なことを考え、やがて義賢に仕えるようになる。
このような武蔵国の動きを危険だと感じた義朝の子・義平は、久寿2年(1155)に義賢を急襲して討ち取ってしまう。
実盛は再び義朝・義平親子に仕えるようになるが、一方で義賢に対する恩も忘れず、義賢の遺児・駒王丸の命を助けた。
その駒王丸が後の木曽義仲である。

実盛は、保元・平治の乱で、義朝の忠実な部下として奮戦した。
義朝が滅亡してからは、平氏に仕え、平家の有力武将として重用される。
そのため、義朝の子・頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、頼朝追討に出陣した。
平氏軍は、富士川の戦いで大敗した。
寿永2年(1183)、再び木曽義仲追悼のために北陸に出陣するが、加賀国篠原の戦いで敗北し命を落とす。

ここから800m位西には「実盛塚」がある。
源平の戦いがあったので、公園の横の食堂は「源平食堂」、近くの橋は「源平橋」という。

実盛塚
加賀市指定史跡

加賀市篠原
(撮影日2017/6/3)

この一帯は源平争乱の舞台「篠原古戦場」

 寿永2年5月(1183)、倶利伽羅の合戦の大勝の余勢をかって攻め立てる木曽義仲(源義仲)軍を相手に、
   敗走する平家軍の中で、ただ一騎、踏みとどまって、戦ったのが斉藤別当実盛であった。
 実盛は木曾義仲幼少時代の命の恩人だったが、
   これを秘し73才という老齢の身を侮られないよう白髪を黒く染め、名乗りもあげす戦った。
 しかし奮戦むなしく手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂げてしまう。
 そのなきがらを葬ったと伝えられているのが「実盛塚」。

 伝説では、応永21年(1414)に時宗14世遊行上人が篠原の地を巡行中、
   実盛の亡霊があらわれ救いを求めたので、上人が回向したらたちまち成仏したといわれ、
    世阿弥作の謡曲「実盛」でひろく世に知れ渡っている。
 周辺には、討ち取られた実盛の首を洗ったとされる「首洗い池」や
   実盛が髪を染める際に用いた鏡を安置したと伝えられる「鏡の池」など、実盛の伝説にまつわる場所がある。
 小松市には、実盛の死を深くあわれんだ義仲が実盛着用の兜や鎧などを奉納し、
   供養を依頼した「多太神社」がある。



実盛塚

航空写真で見ると、
  この塚は古墳に見える・・・



献花台に、きれいな花があると思ったら、
  なんとこの日に
   「実盛塚」の供養祭とシンポジウムがあったという。
2017/6/4の北陸中日新聞から
 6月3日、源平合戦の篠原の戦いで落命した平家の大将斎藤実盛の供養祭とシンポジウムが開かれ、
   実盛の子孫と、実盛を討った源氏側の子孫が初めて一堂に会し、供養などに参列した。
 実盛は寿永2年(1183)、篠原の戦いで、源氏側の木曾義仲の軍に攻められ、
   義仲配下の武将手塚光盛に討たれた。

 実盛塚は亡きがらが葬られた場所とされる。
   供養祭には実盛の子孫、長井昌一さんと義仲の子孫、木曽義明さん、
    光盛の子孫の手塚真さんの三人がそろって参列。
 地元関係者ら計50人が焼香などをし、実盛塚に手を合わせた。

 片山津温泉では、「実盛 追想〜未来へ」と題したシンポジウムが開かれ、約300人が参加。
 子孫の3人もパネリストに加わった。

子孫の一人の手塚さんは、漫画家・故手塚治虫さんの息子さんだということだ。
グッドタイミングの見学となった。

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