北村さんちの遺跡めぐり
加賀市 地図g
大聖寺城跡発掘調査現地説明会 |
加賀市大聖寺八間道 |
平成28年(2016)3月6日、大聖寺城跡(錦城山)発掘調査現地説明会に参加、初めて大聖寺城跡の見学に行く。
錦城山城址保存会のすばらしいホームページがあり、散策マップがあったので、
その散策マップと当日資料を参考に、大聖寺城跡の配置図を作った。
大聖寺城跡配置図 右が、北です |
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大聖寺城跡とは、 錦城山(標高67m)の名称でも知られる16世紀後半の城跡。 加賀市では、平成23年度から、 現況確認のための発掘調査を行っている。 26・27年度は「対面所」といわれる場所の発掘が行われた。 |
「対面所」と呼ばれている所なので、城に用事がある人たちと、城側の人が対面する場所だろうと考えられていたが、
今回の発掘で、建物土台石とみられる遺構が確認され、「対面場所」の可能性が高くなってきた。
発掘の成果 当日資料から | |
対面所では、礎石建物の土台石とみられる大きく平たい石が5箇所で確認された。 ほかにも、掘っ立て柱建物の可能性がある柱穴も調査区域に散らばっている。 土層の観察からは、少なくとも3回にわたり、地盤の造成が行われたことも明らかになった。 造成土の下は、水や泥が溜まった沼地になっている箇所もある。 当時の土木技術をもって、何とか建物が建てられるようにと盛土を繰り返したことが想像できる。 土台石、柱穴とも、必ずしも一直線上には並ばず、また調査区外へも建物は広がるようだ。 同時期に存在したというよりは、造成を繰り返す中で建て替えが行われたと考えられる。 遺物は、土師器が若干出土しているほか、石製の盤のようなものも確認されている。 対面所は地区全体が岩盤で囲まれ、地区内は3段の平坦面が続いているが、 本来は岩盤でできた大きな谷であったと推定される。 曲輪として平坦面を造成するため、 壁際は岩盤がほぼ垂直に立ち上がり、簡単には登ることができない構造となっている。 平成26年度の調査では、壁際を切土するとともに、壁沿いに側溝が設けられていることも確認された。 |
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地面は水気が多く、ぐちゃぐちゃで、元は沼地だったというのがよくわかる。
現説終了後、大聖寺城跡に登る。
大聖寺城跡 | |||
大聖寺城址・錦城山の由来 (説明板から) 標高約67mの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、 加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。 現在の配置は豊臣家臣の溝口秀勝が 天正11年(1583)大聖寺領主となって四万四千石で封ぜられたころに修復したと推定される。 本丸を始め二の丸・鐘が丸などか巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防備を固めていた。 慶長3年(1598)溝口秀勝が越後新発田に転封した後、 小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が七万石の領主として入城した。 慶長5年、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。 同年8月3日早朝、山口軍1200に対して前田軍は25000の圧倒的兵力で攻め立て、 山口親子を始め多くの将兵が討ち死にした。殿閣を焼く煙は天にそびえたという。 落城後前田利長はすぐに修築し城代を置いたが、 元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、以後再建されなかった。 藩政時代はお止め山として一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。 現在でも貴重な動植物が多く、秋の紅葉の美しさから 明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。 大聖寺という地名は、 古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名に由来しているといわれている。 |
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手前の対面所から奥の二の丸・本丸に向かう |
二の丸 |
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大聖寺城 左・本丸へ、 右・二の丸へ |
櫓台跡 |
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手前が本丸跡 奥中央の櫓台跡から左に土塁が続いている。 山口玄蕃頭宗永公の碑が立てられている。 |
本丸跡 左側には土塁がある |
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大聖寺城 本丸跡より対面所跡を見下ろす ブルーシートが見える。 |
本丸からの眺め 眼下に錦城小学校が見える。 |
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左階段を行くと鐘が丸 右に行くと本丸。 |
鐘が丸跡 |
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左奥に鐘が丸跡がある。 右側に矢竹が生えている。弓矢に使ったのか? |
贋金造りの洞穴のところからも城跡に登れる。 白く見えるのは「贋金造りの洞穴」説明板 |
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贋金造りの洞穴 明治元年明治維新政府から越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩は、 この洞穴の中で贋金を製造した。 銀製品をとかし弐歩金を造り山代温泉の湯に浸し通貨として広く通用し政府の命を果たした後に 露見に及び製造責任者市橋波江に切腹を命じた。 しかし子息には倍の禄を与えて功に報いた。 この事件をパトロン事件という。(パトロンとは弾薬の意味)
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錦城山保存会のホームページによると、平成27年度は、15回の錦城山清掃活動が行われている。
保存会のおかげで、大聖寺城跡がきれいに保たれているんだと、実感した。
長流亭 (重要文化財) 錦城山の東のふもと、江沼神社の西北隅にある。 | |
長流亭は、大聖寺藩三代藩主前田利直の休息所として、 1709(宝永6)年に、藩邸の庭園の一隅に大聖寺川を臨むように建築された。 当初は「川端御亭」と呼ばれていたが、後に利直の雅名からとって「長流亭」と称された。 建物は、桁行5間(9.5m)梁間4.5間(8.4m)で 南面に玄関を配し、東面に土庇が附く一乗寄棟造、こけらぶきです。 1934(昭和9)年に国宝に指定され、 1950(昭和25)年文化財保護法の施行により重要文化財に改称された。 数次にわたり修復工事が行われてきたが、 建立から280有余年経った現在も落ち着いた姿を見せている。 |
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すぐ横で、枯れ葉を燃やしていたので、靄がかかったようになっている。
長流亭と江沼神社も大聖寺城の範囲に入ると考えられている。
すぐそばを流れる大聖寺川から眺めると風情のある建物なのだが・・・・
予約をすれば、内部の見学もできるそうだ。
江沼神社 錦城山の東ふもとにある。入口は東側。 | |
江沼神社は、宝永元年(1704年)、大聖寺藩三代藩主・前田利直邸内に 前田家遠祖の菅原道真公の霊を祀る天満天神社を建立したのがはじめとされ、 藩祖・前田利治公をお祀りした松嶋神社が明治10年に江沼神社と改称、 同12年天満天神社を合祀、同16年に県社に昇格した。 |
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江沼神社鳥居 |
千鳥破風唐破風付入母屋造りの拝殿 |
石垣の上に建てられた流造の本殿 |
深田久弥の文学碑 「日本百名山」の著者・加賀市出身 |
江沼神社庭園 加賀市指定文化財 この庭園は、旧大聖寺藩の園地で、 3代藩主前田利直公が宝永6年(1709)藩邸再建に伴い長流亭とともに築造したもの。 壮大なひさご池、中島にかかる八ッ橋、 石組の間から湧き出る清水(錦城山の下から引いているとも伝える)など、 作庭にあたっては今の兼六園の影響があったと推定されている。 明治以降、江沼神社建築など周囲の改変はあったものの 重要な池・島・涌泉や石組は原形を残した数少ない池泉回遊式武家庭園である。 (説明板から) |
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境内に大聖寺川の船着き場がある。 運が良いと、「大聖寺流し舟」が見られる。 |
大聖寺流し舟は、予約すれば乗船できる。